覚醒めの刻


隣国ダリスとの間に勃発しかけていた戦乱は、
クライン王国側の送り込んだ精鋭と、ダリス王国の廃嫡皇子アルムレディンの協力により、一応の決着をみた。
アルムレディンを国王と認め、正式に後見すると発表したクライン王国に反発したダリスの諸侯は、
いまだダリス国内とクラインの国境付近の各地で、小規模な抵抗を繰り返している。
燻り続ける火種を残したまま、一度は滅びの危機に瀕した世界は、新たな年を迎えようとしていた。

 

「シルフィス、ちょっと顔色悪いんじゃない?風邪でもひいた?」
「え?」

本営近くで炊き出しをしていたシルフィスの額に、手が当てられる。
少しぼんやりしていたシルフィスは、もう少しで鍋をかき混ぜていたお玉を落としそうになった。
自分の額にも手を当て、シルフィスの熱を計っているのは、異世界からの来訪者―――そして、親友でもあるメイである。

「ん、熱はないみたいね。でもゴタゴタしてたせいでちゃんと寝(やす)んでないでしょ?体調崩しても不思議じゃないよ」
「大丈夫ですよ、メイ。少し考え事をしていただけですから」

ニコリと笑ったシルフィスの顔色は、だがお世辞にも良いとは言えなかった。
元々色白な方だが、今はさらに青みがかって透けるようである。

「うーん、シルフィスがそう言うなら『そうだね』って言ってあげたいんだけど、やっぱり疲れてるんだって。
 隊長さんが早めにシルフィスを後衛に下げたのは正解だったと思う」
「……」

シルフィスはメイの言葉には応えずに、今だに引かない抵抗諸侯との衝突を繰り返す前線へと視線を向けた。

 

シルフィス、レオ二ス、メイ、キール等の立ち回りで、ダリスとの全面戦争の危機は去った。
だがアルムレディンを新たな王として認める事を良しとしない旧勢力の諸侯が団結し、新たな抵抗勢力となった。
レオ二スはすぐに援軍の手配をし、そのまま皇太子セイリオスの一任を受けて前線指揮官の任に就いたが、
金を積んで雇った傭兵と、今までの蓄えで防備された諸侯はなかなかにしぶとく、いまだダリス国内の争乱は終結していない。

第一陣となったレオ二ス達が、この地に本営を設けて早、半月が経とうとしている。
レオ二スの直属の部下であったシルフィスは勿論の事、キールやメイも状況を鑑みて、そのまま前線に残留していた。
キールは主にレオ二スの後背で、魔法での援護指揮を取っている。
時には貴重な魔道士としてメイも借り出され、シルフィスは騎士としての務めを果たすべくレオ二スと並び前線で剣を取っていた。
だが―――数日前、レオ二スに本営へ呼び出されたシルフィスは、前線を離れ、後方でメイの手伝いをするように命じられたのである。

 

 

「私を後衛に……ですか?」
「そうだ。以後はメイの護衛も兼ねて、彼女の仕事を手伝うように」

レオ二スの口から告げられた淡々とした命令に、シルフィスは愕然とした面持ちで立ち尽くした。
自分がこれまで成そうとしていた事―――騎士として認められる事。そしてどちらの性別になろうとも、分化して一人前となる事。
そのどちらをも、否定されたような気分だった。

「隊長……私は、前線では戦えないとお思いですか?」
「……」

上司の命令は絶対だ。だが、その禁忌を破ってまで、シルフィスは翠の双眸で自分を見返してくる。
―――だからこそ、レオ二スは彼女を前線から外した。
彼女の身に起きつつある変化を、無意識で敏感に察した故に。

「……お前が前線で戦えないとは思っていない。ただお前はこの一ヶ月、あまりにも根を詰め過ぎた。少し後方に下がって、心身を休めろ」
「―――判りました」

何かを口にしかけて、シルフィスは唇を噛み締めた。さっと騎士の敬礼を施して、天幕を出る。
もしも振り返っていたならば、その背をじっと見詰めるレオ二スの瞳に気付いただろう。
外はこの冬初めての雪が降り始めていた。

 

 

深夜、シルフィスは目を覚ました。
隣の寝袋ではメイが丸くなっている。
未分化であったシルフィスは、戦場では数少ない女性のメイと同じ天幕で寝起きしていた。
何より気心が知れているし、護衛という点では男性は天幕の中にまで付きっ切りという訳には行かないので、自ずと適任とされた。

「……痛……」

身体を起こした時に、突っ張った腕に鈍い痛みが走る。
全身を襲う倦怠感のようなモノは数日安静にしていても引く事はなく、身体中の骨が高熱を出した時のように軋むように痛んだ。

初めは、メイやレオ二スが指摘した通り、疲れているのだと思った。体調を崩して、発熱しているのだと。
だが数日続くその気だるさと全身の痛み、そして以前ならば考えられなかった情緒不安定を自覚するに至って、シルフィスは気付いた。
来るべき時が、ようやく巡ってきたのだと―――

 

天幕の外に出ると、暖を取る為に焚かれた焚火の火の番に数名が起きているだけで、辺りはシンとしていた。
あまり目に付かないように、そっと天幕の張られた一角から離れる。
そのままシルフィスは、本営に程近い場所にある湖まで歩いた。
煮炊きをする為の水は近隣の村の井戸を借りているので、普段からあまりこの湖の周辺には人はいない。
澄んだ空気と夜気の冷たさが、鈍い痛みに疼く身体に心地よく、シルフィスは深呼吸した。

一応周囲に人の気配を感じない事を確認して、湖の辺に座り込む。
湖面に映し出された顔は、髪の色も瞳の色も変わっていない筈なのに、何だか別人のようだとシルフィスは思った。
はっきりとやつれたとか、そう言う訳ではなく、何となく面差しが違って見える。

シルフィスは首に巻いた飾り布を外し、上着のボタンを外すと、肩口から胸元を露にして湖面に映し出した。
肩は―――以前に比べて、ほんの少し丸みを帯びてきたようだった。
そして何よりも衣服を押さえた手を通して、以前は少年のようであった胸元に、今は微かな膨らみを感じる。
間違いない―――自分は、女性へと分化したのだ。

 

アンヘル種族の者が分化する時に、決まった法則というものは存在しない。
概ね自分が望む性別へと分化する事が多かったが、それすらも絶対ではなく、
中には女性として生きる事を望みながらも男性に分化する者も居るし、その逆もある。
幼い頃に将来を誓いあった二人が共に女性、または男性へと分化した為に、破談になった縁組もあった。

では自分が、今この時期に女性へと分化したきっかけはなんだったのか。
この春から、騎士団の厳しい訓練に耐えてきた。
騎士団の一部の者にはアンヘル種族に対する奇異の目や偏見などがあったが、訓練に対しての差別はなかった。
同じ条件で、同じ機会を与えられて、そして今の自分がある。

ただ一つシルフィスの未来を決定付けた物があるとすれば、それはレオ二スの存在だった。
アンヘル村に彼が迎えに来たその日から、自分はずっとレオ二スの庇護の下にあった。
謂れの無い偏見や奇異の目を向けられる事はあっても、それが陰湿な行為へと及ばなかったのは、直属の上司となった彼の存在が大きい。

言葉はなくとも、同期のガゼルと共に、心を砕いて接してくれている事は十二分に判っていた。
そんな彼に、尊敬や敬意とは違う感情を自分が抱いていると気付いたのはいつの頃だったのか。
後方支援を命じられて何よりも辛いのは、レオ二スの傍に居られない事だとシルフィスはまだ自覚していない。

共に前線に出ていれば、レオ二スの背後を守る事が出来る。
そうする事で性別すら定まっていない半人前の自分でも、彼の盾にはなれるのだと思う事が出来たのに―――

 

不意に微かに草を踏む音に気付いて、シルフィスは急いで衣服を整えた。
外してしまっていた飾り布などは間に合わなかったが、露になっていた肩と胸は隠せた。

「シルフィス?」
「……隊長」

足音の主はレオ二スだった。見知った人物であった事に、ほっと息をつく。
湖の辺に腰を下ろしていたシルフィスの傍らに立ち、レオ二スは同じように湖面を見詰めた

「……どうしてここへ?」

傍らに立つレオ二スの顔は見ずに、一言問う。

「お前が、天幕から出て行くのが見えた」

 

焚火の一つの番をしていたレオ二スは、天幕を出て湖の方へと歩くシルフィスに気付いた。
人の目には触れたくないような様子だったので、声を掛けるのは止めた。
だが、いささかおぼつかない足取りであるように感じたので、少し時間を置いてから後を追って来たのである。

「やはり具合が悪いのか?」
「やはり……?」

確かめるようなその口調に、シルフィスは……彼女は、ようやくレオ二スを振り返った。

「数日前から、様子がおかしかった」

 

気付いたのは、ほんの些細な事だった。
例えば、以前にはあまりなかった、ぼんやりと何か考え事をしている事。
下された命令に対しての―――これは、先日彼女を後衛に下げると伝えた際に再確認したが―――従順さの欠落。
そしてメイも気に掛けていたような、顔色の悪さに現れるような、微細な体調の不良。
それらの全てを鑑みて、レオ二スはシルフィスを後衛に下げた。

前線では常に過度の心身の緊張を強いられる。一瞬の油断、気を逸らした事が、そのまま自身の命の危機に繋がる。
そんな所に、今の状態のシルフィスを置けばどのような事態を招く事になるか―――
例え彼女の自尊心を一時傷付けたとしても、彼女の命そのものを守る方を、レオ二スは選んだのだ。

「一言で言えば、軽い情緒不安定という所だろう。ダリスへの潜入任務、引き続いての前線への参加……
 前線での経験の浅いお前が、体調を崩しても不思議はない」

かえって余計な気負いを感じさせたかもしれないが、それが直接シルフィスの命を危うくする事はない。
今、ここでこうして自分が前線から外された理由を聞けば、ある程度回復するかもしれないとの、思いもあった。
だが―――

 

「……います」

囁くような小さな声は微かにしか届かなかった。
怪訝そうな表情を浮かべたレオ二スに、立ち上がって向かい合う。

「違うんです。体調を崩したのではありません」

自分よりもずっと背の高いレオ二スを見返した彼女の翠の瞳は、何かを恐れるような揺らめきを抱いていた。

「分化……したんです。女性に―――」
「……確かなのか?」

一瞬、返す言葉を失ったレオ二スに、シルフィスは小さく顎を引いて頷いた。

「分化したと気付いたのは、この数日です。普通は成長過程に分化して、緩やかに身体が変化していくんですが……」

 

分化の遅れていたシルフィスは身体がある程度成長しきってしまっており、
その為に身体つきの変化に骨格まで影響され、全身を疼痛が蝕む事になったのだ。
分化の事実を知らされ、レオ二スもこれまでの彼女らしからぬ様子にようやく得心が行った。

「そうか。精神面での不安定さも、分化の影響が出たんだな。
 未経験の事象が我が身に起こり、性別すら変化して行こうとしているその時に、今までと全く同じままで振舞える方が不自然だ」
「そうなのでしょうか」

抱き締めるように、自らの腕を強く掴んでいたシルフィスの指先に力が篭もる。

「私はアンヘルの村に生まれ、この歳まで育って―――遅れているけれど、いつかはきっと分化の時が来ると信じていました。
 なのに、実際に分化が起こると……ただ、不安で」

 

今までの自分と何も変わらない筈なのに、何かが喪われて行くようで怖かった。
これまでの生活、友人との関係、自覚し始めていたレオ二スへの想い―――
生きてきた十五年の人生全てが、掌から零れ落ちる水のように。

「分化する事で、こんなに不安になるなんて思いもしなかった。自分がこんなに弱い事も知らなかった。
 いっそ分化しなければ……未分化であったなら、何も変わりはしなかったのに」
「シルフィス、それは違う」

思わず掴んだシルフィスの肩が、以前に比べて確かに細くなった事に気付き、一瞬手が止まった。

「分化は遅かれ早かれ訪れるものだった。それを否定する事は、それこそお前が今まで生きてきた全てを否定する事になるぞ」

はっとしたように、シルフィスが顔を上げる。

「子供はみな、少しずつ時を経て大人になって行く。私もお前くらいの時には……色々あった。
 身体の変化も心の成長も、長い時間を経るうちに、子供はいつしか大人になるとはどういう事かを理解する。
 お前はその全てが、数日に起こった―――不安なのは判る。だが、お前を村から送り出してくれた、長老やご両親の事を思い出せ」
「私を……送り出した」

揺れていた翠の瞳に、しっかりとした光が宿る。

「ご両親も長老も、お前が自分の生きる道を探し出し、どのような形であるにせよそれがお前の分化のきっかけになればいいと願った筈だ。
 皆、お前の幸福を願っている。その思いに報いる為にも、お前は分化の事実を受け容れなければいけない」

 

村の他の子供たちに比べて分化が遅れている自分を、両親や長老はいつも励まし、元気付けてくれた。
やっと訪れた分化の事実に目を背ける事は、そんな自分を支えてくれた人たちにも背を向ける事になる。

事実を事実として、受け止める事。
いずれ訪れる心身の様々な変化にも、目を逸らす事無く、まっすぐに向き合う事。
誰でも成長していく中で様々な悩みや試練に出会っていくのだ。今の自分は、そんな子供達と何ら変わらない。

 

「……ありがとうございます。何だか、靄が晴れたような気分です」

未だ分化途中という、不安や戸惑いは胸の内にある。だが、恐れは感じなくなった。
これから自分自身がどう変わって行くかは判らないが、親しい友人や両親は、きっとどんな自分でも受け容れてくれる。
その思いを確認した事で、ずっと気が楽になった。

「分化が完了するまで、心身にどのような影響が出るか判らない。しばらくはこのまま後方支援を続けた方がいいな」
「はい」

すぐに返る返事は、以前のシルフィスのままだった。
今は自分の身の変化を受け容れ、レオ二スもその事を知った上で、自分の身を按じてくれている事が判っている。
だからこその、素直な返事だった。

ふと、シルフィスが何かを思い出したようにおとがいに手を当てる。

「どうした?」
「いえ……女性に分化してしまっても、私は騎士団に籍を置いたままでいいのでしょうか」

今までは未分化という事で、本来ならば女性を受け容れない騎士団に所属していた。
しかし今後、女性になった事で色々と状況が変わってくるだろう。
だがレオ二スは『心配するな』と一言で片付けた。

「騎士団は、『シルフィス・カストリーズ』個人を受け容れた。『未分化のアンヘル種族』を受け容れたのではない。
 だいいち救国の英雄を追放などしたら、来期の入団者数は激減するだろうな」
「救国の英雄……ですか?」

至極不思議な事を聞いたというような顔で、シルフィスが思わず聞き返す。その気持ちは判らないでもない。
何故なら初めてこの話を聞いた時には、レオ二ス自身も全く同じような反応をしたからだ。

「どうも本国では、我々はそう言う事になっているらしい。キールの所に入った先日の定期報告で、シオン殿がそう伝えて来たそうだ」

 

もしもこのまま騎士団に残る事が許されて、来年の春に正式に正騎士の叙勲を受けたなら。
それはクライン王国始まって以来の、初の女性騎士の誕生を意味する。
加えてその女性騎士が、仲間(レオ二ス、キール、メイの事らしい)と共にダリスとの全面戦争を回避した救国の英雄となれば、
事実上、彼女が騎士団を追われる事など有り得なかった。

「後方支援でも、ちゃんとメイの護衛という名分が付いている……気に病まず、時が満ちるのを待て」

 

頷くシルフィスの瞳には、もう怯えるような光はなかった。
美しい翠の瞳には、ただ生気溢れる輝きがある。

彼女の瞳の輝きを目に止めた時、レオ二スはシルフィスが女性へと分化した事を、素直に喜ぶ自分に気付いた。
それはひどく客観的な感覚ではあったが、心地よいと―――久しく覚えのなかった感情に、微かな笑みを浮かべた。

                                                                  【FIN】


あとがき

シルフィスが女性に分化した直後のお話です。
ダリスとの全面戦争が回避されて、クラインの後見でアルムレディンが王位に就いたものの、抵抗勢力による内戦が起きていた時期。
この時点では、まだレオ二スは自分のシルフィスに対する感情を自覚し始めたばかりです。
実際、彼がシルフィスに想いを伝えるまでに約一年が必要に。(『Heirat』参照)二人とも我慢強い(笑)

シルフィスが女性に分化したきっかけはレオ二スだと思うし、分化した事実をレオ二スに伝えるシーンを書きたかった。
実際に分化の途上がどんなものかは判らないんですが、中性的な身体つきからはっきりと女性に変化する訳だから、
やはりある程度の身体の痛みは伴なうと思うんですよ。成長期にはありがちな、精神面での不安定さも。
その精神的なフォローを、レオ二スにして貰いたかった。
一番大事な人が、自分の一番大事な事を知ってくれているのって、凄く精神的な支えになると思うんですよね。

一ヶ月程で目に見える身体の変化は完了します。胸が大きくなったり、身体つきが丸みを帯びたり、表情が何処となく柔らかくなったり。
筋力も、未分化の頃よりは若干落ちてます。正確には、訓練で鍛えても、未分化の時ほど筋力がつかなくなった。
レオ二スの配慮で後方支援についている間に落ちてしまった筋力が、分化する直前のものまでは戻らなかった…という所でしょうか。

                                                                  麻生 司

 

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