Double
「は?キールの特技」
「そう、嬢ちゃんは知ってるのかなーと思って」
メイはラボが休日の昼下がり、大通りをブラブラと冷やかしていた。
特別用事がある訳ではないが、いろんな店の店頭を飾る商品をただ眺めているだけでも結構楽しい。
いつものように店先のショーウインドウを覗き込んでいたメイは、偶然来合わせたシオンに声を掛けられた。
馴染みの店でお茶と――茶の味そのものはシオンがブレンドした物には遠く及ばないが――ケーキを奢ってくれると言うので同席している次第である。
普通に世間話をしていたのだが、ふとした事から特技の話になった。
メイが実はダウジングの名手である事は知る人ぞ知る有名な話だし、シオンの園芸の腕前は言わずもがな。
本人も自己紹介の際には、相手をからかいがてら『庭師』と言ってのける程である。
アイシュのあの一見ボヤヤンとした様子からは想像も出来ないが、彼の頭の中にはクライン一国の経理情報が詰まっているし、
レオ二スも趣味の域を出ていないと言いつつも、骨董を見る目はかなり確かだと言う。
そんな時に、キールの話になったのだ。
「キールの特技って……精霊が視えるとかじゃなくて?」
「そりゃ特技じゃなくて才能だろ?嬢ちゃんは、あいつが誰かに絡まれてる所は見た事ないか?」
「あるわよ。もう随分前だけど」
あれは自分がクラインに来てから、二ヶ月程経った頃だったと思う。
キールと一緒に居た時に、研究院で数人の同僚が、キールの陰口を叩いている場に出くわした事がある。
キール自身は相手の言っている事を聞き漏らさず聞いてはいたが、手も口も出そうとはしなかった。
代わって激昂したのがメイの方である。
喧嘩をするなら正々堂々。陰口なぞ卑怯者のする事だと、頭に血を上らせた自分が連中を怒鳴りつけたのだ。
「女に怒鳴られて、向こうも頭に血が上ったんでしょうね。結局相手もキールに殴りかかったけど……」
「あいつ、綺麗にかわしてただろ?」
シオンがニヤリと笑う。そう言えばキールは相手の拳を受ける事もなく、紙一重でするりとかわしてしまった。
後は言いくるめて終わりである。
「奴はああいう性格だから、昔っからよく絡まれててなぁ。だけど、俺はまだあいつが負ける所は見た事がないんだ。
魔道士だから身体を動かす方は鈍いんじゃないかなんて思われがちだが、キールはそんな事ないぜ。
そりゃ殴り合いをさせたら大した事はないだろうが、あいつはまず接近戦に持ち込まない。
動体視力がいいから、それに物を言わせて相手の拳や蹴りを避けてしまい、効果的な一撃でノックダウン。これが奴の常勝の秘訣だな」
「効果的な一撃って?」
「時と場合と相手による。嬢ちゃんが見たように口で言い負かす時もあるし、急所に軽く一撃当てて昏倒させる事もある。
あと、ナイフ投げの腕も相当なもんだぜ。
俺も一度しか見た事がないが、あれを見た時、俺は何で奴が魔道士なんぞをやってるのか真剣に考えたもんさ」
「ナイフ投げ?キールが?」
「ああ。相手が性質の悪い連中と攣るんでてな。いきなりナイフを投げつけてきたので、それを避けて代わりに投げ返したのさ。
顔色ひとつ変えず、相手のこめかみギリギリに、傷一つ無く投げ返されたナイフを見た時は鳥肌が立った」
そう言って、シオンは笑った。
「……って話をシオンから聞いたんだけど」
「全く……またあの人は余計な事をベラベラと……」
夕食後に茶を飲んでいる時に、メイは昼間シオンから聞いた話をキールに切り出した。
キールが明らかに迷惑そうな顔をする。
「キールってば、意外に武闘派だったんだねぇ。相手に仕掛けさせて避けてかわす辺りは、喧嘩上手だと思ってたけどさ」
「人体の急所に詳しいのは、治癒魔法を学ぶのに知っていた方が有益だったからだ。
ナイフは、精神集中の一環だな。お前のダウジングと同じようなもんだ。繰り返しやっているうちに精度が上がっただけだ」
的に向かい合い、一点に集中してナイフを投じる。
メイにはダウジングを進めたが、キール自身はナイフ投げやダーツを精神集中の一環で行っていたのだ。
今では、頭の上に置いた林檎を正確に射抜く程の腕らしい。
「へー、ウィリアム・テルだぁ。凄ーい!」
「ウィリアム・テル?」
「あたしの世界の物語に出てくるんだよ。息子の頭の上に林檎を置いてね、それを弓で射抜いてみろって言われるの」
ウィリアム・テルは息子を木の前に立たせると、その頭の上に林檎を置き、見事弓で射抜いてみせるのだ。
「一発で違わず林檎を射抜いたウィリアム・テルも凄いけど、お父さんを信じてじっと動かなかった息子も凄いと思うんだけどね。
でもキールがナイフ投げやダーツをやるとは思わなかったな。見た事なかったもの」
「ここ数年はやってなかったからな」
そもそもシオンが見たという悶着の際のナイフ捌きも、相手がいきなり刃物を投げつけるという暴挙に出たので、牽制の為に一投お見舞いしたのだ。
勿論、当てるギリギリの所に投げ返した訳だが、牽制は十分に効を奏して相手はすっかり総崩れになった。
以来、口以外でキールにちょっかいを出す者もめっきり少なくなり、今に至っている。
「ところで今日、なんか大きなお仕事入ったの?」
空いたカップを片付けながら、キールに尋ねる。
メイがシオンと別れて戻ってくると、店のカウンターに大きな荷物が立て掛けてあったのだ。
恐らくは依頼人が持ち込んだ品物だとは思うのだが―――
「大きな仕事というか、物がでかい。高さが2mほどある大鏡の鑑定依頼だ」
「鏡の鑑定?骨董なら隊長さんの方が詳しそうだけど」
「いや、それ程古くはないので骨董価値は大した事ない。魔法的な意味での鑑定だな」
何でもその大鏡は、某貴族の先代が美術商から買った物らしいのだが、どうも魔力を秘めているようだと言う事で持ち込まれたのである。
「敏感な人間は、特に魔法を専門に学んでいなくても、物に込められた魔力を感じる事がある。
今回がその例で、現当主が鏡に込められた奇妙な『力』に気付いたんだな」
「奇妙な気って?」
「何か、気配がするらしい。鏡の前を誰かが横切ると、その鏡の中から誰かが見ているような気がするとか」
「ちょっと、そんな気味の悪い物、預かって大丈夫なんでしょうね」
メイが本気で嫌そうな顔をする。
お化けや幽霊を全面的に信じる方ではないが、自分の目で見た事は信じるタイプだ。
出来の悪い怪談めいた話には懐疑的でも、その現象を目の当たりにすれば信じざるを得ない。
「俺は、幽霊やら怪談やらは、暇潰しの余興としか思ってないからな。鏡以外に、付随している話には興味ない。
まあ、でもこの鏡に何らかの魔力が秘められている事は確かだ。明日から、本格的に鑑定を始める。
それで問題があれば魔力を封印するなり、鏡そのものを破壊して魔力を絶つなりするさ」
キールならば、その場の状況如何でどうとでも対処出来るだろう。
しかし然程難しくはないと思われたこの依頼が、とんでもない事態を引き起こすとは―――まだ二人が知る由もなかった。
翌日、朝からいい天気だったので、メイは掃除に精を出していた。
窓を開け放ち、空気を入換えながら、箒と布巾を手に自宅部分やラボを丁寧に掃除して行く。
キールが居間で新聞を読んでいる間に掃除をしてしまおうと、メイは他の部屋を後回しにしてキールの研究室に入った。
ここは扱いのデリケートな薬品やら、貴重なオーブや古文書がさり気なくその辺に置かれてあったりするので、
掃除をすると言っても、さっと掃いたり、机の上を軽く拭くくらいである。
下手に動かしてとんでもない物を破損したり、急いで片付けようとして重要な魔法陣を紛失したりすると、大目玉を食らうのが判り切っているからだ。
その日も机の上に広げられた魔道書の類を避けて拭き掃除を済ませただけで、研究室を出ようとしたのだ。
もしも、研究室の片隅に立て掛けられていた鏡に気付かなければ―――
「これ……例の、鏡……?」
メイが気味悪がったので、カウンターの所に置いてあった鏡をキールが研究室に片付けたのだ。
昨晩少しは鑑定を試みようとしたのか、鏡に掛けられていた覆いは取り外されており、メイの姿を鮮明に映し出していた。
「この鏡の前を横切ると、誰かが見てるような気がするって……?」
そんな薄気味悪い鏡を、背後に置いて平然と研究が出来るキールは、本当に依頼品そのもの以外には興味がないのだろう。
幾ら気にしていなくても、多少は気に掛かるのが人の常である。
「キールってば、豪快に剥き出しにしちゃって……神経太いのね〜……」
何気ない、所作だった。
引き寄せられるように鏡の前に立ち、何気なく鏡面に手を触れる。
鏡の中の自分が、笑ったような気がした瞬間―――メイの視界は暗転した。
「メイ。ここに居たのか」
キールが研究室を覗くと、メイが例の鏡の前に立っていた。
「気味が悪いんじゃなかったのか?」
「うーん、やっぱり少しね。覆い掛けちゃってもいい?」
「ああ。これから文献の方を当たるから、しばらく鏡は必要ない」
ふうん、と呟きながら大きな布を上から掛ける。その唇に浮かぶのは、微かな笑み―――
『……少しの間、そこでじっとしてなさい。一晩経てば、嫌でも諦めがつくから』
小さな囁きが大気を震わせる。
「何か言ったか?」
「別に。本当に大きな鏡ねって言っただけ」
手を伸ばして掛け布を整えると、パサリと鏡面を覆ってしまう。
愕然とした表情の鏡の中のメイの姿は、掛け布に隠されて、もはやキールの目には触れなかった。
「ちょっと、一体どういう事よッ!?あんた誰っ!?あ、隠すな!!」
ドンドンドン、と目の前のガラスのような物を両手で叩き、メイがまくし立てる。
だがその叫びも空しく、ガラスの向こう側は『もう一人の自分』によって、幕を引かれるように覆い隠されてしまった。
後に残されたのは、薄明るい空間のみ。
呆然と佇むメイの背に、しゃがれた声がかけられた。
「無駄じゃよ。こちらの声は、向こうには聞こえん」
いきなり声をかけられたので、面食らって振り向く。そこには白髪の、緋色の肩掛けを纏った老人が立っていた。
「貴方は……?」
「ワシはフェルギスと言う。ご覧の通りの、老いぼれ魔道士じゃよ」
「ここは、お前さんが見ていた鏡の中じゃよ」
「う、やっぱり……」
何となく、そんな気はしたのだ。
鏡面に手を触れたと思ったら、急に視界が暗転して……次に意識が戻った時には、自分はもうここに居た。
目の前には、自分の意志とは無関係に微笑むもう一人の自分―――
フェルギス老人はこちらの声は向こうに聞こえないと言ったが、彼女が呟いた声を、メイは確かに聞いた。
「少しの間、そこでじっとしてろ…一晩経てば、嫌でも諦めがつくからって言われたんだけど。一体、あれは何?」
実はある程度の察しはついていたのだが。
「今、外の世界に居るお前さんは、鏡に映されたもう一人の自分自身。鏡像じゃから、勿論姿形は瓜二つ。普通に話すし、意思もある」
「ああ、お約束な展開……クラインに来てから早一年と数ヶ月。大概の非常識さには慣れたつもりだったけど、
まさか鏡の中に自分が入り込んじゃって、しかも鏡の中のあたしが代わりに出歩いてるなんて……」
あまりにも想像通りの話だった為、メイは思わず乙女座り状態で握り拳を作って唸ってしまった。
フェルギスはそんなメイを不思議そうに見ていたが、どうも悔しさや憤りといった感情を表現しているとは察したらしい。
「おじいさん、緋色の肩掛けを持ってるって事は、相当腕が立つんでしょ?何とかしてここを出ましょうよ」
「お前さん、この肩掛けの価値が判るのか?」
少し意外そうな顔で、フェルギスがメイを見る。
「判るわよ。今は身に付けてないけど、あたしも青の肩掛けを取った魔道士だもの。それにあたしの旦那が、緋色の肩掛けの魔道士なの」
「ほう……そりゃまた、お前さんはまだ若いのに、随分な年寄りと結婚したんじゃのう」
「??ちっがーーーう!キールは年寄りじゃないぃっ」
咄嗟に反応出来なかったのだが、フェルギスがキールの年齢を想像し間違えてる事に気付き、慌ててツッコミを入れる。
「キールは…って、旦那の名前だけど。彼は今年で二十一よ。ちなみにあたしは今年十八。年寄りじゃないよ」
「何?二十一歳で緋色の肩掛けじゃと!?」
メイが肩掛けを取った一人前の魔道士という事にも大概驚いたようだったが、キールの年齢を聞き、更にフェルギスは驚きを見せた。
この様子では、フェルギス老人は相当長い間、この鏡の世界に閉じ込められていたのだろう。
少なくともこの数年間の話ではない筈だ。そうでなければ『緋色の魔道士』の二つ名を持つキールの事を知らない筈は無い。
メイは簡単ながらも、自分の経歴やキールの事を話して聞かせた。
「そうか…お前さんの主人は、そんなに若くで緋色の肩掛けを取ったのか。そりゃ年寄り扱いして、悪い事をしたのう」
「いいのよ。普通、十五や十六で緋色の肩掛けを取れるとは思わないんだから、無理もないって。
ところで、さっきの話の続きにもなるんだけど……ここが鏡の中だってのは判った。ここから出る方法はあるの?」
メイの問い掛けに、フェルギスは渋面になる。
「方法は、無い事は無い」
「じゃ、あるんでしょ?だったらさっさと出ちゃおうよ。
鏡のあたしも、あたし自身には違いないかもしれないけど、やっぱりいい気はしないわ。早く元に戻りたい」
「そう、簡単に行けば苦労はしないんじゃがのう……」
「へ?」
間の抜けた声を上げたメイに、フェルギスがその方法を告げる。見る間にメイの顔色が蒼ざめていった。
状況は彼女自身の想像を遥かに越えて厳しく、かつ困難なものであったのである。
「丸一日しか猶予がない!?」
「そうじゃ。本物のお前さんと、鏡の中のお前さんが入れ替わってから丸一日の間に元に戻らんと、
お前さんは二度と元の世界に戻る事は出来ん」
それを聞いて、メイはどうして緋色の肩掛けまで取ったフェルギス老人が鏡の中に閉じ込められていたのか、判ったような気がした。
「それで…?この鏡にもう一人の、今外に居る方のあたしが姿を映している時に、外から鏡を割るの?」
この状況で一体誰が、そんな上手いタイミングで鏡を割ってくれると言うのか。
「ウチ、あたし以外にはキールしか居ないんだけど……」
「うむ。何とかお前さんの亭主に、気付いて貰うしかないんじゃがのう」
メイはガックリと肩を落とした。
丸っきり不可能ではないかもしれないが、あまりにも偶然やら運の良さに頼る要素が大きすぎる。
「何とか…何とかしなきゃ。せめて、表に居るのがあたしの偽者だって気付かせないと」
今更ながらに確かめてみると、今表に居るメイの偽者は、鏡に映った姿に擬似的な生命の宿ったモノであるらしい。
精霊とは違うが、それに次ぐ存在であると。
本来なら鏡に映るただの影にしか過ぎなかったモノに、鏡の魔力が力を与え、仮にとは言え生命と意思を持った。
存在そのものは邪悪ではないのだが、本物と入れ替われば、自分は真実の意味で『本物』になれる。
魔力が破れればメイは鏡の結界から逃れ、自分は再び影に戻る。
一度生命を得たものが、自ら進んで消滅を願う事などありえない。
鏡像のメイは、丸一日の間自分の素性を隠し通し、本物に成り代わるだろう。
偽者とは言え、メイはメイ。姿形は勿論全く一緒。思考や行動も、『ほぼ』一緒であるという。
「ほぼ?」
「まあ、全く一緒じゃないのは、鏡に映った一瞬の像を結んで入れ替わるからじゃな。だから思考や記憶は、ごく表面的な事しか刷り込まれておらん筈じゃ。
だが、普段の癖や仕草など、意識してやってはおらんじゃろ?そう言った情報は、一瞬にして刷り込まれている。
逆に入れ替わる寸前に聞いた話や、最近身に付いたばかりの癖などは反映されない。それがオリジナルとは異なる点じゃな」
だが事態が深刻なのは変わりない。メイは頭を抱え込んでしまった。
そんなメイに、全く手が無い訳でもないぞとフェルギスがある案を示してくれる。
「お前さん自身が表に出るのは無理じゃが、意識だけを表に出す事は出来るぞ。
勘のいい者なら、お前さんの姿も見える筈じゃ。薄ボンヤリとした、半透明の姿じゃがな」
「勘のいい……ねぇ」
キールは、鈍くはないと思う。精霊を視る力があるくらいだから、もしかしたらメイの姿も見えるかもしれない。
しかも幽霊とか、そう言ったモノを怖がるタイプではないので、至極まともに向き合って貰えるだろう。
気付いてくれさえすれば、少なくともメイの身に何かが起きている事は判ってもらえる。
そこから先、どうすれば良いのかは全く考えつかなかったが。
「ちょっと待って。そんな事が出来るのに、おじいさんは外に出られなかったの?」
はた、と気付き、メイがフェルギスを見る。
するとフェルギスは、寂しそうな笑みを浮かべた。
「実はこの鏡を作ったのは、ワシ自身なんじゃ。鏡を使った付加実験に失敗しての。
それから魔力が発動する事は無かったんじゃが、何かのきっかけでお前さんには作用してしまったらしいな。
その頃ワシは一人暮らしでのう……丸一日経って、ワシが外に出られなくなるまで、もう一人のワシは一歩も鏡には近寄らなんだ。
本物のワシと入れ替わったもう一人のワシは『本物』となり……それから生涯を閉じるまで遂に誰も、このカラクリには気付かなんだよ」
ちなみに『鏡の中から誰かが見ているような気がする』という証言は、どうやら鏡に捕らわれたフェルギスの気配だったらしい。
向こうからは視えないが、鏡の中から外は見えるので、フェルギス老はよく表を見ていたのだという。勘の良い者は、その視線に気付いていたのだ。
ずっと沈黙を守っていた鏡の魔力が、何故今になって作用したのか。
フェルギスの言う何かの『きっかけ』と言うのが、具体的に何かは判らない。
もしかしたら、メイが元々クラインの住人ではないという、不確定要素がきっかけなのかもしれない。
しかし不幸な偶然とは言え、メイは鏡の魔力に捕まってしまった。
今、この場にはフェルギスも居る。何とか出来るかもしれないのなら、その可能性に賭けてみたかった。
「ねえ、キール。少し休憩してお茶でも飲まない?」
「今はいい。手が離せない」
メイ―――正確には偽メイだが―――は、朝から研究室に篭もりきりなキールを、何とか部屋から追い出そうと躍起になっていた。
オリジナルのメイの記憶によれば、キールは魔道士としてはかなりな力の持ち主である。
文献を当たった所でこの鏡に秘められた魔力の秘密が知れるとは思わないが、何が起きるか判らない。
それは今まで作り主であるフェルギス以外には反応しなかった鏡の魔力を、オリジナルのメイが発動させてしまった事からも言える。
オリジナルのメイには不確定要素が多分にあり、そんな幸運な偶然から自分は生命を得た。
丸一日の時間を稼がなければ、自分はオリジナルに成り代わる事は出来ない。
何としてもキールが真実に気付く前に、彼を研究から一時引き離さなくてはならないのだ。
一定の時間が経過した後なら、研究でも何でも、好きにやって貰って構わないのだが。
お茶に一服盛って明日の朝まで寝かせておこうという魂胆だったのだが、キールは頑として研究室を動こうとはしない。
偽メイは思わず舌打ちしそうになった。
一方、キールはキールで、新妻の奇妙な行動に不思議な違和感を感じていた。
新妻とは言っても、彼女との付き合い自体は結構長い。
自分の習慣や癖などは熟知している筈で、彼は研究や読書の途中で気を散らされるのをとても嫌がった。
だから自分が研究室に篭もった時などは、メイは必要最小限の事しか声をかけてこない。
徹夜を続けている状況ならともかく、たかだか数時間書物を読み耽っている程度で、煩く茶に誘う事自体珍しいのだ。
メイはそわそわと、自分の事を気に掛けながらも、研究室を出て行こうとはしない。
どうも何とかして自分をこの部屋から出したいようだ。
朝食を終えて、掃除を始めるまでは特別おかしな所はなかったのだが―――
不意にキールは手元の書物から顔を上げると、横の棚に置いてあったオーブに視線を走らせた。
何か外から当たる光の角度が変わったのか、一瞬、反射する光が揺らいだような気がした。
オーブには、何か淡い影のようなモノが映っていた。自分の真後ろに位置する何かを、反射して映しているようだ。
見覚えのある栗色に目を奪われ、出来るだけそっと視線を背後に向ける。
「―――!?」
そこに見たモノに、キールは危うく声を上げそうになった。
淡い幻影のようなメイが、必死の身振り手振りで『声を出すな』と訴えている事に気付かなければ―――
『メイ』は相変わらず研究室の隅に置かれた、仮眠用の小さなソファに腰掛けたまま唸っている。
その傍らに立て掛けられた鏡からゆっくりと抜け出した幻影のようなメイは、そっとキールの傍に立った。
キールは目の当たりにしてしまった非常識な光景に一瞬呆然としたが、すぐに我を取り戻すと何気ない素振りで、一枚の羊皮紙をそっと机に広げた。
それは以前、メイが附加魔法のかかったチョーカーで猫に姿を変えてしまった際に、指図で会話する為に用意した文字表だった。
素早くその表にキールは指を滑らせると、一体何が起きているのか彼女に問うた。
『良かった!やっぱりキールにはあたしが視えるんだ』
『状況を説明しろ。まず、お前は本当にメイか?』
『えーん、本物だよぅ』
やはり、本物か否かをまず問われた。
真後ろでは、まるきり同じ姿をしたもう一人のメイが、実体を伴なって存在しているのだから無理も無い。
キールは自分が本物だと言う話を丸まま信じた訳ではなさそうだったが、
とにかくメイは、自分が本物か否かの訴えは棚上げにして、状況の説明に徹した。
『つまり後ろで実体を持っている方が、鏡の魔力で生み出された偽者だと?』
『そう。あの子が例の鏡に姿を映している時に鏡を割れば、魔力が消えてあたしは解放されるんだって。
でも丸一日しか時間がないの。それを過ぎると、あたしはもう鏡から出られない。そしてあの子が、本物になる』
メイが、ソファのもう一人の自分を指差した。
『……何か、あの後ろのメイが、確かに偽者だと言い切れる根拠はあるのか?』
ほとんど表情を動かす事無く、キールが再び問い質す。メイはほんの少し手が止まったが、やがてそっと指差した。
『あたしは、あたし。ただそれだけ……もしかしたらキールが信じた方が、本当のあたしなのかもね』
微かに振り向き、覗き込んだ色淡いメイの瞳は、どっちを選んでもいいと告げていた。
例え『自分』が消えても、『メイ』の存在は残る。キールが信じたなら、それが彼にとっての真実なのだろうと。
……彼女のその瞳を目にして、キールは腹を決めた。
「メイ」
「ん、何?」
声を掛けられた事で、ソファに腰掛けていたメイが腰を浮かせる。
しかし顔を上げた事で、もう一人の自分の存在にも気付いた。僅かに浮かべられたぎょっとした表情からして、間違いないだろう。
普通の人間には見えなかったのかもしれないが、同じ存在―――コインの表裏のような存在故に、視る事は出来るらしい。
キールは、サイドテーブルの引出しから何本かのダガーを取り出した。
「……ちょっと、何のつもりよ」
「こっちのメイは視えてるらしいな?なら話は早い。
同じ人間が二人居るわけはないから、お前たちのどちらかが鏡の魔力で生み出された偽者だと言う事になる。
どちらが偽者か……俺には、確かにどちらかだと言い切る根拠がない―――だから、俺なりの方法で確かめる」
キールがダガーを構えた。実体のメイが微かに後ずさり、幻影のメイが真っ直ぐに顔を上げる。
「メイ、俺を―――信じろ」
その言葉の意味を、問い質す暇すらなく。
キールの手から放たれたダガーは、幻影のメイの顔の真横に突き立った。
揺らめく影のようなメイは微動だにせず、キールの顔を真正面から見据えている。
だが、その一方で―――
「きゃあっ!?」
顔を掠めるような位置に飛んできたダガーに驚き、実体のメイは思わず身体ごと避けた。
心外だと言うような顔で、キールを睨み付ける。
「何てことするのよ!いきなりダガーを投げつけるなんて、危ないじゃない!!」
「だが俺は、『信じろ』と言った」
「え……?」
表情を変えず見返したキールの瞳に、実体のメイの表情に狼狽が浮かぶ。
「俺のナイフが決して自分を貫く事はないと、信じなかったお前が、つまりは偽者だと言う事だ」
返すキールの左手から、もう一本のダガーが飛ぶ。
ダガーは部屋の片隅に置かれていた鏡を割り砕いた。
驚いて避けた際に、うっかり映り込んでしまった実体のメイの姿ごと―――その刹那。
幻影のメイの姿が掻き消え、実体のメイがその場に崩折れる。
駆け寄り、抱き起こしたキールの腕の中で、メイは小さく笑った。『ただいま』―――と。
「今帰った」
「お帰りー。どうだった?」
「交渉成立。魔力を封印する為には鏡を割るしかなかったと言ったら、すぐに納得して貰えた」
翌日、キールは依頼人に会い、破損した鏡を引き取る交渉をした。
もしも依頼人が納得しなければ、枠組みは無事なのだから新しい鏡を嵌め込んで返すつもりだったのだが、
依頼人も事の経緯を聞くに至って鏡を引き取る事を厭い、依頼料を棒引きする事でキールに譲渡する事を承諾したのである。
「いやもう、一時はどうなる事かと」
「それはこっちの台詞だ。いきなり半透明で目の前に出て来られてみろ。悲鳴を上げられても文句は言えんところだぞ」
休憩中の札をラボの表に出し、メイの淹れたお茶を飲みながら、お互いの顔を見やる。
それはそうだろう。実体を伴なったメイがすぐ真後ろに居たのだ。
いきなり半透明の姿で『あたしが本物』と訴えても、逆にこちらが偽者扱いされるか、
キールが信心深い気質ならお祓いのひとつくらいされていたかもしれない。
客観的に話を聞いてもらえた事実だけでも、メイにとっては非常な幸運だったのだ。今更ながらに頭の下がる思いである。
「それと、お前の言ってたフェルギスという魔道士の事も調べてきた」
「何か判った?」
「あの依頼者との縁故は無い。恐らくフェルギスの死後縁者が手放した物を、先代が美術商を介して購入しただけだ」
魔法研究院の記録をあたった所、確かにフェルギスと言う名の緋色の肩掛けを取った魔道士は実在していた。
今から、約百年ほど前の話である。
本人の没後からは、既に八十年程が経過していた。
「鏡を使った附加魔法を得意にしていた魔道士だったらしい。だが五十を過ぎたくらいから、ぱったりと鏡に関する魔化は行わなくなった。
それから亡くなるまでの約20年間は特別目立った功績もなく、七十八歳で死亡―――と、記録ではなっているな」
「きっとその頃に鏡につかまって、本物と鏡の自分が入れ替わっちゃったのよ。
あたしが会ったフェルギスさんも、丁度そのくらいの歳だったし。それで鏡に関する研究は止めちゃったんだ」
もしも鏡が割られたなら。
自分は元に戻れるからいいとして、フェルギスはどうなるのかとメイは問うた。
「そうじゃな…多分、ワシの存在は消滅すると思う」
「ええっ!?そんなの駄目だよ!」
あっさりと自身の存在の消滅を口にしたフェルギスに、メイの方が血相を変える。
だがフェルギスは『ありがとう』と呟くと、娘に接するようにメイの肩を軽く叩いた。
「ワシの実体はもう存在しない。もし仮に表に出たとしても、家族も友も既に亡く、一人ぼっちじゃ。
せめてお前さんが無事に実体を取り戻して、ワシを眠らせておくれ」
そう言って、穏やかな笑みを浮かべたのだ―――
「……鏡に捕らわれたままでは、歳を取る事も、死ぬ事もない。でも、それがとても辛かったんだって。
あの鏡の中から、おじいさんは自分の家族が亡くなるのを見た。入れ替わって表で生きていた、もう一人の自分の死も。
そうして『自分』という存在がいつしか人々の心から薄れ、忘れられていっても……
死ぬ事すら出来ない自分にはどうする事も出来なくて、たまらなかったって……そう、言ってた」
鏡を割る事が、唯一の解放の道。
それしかフェルギスを救う方法はないのだと理解して、メイはようやく幻影という形を借りて表に出る事を承諾した。
納得は、今でも出来ていないと言うのが、本音だけれど。
「ところで、あたし達が両方避けるとは思わなかった訳?」
いきなりキールのナイフ投げの腕前を体験する羽目になったメイが、少しだけ非難がましい目を見せる。
結果的に正しい方法だったのかもしれないが、下手をすればどちらも避けるか、または両方避けなかったかもしれないのだ。
「でもお前は避けなかっただろ?」
キールがちらりとメイに視線を走らせる。
「実体のあった方は何処か様子がおかしかったから、まず間違いなくお前が本物だという確信はあった。
試すような真似をしたのは悪かったと思ってる。でもあれで、鏡を割る決心がついた」
もしも実体を伴なった方が本物のメイで、鏡を割る事で彼女の身に何か起こったとしたら―――
そう考えないではなかったのだ。
不意に投げられたナイフを、キールの言葉の真意を解する事なく身体ごと避けたメイと、微動だにしなかったメイ。
だが彼が本物だと信じたメイは、その想いを裏切らなかった。それで十分だった。
「最初からあたしが本物だって、信じてくれてたんだ」
少し意外そうに、メイがキールを見る。
あの時のキールはとても客観的で、とても自分の方を、より信じているようには見えなかったから。
キールの翠の瞳が、僅かに優しくなった。
「『あたしは、あたし。ただそれだけ』……お前はそう言ったろ?俺が信じた方が、本当の自分だと。だから、お前を信じた」
理屈ではなく、感じたのだ。彼女の想いを、魂の在り方を。
だからダガーを投げる瞬間も迷わなかった。きっと、彼女は真っ直ぐな瞳で応えてくれると―――
「……ありがと、キール。嬉しいよ」
他に言葉が思いつかなくて、キールの肩に頬擦りする。
彼はメイの肩を抱き寄せ、メイの髪に手を触れた。
まどろむような午後の光に包まれながら、互いの存在を失わずに済んだ幸運を思い、
二人は鏡の呪縛から解放された緋色の魔道士の冥福を祈った―――
【FIN】
あとがき
最近SSが長くなってます。以前平均の3倍くらいの長さ。
多分、お笑い要素の少ない真面目な話を打ってるからなんでしょうが(^_^;)
(他ジャンルのネタも含めて)構想を考えている時に、『鏡』と言うのが頭に浮かびました。特に、『姿見』と形容出来る大鏡です。
鏡なら他のジャンルにも使えそうだったんですが、『魔力を秘めた鏡』というのを前面に出したかったのでファンタで採用。
しかしキールがどんどんハイパー化してます(笑)
喧嘩は弱いとは思ってませんでしたが、ナイフ投げまでやりますか…そうですか(^_^;)
幾らなんでも、殴り合いの喧嘩で常勝無敗は無理がありそうだと思ったんですよ。
でも飛道具&口先で言い包めるならアリじゃないかと。ナイフ投げと言ってもあくまでも威嚇で、当てたりしませんし。
ちゃんと『外して』投げるんですよ。勿論、的に当てる事も得意ですけど(笑)
麻生 司