遠き呼び声
しゃらーん……
「え?」
研究院の一角で、聞き慣れない鈴の音にメイが課題から顔を上げた。
しゃらーん……
「……誰かいますか……?」
騎士団の稽古場で、場違いな鈴の音にシルフィスは剣先を下ろした。
しゃらーん……
「何ですの?」
王宮深くの自室で、響いた鈴の音に羽ペンを置いてディアーナは首を傾げた。
しゃらん…しゃらん…しゃらん……
涼やかな鈴の音だけが、意思を持つかのように少女達の頭上に降りて来る。
それは異界への扉が開いた、微かな兆しだった―――
「……メイ?」
「……ん!?」
自分の名を呼ぶ声に、メイは不意に我に返った。
「どうした?ずっと手が止まったままだったぞ」
キールが心配そうに自分の顔を覗き込んでいる事に気付き、改めて自分が彼の部屋で課題をしている途中だった事を思い出した。
「ごめん、ちゃんとやるから」
曖昧な笑みを浮べた彼女を見て、キールはふうっと息をついた。
「咎めてるんじゃない…何があった?」
メイはぴくりと肩を動かし、ペンを置いた。
見上げる顔はまるで迷子のような、戸惑った顔―――行き先も道も判っているのに、辿りつけない…そんな顔だった。
「鈴の音が……するの」
「鈴?」
初めて聞こえたのは数日前。
最初はただの気のせいだと思った。もしくは誰かが持っている鈴の音が、何かの拍子に聞こえたのだろうと。
だが、それは気のせいなどではなかったのだ。
「一日に何度も聞こえるの。長い時間聞こえる事もあるし、一瞬しか聞こえない事もある。
嫌な音じゃないんだけど……ずっと聞いてると、何だか不安になる。頭の中に直接響くようでもあるし、天井から聞こえているような気もする」
メイは困惑していた。
数日の間の事であったが、その鈴の音が自分にしか聞こえていない事には気付いていた。
「キール、今、何も聞こえないでしょ?」
そう言われて、キールは耳を済ませる。
研究院生が行き来する足音。外の通りから聞こえてくるざわめき。いつもと変わらぬ生活の音―――
「……特別変わった音は聞こえないが」
「だと思う…キールはね。きっと、他の人も。でも―――今も聞こえてるんだよ…?」
心細気なその声に、キールの眉根が微かに寄る。
丁度その時、遠慮がちなノックが響いた。
ドアを開けるとそこにはシルフィスと、彼女に寄り添うように立つレオ二スの姿があった。
「すみません、突然……」
シルフィスの顔色は心なしか青い。
「いや、特別急ぎの依頼を受けている訳でもない…どうした?顔色が良くないみたいだが」
椅子に二人をかけさせて来意を問うと、レオ二スがシルフィスに代わって口を開いた。
「急に済まない。実はシルフィスが、数日前から奇妙な音が聞こえると言い出して」
「奇妙な音?」
「鈴の音が聞こえるんです…数日前から、時々」
シルフィスは短く、それだけを口にした。
「気のせいだと思ったんです。でも、日増しに強くなるみたいで……」
他人には聞こえていないようだという事も察しがついた。
ならばもしや、自分は心の病なのではないかと…そう思い至り、上司であるレオ二スに報告したのである。
「シルフィスは自分は心の病なのではないかと言った。
だが彼女は、鈴の音が聞こえるというその一点以外は、他人と何ら変わっている様子も無い。
もしや女性に分化した事に何か起因しるのかと思い、研究院の意見を聞いてみた上で、これからの対策を検討したいと思っている」
研究院にと考えが及んだ時点で、シオンよりもキールを選んだのには、メイの存在がある。
友人であるメイが側に居れば、シルフィスの不安も少しはましになるだろうとレオ二スは考えたのだ。
「日増しに強くなっているようだとは…それは音が大きく聞こえるとか、頻度が多くなるとかいう事か?」
シルフィスは額に白い指を当て、少し考え込んだ。
自分の感じるこの感覚を、一体どのように伝えればいいのかと言葉を選んでいるようであった。
「そう…段々と強くなっています、それはまるで…」
「―――誰かに呼ばれているみたい―――」
メイの言葉にシルフィスは目を見開くと、ややあって頷き返した。
レオ二スが驚きの声を上げる。キールも表情を厳しくした。
「まさか…メイもなのか!?」
「どうもそのようだ…俺もついさっき聞かされた所なので、事象の解明にはほど遠いが」
シルフィスも、メイと全く同じ音を聞いている。
違う場所で生活している二人が全く同じ現象を体験しているという事は、シルフィスが案じるような心の病では有り得ない。
二人は得体の知れない現象に言い様の無い不安を感じているらしい。
このままでは本当に心を病んでしまうだろう。
しかし『呼ばれる』とは、どのような感覚なのだろうか。
「メイ、シルフィス。二人が同時に感じている以上、これは心の病なんかじゃない。
だが他の者にその鈴の音が聞こえないという事は、特異現象である事は間違いない。
『呼ばれる』と言ったが、それはどんな感覚なんだ?名を呼ばれるのか」
メイとシルフィスは互いの顔を見合わせると、首を振った。
「違います。名を呼ばれる訳ではないんです」
「無性に欲してる…渇望してるって言ってもいい。あたし達の、存在そのものを」
「『早くここに来て』……そう、呼ぶんだろう?」
四人の目が一斉に部屋の入り口に向けられる。
そこには魔道士筆頭の地位を戴く男が、長身を立たせていた。
「悪いな。全員、王宮に来てくれ―――姫さんも、同じ鈴の音に捕まったらしい」
聞こえない筈の鈴の音が聞こえたような気がして、キールとレオ二スは一瞬、悪寒を感じた―――
「本当はキールだけを呼びに行ったんだぜ?それが聞く気はなかったんだが、つい話が聞こえちまったもんでな…
こうして全員来て貰った訳だ―――急な話で悪かった」
「いえ…こうなった以上、今日中にでもシオン様に話を通すつもりだったので」
メイとシルフィス、そして彼女たちの身に起こった現象を知るキールとレオ二スは、そのまま王宮に留まる事になった。
キール達はシオンからの依頼に専念するという形で、緊急に期日を空欄にした王宮への外泊許可を提出し、
レオ二ス達も同じく無期限の王宮警護を、皇太子命で発令されている。
王族の者が私的に客人をもてなす客間に彼らは通され、そこでセイリオスとディアーナもやって来た。
「メイ、シルフィス…良かった、貴女達も来て下さったんですのね」
心から安堵したような笑みをディアーナが見せる。
恐らくは不安から来る心労だろう。彼女も僅かな間に少しやつれて見えた。
「ディアーナ、あたし達も同じなんだよ」
「え?」
「私も、そしてメイも、同じ鈴の音を聞いてるんです…数日前から」
「そうだったんでしたの…でも、それでもやっぱり良かったですわ。私一人じゃ…なかったんですもの」
一度翳りかけたディアーナの顔は、心持ち落ち着いたようだった。
それは三人の少女の、正直な気持ちだっただろう。
自分ひとりの身に起きた事なら、不安でたまらなかったに違いない。
事態の解決に結び付かないとしても、同じ不安を共有出来る友が側にあるという事は、彼女たちの大きな拠り所だった。
「さて、三人に起きているこの現象…どう見る?」
取り合えず女性三人を隣の寝室で休ませる事にして、男性だけで今後の対策の検討に入った。
シオンが意見を求めると、おとがいに手を当ててキールが答えた。
「彼女達は『呼ばれている』と感じるという…存在そのものを、渇望されていると―――新手の召還系の魔法でしょうか」
「うん、俺もその線じゃないかと思う。ただ―――」
「彼女達を『呼ぶ』というその行為そのものに、召還魔法は関係ないのではないか?」
セイリオスも感じた事をそのまま言葉にする。レオ二スも同じ思いだったらしく、セイリオスの言葉の後を受け継いだ。
「そう…恐らく、意図的ではないんだ。『呼んでいる』…ただそれだけなのだろう」
セイリオスとレオ二スの言いたい事は、シオンとキールにも漠然と判る。
理論や理屈ではなくて、もっと深い部分で…はっきり言ってしまえば直感の域に入る感覚だ。
術者は確かに『呼んで』いる。だがそれは召還の魔法に関わる事ではなく、『呼ぶ』という行為が、
結果的に召還の魔法に転化しているのではないだろうか。
第三者を召還出来るだけの術があるのなら、
呼ぶなどという回りくどい事をしなくても、強引に召還してしまえばいい筈である。
「俺たちに音はまだ聞こえない…だが、鈴の音の存在を知った上で改めて意識を集中すると、
例の音を彼女達が『聞いている』間は…僅かにこの世界とは異なる気配がする」
「つまり……異世界、ですね?」
「そういう事だな」
「という事は、鈴の音は異なる世界とこの世界をつなぐ役割があると?」
「音そのものには力はないだろう。ただ、先触れにはなるな」
とにかくメイ、シルフィス、ディアーナの三人は、どうした理由からか、異世界の術者と波長が合ってしまったらしい。
もしかしたらこちらの世界を認識する為の、道標にされているのかもしれない。
強引に繋げられた無意識下の意識が、彼女たちに疲弊と消耗を強いているのだろう。
鈴の音は術者が持つ鈴から発せられるのか。
それとも勝手に鈴の音と解釈しているだけで、実際には世界を保つ均衡が震える音なのかもしれない。
あるいは異世界とこの世界を遮断する結界のようなものが、無理矢理開いた穴から崩壊しかかっているのか。
「…何にしてもこのままでは、決定的な対処方に出られません。
まず歪み始めた空間を安定させる。その対策を講じた上で、打って出て術者の真意を問う。」
「それはまぁ…そうだが、大丈夫なのか?この世界の均衡が崩れるような事にならんだろうな」
シオンが僅かに懸念を示すと、キールは挑戦的な光を秘めたな瞳を上げた。
それは大事な少女に不当な不安と心労を与えた、まだ見ぬ術者への静かな怒り。
「現実にメイが存在するんです。異世界の住人と意思の疎通を図った程度で、壊れる程やわな世界じゃないですよ。
勿論、シオン様にも手伝って頂く事になりますが」
今回のこの一件に関して、キールは絶対に引かないだろう。
その事がよく判っていたので、シオンも敢えて制止する側には回らなかった。むしろ彼自身にとっても望む所だった。
「…オッケー。勿論、俺も最善を尽くす。セイリオス、いいな?」
「ああ。魔法は私の手に余る、具体的な対策は任せるよ」
レオ二スも頷いた。
彼も魔法は全くの範疇外である。
直接的な力の行使に相手が出てこない限り、この場は魔道士二人に一任するしかなかった。
「すぐに準備を整えます…二時間後に始めましょう」
シオンが頷き、キールと共に一旦退室した。
セイリオスとレオ二スも帯剣したまま、少女達の休む寝室の入り口の前に立つ。
一刻も早く彼女達が、姿無き脅威から開放される事を願ってやまなかった。
しゃらん…しゃららん……
鈴の音に、メイは瞼を開けた。
暗い、何も無い空間に一人きり。側に居た筈の親友の姿は何処にも見付けられなかった。
「…ここ…どこよ…」
しゃら…ん
鈴の音は変わらず頭上から降ってくる。
澄んだ音色は心地良いと言うには程遠かった。
秘めた胸の奥底まで、見透かされているような圧迫感。
―――ココへ来テ―――
「…!あんた、一体誰なの!?」
存在の渇望。
名を呼ぶでもなく、他の何を望むでもでもなく、ただ存在を欲する…その呼び声が自分を縛る。
しゃらん…
目の前に光が生まれた。
その中にあるのは、まだ幼い子供の姿―――しかし表情が判らない。微笑んでいるのか、泣きそうなのか、性別すらはっきりしない。
差し伸べる手の動きに合わせて、空気そのものがしゃらりと音を立てた。
―――早ク来テ ココへ―――
「あんたなの…?あたし達に、一体何処に来て何をしろって言うのよ」
その手を取る事を躊躇い、メイが目の前の光の中へと語りかける。
応えるように、光が微かに明滅した。
――― 一人ハ イヤ―――
何者も存在し得ない虚無が心を満たして行く。
その圧倒的な勢いの前に、メイの意識は暗転した―――
しゃらん…しゃらん…
ふと気付くと、シルフィスは暗闇の中に一人で立ち尽くしていた。
空から降る鈴の音に、咄嗟に腰に下げた剣に手を伸ばす。
それは確かな質感を伴なって彼女の手に触れたが、この空間ではそれも何だか心もとないもののように感じられた。
「誰かいませんか…メイ?ディアーナ様?」
先程まで一緒だった筈の無二の友の名を呼んでみるが、応える者はない。
しゃらら…しゃら…
こんな時でもなければ、綺麗な音色だとゆっくり耳を傾けたかもしれない。
だが今は、見えない手に覆い潰されそうな圧迫感を感じるばかりである。
誘うように鈴の音が降る中、黒いインクを零したような闇に淡い光が浮かんだのはその時だった。
―――ココへ来テ―――
「!…貴方ですか?私達を呼んでいたのは」
光の中に見えたのは、小さな子供の姿だった。
表情ははっきりとは見えないが、その姿はひどく無防備で、剣の鞘に掛けていた手をシルフィスは放した。
しゃららん…
光の中の子供が微笑んだように、一瞬感じた。
ゆっくりと差し出されたその腕の動きに、空気が震えて音を成す。
―――早ク来テ ココヘ―――
「貴方は誰です?何故私達を呼ぶのですか?」
微かに、光が揺らめいた。
まるで炎が風に煽られるかのように、ゆうらりと。
――― 一人ハ イヤ―――
言葉では言い尽くせない、真の無がシルフィスの内を侵食する。
それは思い、願うものではなくて、一方的に欲して求めるもの―――そのあまりの力強さに、シルフィスは意識を手放した。
しゃら…しゃらら…
「…ここは何処ですの…?」
ディアーナは途方に暮れた顔で辺りを見回した。
ついさっきまで隣に居たと思った友の姿は何処にも見えない。
しゃらん…しゃら…
絶え間なく空から降る鈴の音に、ディアーナは思わず耳を塞いだ。
だが、音は止まない。
あたかも彼女自身の内で鳴り響いているかのように、かえって大きく響くように感じる。
―――ココヘ来テ―――
星明りひとつない夜空のような闇の中に、ぽつりと光が滲み出る。
その光の中に年端もいかない子供の姿があった。
「一体私に何をしろとおっしゃいますの?呼ばれるだけでは…判りませんわ…」
しゃら…しゃら…
素顔も伺えないその子供は、小さな手を彼女に差し出した。
しゃらら…とその動きに合わせ、怯えるように闇が鳴る。
―――早ク来テ ココヘ―――
「私達を呼んで、一体何をするつもりなんですの…?」
光が僅かに色を失う。
だがまるで呼吸するかのように、次の瞬間には徐々にその光は強くなっていた。
――― 一人ハ イヤ―――
圧倒的な虚無を感じて、ディアーナは咄嗟に意識を閉じた。
それだけが、自分の存在を必死で守ろうとした彼女に出来た唯一の事だった―――
異常はすぐに感じ取られた。
シオンとキールが席を外して半刻程が過ぎた頃、セイリオスとレオ二スがほとんど同時にその気配に気付いたのである。
「殿下―――これは、もしや…」
レオ二スが皆まで言う必用はなかった。
「シオンが言っていた『異なる世界』の気配…なるほど、こんな気配を常に感じていたのでは心労でやつれもする」
それは何とも形容し難い感覚だった。
強いて言うならば力無き圧力とでも言うのだろうか。
見えない大きな手にじわじわと握り潰されているような…そんな気配である。
そして彼らは遂に、その音を聞いた。
しゃらん…しゃらら…
異なる世界が触れ合い、軋む。
涼やかなその音色は、本来存在出来ない場所に出現しようとしている、異世界への接点がこじ開けられる兆し。
「セイリオス!!レオ二スも無事か!?」
異世界への接点が開かれた事を察したのだろう。
別室で準備をしていたシオンとキールが駆け戻って来た。
しゃら…しゃら…
「この音―――俺たちにも聞こえるようになったのか!?」
キールが鈴の音に気付き、息を呑む。
それはすなわち、事態が加速度的に悪い方へと進んだ事を意味する。
「シオン様!!」
「判ってる!セイリオス、レオ二ス、時間が無い。レディの寝室だが開けるぞ!」
言うが早いか、シオンは寝室へと通じる扉を両手で引き開けた。
「……!?何だ、この部屋は!!」
レオ二スが呻くのも無理はない。
そこには、セイリオスやシオンが見慣れた客間の寝室は存在しなかった。
何も存在しない、漆黒の闇。
振り返れば、たった今くぐって来た筈の扉すら見当たらない。
「メイ!!」
キールは闇に浮かぶメイの姿を見付けた。
「シルフィス!!」
「ディアーナ!!」
レオ二スとセイリオスの声も続く。
三人の少女は漂うように、ぐったりとその身を委ねているように見えたが、彼らの声は耳に届かないのか、ぴくりとも動く様子が無い。
しゃらん…しゃらん…
空から降る鈴の音に、初めて彼女たちに動きが見えた。
いや、動きと言うべきなのだろうか。
その姿は徐々に輪郭がぼやけ、色を失いつつあるように見える。
「キール!やばいぜ…嬢ちゃんたち、異世界の方に同調しかかってる!!」
一番後ろのシオンが、彼女たちの身に起こっている事を正確に見て取った。
キールも頷き、事態が急を要する事を悟る。
一刻も早く手を打たねば、彼女達は永遠にこの世界から存在を消してしまう。
懐から準備していたオーブを取り出すと、それを右手で掲げて左手で正確に宙に呪文を描いていく。
メイを召還してしまった事故の際にも使用していた、空間安定の魔法を込めたオーブである。
シオンの手にもオーブが握られており、同じ呪文を宙に描いていた。
しゃらん…しゃらん…しゃらら……
空間そのものが身じろぎするかのように、鈴の音が鳴り響く。
オーブの力で異世界への同化が抑制されたのか、少女達の身体は先程よりは色を取り戻した。
だが、まだ予断を許さない状態である事に変わりは無い。
「セイリオス!姫さんを取り戻して来い!!呼んで、こっちの世界に連れ戻すんだ!!」
空間は一応の安定状態に入った。
だが空間の制御にはオーブを介して魔力を注ぎ続けなければならず、シオンとキールは動けない。
「大尉、貴方も行ってください!!行って、シルフィスを連れ戻して来るんです!!」
セイリオスとレオ二スは互いの顔を見合わせると、頷いてそれぞれ足下を蹴った。
「ディアーナ!!」
宙を蹴って、漂う妹姫の側にたどり着くと、セイリオスは名を呼んで意識を取り戻させようとした。
何気なく彼女の手に触れ、その冷たさにギクリとする。
ディアーナは確かにまだ呼吸していたが、その魂は確実に身体から乖離し初めているようであった。
「ディアーナ、目を覚ますんだ、ディアーナ!!」
歳の離れたこの末妹が、セイリオスは本当に愛しかった。
誰よりも大切で愛おしくて、ディアーナの為なら自分の命を賭けてもいいと、セイリオスは今でも本気で思っている。
その大事な妹が、幼い日の想いを貫き通した相手の元へと嫁ぐ事が決まったのがつい先日の事―――
ディアーナが自分の下から羽ばたいて行くのは正直寂しくもあったが、
それ以上に彼女の幸せそうな笑顔を見る事が出来たのが、彼にとっては最高の幸福だったのだ。
大切な、大切な妹。
ずっと願い続けていた恋が実るその前に、その存在を消してなるものか!!
しゃら…しゃらん…
鈴の音は止むどころか、その強さを一層増している。
だがセイリオスも負けてはいなかった。
「ディアーナ、戻って来るんだ!アルムレディンが、お前が嫁いでくる日を待っているんだぞ!?」
ぴくり、とディアーナの指が動いた。微かだが、確かに動いたのだ。
今まで人形のように動かなかった表情が、苦し気に歪む。
「帰っておいで、ディアーナ」
手を取り、肩を抱いて呼び続ける。
その声に呼び覚まされるかのように、やがてディアーナはゆっくりと瞳を開けた。
しゃーーーん……
一際大きな鈴の音が鳴り響き、そして一瞬の静寂が訪れる。
ディアーナの頭上に降る鈴の音は、今ようやくその音を止めた。
「……お兄様の声が聞こえましたわ……『アルムレディンが待っている、戻っておいで』って……」
「ああ…お帰り、ディアーナ」
安堵の笑みを浮かべてセイリオスは、弱々しく微笑み返した妹の肩をもう一度強く抱き寄せた。
「シルフィス!!」
宙を漂うシルフィスの元に辿り付くと、レオ二スは彼女の顔を覗き込んだ。
整った顔からは色が失せ、その美貌ゆえに命の通わない人形を思わせてゾッとした。
まだその命は失われてはいなかったが、それも時間の問題であるように思われた。
「シルフィス、しっかりしろ目を覚ませ!シルフィス!!」
シルフィスが騎士団に入団する事になったのは昨年の春の事。
当時はまだ未分化であった彼女を、故郷のアンヘル村まで迎えに行ったのは他でもないレオ二ス自身であった。
途中入団はあまり前例が無く、苦労するだろうと告げた時も、彼女の翠の瞳が曇る事はなかった。
どんな時も精彩に富み、命の輝きを失う事が無かった彼女の存在を、自分が欲し始めたのはいつの頃からだったのか。
例えこの先、シルフィスが如何な性別に分化しようとも、自分は一生彼女を支え続けるつもりでいた。
女性に分化したと彼女の口から聞かされた時、年甲斐も無く嬉しかった自分を、レオ二スは自覚していた。
しゃらら…しゃらん…しゃらん…
鈴の音が、自分の声がシルフィスに届くのを邪魔しているように感じる。
だが諦めたら、そこで彼女の命はその輝きを永遠に消してしまう。
「シルフィス!シルフィス!!やっとこれから本当の自分の道が歩めるのだと言ったばかりだろう!?戻って来るんだ、シルフィス!!」
「……う……」
「シルフィス!」
微かに、彼女の唇から吐息のような声が漏れる。
レオ二スはその瞬間を逃さず、強くシルフィスの肩を揺さぶった。
震えるようにゆっくりと、彼女がその翠の瞳を開ける。
しゃーーーん……
大気そのものを大きく最後に一度震わせて、鈴の音はその音を止めた。
後に残ったのは雪が降り積もった夜明けのような、静謐とした空気。
「……隊長の声が…聞こえました……ありがとうごさいます」
「―――よく、戻って来たな」
弱々しくはあったが、変わらぬ柔らかな微笑を浮かべたシルフィスの肩を、レオ二スはそっと抱き締めた。
「シオン、キール!ディアーナは取り戻した!!」
「シルフィスも無事だ!!」
少女をそれぞれ抱きかかえるように、セイリオスとレオ二スが二人の元に戻ってくる。
ディアーナとシルフィスは消耗していたが、意識は取り戻していた。
この分なら彼女達はもう大丈夫だろう。残るは、ただ一人だ。
「キール、お前の分のオーブを寄越せ!少しの間なら俺一人でもこの場を支えられる。早く行って、メイを取り戻してこい!!」
シオンがキールに叫ぶ。
ディアーナとシルフィスが解放された事で異世界の侵食はその力を弱めた。
鈴の音も、メイの周囲を基点とするもの以外はその音を止めている。
キールは頷くと、スナップを効かせてシオンの手にオーブを投げた。
シオンが受取り、両手にオーブを掲げたのを確かめてから、キールは勢いをつけて足下を蹴った。
本当は真っ先に彼女の元へと駆けつけたかった。
セイリオスがそうしたように、レオ二スがそうしたように、自分もすぐにメイを救いたかった。
異界の侵食という非常事態に、殺さなくてはならなかった私情―――
誰よりも大切な少女を危険に晒したままにする事に、焦りと憤りで脳が沸騰しそうだった。
「メイ!メイ!!しっかりしろ、目を覚ませ!!」
しゃらん…しゃららん……
空間の軋む証である鈴の音が、彼女こそ最後の砦だと知っているかのように鳴り響く。
固く閉じられたメイの双眸は開かれない。
手を触れた頬は驚くほど冷たく、もう既に全てが手遅れなのではないかと目の前が暗くなった。
しゃらら…しゃらん…
ぽう…と闇に光が滲む。
しかし明るさは感じない。
光であるにも関わらず、あたかもこの光こそが闇の核であるかのような……不可思議な感覚。
光の中に幼子の姿を見て取った時点で、キールは気付いた。
この子供が、全ての元凶だったのだと―――
―――ココヘ来テ―――
差し伸べられた手の動きに合わせて、しゃらん…と新たに空気が震える。
メイの身体をしっかりと抱き寄せて、キールが幼子と対峙した。
――― 一人ハ イヤ 早ク来テ―――
「駄目だ、メイは渡せない。他の誰も、お前に渡す訳にはいかない!」
幼子の表情ははっきりとは見えない。だが、自分の意志が拒絶された事は感じたようだ。
例えるならば、キール達を取り巻く空気の質が変わった。
今までは無意識の圧力であったものが、確かな意思を持った害意へと―――
―――ソノ人達モ ワタシト 同ジ コノ世界ニハ 存在シナイモノ 存在ガ稀有ナモノ
一人ハ イヤ 一人ハ イヤ ナノニ ドウシテ拒絶スルノ?―――
しゃらん…しゃらん…しゃらん……
「う…くっ……!!
鈴の音と共に、ぎりぎりと周囲の空間が容赦なくキールの身体を締め上げる。
メイだけは咄嗟に張った結界で守っているが、それも異質なこの力の前では、いつまで保つか判らなかった。
―――ココニ来テ 側ニ居テクレルダケデイイ 一人ハ イヤ―――
「……それでも……だ!!」
ぎっ、と鋭い視線でキールは顔を上げた。
もはや呼吸するのもおぼつかない。声を出すには全身の力を振り絞らなければならなかった。
「俺はメイを渡さない…俺の前からメイが…居なくなるなんて……もう、考える事も出来ないからな……
姫やシルフィスだって…同じだ。その存在を欲する人が居る…お前に…渡す訳には行かない……!!」
しゃらーーーん……
「くっ……!!」
もう声も出せない。意識が瞬間的に途切れる。
メイを包む結界が綻び、そこから忍び込んだ見えない手が彼女の身体まで蝕み始める。
「う……」
その苦痛に―――メイの意識が僅かに呼び戻された。キールが最後の力を振り絞って、彼女の名を叫ぶ。
「……メイ……メイ!!」
「……キー…ル……?」
茶水晶の瞳が開く。
小さな唇を震わせ、必死に自分を呼び続けたその人の名を紡ぎ出す。
「キール―――!」
しゃあーーーーん……
弾けるような音の後、鈴の音は完全に止んだ。
後に残ったのは陽炎のように揺らめく淡い光と、取り残された残留思念―――
――― 一人ハ イヤ…ココハ 暗クテ寂シイ 一人ハ イヤ 一人ハ イヤ……イヤ イヤ イヤ……―――
「お前は、お前の世界で共に有る者を探せ…早く…見付かる事を祈ってるよ―――」
淡い揺らめきがゆっくりと闇に溶けて行く。
最後の輝きが失せる一瞬、小さくしゃらん…と鈴の音が聞こえたような気がした―――
「で?結局、『あれ』は一体何だったのよ?」
「そうだな…異世界の住人であった事は間違いない。今となっては全て憶測での話だがな」
数日後。
大事を取ってそのまま王宮の客人となった少女達とその保護者達は、久し振りにのんびりとしたお茶の時間を過ごしていた。
異世界の侵食の場となった客間の寝室は、鈴の音と『光』の完全消滅によって程なく元に戻った。
少女達は意識を取り戻したものの衰弱が激しく、結局再び深い眠りに落ちた。
一方、異世界と繋がってしまった空間深くに飛び込んだセイリオスやレオ二ス、キールは勿論の事、
その空間を安定させる為に一人で二人分の術の行使を行ったシオンも疲労困憊状態であった。
彼らはセイリオスの配慮で別に一室を与えられ、そこからほとんど半日起き出して来る事が出来なかったのである。
「『ここは暗くて寂しい』…あの子、そう言ったんですの…?」
少女たちは甘い香りのするお茶のカップを手に互いの顔を見合わせ、複雑な顔をした。
「姫さん達…あの子に同調してたんだろ…?やっぱり、そんな感じだったのか?」
「はっきりとは覚えていないんです。ですが…そうですね、暗くて…とても冷たかったような気がします」
シオンが問い掛けると、シルフィスが少し考えてから応えた。
「一人は嫌―――」
ディアーナが囁くように口にする。
「一人は嫌―――」
シルフィスも唄うように呟く。そしてメイが、最後の言葉を受け継いだ。
「早く、ここへ来て―――あたし達が覚えているのは、これだけ。終わりの無い孤独…唯一の者の抱える虚無…」
光の中に在ったのは、幼い子供だと思った。
だが正確には、子供の姿を纏った精神体と言った方が近いかもしれない。
あまりにも無垢なまま繰り返される純粋な願いそのものが、子供の姿を借りて彼らの前に立ったような気がした。
「…『あれ』は自分の生きる世界で、一番初めに誕生した命なんだろう―――おそらくは年月を経て、『創造神』とも『始祖』とも呼ばれる存在のモノ…
たった一人で存在する事に『孤独』という感情を知り、共に在る存在を欲した」
シオンが自分の考えを、おおよその形でまとめて口にする。
『あれ』は少女達を、この世界には存在しない者、そして存在が稀有な者と呼んだ。
世界が違えば、『自分』と同じ存在になったかもしれない命―――彼女達は生きながらにして『神』となったかもしれない。
それは恐らく、この世界での肉体の死を意味する。
「……魂は永遠だと言う者もある…例え肉体を失っても、魂は滅びないのだと。
だがこの世界でもう二度と逢えないと言うならば、そんな事は生きている者にはなんの救いにもならない」
今、命有る事が全てだと、生きて側に在る事に意味があるのだと、レオ二スが噛み締めるように口にする。
「…全くだよ―――生きて、幸せになってくれる事…それだけが望みだ」
『神』という、不可侵の存在ではなく、共に生きていく。
喜びを分かち合い、辛い事、悲しい事は共に乗り越えればいい。
大事な人の笑顔がすぐ側にある事―――セイリオスの言葉は、皆の共通の想いだった。
「あの子は還ったんだよね?消えたんじゃない…還ったんだよね?」
メイの目が、何かを訴えるようにキールを見る。
異世界からの来訪者―――その一点において、彼女とあの存在は共通する一面を持つ。
確かに恐い思いはしたが、悪意は無かった。
孤独を癒したい―――ただそれだけで自分たちは望まれたのだ。
無事に元の世界に戻れた今、あの『命』の消滅まで望んではいない。
「はっきりとこちらから拒絶した事で、空間の歪みが正されたのだと思う…もう、鈴の音はしないだろう?」
メイの髪をくしゃりと撫で、キールが微かに目を細める。
「永い孤独は辛いだろう…いつか自分の世界で、孤独を分かつ存在に巡り会える事を祈ってやれ」
小さく頷き、少女達は目を伏せ、祈りの形に手を組んだ。
違う世界で出逢えたなら、友になれたかもしれない命の光。
孤独を抱えて永らえるのは辛いとは思うが、その痛みを超えていつか共に在れる存在と巡り合って欲しい。
恐らく二度と逢う事はないであろうあの光の存在に、
今はただ、少しでも早く安らかな時が訪れるように願ってやまなかった―――
【FIN】
あとがき
難産なSSでした…女の子を三人全員出したから、ラストが纏まらない纏まらない(笑)
私の場合、普通SSを書く時はラストの方が仕上がり早いもんなんですが、
今回に限ってはラストに突入した時点で数日現実逃避してました…(^_^;)
やはりヒロイン一人に絞った方が良かったでしょうか。
一応キルメイ、レオシル、そしてアルムディアが前提になっています。
ディアーナに絡めてセイリオスやシオンも出したので少し紛らわしかったですが、ディアーナの恋人はアルムレディン。
もう輿入れが決まった状態ですし。
冒頭のシーンで羽ペンを持っていたのは、アルムレディンに手紙を書いていた…という裏設定。