君を想いて
「ディアーナ、本当に出て来ちゃって大丈夫だったの?」
「大丈夫ですわ。ちゃんと正々堂々、『お散歩に行ってきます』と置手紙してきましたもの♪」
「そう言うのって、正々堂々って言うのかなぁ……」
無邪気なディアーナの発言に、思わずメイが眉間を押さえる。
よく晴れた秋の昼下がり、大通りをメイとディアーナ、そしてシルフィスの三人が肩を並べて歩いていた。
「まあ、私がお目付け役兼護衛と言う事で付いて来ましたから」
シルフィスがメイにそっと耳打ちする。
間に挟まれたディアーナは、久し振りの城下町が楽しくて仕方ないのか、全然気付いていないようだ。
「シルフィス今日はお休みだって言ってなかったっけ?」
「お休みですよ。ですから付いて来たんじゃありませんか」
ニコリと笑ってシルフィスが答える。要するに服務中なら止めていたと言う事だろう。
なるほどと、メイが妙な事に感心する。
たまたま休日で城の書庫に来ていた所を、ディアーナに見付かり、そのまま引っ張ってこられたのだ。
ちなみにメイの所には、シルフィスが誘いに来た。
丁度課題を仕上げた所だったので出て来てみたら、ディアーナまで居たのでひどく驚いたのだが、この王女様の型にはまらないあたりは、今に始まった事ではない。
シルフィスと自分が気を付けて、無事に彼女を王宮まで送り届ければ、まあ問題も最小限で済むだろう。
もしかしたら彼女の外出を許してしまった門番が、今頃クビになっているかもしれなかったが。
「あら、見てくださいな。流しの絵描きさんですわ」
ディアーナの視線の先には、広場の噴水の傍らでイーゼルを立てた、若い画家の姿があった。
少し気弱そうなその青年の姿には、メイもシルフィスも見覚えがある。
「あの人なら、最近よくこの辺りで見かけるよねぇ?」
「そうですね。この一ヶ月くらいの間でしょうか」
「そうなんですの?最近あまり外に出ていなかったので、知りませんでしたわ」
「姫様は、それでいいんですよ」
シルフィスが苦笑した。
王宮奥深くに居る筈のディアーナが、毎日自由に表を出歩けるメイや自分と同じ事を知っている方が問題がある。
「あたしもちらっと横から見たくらいだけどさ、本当に絵は上手なんだよ。
子供を描いた絵なんて、今にも動き出しそうだったもの」
まだ若い母親が子供の誕生日に記念に絵を描いてもらっていたのだが、
子供の紅い頬や大きな瞳、活き活きとした肌の色など、素人のメイが見ても素晴らしい出来だと思った。
しかも腕が良いからと、法外な値をつけていない辺りが気に入った。
使ったキャンパスと絵の具代の他に、ほんの少し手間賃が加わった程度である。
あの値段ならキールから毎月貰っている小遣いをつぎ込めば、メイでも肖像画を描いて貰う事が可能だった。
あれでは食べていくのがやっとという稼ぎだろうが、青年は絵が描けるだけで幸せなのだろう。
「そうですの?そんなに腕が良いのなら、わたくしも描いて頂きたいですわ」
ディアーナの瞳がキラキラと輝くが、それは止めた方がいいだろうという、シルフィスの控えめな制止が入る。
絵を描くという事は、長時間素顔を第三者に晒すと言う事だ。
画家は無害かもしれないが、いつ何処で誰の目に止まるかもしれない。
あくまでもディアーナはお忍びで城下に出ているのだから、迂闊な行動は避けるべきだろう。
「じゃあさ、あたし達から話を聞いたって事にして、正式にお城に招待して描いてもらったらどう?
そうしたらゆっくり描いて貰えるじゃない」
「そうですね。私達からの紹介と言う事なら、殿下も納得されるでしょうし」
親友二人のありがたい入れ知恵に、ディアーナが小躍りして喜ぶ。
「では近いうちに、まず二人をお茶会にお呼びしますわね。そこであの画家さんのお話をしてくださいな」
少女三人が、そのような罪のない作戦を立てていた目の前で。
事態は風雲急を告げようとしていた。
イーゼルを前に風景画を描いていた青年を取り囲むように、数人の男が集まってくる。
しかも他愛のない世間話というレベルではなく、明らかに剣呑な空気が漂い始めていた。
「ちょっと、シルフィス……何だと思う?」
ディアーナを隠すように前に出たシルフィスの袖をくい、と引き、メイが意見を求める。
シルフィスも困ったような顔をして、動向を見守るしかない。
「さあ……あの方が、何かご迷惑をかけていたとも思えないんですけど」
「何かもめてるようですわ……家賃の支払がどうのと言ってますけど」
シルフィスの後ろから、ほんの少しだけ顔を覗かせて様子を伺っていたディアーナの言葉に、メイとシルフィスが思わず顔を見合わせる。
「ちょっとディアーナ、もしかして聞こえるの!?」
直線距離で10メートルは離れている。
しかも青年画家を囲んでいる連中はあまり大事にしたくはないのか、怒鳴ったり叫んだりはしていないのだ。
その話し声が聞こえるとは、一体どういう耳をしているのだろう。
「あら、わたくし耳は良いんですのよ。王宮では少し離れた場所から、いろんな方のお話を聞かなくてはいけませんから」
ディアーナがほんの少し得意げに、上目遣いに二人を見上げた。
それは所謂、謁見室での事を意味するのだろう。
確かに王家の者が列する玉座と、謁見される側が跪く場所は、今自分達が立つ場所と青年画家程度の距離がある。
それが常の状態であるから、恐らくディアーナに限らず王家の者は、小さな声を聞き取る事に長けているのだ。
「じゃ殿下も地獄耳って事か……王宮では、殿下の悪口は言わないようにしておこう」
「そうした方がいいですわ……どうもあの画家さんは、家賃を払えずに溜めていたらしいですわね」
さらりと薄ら寒くなるような事を口にして、ディアーナはメイたちには聞こえない遣り取りの中継を始めた。
ディアーナの話を総合すると、画家のすむ部屋の大家が、どうやら男達の中に居るらしい。
平たく言えばその取立てに来ているのだが、別に今すぐ耳を揃えて全額払えと言っている訳でもないようだった。
画家の描いた絵の一枚を譲ってくれれば、取り合えず今まで溜めた家賃は棒引きにしてやると言われているようである。
画家自身が描いた絵を譲れば借金を棒引きにしてくれると言うのだから、応じれば良さそうなものだが、
どうもあの絵だけは譲れないと、画家は抵抗しているようだ。
「「あ!!」」
メイとディアーナの、小さな声が重なった。
画家を囲んでいた男達の中でも特に体格の良い一人が、青年の肩と首を掴み、吊るし上げたのだ。
苦痛に歪むその表情に、シルフィスが動く。
「その手を離しなさい!」
「あん…何だ、テメェ?」
まるでチンピラである。
青年を掴み上げたまま男はシルフィスを見下ろしていたが、青年の大家らしき人物がそれを制した。
「止めないか!……失礼だが、貴方は?」
「近衛騎士団の、シルフィス・カストリーズと申します。
どのような事情かは存じませんが、このようなやり方は紳士的とは言えないでしょう。
話し合いならその方を下に下ろしてから、腕力抜きで続きをどうぞ。何なら騎士団の営舎を交渉場にお貸しいたしましょうか?」
大家らしき男はシルフィスを値踏みするような目で一瞬頭から爪先まで見たが、華奢な体格ながら侮れないと思ったのだろう。
すい、と青年を下ろすように手で合図をすると、表面だけは笑顔を浮かべた。
「いや、その必要はないですよ。もう引き上げる所ですので…おい、下ろせ!」
主人の命令で、男は渋々青年を下ろした。締まっていた首が解放されて、膝をついた青年がゲホゲホと咳き込む。
「それでは、ユナ。支払期日は明日ですので、お忘れなく。明日の正午には返事を聞かせて貰いますよ」
表情だけはにこやかに、だが全く笑っていない目でユナと呼ばれた青年画家を見据えると、
取り巻きを引き連れて、男はその場を立ち去った。
「ちょっと、大丈夫?」
「怪我はございませんですの?」
元の場所で様子を見ていたメイとディアーナが、男達が離れたのを確かめてから近付いて来る。
「だ、大丈夫です……助けていただいて、どうもありがとうございました」
けほん、ともう一度咳をして喉を整えてから、ユナと言う名の青年画家は三人に頭を下げた。
「何かトラブルですか?」
家賃滞納の取り立てだろうと察しはついたが、それにしては取り立て方が少々荒っぽい。
大家らしい男といい、その取り巻きといい、あまり性質のよろしくない連中のように思えた。
「実は、お借りしている部屋の家賃が払えなくて数ヶ月分溜まってまして……明日までに払えなければ、部屋を出て行く事になっているんです」
「でも……あの、聞こえちゃったんだけどさ。貴方が描いた絵を一枚譲れば、今までの家賃は棒引きにしてくれるって話じゃない?
何か、どうしてもその絵を譲れない理由でもあるの?部屋を追い出されて、住む所を失っても構わない程の」
メイの言葉に、ユナが俯く。
「……これから、僕の部屋にいらっしゃいませんか。これも何かのご縁ですから、お茶くらいご馳走させてください」
顔を上げたユナは、陰りのある笑みを浮かべた。
「この部屋です」
ユナの部屋は、広場に続く大通りからは少し外れた裏通りにあった。
あまり裕福ではない者達が住む一角だが、同じような立場や境遇の者が身を寄せ合って暮らす場所でもあり、思ったほど荒んだ感じはしない。
すれ違う何人かの隣人と挨拶を交わしながら部屋まで案内してくれた青年画家は、少なくとも利己的な理由で家賃を滞納するような人物ではないように思えた。
「何て言うか……はっきり言っちゃえば、何もない部屋だねぇ」
言い難そうに、率直な感想をメイが口にする。
男の一人住まいと聞いたので少し心配したのだが、ユナの部屋は整然と片付いていると言うよりは、散らかる物が無いという感じだった。
必要最低限の食器と机と椅子、ベッド。後はイーゼルやキャンパス、絵の具などの画材。それで全てである。
適当に椅子に掛けて待っている間に、ユナがお茶を淹れてきてくれた。
カップは清潔で、ティーポットからは良い香りが漂ってくる。
「美味しいですね」
「ありがとうございます」
一口、口を付けたシルフィスが礼を言うと、ユナは照れたような笑みを浮かべた。
「本当、美味しいですわ。毎日淹れて頂きたいくらい」
「うんうん」
舌の肥えているディアーナが太鼓判を押す。メイも大きく頷いて見せた。
湯の温度といい、使っている茶葉といい、蒸らし加減といい申し分ない。
「妻に教わったんです。とても、紅茶の好きな女性でしたから」
「え、奥さんがいるの?」
聞き返してから、しまった、とメイは自分の手で自分の口を押さえた。
ユナは過去形で語ったではないか。それにこの部屋は、どう見ても夫婦者が住んでいる気配ではない。
だとしたら―――
「……先程、絵の事をお聞きになっていましたね。これが、その絵です」
立ち上がり、部屋の一番奥まった所に置かれていたキャンパスに歩み寄る。
包み込むように掛けられていた大きな布が引き外され絵が露になると、メイたちは思わず息を呑んだ。
「これは……見事ですね」
「何て言ったら良いんだろう……言葉になんて出来ないよ」
「まるで絵に描かれた方が、息をしているみたいですわ」
まさにディアーナの感想が、一番的を射ていたかもしれない。
大人が両手で一抱え出来るか出来ないかという程の大きなキャンパスに描かれていたのは、一人の女性の姿――歳はメイよりも少し上くらいだろうか。
ほっそりとした顔立ちに柔らかな微笑をたたえたその女性は、
金茶色の髪も、色の白い肌も、青緑色の瞳も、薔薇色の唇も、今にも『こんにちわ』と語り出しそうな程、活き活きと描かれていた。
「彼女の名はルウェイン……半年前に亡くなった、僕の妻です」
ルウェインは、クラインの地方貴族の次女だった。ユナと彼女は、同じ村で育った幼馴染だったのだと言う。
彼らは共に育つ間に恋を育み、成人したら一緒になろうと、将来の約束をした。
幼い頃から絵が上手だったユナは画家を志したが、生来の内向的な性格が災いしてか王都の美術学校では満足な評価を得られず、
ルウェインの両親から結婚に猛反対された。
このままではルウェインが無理矢理他の男に嫁がされるという前夜、ユナは彼女を屋敷から連れ出し、
そのまま王都で二人だけの結婚式を挙げ、王都の一角のこの部屋に新居を構えた。
この絵はその頃に描かれたものである。
ルウェインの実家の追っ手から隠れ住む生活ではあったが、二人は慎ましいながらも幸せな生活に満足していた。
半年前、ルウェインが急逝するその日まで―――
「……お腹に、子供が居たんです。でも、それが彼女の身体に障って……気が付いた時にはもう手遅れで、ルウェインはそのまま息を引き取りました」
それは恐らく、メイの世界で言う所の子宮外妊娠だったのだろう。
正常に受精卵が子宮内で着床せず、卵管などで胎児が成長した場合、発見が遅いと母子の命が共に危険に晒される。
メイの生きていた世界ですらそうなのだ。
レントゲンやエコー技術のないクラインでは、ある意味彼女達親子の運命だったのかもしれない。
「この部屋の大家は、僕の美術学校時代の同期なんです。でも彼は絵で身を立てる事はせず、美術商として成功した。
何度かこの部屋に家賃を取り立てに来る間に、この絵に気付いて……
売り物になるかどうかも判らないこの絵を渡せば、滞納している家賃を棒引きにしてやるからと」
瞳に哀愁を浮かべ、ユナはキャンパスにそっと手を触れた。
「だけどこの絵だけは手放せない。僕の何と引き換えにしても……これは、彼女と暮らした日々のたった一つの形見。
彼女との思い出を形に出来た、ただ一つの物だから……この絵を手放す時は、僕が死ぬ時だ」
愛おしむようにキャンパスの縁に手を滑らせていたユナが、思い切るように顔を上げる。
「でもこれ以上この部屋に止まって、彼に迷惑は掛けられない。
今までルウェインとの思い出に縋って、この部屋を出れずにいたけれど……今夜中に荷物を纏めて、明日ここを出る事にします。
駆け落ちした時に彼女が身に付けていた宝石類と、この部屋にある、画材とこの絵以外の物を全部売れば、今までの家賃は払える筈だから」
そう言って彼は、今にも泣きそうな微かな笑みを浮かべた―――
ユナの部屋を出て来たメイたちは、そのまま無言で表通りに出ると、広場の噴水の傍で立ち止まった。
お互いの顔を見合すと、開口一番『気付いた?』と、三人三様で口にする。
「何だ、シルフィスやディアーナも気付いてたんだ」
「ええ……私の気のせいかとも思ったんですけど、メイや姫様も感じられたんですね?」
「不思議な感じがしましたわ。だって、見た目は何も変わっていないのに、はっきりと感じるんですもの」
それはユナが命と引き換えにしても惜しくないほど大切にしていた、亡き妻を描いた絵から感じた微かな魔力―――
「絵に描かれたルウェインが、ユナに何かを伝えようとしてるなんて……」
自分一人が感じたのなら、メイもただの思い込みだと思っただろう。
だが腐っても(一応)魔道士の自分と、神秘の力を持つとされるアンヘル種族のシルフィス、
それに巫女姫の力を秘めたディアーナの三人が、揃って同じ感覚を共有した。
もはや、気のせいでは片付けられない。
「……あたし、戻ってキールに確かめてみる」
そう呟いた時には、メイは魔法研究院へと駆け出していた。
「……話は判った」
突然部屋に飛び込んで来たメイにキールは顔をしかめたが、何時にない彼女の剣幕と言うか勢いに負けて、一通り話を聞かされた。
一気に話したメイは水差しから一杯の水をもらい、喉を湿らせてから、改めてキールに確認する。
「結論から言って、そんな怪談みたいな事例ってある?絵に、魂が篭もってしまうような事」
「無い事は無い。恐らく、一種の附加魔法だろう」
ユナには、生まれ付きかなりな魔法の才があったに違いない。
本人がその才に気付いていたかどうかは定かではないが、彼自身は絵の道を志した事もあり、魔道士としての道は歩まなかった。
だが妻を描く際に眠っていた魔力が目覚め、その絵に魔力が附加された。
描かれた亡き妻ルウェインの魂が、かりそめの器として残る程に―――
「じゃ……あたし達が感じたのって、本当にルウェインの意識っていうか……幽霊?」
「残留思念という奴だろうな。彼女も夫を一人遺して先立った事で、気が気じゃなかったんだろう」
要するに自分達が感じたのは、間違いなく今は亡きルウェインの意識だったのだ。
夫の描いた自分の絵姿を通して、必死に何かを彼に伝えようとしている。
魔法の素養があったから自分達は彼女の意識に気付いたのだが、一番気付いて欲しかったに違いないユナは、
彼女を失った悲しみ故に、全く気付いた様子がなかった。
「あの部屋、生活感がまるで感じられなかった。食べる物も食べてないんだよ、きっと」
ちらっと見えた台所は綺麗過ぎる程に綺麗で、はっきり言ってしまえば、使っている形跡が全く無かった。
そう思ってみれば、妙に小綺麗に整えられていたベッドも引っ掛かる。
もしかすると、ちゃんとした睡眠すら取っていないのかも知れない。
流しの絵描きで稼いだ僅かな金銭でパンを買い、夜はルウェインを描いた絵の前で毛布に包まるだけで浅い眠りに就く。
そんな生活は、ユナの命を削り取っているのも同然である。
早く止めさせなければ、彼の命に関わる事態になりかねない。
「何とか……ユナにだけでも、彼女の意識を伝える事って出来ないかな?」
もしも彼女が、今のメイたちと同じくユナの事を救いたくて、彼に何らかのメッセージを伝えようとしているのなら。
その力の源が、ユナ自身の身体に秘められた魔力に起因しているのだとしたら。
何か出来る事がある筈だ。同じ魔道士の、自分になら。
「ひとつ、方法がある。強制的な方法だが、多分これが一番有効だ」
顎に手を当てて考え込んでいたキールが、そう口にする。
これだから一見無愛想なこの保護者を、メイは高く評価しているのだ。そして意外に、面倒見の良い所も。
「どんな方法?」
待ってましたと尋ねるメイの胸元を、キールがすいと指差す。そして一言、『催眠術』と呟いた。
「ユナ、決心はつきましたか?」
翌日の正午丁度に、ユナの部屋を元同期の大家――名はエストバル・シーズと言う――が訪れていた。
扉を開けたユナの足下に小さく纏められた画材一式と、これだけはかなりな大きさの包みを目にして、エストバルの表情が険しくなる。
「どういう事だ、ユナ?」
「この部屋を出ます。僕には、それしか選べない」
懐から今まで滞納していた分の家賃を取り出し、エストバルの手に押し付けた。
「これが僕の全財産だ。処分出来るものは、全て処分した。
今までの家賃と、少しだが利子もつけてある……今まで迷惑をかけてすまなかった」
エストバルが眉を吊り上げる。偽りの笑みはすっかりなりを潜め、その面にあるのは悪鬼のような形相だった。
「本気か……?その絵を、お前が全財産と引き換えにしても固執するその絵を俺に譲ると一言言えば、
全ての借金を帳消しにしてやると言っているんだぞ!?」
だがユナは静かな表情のまま、エストバルに向かい合った。
「何度言われてもこの絵だけは手放せない。
何処に流れていくかまだ考えていないが、これからは亡き妻と二人で、静かに生きていく」
立ち尽くしたエストバルの脇をすり抜けて部屋を出ようとしたユナの両腕を、不意に伸びたがっしりした腕が掴む。
昨日自分を掴み上げた、あの取り巻きの一人だった。
「……お前を、行かせる訳にはいかない。このままここに居て貰おう」
「……何をするんだ!?」
無造作に絵を掴んだエストバルに、思わず語気が厳しくなる。
「この絵を、どうしても買いたいと言う顧客が居るんだよ。誰だと思う?」
浮かんだ冷たい笑みに、ユナの表情が凍りつく。
どのような代償を支払ってでも、画家としては無名の自分の絵を欲しいと望む者は限られている。
それは即ち彼の描いた絵ではなく、描かれた人物に縁の在る者―――
「ルウェインの……両親か?」
「ご明察」
エストバルの顔に、ニヤリ、と悪魔のような笑みが浮かぶ。
「亡くなった奥方の消息を知り、ご両親は大変嘆いておられたよ。
だが君の描いた娘の絵があると知ると、どんなに大金を積んでもいいから手に入れて来いと仰せになった。
恐らくは大事な娘を奪った憎い男の下に、娘に関わる物を何一つ残しておきたくないんだろう」
ルウェインの両親を話に出されて、ユナが力なくうな垂れた。
「それに、俺はこれでもお前の画才を買ってるんだよ。
奥方の死は確かに残念だったが、お前は悲しみに全てを捨てて、その才能をこのまま埋もれさせる気か?
その絵さえ素直に渡せば、後は好きにさせてやろう。
ここに残って絵を描き続けたって構わない。そして俺が、お前の描いた絵を高値で売ってやる。どうだ?」
ユナには、拒絶する力も残されていないかのようだった。
ルウェインを両親の下から連れ出し、きっと幸せにすると誓ったのに、彼女は自分の子を宿した為に若くして亡くなった。
もしもあの日、彼女を連れて逃げていなかっなら―――後悔はしたかもしれないが、その代わり彼女が命を落とす事はなかっただろう。
今も何処かで、誰か別の男の妻として、幸せな人生を送っていたのかもしれない。
必ず幸せにするという誓いを全う出来なかった以上、せめて彼女を描いた最後の絵を両親に返す事が、せめてもの罪滅ぼしなのだろか。
「もう一度だけ聞くぞ、ユナ。どうする?」
「……」
ルウェインを守れなかった自分に、選択の余地は無い。
失った命は戻せないが、自分の描いた絵が彼女の両親の、せめてもの慰めになるのなら。
「僕は……」
エストバルが勝ち誇ったような笑みを浮かべた、その刹那―――
「その返事、ちょっと待った!!」
扉が閉まっていたならバァンと蹴倒して乱入しかねない勢いで、数名の小柄な人影が細い階段を駆け上がってくる。
「お前たちは、昨日の!?」
さっとエストバルの顔色が変わる。メイの後ろに、シルフィスの姿を見付けたからだ。
「エストバル・シーズ、貴方を美術品の不正売買の容疑で騎士団に連行します」
「何!?どういう事だ!」
「貴方のお顔、昨日からずうっと見た事があると思ってたんですの。戻ってゆっくり考えていたら、やっと思い出しましたわ。
貴方、先日王宮にやって来て、二束三文な絵を法外な値段で売りつけようとした美術商さんですわね!?」
本当の意味で目が鍛えられてるセイリオスを騙す事は出来ず、そのまま追い返されたのだが、
高い値がついているというだけで、高名な画家の作品だと錯覚してしまう誤った見識を持った貴族の中には、多大な損害を被った者も居たのである。
ディアーナはその時顔を見せていなかったので、エストバルは彼女に面が割れている事に気付かなかった。
ディアーナがセイリオスに事情を話し、騎士団に話を通して貰い、エストバルの連行手続きを取ったのである。
「僕は……」
エストバルとその取り巻きが騎士団に連行されて行くのを呆然と見守りながら、解放されたユナは跪いたまま少女達を見上げた。
「もう、その絵を手放す事はないんですのよ。ルウェインさんのご両親の話も、あの方のでっち上げですわ」
「でっち上げ……?」
「ルウェインさんのご両親は、既に彼女が亡くなられた事をご存知でした。
彼女が亡くなられる少し前に、ご両親はお嬢さんの居所を突き止め、接触に成功していたんです」
ユナが外出している間に彼女の両親はこの部屋を訪れ、娘を家に連れ戻そうとした。
だが、素直で親には従順だった筈のルウェインは、頑として首を縦に振らなかったのだと言う。
例え貧しい生活でも、本当に好きな人と結ばれて、心から幸せなのだと。
誰よりも何よりも、夫となったユナは自分の事を愛してくれている。
今は他に何も望まないと……陰りの無い幸福そうな娘の笑顔に、両親は無理強いは出来なかったのだ―――
「その後ルウェインさんが亡くなられた事を知り、彼女を喪った事での貴方の憔悴ぶりも人を雇って調べたそうです。
娘の事は残念だが、もう貴方の事は恨んでいないと…そう、仰っていましたよ」
エストバルを強制連行する手続きをする傍らでシルフィスはレオ二スに働きかけ、ルウェインの実家に馬を走らせる許可を貰った。
以上の話は、実際にシルフィスが彼女の両親に会い、確認した話である。
「あのエストバルって男については、王宮だけではなく、大勢の貴族の方からも被害届があって、騎士団の方でも内定が進んでいたらしいよ。
安い絵を有名な画家の作だと偽って、暴利を貪っていたんだって。
画家としてはまだ無名な貴方の絵は、もう少しであの男の金儲けの道具にされるところだったんだよ……間に合ってよかった」
メイが腕を伸ばし、跪いたユナの傍らに立て掛けられた絵を手に取った。
昨日見せてもらったのと同じ場所に絵を置くと、包んであった布を解く。輝くようなルウェインの笑顔が、再び明らかになった。
首から下げてローブの内側に入れてあった銀のロッドを胸元から引き出すと、左手で掲げてニコリと笑みを浮べる。
「さあユナ、ここへ来て。彼女の瞳を真っ直ぐに見て。
心からルウェインの事を愛した貴方になら、きっと彼女の声を聞く事が出来るから―――」
シルフィスとディアーナに両脇を支えられるようにして、ユナは絵の前に立った。
絵の後ろに立ち、ロッドを掲げたメイの正面に立つ。
銀の鎖に繋がれたロッドが、メイの手に振られて微かに左右に揺れた。
「心を開いて、ありのままを受け止めて。いつだって真実は、貴方の中にある」
微かに揺れるシャラリ、という鎖の音に、ゆっくりと、ユナの瞼が落ちた……
『ユナ……ユナ……』
「ルウェイン……?」
半年ぶりに聞く最愛の人の声に、ユナは思わず周囲を見渡した。
夜の闇のような漆黒の世界の中、淡く光を放つ幻のようなルウェインの姿が浮かび上がる。
『ああユナ!やっと私の声が届いた!!聞こえるのね?私の声が』
「聞こえる…聞こえるよ。君の姿も、はっきり見える」
愛しい妻の身体に手を伸ばす。だがその手はするりとすり抜け、彼女の身体に触れる事は出来なかった。
愕然と、ユナが自分の手を見詰める。
『今貴方の前に在るのは、貴方の描いてくれた絵に残った、私の心。どうしても貴方の傍を離れたくなくて、最後の想いを、この絵に閉じ込めたの』
「ルウェイン、僕は……」
ユナの頬に涙が流れる。
跪き、子供のように肩を震わせて泣く彼の身体を、ルウェインは実体の無い腕で抱き締めた。
『ユナ、私は貴方の妻として暮らした半年間、本当に幸せだった。
もう、貴方の傍で生きていく事は出来ないけれど……それでも間違いなく、私は幸せだったのよ』
いつかはユナの子を産み、母となって、一緒に歳を重ねて行きたかった。
二人で選んだこの部屋で、可愛い子供達に囲まれて、緩やかに年老いていくのだと信じていた。
永遠の別れが、突然自分達を分かつその日まで―――
『忘れないで。私の想いは、いつもこの絵と共に在る。
身体は喪ってしまったけれど、もう貴方に触れる事は出来なくなってしまったけれど、貴方を想う心はここに在る。
この絵が貴方と共にある限り、私は貴方と共に居るのよ』
「君が……傍に……?」
ルウェインは、微かに微笑んだ。
『貴方は生きなくては。私を喪った悲しみで、貴方は生きる事を諦めようとしている。
でも貴方は、これからも美しい絵を生み出す事が出来る……
生きて。そして、描いて。貴方の中にある世界を。貴方の持つ、美しい心を―――そうすれば、私は永遠に貴方の中で生き続けるわ』
「僕の中で?」
ふわり、とルウェインがユナに口付ける。
実体のない、だが確かに彼女の温かな唇を感じた。
『私を、愛してくれてありがとう。たった一人の、大切な貴方……』
シャラリと、メイの手の中に落とされた鎖の音で、ユナは瞳を開けた。
絵の中のルウェインは、変わらずに優しく微笑んでいる。だが今は、包み込むような彼女自身の気配を感じた。
「……貴方の聞いた声は、夢でも幻でもない、本当の彼女自身。貴方には、稀な魔道士としての素質があった。
彼女を愛した貴方の描いた絵に、貴方を愛した彼女の想いが、貴方の力で宿ったんだよ。
ルウェインを喪って辛い気持ちは判るけど、貴方は、彼女の為にも生きなくちゃいけない」
滂沱と流れる涙を拭おうともせず、ユナがルウェインの絵を抱き締める。
「彼女は、貴方の中で生きている。もう、大丈夫だよね……?」
頷く彼の瞳には、生きる為の確かな光が宿っていた。
その後、ユナはディアーナとセイリオスの計らいで、王室付きの宮廷画家となった。
普段は亡き妻と暮らした下町の部屋で生活し、依頼があった時にだけ宮廷に赴くという、特殊な暮らしを認められた。
その彼も、後にディアーナがダリス王国に嫁いだ事を機に、ダリスの王室の宮廷画家として招かれる事になる。
特に人の生きる姿を美しく描く事の出来る、彼の色彩と繊細な画風は数多くの秀作を生み出し、
時にはその絵に命をも吹き込んだユナ・リーズルの名は、長く『ダリスの至宝』として、歴史に名を残したという言う。
画家としての立身と成功を収めた彼は、その栄誉とは裏腹に生涯質素な生活を好み、贅沢な暮らしは望まなかった。
一組のティーセットと、亡き妻ルウェインの肖像画だけが、常に彼の傍には在ったと言う―――
【FIN】
あとがき
な、なんでこんな長い話になったんだろう…(笑)
ユナは初めから登場予定だったけど、どちらかと言えばお笑い系の、コミカルな話になる筈だったのに(^_^;)
私事で数日PCを触れなくなる前日に書き始めたもんだから、もう必死で仕上げましたよ。
『今のリズムで書ききらないと、絶対話がまとまらない!!!』と。
いや〜きっと凄い形相で打ってたと思います。無事に仕上がってヤレヤレ。
王家には、普通お抱えの宮廷画家とかが居るもんだと思うのですが、
あまり肖像画を残す事に積極的ではなかった王様やセイル、ディアーナ等の影響で、クライン王家にはお抱え画家は居なかったと言う事に。
しかもディアーナの輿入れと共にユナはダリスに正式に招かれたから、またしてもクライン宮廷画家の座が空位になってるし(^_^;)
それとも肖像画なんて頻繁に描くもんじゃないし(セイルの性格なら尚更)、必要な時はダリスからユナが出向しているのかも(笑)
麻生 司