願い星ひとつ
「笹の葉さーらさら、軒端に揺れる……」
風を通す為に研究室の扉を開け放しているので、ラボの受け付けで歌うメイの声が聞こえる。
キールは朝から短いフレーズのこの歌を何度となく耳にしていた。
確か昨年のこの時期にも、メイは同じ歌を口ずさんでいた気がする。
笹という植物に色紙で作った紙細工を飾りつけたり、願い事を記した紙の札を下げるのだと言っていた。
「七夕……と言っていたか」
昨年は勝手に召喚した『浴衣』という、メイの生まれ育った国の民族衣装を着せられた。
未だ完全に魔力の安定していない身であまり無茶をするなと渋い顔で一応は咎めたものの、
新妻の愛らしい浴衣姿に内心すっかりほだされ、結局自分用に召喚された浴衣を着る羽目になった。
メイは、つい数週間前に長女のシュリを出産したばかりである。
お陰様で母子共に無事出産を終えたが、乳児を抱えて忙しい日々の中では、
今年は子守唄代わりに七夕の歌を歌うくらいの余裕しかなかったようだ。
産後にラボに復帰してからはカウンター傍に揺り籠を用意し、
そこに娘を寝かせて面倒を見ながらラボの仕事を片付けている。
廊下に出て様子を伺うと、今はすやすや眠っている娘の横に椅子を置いてそこに腰を下ろし、
『笹の葉…』と小さな声で歌いながら依頼一覧に目を通していた。
「今年は、歌うだけなんだな」
不意に声をかけられて、ファイルをめくっていたメイの手と歌声が止まる。
「また笹を召喚して、今度はシュリにも浴衣を着せるのかと思った」
「あはは、来年ならやるかもね。でも流石に、こんなちっちゃな赤ん坊に浴衣は無理だよ。
甚平ならともかく、帯で締めるといくら子供用でも苦しいし。……ちなみに甚平っていうのはこういうやつね」
そう言いながら、手許のメモにペンで小さな絵を描いてみせる。
簡単ながらも特徴をよく捉えたその絵を見て、浴衣の丈が短いだけかと思いきや、着方からかなり違うらしい。
「生地の厚さも重さも全然違うし。
平たく言っちゃうと浴衣が余所行きなら、甚平は普段着ってとこかな」
「そうなのか?」
「クラインの神官さんが普段のお努めの時に着る服と、儀式の時に着る服は違うでしょ。詳しくは違うけど、似たようなもんよ。
でもそれを説明しようと思ったら、あたしの生まれて育った国の歴史や文化を延々喋り続ける羽目になるから、
そういうもんだと無理矢理納得してくれないかな」
元々の文化がまるで違うのだから、正確に情報を伝える事は難しい。
とにかく浴衣と甚平が違うものだという事は判ったから、キールもそれ以上は追求せずに素直に頷いた。
「あたしの生まれた国もそうなんだけど、クラインも七夕の時期って雨の日が多いのよね」
窓の向こうでどんよりと曇る空に視線を向け、メイがキールのカップにコーヒーを注ぐ。
娘の眠る揺り篭を傍に置いたままラボの表に『休憩中』の札を出し、二人は午後の休憩を取っていた。
シオンから分けて貰った豆でいれたコーヒーと、先日アイシュが差し入れてくれたクッキーを摘みながら、
ここ数日の天気についてメイがボヤく。
「シュリが生まれてから洗濯物の量は半端じゃないって言うのに、こうも毎日スッキリしない空だとなかなか乾かないし。
雨が降ったら天の川が氾濫して織姫と彦星は逢えないっていうのに、矛盾した話だわ」
「雨季だから仕方ない。雨季が終われば夏が来る。それがクラインにおける自然の摂理だ。
それに洗濯物は、使っていなかった屋根裏部屋を改造してやったろ?」
日本で七夕当日に雨が降る事が多いのは、長い歴史の間に暦が変わった事が原因なのだが、
日本のカレンダーも無いクラインでは、旧暦を正確に知る事は出来ない。
旧暦の書き込みのあるカレンダー如き召喚するのはメイにとってどうと言う事も無いが、
そこまでしなくても、という感もあって実行してはいない。
ちなみに屋根裏部屋の改造とは、中の片付けと、危険が無い程度に発熱するオーブを天井に数個設置した事である。
これで屋根裏部屋を温室のように温かくして――時期によっては暑くなるが――その熱で湿気た洗濯物を乾かすのだ。
雨季に生まれた娘に、いつも清潔で気持ち良く乾いた衣服を身につけさせたいという母の一念が、
夫を日曜大工紛いの作業に駆り立てさせた結果である。
そもそも日本―――大きく言えばメイの知る地球という星と、クラインでは星座の配置がまるで違う。
素人でも見付ける事が容易い北斗七星やカシオペア座、オリオン座なども、メイはクラインで見付ける事が出来なかった。
辛うじて天の川と呼べそうな星の帯は存在したものの、伝説の元になる星座が存在しないのだから、
クラインで七夕に星空を見上げる事に意味は無い。異世界なのだから、当たり前と言えば当たり前だ。
だがそれでもメイは七夕が近付くとお馴染みの歌を歌ったし、
サンタクロースなど居ないと判っていても、クリスマスには枕元に靴下を吊るした。
その行為自体に意味がなくても、その時期の様々なイベントを楽しむ事には意味があると思っている。
昔からメイは、文化祭や体育祭の準備期間や、前夜祭が好きだった。
イベント当日も勿論楽しみだったが、そのイベントに向けて色々な準備をする事もまた楽しかった。
だから後片付けや後夜祭になってしまうと、無性に物悲しい気持ちになったものである。
「ま、そんなこんなで相変わらず今日もお天気はスッキリしそうにないし。
この分では明日の七夕も、星空は期待出来そうもないわねぇ」
今年の雨季はただ曇っている日が多くて、長雨では無かったのがせめてもの救いだが。
今日までどんよりしていた空が、都合よくスッキリ明日晴れるとは思えない。
「晴れさせてやろうとは思わないのか?」
コーヒーカップを手に、キールが意味ありげな視線をメイに向ける。
藪から棒な言葉に、メイが驚いたように茶水晶の瞳を瞬かせた。
「あたしに天候操作しろっていうの?誰より先に反対しそうなのに」
晴れた空に雨を降らせたり、雨が続く空を晴らしたりする魔法は確かに存在する。
だが天候の操作は自然の摂理を歪めて生態系を壊すということで、
研究されて成果は確かめられたものの、実用化には至っていない。
だが魔法研究院に所属する者であれば、研究書自体は比較的簡単に目にする事が出来る。
その魔法の使用用途を閲覧する者の良心に任せているあたり、基本的に平和なクラインの気質が伺えた。
「いや。そもそも天候なんて物は、意図的に操作するもんじゃないしな」
「じゃあ、他に何をしろっていうのよ」
魔法での天候操作の可能性を排除したうえで、他に何があるというのだろう。
「そうだな、念でも飛ばしてみたらどうだ」
「は……?」
訝しげな表情を浮かべたメイに、キールは珍しく子供が悪戯を思いついたような笑みを浮かべて見せた。
翌日。
朝にはまだ空一面の薄い雲が残っていたが、昼過ぎから徐々に雲が切れ始め、
夜の帳が下りる頃には、すっかり晴れ上がった空に星が瞬いていた。
「驚いた……自分でもビックリだわ」
シュリを抱いたメイが、自宅裏の庭で星空を見上げて絶句する。
「試してみる価値はあったろ?しかも具体的な行動は何も起こしていないから、違法性は全く無い」
「二十年近く生きてきたけど、自分がお天気体質だとは思いもしなかったわよ」
昨日キールは、『明日晴れるように、一晩真剣に考えてみろ』と言ったのだ。
何もしなくていいから、ただ漠然と『晴れるといいのになぁ』と考え続けろと。
運や偶然よりも論理を重んじるキールには珍しいと思ったが、
別に難しい事を要求された訳ではないので試してみたのである。
この晴天は偶然かもしれない。だが晴れたのは事実だ。
それが自分が願ったからではないと、明確に否定出来る根拠も無い。
「大事な日に限って雨が付き纏う、雨男や雨女ってのは聞いた事があるわよ。でもその逆ってのはね」
「お前が関わる大事な日っていうのは、何故か不思議と酷い雨に降られた記憶がなかったからな」
例えば、ダリス潜入時。
エーベの大樹が傷付けられた関係でダリスは天候も乱れていたのだが、
メイがダリスに入っていた間は僅かながら天候が回復した。
結婚式にしても然り。朝まで冷たい雨が降っていたというのに、式の直前には青空が広がった。
雨男や雨女と言う言葉そのものはクラインには無かったが、そういう運の悪さに付き纏われる人間は確かに存在する。
ならばその逆もあるのではないかと、キールはメイに耳打したのである。
「『野辺の花も信仰から』って言うだろ?」
「あたしの世界では、『鰯の頭も信心から』って言うのよ」
メイが苦笑いする。
雨男や雨女にも、彼等なりの言い分があるのだろう。だがもしも自分が晴天に縁があると言うのなら、それも悪くない。
たまたま必要に迫られていないだけで、例えば旱魃に苦しむ地域に雨男や雨女と言う人々を集めたらどうなるのか。
それで本当に旱魃地域に慈雨をもたらす事が出来たとしたら、彼等は神官や巫女として崇められる事になるのかもしれない。
雨男や雨女――『雨乞い体質』であるからといって迫害される事はないが、土地や時代が違えば事情が違うという見本だろう。
自分には、晴天を呼び込む運があるのかもしれない。ただそれだけの事だ。
「今日のこの星空が、あたしだけのお陰とは言わないけど。七夕の夜にこんな綺麗な星空が見れたらやっぱり得した気分だわ」
クラインの天の川を見上げても、そこには織姫も牽牛も居ない。
だが空に数多(あまた)煌めく星々は、降るように美しかった。
日本の、ましてメイの実家が在った辺りでは、こんな星空など見たことが無い。
それだけクラインの大気は、日本に比べて澄んでいるのだろう。
「シュリには……まだ見えてないか。明るさは判る筈だけど、星明かりじゃ流石に無理ね」
折角の素晴らしい七夕の星空だが、シュリはメイの腕の中ですやすやと寝息を立てている。
隣で空を見上げていたキールが、優しくメイの肩を抱いた。
「急がなくても来年があるさ。再来年も、その先もずっと」
「ん……そうだね」
そう呟き、キールの肩にそっともたれかかった丁度その時―――視界を、一条の光が貫いた。
南の空を東から西に、一筋の光の矢が貫いたのだ。
「う……わ!い、今の見た?キール!?」
驚いて声が上ずってしまっている。メイの肩を抱いていたキールの手に、微かに力が篭もった。
「ああ―――驚いた。あんなに見事な流星には、そうお目にかかれない」
振り返って見上げたキールの白い面は、子供のように上気していた。
珍しい物を目にして素直に喜んでいる夫の姿に、メイも何だか嬉しくなってしまう。
「あたしも、あんな大きくて綺麗な流星を見たのは初めてだよ。もっと小さくて、細い流星は何度か見た事があるけど」
「俺だって初めてだ。もっとも俺は、今まで滅多に夜空なんて見上げなかったからだが……」
それでも、何度かは目にした事がある。だがさっきの流星は、別格の特大級だった。
大気中で燃え尽きたから音はしなかったが、あれが地上に落下していたらそれなりの被害が出ていただろう。
「ビックリしすぎて、願い事も出来なかったわ。
大体、流星が燃え尽きるまでに願い事を三度唱えろなんて絶対無理よ。いつ流れるかも判らないのに」
仕方ないわね、と呟いたメイの言葉に、キールが意外そうな顔をする。
「お前の世界では、三度唱えなくてはいけないのか?」
「そうよ。クラインでは違うの?」
流星に願いをかけるという発想はクラインにもあるが、燃え尽きるまでに三度願いを唱えなくてはいけない…という事は無い。
「流星の流れた後の空に向かって、一つだけ、一番の願いを強く思うだけでいい。
望み過ぎず、自分に相応な願いなら―――それで叶うと言われている」
「望み過ぎず、相応な願いを一つだけ……」
少し考え込むようにメイは口を閉ざしたが、数秒後には流星の流れた南の空を見上げた。
「決まったか?」
「うん。キールは?」
「俺の願いは、とっくに決まっている」
願う事は、たった一つだ。
「キールとシュリが」
「お前とこの娘(こ)が」
二人の声が重なり、互いを見遣って、くすりと笑みが浮かぶ。
「キールとシュリが、ずっとずっと幸せでありますように」
「お前とシュリが、いつまでも変わらず幸福であるように」
いつの日も変わらずに、大切な人たちが幸せであるように。
大切な人の幸福が、自分の幸福に他ならないから。
「……叶うかな?」
「来年、再来年―――十年後にも同じように星を見上げていられたら……それは、叶ったって事なんじゃないか」
妻に抱かれて眠る娘の頬に手を触れ、その温もりに目を細める。
「じゃあ、二十年後に確かめようね。勿論、家族皆で」
当たり前のようにメイが微笑む。
シュリは、もしかしたら嫁にいってしまっているかもしれない。
もしかしたら、他にもまだ見ぬ子供達が居るかもしれない。
だが、どれだけ時が流れても―――
「ああ……そうだな。二十年後が楽しみだ」
自分の隣には、きっと彼女が居る。
それだけは間違いなかった。
【FIN】
あとがき
少し遅くなりましたが七夕ネタです。しかも微妙に続きネタです(笑)
セリアンさん家の長女については、ウチのオリジナル。娘の誕生については他作品を参照してください。
結婚式の雨云々については、SPECIAL部屋の『60秒のIllusion』を参照。
ちなみに作中でキールが言っている『野辺の花も信仰から』もオリジナルです。
『鰯の頭も信心から』に相当するクラインの諺が欲しくて、即興で作りました(^_^;)
ちなみに七夕の夜にでっかい流れ星を見たというのは、私の実体験です。あんな大きな流星初めて見た!
数だけなら、一晩で数百ってのを数年前の獅子座流星群の時期に見ましたけど。(あれも凄い光景だった)
勿論、クラインにおける流星と願い事の話も、ウチの創作です。今回こんなのばっかだな(笑)
久し振りに二十四時間で一本仕上げました(苦笑)自主的更新締め切りまで一時間切ってます(^_^;)
これからリンク設定して、更新かけないと……!
麻生 司