てのひら
「よいしょ……っと」
ぱんっ、と洗濯物を一度振って皺を伸ばす。冬の晴れ間に翻る洗いたての洗濯物は見てて心地よい。
「風があるから、夕方までには乾くよね。さーて、天気の良い間にシーツも洗って、お掃除もしちゃわないと」
メイは腰に手を当てて、頭上の冬の太陽を見上げた。
主婦の一日は日々戦争である。
元の世界では結婚は『永久就職』だとか『三食昼寝付き』だとか言ったものだが、実際に主婦になってみると、そんなに甘い物ではなかった。
永久就職は永久就職かもしれないが、断じてラクなものではない。
『三食昼寝付き』なんて言葉が通用するのは、相手が全て家事をやってくれるほど出来た人か、家事をする必要が無いほど裕福か、
初めから家事を放棄した不良主婦である。
それなりに手を抜く事は許されても、いつも手を抜きっ放しでは家庭が崩壊してしまう。
まず食事。
旦那が全てやってくれると言うならいざ知らず、大抵の場合は女性が炊事は受け持つ事になる。
少々具合が悪くても、例え疲れていようとも、自分が作らない事には何も出て来ないのだ。
次に洗濯。
いつも清潔な物を身に着けていたいと思うのなら、自然その頻度は高くなる。
メイは潔癖性ではないが、やはり毎日着替える。当然、昨日着ていた物は必然的に洗濯する事になる。
それも洗濯機などがあればまだラクだが、クラインにそんな物は存在しない。
洗濯機そのものは召還出来るかもしれないが、電気がないこの世界ではただの箱だ。
それにしても毎日腰を屈めて手で洗うのは大変なので、メイは小さなオーブに風魔法を封じ込めて、
それを桶に入れて小さな渦を作って洗う事にした。
簡易洗濯機と言う所だが、この方法は口コミで近所の主婦に評判になり、今ではセリアン・ラボの大事な収入源の一つになっている。
そして掃除。
少々埃が積もった所で人は死なないが、やはり不衛生は健康上よろしくない。
歳の割にはメイが驚くほどの蓄えを持っていたキールが――父親の遺産と、研究院に在籍していた間に貯めたのだそうだ――
独立、結婚と同時にラボと自宅を兼ねた一軒家を購入した。
夫婦二人の住まいとしては少し広いかもしれないが、来客があったりすると、はやり部屋数はあった方が便利である。
それに将来的に家族が増えるとなると――今、メイのお腹には赤ん坊が居る――決して広過ぎると言う事はないだろう。
ラボ、居間、台所にダイニング、キールの研究室、それにメイも一応仕事に使う部屋を持っている。
これが全て一階に在り、二階には二人の寝室と、将来子供部屋になる部屋も含めた来客用の空き部屋が三つある。
勿論掃除機などはないから、これらの部屋を全て箒とはたきと雑巾を手に掃除して行く訳だ。
ただし床の拭き掃除と高い所の掃除に関しては、お腹の子に負担をかけない為にメイがモップを召還した。
お陰で拭き掃除関係は大分ラクになっている。
買い出しもある。
食料や生活必需品は買いに行かなくては生活にならない。
掃除や洗濯、炊事を済ませた後、もしくはその狭間に、行かなくてはならない。
食料品などは夕方の方が安かったりするので、日によっては一日に二度足を運ぶ事もある。
そうして僅かずつ浮いた食費は、メイの小遣いになったり、咄嗟の時の蓄えにする。
キールから預かっている食費を少しでも安く浮かせる為に、日夜努力を欠かさないメイなのだった。
「ぁ痛っ!」
急いで最後のシャツを干そうとしたメイの指が、シャツの繊維に引っ掛かる。
右手の人差し指の爪の生え際が、ささくれになっていた。無理に引っ張らなかったので、血は滲んでいない。
「随分荒れちゃったなぁ……」
自分の手に目を落とし、ふう、と小さな溜息をつく。
元の世界に居る時や、少なくとも研究院を出て独立するまで、メイの手はこんな風に荒れた事はなかった。
指先は水分が足りなくてカサカサしている。あかぎれも所々あり、ささくれも別に珍しいものではない。
それは裏を返せば、一生懸命家事に精を出していると言う事なのだろうが……
「やっぱり、ちょっと悲しいかなぁ」
大好きな人の顔や手に触れる時、その手が荒れてカサカサなのは、ちょっと侘しい。
ハンドクリームくらいは召還しなくても、似た効能を持つ膏薬を、薬草から作る事が出来る。
下手な化学薬品を使っていない分、クラインで作られた膏薬の方が肌に良いくらいだ。
だがいくらケアしても、それ以上の頻度で手が荒れるのだから追いつかない。
それにメイは、膏薬を付けた手で料理や洗濯をするのが嫌いだった。
綺麗に手を洗ってから料理や洗濯をするので、手肌のケアをするのはその後と言う事になる。
必然的に炊事と洗濯の時は手は荒れ放題で、もう冬の間は仕方ないと諦めるしかないのかもしれない。
自分の指先に手を触れて、すっかりカサついてしまったその感覚に、メイはもう一度小さく溜息をついた。
「キール、掃除するよーー」
箒とモップを片手にメイが研究室を覗き込む。
「ちょっと待ってくれ」
いつもの生活のリズムでそろそろメイが掃除に来る事は判っていたのだが、片付けが間に合わなかった。
床を掃除する間中座するだけなのだが、開いた魔道書や薬草などが、開けた窓から入る風で飛ばないようにするのである。
キールが使っている机の上は、かなり雑然としている。
はっきり言って『散らかっている』という状態なのだが、雑然としているのはあくまでも机の上だけで、部屋そのものは整然としている。
彼は必要な物を必要に応じてそこに置いてあるので、メイは一切手を触れない。
以前、まだメイがクラインに来たばかりの頃に、善意で片付けようとして喧嘩になったからだ。
今はそんなキールの性格を判っているので、笑い話である。
「ここは俺がやる。お前は少し休んでろ」
「そう?じゃ、ここはお願いしようかな」
はい、と素直に箒とモップをキールの手に渡す。
独身の頃は必要最低限だったのだが、メイが身篭ってからは、よくこうして掃除などを手伝ってくれるようになった。
進んで買い物などにも付き合ってくれる。正直、キールが理解のある男性で良かったと、メイは内心とても感謝していた。
箒の受け渡しをしようとした時に、メイの指先がキールの手に触れた。
咄嗟にメイが手を引く。箒がぽとりと、キールの手の中に落ちた。
「メイ、どうした?」
彼女らしくない仕草にキールが顔を覗き込む。何処か具合でも悪いのだろうか。
「ごめん、なんでもない」
手を押し抱いて、口篭もる。
「何でもなくはないだろう。手を怪我してるのか?」
「違う。本当に、大した事じゃないの」
表情を厳しくしたキールに、メイは頭を振った。
些細な動きの違いで、自分の事を心配してくれる。そんな彼の優しさを嬉しいと思いながら。
「冬になってから水仕事が辛くて……手荒れがね、酷くて」
「手荒れ?」
キールがほっとしたような、拍子抜けしたような声をあげる。小さな声でメイが呟き、背中に両の手を隠した。
「うん。昔は、こんな荒れ方しなかったんだけどね。やっぱり水仕事とかは、たまにやるのと毎日やってるのとでは大分違うみたい。
指先なんてガサガサなの。こんな手、キールに見られたくなくて……」
俯いてしまったメイの耳に、ふう、とキールの小さな吐息が聞こえた。たかが手荒れと呆れたのだろうか。
男のキールには些細な事かもしれないが、これでも結構気にしていただけに、カチンと来る。
何か言い返してやろうと顔を上げかけたその時、掛けられた言葉に、メイは目を瞬かせた。
「……ごめんな。家の事、全部任せっ放しで」
「キール?」
キールの手が、隠していたメイの手を取る。荒れてカサカサになった指先を、愛おしむように両の手に包み込んだ。
「前よりずっと手先が荒れてきた事も、それをお前が気にしてる事も気付いてた。
俺は男だからこんな事を言うと思われても仕方ないが……手荒れなんて、気にする事ない」
「でも……やっぱり、見られたくないよ。キールの前では……ずっと、綺麗なままでいたいのに」
躊躇うように引っ込めようとした手に、キールがそっと口付ける。
「お前のこの手が、料理を作って、掃除して、洗濯してくれるんだぜ?働き者の……綺麗な手だ」
呟くようにキールが呪文を唱えると、メイの手指の荒れが一瞬で消える。滑らかな、赤ん坊の肌のようだった。
「キール……」
「今日だけな」
似合わない台詞に少しは照れたのか、キールが一瞬目を逸らす。
「……ありがと。嬉しい」
小さな声で礼を言うと、メイの頬に朱が差した。
本来なら、あまり頻繁に回復魔法を使うべきではないのだ。
何でもかんでも回復魔法に頼っていると、人に元来備わっている『治そう』とする力を損なってしまう。
緊急を要する大怪我等には勿論使われるのだが、それも必要最小限なのである。
傷口を塞ぎ、血が止まり、怪我人の容態が安定すれば、後は本人の自己回復力に任せるのだ。
だからたかが手荒れの治療に回復魔法を使うなど、本当ならやるべきではない。だがキールは、敢えて禁を破った。
恐らくは痛々しい妻の手を、見るに耐えかねて―――
「……本来は身体によろしくないから頻繁には使えないが、この程度なら俺が治してやる。
もしもさっきみたいに、お前が俺に『見せられない』と思ったら……いつでも言ってくれ」
俺は気にしないけどなと、最後に付け加える。
「気付いても、こんな事しかしてやれない。俺では、料理も掃除も洗濯も―――きっとお前ほどには出来ないから。
今更こんな事、言葉にするのも何だけどな」
キールの手が、メイの髪をさらりと梳いた。
言葉にしなくとも、いつも感謝しているのだと。
夫婦は運命共同体。互いに互いを補い合いながら生活していくのが、きっと一番望ましい。
彼女は自分の為に細々と心を砕いてくれる。
食事を作り、部屋を綺麗に保ち、清潔な衣服を用意してくれる。
『結婚したから当たり前』と、そんな言葉で片付けてはいけないと……判ってはいたのだが。
「いいんだよ、キール。ちゃんとあたしの事、気にしてくれてた事が判っただけで……あたしは嬉しい」
メイの手が、キールの頬に手を触れた。
「あたしは嬉しいの。キールの為に料理する事も、あたしたちの家を掃除するのも、お洗濯も。
みんなみんな、あたしたち二人の生活を支えてるんだって……感じられて、嬉しいんだよ」
美味しいと笑ってくれる。掃除の行き届いた居間でのんびりとくつろいでくれる。真っ白なシャツに腕を通して。
そんな些細な事が、毎日の幸せ。
冬には水仕事で手も荒れるけど、本当にそれは仕方のない事だ。
メイはその手をキールに見られるのが嫌だっただけで、手荒れそのものを厭った訳ではない。
水仕事で荒れた手は、彼が言ってくれたように『働き者』の証。それは主婦の勲章なのだから。
「あたしはただ、この手をキールに見られるのが嫌だっただけ。キールの前ではいつも綺麗でいたかったから……でも、もう平気」
キールが、どんなに自分の事を大切に想ってくれているか判ったから。
照れ臭そうに自分の手を治してくれた、その優しさが判ったから。だからこれからも頑張れる。
「でも時々は、こうして手伝ってね。これから赤ちゃんが生まれたら、もっと大変になるし」
箒を手に研究室の床を掃き始めていたキールが顔を上げる。
照れたような笑みを浮かべて、『ああ』と頷いた。
新しい命の誕生にはまだもう少し。
それまでに、兄の所に通って少し料理でも覚えて来ようかと……そんな事を考えながら、キールは箒を持った手を動かし続けた。
【FIN】
あとがき
えー、少し時期外れなお話でごめんなさい。このお話を書いたのは、実はまだ水も冷たい3月始めだったんです(^_^;)
コンテンツの拡大に伴って更新が遅くなったり、お話そのものに手を入れて書き直したりしていたのですっかりUPが遅くなりました。
この後花見の話とかも考えてるんですが(桜じゃないですけど)、それがUPされるのは5月以降ですかね……
結婚が『三食昼寝付き』と思っているお嬢様方。主婦業はそんなに甘い物じゃございません(笑)
理想や夢をお持ちの方には申し訳ないですが、努々(ゆめゆめ)覚悟して人生を決められますよう(^_^;)
頑張って主人を自分色に染めるのが一番手っ取り早いですよ。ウチは最初の仕込みを間違えました(苦笑)
麻生 司