翠玉と茶水晶


    書斎兼研究室の自分の机に向かいながら、キールは何となく居心地の悪い雰囲気を味わっていた。
    いや、正確には居心地が悪い訳ではなく、何となく落ち着かないのである。

    彼の視界に入らないよう配慮された場所には小さな椅子が置かれ、そこに彼の妻であるメイが腰を下ろしていた。

 

    若き緋色の魔道士キール・セリアンと、その妻となったメイは、
    主人の腕の確かさと女主人の愛嬌の良さで、クライン城下の有名人であった。

    メイの腹はまろやかに丸みを帯び、もうじき臨月を迎える。
    元々彼女は容姿に少女の面影を多分に残していたのだが、キールの子を宿した事で、女性らしさと母親らしさがその面に加わった。
    すっかりクラインの街にも馴染み、既にこの辺りでセリアン・ラボのメイの名を知らない者は居ない。

    しかしやはり腹が大きくなるにしたがって動くのが億劫になって来たのか、
    メイは必要最低限の外出以外、家に居る時間が多くなった。
    かと言って部屋で一人で居るのも気詰まりなのか、ある日彼女はキールの研究室に小さな椅子を持ち込むと、
    研究室の片隅で過ごすようになった。

    今も彼女は、少々分厚い魔道書を膝に乗せ、時折小さな欠伸を交えながらもその場に腰を下ろしている。
    そしてたまに膝の上の本を閉じると、じっとこちらを眺めているのだ。

 

    メイはキールの仕事中には、余程の事でない限り――例えば食事の時間であるとか――声をかけたり話し掛けたりしない。
    仕事を離れた場ではよく話し掛けてくるが、何より集中力が大事なこの仕事。
    彼女も魔道士の一人であるから、話し掛けても害の無いタイミングなどはよく判っている。
    ただ何も言わず、自分の事を見ているのだ。

    ……気にしていないつもりでも、物言わぬこの視線が、キールは実は結構気に掛かっていた。

 

    「メイ」
    「ん、なーに?」

    背中に視線を感じたので、思わず自分から声をかけた。
    メイはけろりとした顔で、屈託無く笑顔を返す。
    振り返って見てもると、案の定彼女は広げていた本を閉じて膝の上に置き、キールの後ろ姿を眺めていた。

 

    「あのな、前から聞こうと思ってたんだが。お前、一体ここで何やってるんだ?」
    「何って、キールを見てるんだよ」

    あっさり返されてしまって、二の句が繋げない。
    だが気を取り直して、キールは重ねて問いかけた。

    「いや、だからな。何で俺を見てるんだ?何もせずに俺の後姿を眺めていても、面白くないだろう」
    「そんな事無いよー。一生懸命お仕事してるキールって、格好良いし」

    のれんに腕押し、糠に釘。
    こんな場合に使う用法ではないのかもしれないが、とにかくメイ自身は退屈だとも思っていないようだし、
    キールの困惑も全く意に介していないようだった。

    キールは諦めたように小さく息をつくと、広げていた魔道書を閉じ、メイの傍に椅子を動かしてそこに腰を下ろした。

 

    「メイ、何か心配な事でもあるのか?だから俺の傍から離れられないのか」

    メイが思わずしゃっくりを呑み込んだような顔をする。
    大きな茶水晶の瞳を瞬かせて、キールの顔を見返した。
    常は表情をよく映す元気の良いその瞳が、不意に頼りなげな、迷子を思わせるものになる。

    「う……ん、そうなのかもしれない―――もうすぐ、赤ちゃんが生まれるでしょ。
     でもあたしはこの世界で子供を産むって言うのが、どう言うことなのかまだ良く判らないし。
     本当なら色々尋ねたり出来る人が居るもんなんだけど、あたしには……キールしか居ないしね。
     だから何となく一人で居るのが心細くて……ここに居たかったの」

    ハッと、キールが目を瞠った。

 

    メイは召還魔法の暴走で、二年前の春、クラインに身体一つに小さな鞄を持っただけで召還された。
    紆余曲折を経た後に責任上保護者となっていたキールに見初められ、
    また彼女もこの世界に留まる事を望み、昨年の春に二人は結婚したのである。

    当然の事ながら、彼女自身の血縁はこの世界には存在しない。
    出産を控えた女性が恐らく一番頼りにするであろう母親も、ここには居ないのだ。
    せめてキールの母が近くに居れば頼りに出来たのだろうが、生憎と義母は地方に居を構えており、彼女の助けにはならなかった。

    出産の状況も、彼女の暮らしていた世界とは異なるのだろう。
    何故か召還された当初から会話言葉には不自由せず、意思の疎通に惑う事は無かったものの、
    それだけで不安が全て解消される訳では無い。
    判っていたつもりだったのに、あまりにも彼女がこの世界に綺麗に馴染んでいた為に、キールは根本的な事を忘れていたのだった。

 

    「すまない、俺も考えが足りなかった。お前が頼りに出来る人間は、この世界では限られているのにな」

    キールの翠玉の瞳が、微かに揺れる。
    自分は元々人付き合いが得意な方ではないが、一生寄り添い、守ると誓ったメイの不安に気付いてやれないようでは、
    我ながら先行きが不安だった。
    迷子の子供のような表情を浮かべたキールの頬に、メイがそっと手を伸ばす。

    「そんな顔しないで。男のキールが、女のあたしの事を何でも判ったら、その方が変だよ。
     それに言ったでしょ?あたしにはキールが居るもの。
     でもやっぱり、研究室に居るの……邪魔だった?」

    ほんの少し不安そうな表情を浮かべたメイの頭に手を伸ばして引き寄せると、キールは自分の額を彼女の額にくっ付けた。

    「少し、視線が気になっただけだ。邪魔だなんて思ってない」
    「良かった。じゃ、これからもここに居てもいい?」
    「ああ。俺は研究に没頭すると話相手にもならないが、それで良いんならな」

 

    普通に話をしていても、満足な話し相手になっているか不安が残るのだ。
    研究中に背後の彼女に細やかな気遣いが出来る自信は、はっきり言ってキールには無い。
    何せメイが耳元まで呼びに来ないと、食事すら忘れる事もしばしばなのだ。

    メイはニコッと笑うと、膝の上に置いた魔道書の上に肘をつき、更に手に顎を乗せた姿勢でキールを心持ち見上げた。

    「キールの瞳って光の加減で、陽に透けた木の葉の色や、あたしの知ってる温かい国の海の色や、
     時にはエメラルドみたいに違う色で光るの。とっても綺麗なのよ。それを見てるだけでも、全然飽きないから平気」

    

    キールは褒めて貰った瞳の色については何も口にしなかったが、
    ただポンポンと彼女の頭を軽く叩いて、本来の自分の定位置に戻った。
    角度の関係で、メイの座っていた場所からは彼の横顔が少し伺えるだけだったが、
    ほんの少し照れたような顔に、朱が走ったようにメイには思えた。

                                                               【FIN】


    あとがき

    えーと、本当はもう少しバカップル気味に書くつもりでした。
    『何で見てるんだ?』と聞かれて、『キールって格好良い』みたいな(笑)
    微妙に名残は残ってますが、どちらかと言えばメイのマタニティ・ブルーなお話の方に落ち着いたんじゃないかと。
    それにしても、いつまで妊娠話を引っ張る気なんでしょうか、自分(^_^;)

    ちなみにタイトルの翠玉と茶水晶っていうのは、キールとメイの瞳の色の事です。
    色々と諸事情で、タイトルを捻っている余裕がありませんでした(^_^;)

                                                              麻生 司

 

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