カララ・・・ン、と、ドアベルが軽やかな音を立てる。

「こんにちは」
「あ、原さん。いらっしゃい」

いつもよりひっそりとした夕暮れ時のオフィスで、来客を出迎えたのは安原だった。

「生憎今日は所長も谷山さんも不在なんですが」
「存じてます。依頼で今日まで山梨の方へ出向いているんでしょう?」

恐らく麻衣と、携帯か何かで連絡を取っていたのだろう。
彼女やナルの不在に落胆した様子は無かった。

コト、とリビングセットの硝子机の端に、真砂子が手に持っていたビニール袋を置く。
袋越しの硬い音は、陶器か瀬戸物か。

「ええ。夜には東京に戻る予定ですが、遅くなるので此方には寄らないと」
「ですから、安原さんはきっと此方にいらっしゃると思ったんですわ」

着物の袖で隠した口元が、ニコリと小さく笑みを浮かべた。








月下美人








「先日知人から、蕾をつけたものを頂きましたの。
 丁度今夜にも花を咲かせるので、一緒に見られたらと思って」
「へぇ…月下美人ですか。聞いた事はあったけど、実際に見るのは初めてですねぇ」

真砂子が袋から取り出したのは、植木鉢に植えられたクジャクサボテンだった。
但しサボテンが植わっているだけはなく、斜め上に向かって一本の膨らんだ蕾を付けている。

「そう言えばさっき今夜にも花が咲くって……いつごろ開花するなんて、判るものなんですか?」
「確実ではありませんけど。
 月下美人は蕾を付けたばかりの時には下を向いていますけど、
 開花直前になると自然に上を向いて膨らみが増して、夕方には独特の強い香りを発し始めるんですの。顔を近付けてみると、ほら」


促されて安原が蕾に鼻を寄せると、確かに強い芳香を漂わせていた。
この芳香が開花のサインだとすれば、なるほど今夜にも花開くというのも頷ける。

なんでもその香りに誘われてやってくる小型のコウモリなどが、本来受粉を助けるのだそうだ。
その為に開花時には上向くものなのだが、日本ではそう簡単にコウモリは飛んで来ないので、人の手による人工授粉が一般的らしい。
朝顔やチューリップのように何処の家でも見かけるようなものでもないが、
ちょっとしたガーデニングの知識があれば栽培自体はそう難しくないので、最近では愛好家も増えているのだそうだ。


「それはそれは美しい、白い花を咲かせるんです。なのにたった一夜しか保たないなんて……残念ですわ」
「そんな貴重な花を僕たちだけで独占なんて…確かに少し惜しい気がしますね。
 写真に撮っておいて、後で谷山さん達にも見せましょうか」

このオフィスには、静寂を好む所長の意思に反してよく人が集まって来る。

通常ならば定時までほぼ毎日麻衣が居るし、用が無い限りこちらに顔を出さないだけで、ナルもリンも奥に詰めている。
日によってこうして真砂子が訪ねて来る事もあるし、滝川や綾子、ジョンだって、代わる代わる週に一度は顔を見せるのだ。
運が良ければその全員が意図せず集まる事も珍しくない。

だが、今日は安原と真砂子の二人だけだった。


所長のナルと助手のリン、調査員の麻衣は、数日前から調査依頼で山梨まで出掛けている。
…が、調査自体はあっさりと片付いてしまい(今時、藁人形騒動だったらしい。リンが人形(ヒトガタ)に呪詛を返して片を付けたそうだ)、
今日中に都内に戻って来る事になっていた。
しかし麻衣は調査中に風邪を引いたらしく、電話の向こうで鼻声になっていたから、もしかしたら数日はバイトを休むかもしれないが。
滝川や綾子、ジョンもそれぞれ自分の仕事やプライベートで、今日はもう顔を出さない事が確定している。


「折角ですから、麻衣や松崎さんにも見せて差し上げたかったのですけど…
 写真で姿は残せても、この芳香は残せませんものね」

真砂子の手が、今にもほころびそうな蕾に触れる。

何でも出てくる素敵ポッケを腹につけた猫型ロボットが、確かそんな道具を持っていた気がする。
あれは音が一緒に撮影されるものだったろうか。
……それはさておき、ビデオで録ったとしても芳香は残らない。
やはり麻衣達には、写真だけ見て悔しがってもらうしかないだろう。


「そう言えば月下美人って、年に一度しか花をつけないんでしたっけ?」

園芸部に所属していた生徒会の後輩が、前に話していたような気がする。
確かあれは、俗説は色々あるが実際は違うとか…

「ありましたわね、そういう話も」

真砂子が微かに眼を細めた。

例えば満月の夜に一斉に産卵する珊瑚のように、月下美人は新月の夜にしか咲かないという話もある。
本当ならばロマンがあるが、実際はどうも違うらしい。

「現にこれは今にも咲きそうですけど、今日も明日も新月ではないでしょう?」
「ああ、確かに」


言われてみると、数日前が新月だった筈だ。月明かりが無いなと思って、後で新聞で月齢を確かめたから間違いない。
もしも新月にしか花を開かないというなら、健気なこの蕾はこの状態であと二十日以上耐えなくてはならない事になる。
どう見ても、俗説は俗説であって真実ではないと認めた方が潔い。


「月下美人の開花時期は、六月から大体十一月だそうです。
 一度目の花が終わった時期にもよりますけど、きちんと手を掛けて栄養補給をしてやると、年に二度花を咲かせる事もあるそうです」
「じゃあ六月の今が一度目なら、もしかして二度目の花を見る事が」
「ええ、出来るかもしれません」

その時に、また時悪しく依頼が入っていない事を祈るしかない。
それは自分や、真砂子だって同じ事だが。


「十分に手間と時間を費やされて、愛でられる事で二度咲くんですわ……素敵ですわね」

覗き込むように並べた頬に、さらりと揺れた黒髪が触れる。
……鼻腔をくすぐる微かな香りと意外な甘い言葉に、くらりと眩暈がしそうになった。

「……『愛でられて』なんて女性の口から聞くと、ちょっとドキッとしますね。花の事だと判っていても、一瞬……別の想像をしてしまう」

表情を隠すように眼鏡を押し上げたが、斜めに見上げた真砂子と目が合う。
華と真砂子を重ねた事に、彼女なら気付いただろう。

「ええ、女は華でしてよ。老いも若きも、女である限り咲き誇る事が出来る」

彼女の浮かべた小さな笑みは、『小悪魔のような』という形容とは少し違う気がした。
そう―――蠱惑的なのだ。黒目がちなその瞳が、心を惹きつけて惑わせる。まるで強い酒の香に酔うように。

「ただその機会に巡りあえるかどうかだけ。
 そして女である事を止めたその時に、私達は本当の意味で老いて朽ちて行く。
 ……その意味で、麻衣は幸せでしたわね。今まで随分と苦労も多かったけれど、これからはずっと華として咲いていられるのですから」
「それは……所長の事ですか?」

安原の言葉に、真砂子は微笑を湛えたまま少しだけ寂しそうな色を瞳に浮かべた。

「ナルはまだ自覚していない。麻衣も自分で気付いていないのかもしれないけれど……でも、きっと」


出会うべくして、出会った二人だから。
どんなに表面では険悪になっても、本当はお互いをとても大事に想っている二人だから。
だから―――きっと、大丈夫。


「あの二人には、ジーンがついているんですもの。
 麻衣は言うまでもないし、ナルが気付かないままなら夢で諭して説教するくらいの事はしますわよ。
 だってジーンは、麻衣の事が好きだったのだから」


自分がナルの双子の兄と明かせない程に。
夢の中でナルとして接する事で、彼はずっと麻衣を導いて来た。
己が行くべき世界に行く事を拒み続けて、今も彼は此の世と彼岸の狭間で眠り続けているという


ナルをして完璧な霊媒と言わしめた彼が死後も自分の意思で此の世に留まり続けるなど、どうして想像出来たろう?
『麻衣じゃなく僕の夢に出て来て、さっさと自分の遺体の在り処を教えていれば解剖だって出来たかもしれないのに』とは、笑えないナルの本音である。
日本で客死した兄の遺体を探し続けていた彼の真意を知った時、仲間は皆、絶対に彼の前でだけは死んではいけないと思ったものだ。
友として多分、一瞬は死を悲しんでくれると思いたいが、それ以上に嬉々として脳内を暴かれるに違いない。…それこそ、死んでも死に切れなかった。


「それで―――原さんはいいんですか?」


尋ねてはいけなかったのかもしれない。だが気付いた時には、もう言葉にしてしまっていた。

今聞かなければ、ずっと心にしこりを残す。
その言葉が自分にも彼女にも棘である事は判っていたが、聞かずにはいられなかった。


「……いいんです、もう」

一瞬、緊張に張り詰めた空気が、真砂子の声でフッと和らいだ。

「ナルに憧れていたのは事実ですわ。夢で垣間見た笑顔に焦がれたのも本当―――だけど」

胸に手を当て、真砂子が眼を伏せる。

「あの迷宮と化した洋館で独りぼっちになった時、夢の中で私を励ましてくれたのは、ナルではなくジーンだった。
 そして現実のナルは、自分で気付いていないだけで、心はいつも麻衣を見ている―――
 その事に気付いた時……不思議なくらい、悔しくなかったんですの」
「悔しく……なかった?」

『ええ』と真砂子は頷いた。

「私にも、はっきりとした理由は判りません。
 でも多分―――ナルよりも、今は麻衣の方が私には大切なんですわ」


ジーンが願ったように。
滝川を筆頭に仲間達が望むように。

麻衣が幸福でありますようにと、いつの日も祈っている。

長く一緒に過ごした事で、いつしか麻衣は真砂子にとって掛け替えの無い友となった。
同じ人に恋をして、共にその恋が一度は終わった事を知った。

だけど彼の正体を知っていた自分と、何も知らずにそれでも彼に惹かれた麻衣を比較してはいけなかったのだ。


麻衣は、自分はジーンの面影に恋をしていたのだと思っている。
だからその恋は終わってしまったのだと思い込んでいるのだ。

だがよく思い返して見るといい。自分を救ってくれたのは誰だったか。
孤児という身の上を知って、バイトという名目で手を差し伸べたのは誰だったか。
危険が迫った時、身を呈して庇ってくれたのは誰だったか。
全てが明らかになった後、傍に居なくなるのが寂しいと思ったのは誰だったろう?

確かに、きっかけは夢で見たナル=ジーンだったかもしれない。
整うだけは嫌味なほど整っている普段は見慣れた仏頂面が、突然愛想良く微笑みかければ、インパクトが絶大なのは言うまでも無い。
だがそんな事はさておいても、麻衣は確かにナルに惹かれている。
かつて同じ人に恋していたから―――判るのだ。
ナルより麻衣が大切だと気付いて、文字通り夢から醒めた自分とは違う、と。


「今はただ、あの二人が早く自分の正直な気持ちに気付いて、互いにその想いを伝える事を願ってます。
 さっさと収まる所に収まってくれないと、見ている此方としては居心地が悪くて」
「確かに……滝川さんとか、抑えるのが大変でしょうね」

滝川は麻衣の事を『娘』と呼んで憚りない。
実際にはせいぜい兄妹程度の歳の差しかないのだが、溺愛っぷりは筋金入り。当然麻衣とナルが親密になるのは心良く思っていない。
いつもはそのバカ親っぷりを綾子や自分がダシにしてからかっているのだが、傍観者を決め込むとなると、
くっ付きそうでくっ付かない二人を放置しているのは精神衛生上よろしくなさそうだ。

くっ付くならさっさとくっ付いて貰って、後は滝川の麻衣に対する溺愛の緩衝材になる覚悟を決めないといけない。
ナルは独占欲が強いタイプだから、滝川が麻衣に構うのは父性愛とか兄の心境だと判っていても、無自覚で不愉快になるのが目に見えている。
さり気なく話題を変えたり、時には速やかに撤収するだけの知恵が回らないと、
今後何度も絶対零度のオフィスで針の筵(むしろ)に座って仕事をする羽目になってしまう。…そんな生き地獄は絶対に御免だ。

「麻衣の答えは決まっているのですから、後はたった一言をナルが麻衣に言えれば、後はどうとでもなりますのに」
「それを簡単に口に出来る人なら、所長の人生、もう少し楽だったでしょうねぇ」


ふう、とどちらからともなく溜息が漏れる。
その事に気付いて、二人は同時に噴き出した。

人の世はままならぬ事ばかり。
真、願う通りに事が運べば、どんなにか生きるのも楽だろう。
たった一言素直な想いを伝えるだけで、あの二人には確かな幸福が訪れるというのに。


「あ……」

真砂子の視線に釣られて、安原も振り返る。
まるで貴婦人のように美しく優美な白い華が、いつの間にかブラインド越しに月を仰いで花開いていた。

「綺麗ですね」
「ええ、本当に」

自然と笑みが浮かぶ。

太陽の下、陽の光をいっぱいに受けて花開く向日葵を健康的な愛らしさを持つ麻衣だとするなら、
月の光を仰ぎ見て、ただ一夜であっても凛と花開かせる月下美人の楚々とした美しさは真砂子を思わせた。

「さて……では何枚か月下美人の写真を撮ったら、食事にでも行きませんか?
 この近くに、高校時代の同級生がバイトしてるお店があるんです。口の堅い奴ですから、そのままでも多分大丈夫ですよ」
「それは、うっかり口を滑らせたら後が怖いと言う事じゃありませんの?」

安原はニヤリと笑っただけである。
つまり相手の弱みを知ってるから、向こうにも余計な事は言わせませんと……そういう事だ。

「学生でもあまり財布の痛まない、良心的なお店なんですよ。
 夜間は一人あたり半時間250円でワンドリンク付き。売りは本場横浜仕込みのインドネシア料理で、何とカラオケ唄い放題です」

苦笑いを浮かべて、真砂子は安原の誘いを承諾した。

「つまりサイドメニューも意外に美味しいカラオケボックスですのね。
 そういう場所なら、やっぱり着替えてきますわ。着物のままだと浮いてしまいますし」


真砂子は、少し前からこのオフィスに小さなスーツケースを置いてある。
麻衣が好意で、自分のロッカーに置かせてくれているのだ。
スーツケースには簡単な化粧道具と、洋服が幾つか用意してある。要するに変装道具一式だ。
奥の給湯室を使わせて貰えれば、十五分程度で着替えられる。


「本当に大丈夫ですよ?先に予約の電話を入れて、すぐに通して貰える様にしますし」
「今回、敢えて有効な手札を使ってしまう事はありませんでしょ?それに……今日はそういう気分なんですの」


霊能力者という肩書きを下ろし、ただの原真砂子として歩きたい。
顔を上げて伸び伸びと、好奇の目を向けられる事も気にせず、本当の自分自身として。

安原は微笑を浮かべ、『判りました』と頷いた。




その後、渋谷のとあるカラオケ店で、売れっ子霊媒師の原真砂子と大学生風の男性がデュエットしていたという噂がまことしやかに流れた。
ただその原真砂子らしき女性は定番の着物ではなく、素通しの眼鏡を掛け、シンプルだが品のいい取り合わせの洋服姿だった為、
他人の空似としてマニアの間でも口の端に上らなくなり、いつしか忘れられていったとか。

                                                           【END】


あとがき

えー、正式にゴーストハントで活動するぞと決めて書いた作品としては初モノとなります。(実質的には『明日〜』が一番目)
のっけから定番のナル×麻衣じゃなく、安原×真砂子な辺りが非常に私らしいなと(笑)
今後も恐らくこの傾向でしょう。ナルって不機嫌以外の感情を滅多に表に出さないから動かし難いんだよ…(^_^;)

作中で麻衣が向日葵、真砂子を月下美人に例えてますが、実は綾子のイメージは蓮の花でした。くどくなるので敢えて書きませんでしたが。
泥の中から真白い花を咲かせる蓮は、どんなに汚れた世界に在っても巫女として清廉に生きる姿に重なる…と想像してたんですが、
文字で書けば書くほどイメージがずれるような…(苦笑)やはり見た目から華やかな牡丹とか言っといた方が無難でしょうか。
背景画像は月下美人です。念の為。薄い紅色の花もあるけど、私は白い月下美人が好きなのであくまでも白い華のイメージで。

ところで最後に安原さんが真砂子を誘って行った店にはモデルがあります。オフ会で行きつけの某カラオケ店(笑)
そこはリニューアル後、本場広島仕込のバリ料理(^_^;)という何だか訳の判らないものが売りになってるんですが、
とりあえず食事は美味しく、特殊なシステムを導入しているので唄える機種も多い事から固定客が多いのです。
安原さんは絶対、敵に回してはいけないタイプ。一番効果的な場面で、笑顔でサクッとこちらの急所を突いて来る。
元同級生も、色々と便宜を図ってもらった事があるんでしょうねぇ…試験前にノートを貸してもらったとか、あのどうしようもない教師達から庇ってもらったとか。

あ、ちなみに安原さんは今は東京で一人暮らしです。車で片道三時間もかかる所から(←緑陵事件の綾子の台詞より)都内の大学には通ってないだろう(笑)
しかし東京で国立、しかも一流って、もしかしてもしかしなくてもT大…?Σ(゚Д゚;)

そして実はこのお話、とある調査物の前振りとなっています。
物語として直接の繋がりはないんですが、時系列的に関連があるのです。実際にその調査物SSが完成すれば…ですが(^_^;)
あと安原×真砂子の前振り及び真砂子の洋装については、以前企画モノで書いた『明日、晴れたら』を参照。
余りにも気に入った作品だったので、旧作品収蔵庫に置いておくのが惜しくて、GH部屋にも置いてみた。力作です(笑)


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