例え遠く離れても


規則正しい足取りで、キールは王宮へ続く道を歩いていた。

研究院へは魔道士という立場上よく出入りする機会があるのだが、王宮へ参内する機会は最近めっきり少なくなっている。
以前は保護者になっていたメイの生み出す魔法の暴走による被害の報告やら、それに伴う修理代の特別予算の請求やらで、
ほぼ月一度のペースで通う羽目になっていたのだが。
そのメイもこの春にキールの妻となり、一人前の魔道士を意味する肩掛けも正式に拝領した。
たまに失敗はしでかすが、目を覆いたくなるほどの惨状になる事はなくなった。

 

今回の王宮への参内は、上司のシオンを介してのセイリオスの依頼である。

『悪い話じゃないぜ。安心して来な』

……とはシオンの台詞だが、彼が一枚噛んだ時点で、キールは十分嫌な予感がしていた。

とかくシオン絡みの依頼と言うのは、ややこしい『何か』を内包している事が経験的に多い。
だからこそセイリオスの前で片膝をついて略式の礼を取りながらも、キールは全然楽観していなかった。

 

 

「それで、私に依頼とはなんでしょうか」
「早速来たか。そう睨むな、悪い話じゃないとシオンから聞かなかったか?」

ちらりと隣に立つシオンに目をやり、セイリオスが苦笑する。

「聞きましたが、経験からシオン様の言葉を丸侭信じないようにしていますので」
「相変わらず可愛くない言い草だな、お前は。セイリオス、やっぱり他の奴に依頼を回すか?」

シオンがややぶすくれた調子でセイリオスに振ったものの、本気ではないらしい。
セイリオスもシオンの愚痴はまともに取り合わなかった。

「お前の日頃の行いが悪いからだよ。さて、本題に入るとしようか」

 

セイリオスの口から告げられた依頼とは、先年の戦で傷付いた隣国ダリスのエーベの大樹を再生させる事だった。

僅かずつ再生は始まっているものの、その生命力のほとんどを使い果たした大樹の力だけに頼っていたのでは、
完全な再生に至るまで数十年、もしくは百年単位の年月がかかってしまう。

エーベの大樹は失うわけにはいかない世界の礎だ。
本来ならばダリス国内で何らかの対策を立てるべきなのだが、戦は人的資源もことごとく枯渇させていた。
そこで王位を継承したアルムレディンは、王妃となったディアーナの助言もあって、正式にクラインに援助を申し出てきたのである。

 

「つまりだ。エーベの大樹の再生を助ける再生魔法を構築して、実用化に漕ぎ付けて欲しい訳だ。
 セイリオスや院の長老たちとも協議した結果、お前が適任だろうと決定した」
「植物の…再生魔法を…ですか?」
「そうだ。自然の力でも十年で再生するというならば、おそらくそのままにしておいても大丈夫だと思う。
 だがダリスの大樹は傷付きすぎた。自らが負った傷を癒すだけの力をもはや有していない―――
 枯れずにある事が奇跡だと、アルムレディンも言っている。それは実際にあの樹を見た君にも判るだろう?」
「確かに……」

キールを始め、メイやシルフィス達も実際にダリスのエーベの大樹を目の当たりにしている。
残された全ての力を使って、『枯れずに』何とか踏みとどまっているというのが現状だろう。

エーベの大樹が失われたならば、もはやそこは人が生きられる土地ではなくなってしまう。
ダリスに住む多くの人々が故郷を永遠に失い、流浪する民となる事態は避けなければならない。キールは心を決めた。

「……判りました。その依頼、お受けします」

丁重に頭を下げる。

「ありがとう。報酬についてはこちらの書簡にまとめてある。
 急かすつもりはないが、出来るだけ早く結果が出る事を期待している…よろしく頼むよ」

セイリオスの手から王家の印章が押された書簡を受け取ると、キールは謁見室を辞した。

 

 

「……で、その依頼受けたんだ?」
「ああ。シオン様や研究院からの推薦という事もあったし……何より俺たちは、あの大樹を実際に目にしているからな」
「……そうだね」

傷付き、疲れ果てた女神の樹。
よくぞ倒れずに残ってくれたものだと、その大樹の真の価値をまだ知らなかったメイの目にもそう映った。
自分達の手で何とか出来るものなら何とかしてあげたい。

「それで、その書簡がこの依頼に関する報酬についての事?」

居間の机の上に置かれた書簡を、ひょこっとメイが横から覗き込む。

「見てもいいぞ。確かに、悪くない話だ」

 

実験や実際の魔法の行使に必要な物資、材料の費用は全て王宮が持つこと。
この依頼に掛かっている期間、その間本来のラボの経営で上がる筈だった収益の概算を出せばそれも保証されること。
その他必用ならば研究院の施設を優先利用する権利など、かなり厚遇されていた。

 

「俺が治癒魔法を得意にしているから抜擢されたらしい。
 取りあえず今受けている依頼を片付けたら、以降の依頼はしばらくシャットアウトだな」
「あたしが受けられる分だけ受ける事にするわ。それでいいでしょ?」
「そうしてくれ」

現在進行形の依頼を片付ける為にキールが研究室へと足を向ける。

「キール、必用なものがあれば言ってね。それと、幾ら忙しくても徹夜は駄目よ」
「判ってるよ」

愛しいばかりのメイの額に軽く口付け、キールは苦笑を浮かべた。

 

 

植物再生魔法の構築は、思いの他順調に進んだ。

インスピレーションが味方したと言うべきなのだろうか、とにかく骨子だけは一ヶ月を費やさずに出来ていた。
そこから枝葉を伸ばすように、傷付いた本体を癒す魔法を込め、若芽の成長を促進させる魔法を絡め、
弱った枝を植物の病から守る魔法を織り込む。
それらの全てが暴走しないように、そして半永久的に効力が持続するようにと、幾重にも魔法の効果を重ねて行く。

 

そんな作業をしながら、いっそシオンがダリスに赴き大樹の世話をした方が早いのではないかというような気がしないでもなかったが、
深く考えるのは止めにした。
言ってみたら『それもそうだな』等と言って本当に行きそうな気もするが、シオンが居なければクラインの魔道士もまとまりを欠く。
あれで若くして筆頭魔道士の地位を戴いた程の才能の持ち主なのだ。その存在には多大な意味がある。
やはりシオンが長くクラインを空けるというのは事実上無理な相談なのだった。

そして夏も終わりに近付いた頃、植物再生魔法は完成した。

 

 

「よくやってくれた。正直、これほど早く完成するとは思っていなかったよ。
 これでダリスも救われる。アルムレディンとディアーナに代わって礼を言うよ」
「恐れ入ります」

手放しのセイリオスの感嘆に、キールは恭しく頭を下げた。
事実、集中できる環境で研究が出来た為に、最短の時間で最大の効果が上がったと思う。

「そうしたら、今度はこれを実用レベルにしなくちゃならん。この魔法をウチの若手とダリスの魔道士数名にマスターしてもらう。
 キール、済まないがお前さん、続けてその任にあたってくれるか?」
「判りました」

シオンの言葉にキールは頷き、人選はシオンに一任される事になった。
だが完成された植物再生魔法に、重大な落とし穴が潜んでいる事に彼らはまだ気付いていなかったのだ―――

 

 

「植物再生魔法をマスター出来ない?」

数日後、ラボを訪れたシオンの言葉にキールは思わず絶句した。

「ああ。一応研究院のホープを任に当てるつもりで、そいつに概要をまとめたレポートを渡したんだがな」

 

翌日その若手魔道士は、自分にはとても手におえないと頭を下げに来たのだという。

「他にも数名当たってみたが、皆自分から辞退してきた。
 それで俺も改めて、お前さんがまとめたレポートに目を通したんだがな―――確かに、ありゃ並みの奴には無理だ」

つまりは植物再生魔法は、キールの才能と制御があるからこそ成り立つものだったのだ。
生半可な者が扱えば、魔法そのものが暴走し、救う筈だったエーベの大樹を今度こそ枯死させる。
キールが奇跡的な速さで開発した植物再生魔法は、使用者を選ぶ、とても繊細な魔法だったのである。

 

「……なら、現行のその魔法に、さらに状態安定の魔法を付加させましょうか?
 またしばらく時間を頂くようになるとは思いますが」

時間はかかるが仕方がない。使用者が個人限定の魔法では、役に立つものも立てられなくなってしまう。
だがキールのその提案に、シオンは否と口にした。

「これはセイリオスとも話し合った結果なんだがな。魔法そのものに問題はないんだ。
 お前さんは実際に俺たちが期待していたよりもずっと早く、そして最大限の効果を望める魔法を構築した。
 使用者が限られているとは言え、その人材が今現在存在しない訳でもない。『お前さん』が居るんだからな」

 

キールより遥かに上背のあるシオンが、ちらりと見上げるような仕草をする。
自分の上司が何を言いたいのか、キールは悟った。

「……つまり、俺にダリスに行けと―――?」
「ご明察」

軽い口調で言ったが、シオンの目は決して笑っていなかった。
敢えて直接言葉にされなかった内容を汲んだものの、キールも思わず黙り込んでしまう。

「すぐに答えは出さなくてもいい。
 だがもしもこの話を受けるのなら、お前が出す条件は出来る限り飲むと、セイリオスと研究院の方で話がまとまっている。
 その辺の事も良く考えて返事をしてくれ」

そこまで言ってから、シオンはキールの頭をグシャグシャとかき回した。

「なーーに、どうしても行きたくないって言うんなら、やっぱりお前さんに安定の付加魔法をなんとかしてもらうまでさ。
 少々時間はかかるが、ウチやダリスの魔道士に頑張ってマスターして貰うって手もある。あんまり深刻に考えるな」

それはシオンなりの気遣いだったのだが、小骨が喉に刺さったような感覚は、ついにキールの頭から拭えなかった。

 

 

「……ダリスへ?キールが?」

その日の夕食後キールは、シオンを通じて正式に王宮から、ダリスへ出向してもらえないかという依頼があった事をメイに話した。

「何かあったなーとは思ってたのよ。シオンが帰ってからキールは変に黙りこくっちゃてるし。
 晩御飯の時も、ほとんどあたしの話、聞いてなかったもんね」
「……済まない」

 

メイには本当に隠し事が出来ない。そう思ったから素直にキールは彼女に頭を下げた。

自分は常からそれ程感情や考えを表に出すタイプではないと思っていたのだが、
あながちそうでもないらしいと気付いたのは彼女と一緒になってからの事。
他人ならば見過ごすような変化も、メイはちゃんと見ていて、気付いている。それは本当に魔法のようだと思う事もあった。

「そんな事はいいのよ。何かあったんだろうとは思ってたし、それはもう話してくれたんだから…で、どうするの?」

まだ判らない、とキールはメイに答えた。

ダリスはアルムレディンが王位に就いてから、急速に復興を始めている。
数ヶ月前とは比べ物にならない程、治安も安定してきている。
セイリオスと研究院は、自分の出す条件は余程の事でない限り無条件で飲むだろう。

何も国庫を空にする程の報酬をよこせと要求したい訳ではない。

自分がダリスに出向するならば、それにメイを同行させる事。
メイの魔力は大分安定したとはいえ、それでもやはり時折バランスを大きく崩す時がある。
もはや日課となった安定魔法は、今も毎朝彼女に掛け続けているのだ。彼女を側から離す事態は避けたい。

そして人の住まない家は荒れ易い。
不在の間、誰か信用の置ける者にこのラボの管理を頼みたいという二点だけだった。
だが―――

 

「ダリスって、まだ完全に安定した訳じゃないんだよね。
 地方の方ではまだ先王を支持する反乱軍が活動してるって、シルフィスから聞いてる」

メイは自分なりのルートから、ダリスの情勢を把握していた。

全ての国民に支持されるという事は、理想ではあるが現実には不可能である。
アルムレディン自身が幼い頃に一度廃嫡され、レジスタンスとして長く王位の奪還を賭けて過ごしたように、
彼自身が復権すると、先王の時代に利権を貪っていた者達は自然と淘汰されていく。

また彼の元に王妃として嫁いだディアーナも、大半の国民にはアルムレディン共々支持されているが、
中には彼女をクラインの送り込んだ密偵ではないかと勘繰る者もいる。
実際には彼らは、長い時を置いて結ばれた正真正銘の恋愛結婚だったのだが、
第三者の目から見ればクラインの協力を取り付ける為の政略結婚だと、見る者は見るのが現実であった。

 

キールは20歳を待たずして緋色の肩掛けを拝領した、クライン最高の実力を持つ魔道士の一人。
本人の意向はともかくとして、彼の存在はクラインでは無視できない大きさとなりつつあり、
皇太子や筆頭魔道士も、彼の発言や新魔法の構築技術を重く見ている。

その妻であるメイも決して非凡ではなく、若くして既に肩掛けを拝領した一人前の魔道士であると同時に、
クラインの第二王女であり、現在はダリス王妃となったディアーナの親友でもある。
そんな情勢下のダリスに、クラインの王室とは縁が薄いとは言い切れない自分達が赴けばどういう事になるか―――

 

「……あたし達がダリスに行くっていうのは、つまりは命がけなんだ?
 アルムレディン王やディアーナは歓迎してくれるだろうけど、皆があたし達がダリスに行く事を喜ぶ訳じゃない…そうでしょ?」
「その通りだ」

喜ばないどころか、万が一自分達の身柄を拘束した上で、その命と引き換えにアルムレディンとディアーナに退位を迫ったなら―――?
自分達の命は、アルムレディン達の命運をも左右しかねない。

「すぐに返事はしなくていいって…シオンは言ったんでしょ?」

茶水晶の瞳が、自分を映す。

「ああ…よく考えて返事をすればいいと、そう言っていた」
「じゃあ、ゆっくり考えればいいよ。こんなの、一晩で答えが出る問題じゃない。
 ゆっくり考えて、そして……キールが出した答えに、あたしはついて行くから」

 

自分の出す結論に全てを委ねると、メイははっきりと口にした。
共にダリスに赴くのか、時間がかかっても安定魔法を付加させるのか、使用者を育てるのに時間を費やすのか、それとも―――

「―――少し、時間をくれないか」
「……うん」

優しく頭を抱き締めた彼女の腕に額を預けるようにして、キールは瞳を閉じた。
その彼の額に口付けを落とし、メイも瞼を落とす。
不安なのではない。ただ、無性に募る寂しさが、彼女たちからそれ以上の言葉を失わせた。

 

 

「……答えは出たか?」

一週間後、再び王宮に参内したキールはセイリオスとシオンの前に立ち、頭を垂れた。

「ダリス行きのお話、謹んでお受けいたします」
「……済まない。ありがとう」

 

キールは多くを語らず、またセイリオスも多くを尋ねなかった。
結論は出されたのだ。今更彼の決心を鈍らせる事はない。だがシオンが一つだけ確認した。

「嬢ちゃんはどうするんだ?やっぱり同行させるのか?」
「いいえ。メイはクラインに残して行きます」

淡々とキールはそう答えた。

 

ダリスの情勢を考えればメイを同行させる事が賢明では無い事を理由に挙げ、
自分が不在の間彼女に変事が無いように、定期的な警邏を願い出るに止まった。

「判った。彼女と君のラボの事は、万事私達に任せておいてくれ」
「ありがとうございます」

実はセイリオス達は、キールが依頼を受けるならば、恐らくメイの同行を願い出るだろうと踏んでいた。
外交上あまりよろしくない事態ではあるのだが、
魔力が完全に安定し切らない新妻を残して出向するのはキールにとっても良くないだろうと、その条件を飲む方針だったのだ。
だがキールとメイはお互いに話し合い、そして結論を出した。どうすれば一番、物事を早く解決させる事が出来るかを―――

 

「…何時頃発てる?」
「明日にでも」

即答されたシオンは軽く目を瞠った。
恐らくどうするべきか逡巡しながら、それでも行かなければならない時の事を考えて荷造りはしていたのだろう。
その几帳面さが彼らしくて、シオンは小さく『判った』と呟いた。

「それでは夕刻までにアルムレディン王への親書をしたため、君のラボに届けさせる。
 出発は明朝―――今晩はシオンにも邪魔はさせないから、奥方とゆっくり過ごしてくれ」

今一度だけ頭を下げ、キールは謁見室を後にした。

 

 

まだ完全に夜が明け切っていない刻限に、キールはそっと寝台に身を起こした。
傍らで安らかな寝息を立てているメイを起こさぬよう、細心の注意を払う。

キールは自分の耳からイヤーカーフを一つ外すと、それを彼女の耳に着けた。
その気配に僅かにメイが身じろぎする。
頬に掛かった髪をそうっと払い、眠る妻の唇にひとつ口付けを落とすと、キールは静かに寝室を出た。

 

居間に用意しておいた荷物を手にラボを出ると、ようやく東の空が白々と明けて来る所だった。

もうすぐダリスに向かう朝一番の馬車が出る。
絶対に見送るからとメイは言っていたが、まともに顔を見たら決心が鈍りそうだったので、こっそり眠りの魔法を彼女にかけた。
誰かに起こされ無い限り、あと数時間は目覚めない筈だ。

 

自分の耳に残されたもう片方のイヤーカーフに指を触れると、キールは慣れ親しんだ呪文を詠唱した。
それはメイに毎日掛け続けていた魔力安定の補助呪文―――
彼はメイに残したイヤーカーフに、距離を置いても補助呪文を受け取れる細工を施し、
自分の手許に残した方には、遠隔地からでも彼女に補助呪文を送れるように細工した。

依頼を正式に受けると言うまでの一週間、この魔法の細工に費やしていたと言っても過言ではない。
万が一の時の為に、双子の兄に意思伝達用のオーブも預けてある。
もしも彼女の身に何かあった時には、何を置いてでも彼女の下へと帰還出来るように―――

 

ふと、キールは自分のローブの胸元に何か違和感がある事に気付いた。
内側に袋状の縫い取りがしてあり、そこに小さな手鏡が入っていた。

「……あいつ……」

見覚えのあるその手鏡は、いつか彼自身がメイに贈った物に違いない。
研究院が彼女が元居た世界から持って来た手鏡を実験中に誤って壊してしまい、その代わりにと贈ったのだ。
言葉にした事が全てではないけれど、言葉にしなければ伝わらない思いもあるのだと、あの時シルフィスに叱責されて目が覚めた。

それからしばらくして、メイはこの世界に残る事を望んだ。
思えばあの一件がなければ、自分達の運命はもう少し違ったものになっていたのかもしれない。

 

キールは手鏡にそっと口付けすると、再び元の胸元へとしまいこんだ。
もう一度だけ我が家の寝室の窓を見やり、そして今度こそ思い切ったように荷物を手に歩き出す。
その後姿を、メイはそっとカーテンの隙間から見守っていた。

片耳に残されたイヤーカーフに、懐かしい温もりを感じる。
キールが目を覚ました時、実は彼女も目覚めていた。
彼が自分に眠りの魔法を掛けた事には気付いていたが、メイの意思力の方が勝ったのか、効かなかったのだ。

 

本当は行かないでと言いたかった。そうでなければ、一緒に連れて行ってくれと。
だけど自分の事を大切に想うからこそ、キールは一人で行く決心をした。
面と向かって見送られたらきっと決心が鈍るから、キールは見送って欲しくなかったのだと思う。
だから彼女はそのまま眠ったふりをした。

「キール…キール、待ってるからね…行ってらっしゃい……」

例えどんなに遠く離れていたのだとしても。
いつも待っている。暖かな食事を用意して、いっぱいの笑顔で。

「…さぁて、キールが居ない間に、研究室を掃除しちゃうかな」

時には主の居ないその部屋で、寂しくて泣く事もあるかもしれない。
だが、それでも―――

「帰って来た時には、思いっきり明るく『お帰りなさい』って言ってあげるんだから」

 

昨日、メイはクラインで二度目の誕生日を迎えた。
キールの誕生日には間に合わないと思うが、降誕祭には帰ってくればいいなと思う。

「…遅くとも、来年のあたしの誕生日には帰って来なさいよ」

そう呟いたメイの目は、遠くダリスに続く空を見上げていた―――
                                                                      【FIN】


あとがき

メイのお誕生日記念SSです…とか言いながら。バラしてしまうと、実はこのSS打ったの6月なんです(笑)
でも仕上がってみると、おやこれは使えるかも…と(^_^)
3ヶ月もPCで眠ってた待機SSでしたが、やっぱりこれはメイの誕生日SSにしたかったので悔いなし!

このお話しは、そのまま『Heirat』に続きます。
『Heirat』を読んで貰えれば判るんですが、メイは直後に妊娠してます(笑)
するとキールは出発前夜の彼女の誕生日に…いや、無粋な事は言うまい(^_^)でも本当に、そういう設定だったのです。
しかしメイとキールの子供はなかなか生まれません。
いや、普通に出産はして頂きますが、生まれるまでのお話も幾つかありますので(^_^;)
おぎゃあと産声をあげるのはいつの事でしょうか(笑)

                                                               麻生 司

 

 

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