今日も元気!


『……そろそろ寝るか』

研究室で長い羊皮紙とオーブに埋もれていたキールは、コキッと首を鳴らすと席を立った。
もうとっくに夜半を過ぎ、日暮からの時間よりも夜明けまでの時間の方が短い。
最近は規則正しく寝起きするメイの影響もあってあまり遅くまで仕事をする事はなかったのだが、今日はキリが悪くて遅くなってしまった。

慣れと言うのは面白いもので、数年前まで二日続きの完徹などそう珍しくもなかったのが、
ここ最近では比較的決まった時間に眠気を覚えるようになった。
勿論、これは気の持ちようである程度調整が効くのだが、
特に急ぎの依頼などが入っていない場合は、素直にその睡魔に従う生活に身体が慣れて来たのも事実である。

同じ事は食事にも言えて、以前はパン一つと水だけで三日間研究に没頭していた事もあるのだが、
近頃は三度三度ほぼ決まった刻限に腹が空くようになった。
お陰様で口の悪い上司には、『お前この頃太ったんじゃねーか?』などと言われる始末である。
あくまでも長年に渡る不摂生な生活で少々痩せ型だった体型に、程よく血肉と筋肉がついただけの事なのだが。

決まった時間に食べないとメイが怒る、と言うのも三度の食事を欠かさなくなった理由の一つだが、
少なくとも以前より弟の日常生活が健康的になって、双子の兄が喜んでいるのは確かだった。

 

研究室から寝室までの足下を照らす淡い魔法の明かりを順に消して歩きつつ、細く寝室の扉を開ける。
先に寝んでいるメイを起こさないように最後の明かりを消すと、出来るだけ音を立てないようにベッドに入った。
気配で少し眠りが浅くなったのか、メイの身体が寝返りを打ちこちらを向く。
彼女の腹はまろやかな丸みを帯びていて、新しい命の誕生が数ヵ月後に迫っている事を実感させた。

寝返った拍子に、掛布がずれて上半身が覗く。
身体を冷やしてはいけないので、半身を起こしたキールはメイの向こう側の掛布に手を伸ばすと、引き寄せて掛け直そうとした。
その時―――

ぽこん。

「……ん!?」

自分の手に伝わった奇妙な感覚に、思わず一度掴んだ掛布を取り落としてしまう。
ちょっと自分の手をまじまじと見てから、掛布を掛け直す為に恐る恐るメイの身体―――と言うか腹に、キールは再び手を伸ばした。

一体今の手応えは何だったのか。
ここには自分とメイしか居なくて。特にどちらも興味を示さなかったので、犬や猫などの動物も飼っていない。
一応確かめてみたが、メイの腕は片方は彼女の顔の横、もう片方は自然に下に伸びて腰の辺りだ。

「……でも、さっきは確か……」

いつまでもゴソゴソしていてはメイを起こしてしまうかもしれない。
だが今は、一応研究者の端くれとしての探究心と言うか、はたまた元から持ってる好奇心とか言ったものが勝ってしまっている。

恐々伸ばした手が、そっとメイの腹に触れた。すると……

ぼこ。

「わっ!?」
「……う〜……なに、どうしたの?キールぅ……」

不覚にも大きな声を出してしまい、案の定メイが目を覚ます。
寝惚け眼のメイの前で、キールの胸の中では、久方ぶりに心臓がドキドキと早い鼓動を刻んでいた。

 

「あはははははは!夜中に顔引き攣らせて何してるのかと思ったら!!」
「……メイ、笑い過ぎだ」

翌朝。
昨晩は咄嗟に眠りの魔法を掛けてメイを寝かせてしまったキールは、改めて昨晩の事を彼女に話した。
メイの掛布を直そうとしたら、弾みで彼女の腹に手が触れた事。そこで感じた奇妙な手応え。
よくよく考えれば原因の察しは付いたのだが、結局目が冴えてしまって昨日はほとんど眠れなかった。

「その……俺は男だし、そう言う話を今まで聞く機会もほとんど無かったんでよく判らなかったんだが、あれはやっぱり……?」

自分の知識の範囲外の事には子供みたいな顔をするキールに、メイは姉のような表情を浮かべた。

「あたしのお腹に偶然触ったら、そこで『ぽこん』って手応えを感じて驚いたんでしょ?」
「ああ」
「あたしも、昨日気付いたんだけどね。キールは忙しそうだったから、今日にでも一段落したら話そうと思ってたんだ。
 そう……キールが感じたのは、お腹の子の動き―――胎動だよ」

 

胎動―――それは、母の胎内で成長する子供の動きである。珍しい現象ではなく、普通の妊婦は誰もが経験する事だ。
意外にその動きは活発で、母親の腹を胎内からボコボコと容赦なく殴る蹴るという動きが数ヶ月続くのである。
だが知識として知っていても、男である自分が突然遭遇すれば、それはやっぱり驚愕するだろう。
ましてや身近に歳の離れた弟妹がおらず、自分にとっての一人目の子で、今までの経験というものが皆無なのだ。
落ち着きさえ取り戻せば『胎動』という名称も、その事象そのものの事も思い出せたのだが、
昨夜は自分の知識が全く通用しない世界に一人放り出されたような気分だった。

 

「でも、夜中でも赤ん坊って動くんだねぇ。あたしが寝てる時は、お腹の赤ん坊も寝てるんだと思ってたよ」

そもそも、胎児と言う物は寝ているのか起きているのか。
生まれてしまえば、それこそ始めの数ヶ月間は寝ているかミルクを飲むかの生活なのだが、胎内で一体どう言う事になっているのかは……
それこそ想像するしか方法がない。

「幾らなんでも、丸一日起きっ放しって事はないだろうから、ある程度のリズムはあると思うのね。
 それはやっぱり、基本的に母親であるあたしのリズムと同調してるんだと思うの」
「まあ、それはそうだろうな」

多分、微睡みながら目覚めているような感じなのだろうが、それならば母体が睡眠を取っている時は、比較的動きが少ないと言う事になる。
昼夜を問わずにボコボコ腹を蹴られていては母体が消耗してしまうから、恐らくはそう言うことなのだろう。

「ん……でも昨日は、お前は完全に寝てたぞ?確かに一度俺の声で起こしたが、最初に動いたのはその前だ」
「だからねぇ、それはきっとキールが傍に来たのが判ったから目を覚ましたんだよ」
「―――は?」

藪から棒な言葉に、伊達眼鏡の奥の翠の瞳が瞬かれる。

「俺が傍に来たって……研究室から寝室に移った時か?」

自分で自分を指差して呆気に取られたような顔をしたキールに、メイはにっこり笑って見せた。

「キールがお父さんだって、ちゃんと判ったんだよ。あたしには先にもう挨拶を済ませてたから、キールにも同じように『こんにちは!』ってね。
 あたし達の子供って、もしかして凄い子かもー」

『幾らなんでもそれは飛躍し過ぎだろう』と思ってはみるものの、実際どういう理屈で自分が我が子の胎動にかち合ったのか判らない。
ただの偶然かもしれないし、もしかしたら本当に自分を父だと認識したから、気付いて欲しくて動いて見せたのかもしれない。
きっと偶然だとは思うが、そんな想像に思いを馳せるのは、決して悪い気分ではなかった。

 

それからと言うものの。
まだ見ぬ我が子は、胎内からボコボコとメイの腹を殴る蹴るで、そりゃあもう元気一杯だった。

朝、目が覚めてメイが『おはよー』と腹を撫でながら声をかけると『ぽこん』と返事が返ってくる。
『今日は天気が良いから散歩でもしよっか』と呟くと、また『ぼこ』と応答がある。
始めはただの偶然だろうと思っていたのだが、あまりにもタイミング良く胎動があったりするので、
キールも本当に自分達の話を聞いてるんじゃないかと言う気になって来た。

「……何か本当に、こっちの話す事を全部聞かれてるんじゃないかって気になって来た」
「うん、全部聞こえてる筈だよ。だって壁を通してだって隣の部屋の物音とか聞こえるでしょ?
 赤ん坊と外を隔ててるのはあたしのお腹だけなんだから、話し声なんかは筒抜けだと思う。
 だから絵本を読んで聞かせてあげたりしてるんじゃない」

なるほど、などと一瞬感心してしまう。
母体の神秘と安普請の部屋が同じレベルに聞こえるのがちょっと何だが、例えとしてはよく判る。

「だからお腹に赤ん坊が居る人の前で、絶対に喧嘩とかしちゃいけないんだよ。
 赤ん坊は全部聞いてる。泣く事も、耳を塞ぐ事も出来ずに……言葉で傷付けられるから」

メイの言葉に、キールはハッとした。

 

例え、それが自分に向けられた言葉ではないのだとしても。
言葉には力がある。人を詰り、罵る言葉には刃が潜む。
実際にその言葉を向けられた特定の誰かに留まらず、耳にした全ての者を、視えない刃が傷付けるのだ。
良くも悪くも言葉に秘められるその力をメイの世界では『言霊』と呼ぶのだと、以前聞いた事がある。

「その代わり、愛されてる事も全部判ってるよ。こうして毎日、お腹を通して手を触れられてるのもきっと知ってる。
 早く外に出て、あたしやキールに逢いたいって……そう思ってるんじゃないのかな」
「……まだ、しばらく先の話だけどな」

メイの腹に手を当てたキールの目が、ふっ、と優しくなった。

「俺達も、お前に逢うのが楽しみだよ。でももう少し、そこで大きくなって来い。子供は……ゆっくり育つものだからな」
「もうちょっとで逢えるから、その日まで元気に育ってね」

キールの手に、メイの手が重なる。するとメイの腹が、内から『ぽこん』と軽く蹴られた。もしかしたら殴ったのかもしれないが。

「あははは、判ったって!頭良いねぇ」
「うーん、この分だと簡単な基礎呪文くらい覚えそうだな。害の無い発声練習とか、回復魔法くらい試しに教えてみるか?」
「あたしは普通に言葉を教えようかな。それで一番最初に『ママ』って言葉を覚えて貰うんだ♪」
「ママ?じゃ、俺はパパか?」

キールがちょっと意外そうな顔をする。
自分がそう言う呼び方に慣れていないので、微妙に違和感があるのだ。

「そうだよー。自分の子に『ママ』って呼んで貰うのが夢だったんだもん。キールは、『パパ』って呼ばれるの嫌?」

自分が『ママ』ならキールは『パパ』だと、当然のように考えていたメイの表情がほんの少し翳る。
そんなメイの頭に伸びたキールの手が、くしゃりと彼女の髪を撫でた。

「別に構わない。ただ……まだ、慣れてないだけだ」
「じゃ、これからちょっとずつ慣れようね『パパ』

少し照れたようなキールの横顔に、メイはパッと笑顔を咲かせた。

                                                      【FIN】


あとがき

一体いつになったら生まれるんでしょうか彼等の子供は(笑)
生まれてしまったらある程度お話に区切りがついてしまうので、何気にダラダラとエピソードを引っ張ってみたり。

胎動は、私は弟のを触らせてもらった事があります。そりゃもう元気でグリグリ動いておりましたとも。
その元気の良さに『こいつは絶対男だよ』と両親も私も信じて疑わず、出産前に平然と産着とか青系で揃えてましたね〜。
そんな弟も先日二十歳の誕生日を迎えました。ああ、ついこの間までオシメをしていたのに…(笑)
いつか弟の嫁さんに、弟のご幼少のみぎりの話をしてやるのが私の夢。わはは、歳の離れた兄姉の特権だ(^_^)

                                                             麻生 司

 

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