小さな手


      初夏のある昼下がり。
      緋色の魔道士の呼び声も高いキール・セリアンは、ぽつねんと自宅の居間のソファに座り込んでいた。

      いつもは笑顔で家の中を切り盛りしている妻のメイの姿は、今は傍に無い。
      一方クライン史上、最年少で緋色の肩掛けを取った異才の魔道士は、ぼんやりとして心ここに在らずと言う風情だった。

 

      「おいおいキールよ、別にお前が子供産むわけじゃないだろうが。何でお前が呆けてんだ?」

      セリアン夫婦の直属の上司であるシオン・カイナスが、キールの向かいのソファに長い足を組んで腰を下ろしている。
      彼は持参したコーヒーを自分で入れ、自分とキールの前にそれぞれカップを置いた。
      が、キールは折角のコーヒーに口をつけず、先ほどから無駄に冷めるに任せている。

      「シオン・カイナスのオリジナルブレンドが飲める機会なんて、そう無いんだぜ?
       筆頭魔道士を円満退職した暁には、女性向けのカフェでも開こうかって思ってるぐらいなんだからな」
      「老後の生活設計は、クライン一の庭師じゃなかったんですか?」
      「園芸は趣味だよ。花の美しさは渇いた心を潤してくれるが、本当の渇きを癒してくれるのは、やっぱり女性と言う名の花だな」

      『ああ、そうですか』と、普段なら少々険の篭もった返事が返ってくるところだ。
      だがキールはそれ以上シオンの軽口には付き合わず、またしてもぼんやりと目の前のカップに視線を落としている。
      別にカップの中のコーヒーを凝視している訳ではなく、ただ気がそぞろになっているのであった。

 

      「……俺、ここでこうして座っているだけでいいんでしょうか」

      空になったカップと受け皿をテーブルに置いたシオンに、ポツリとキールが呟いた。

      「そりゃ、こればっかりは代わってやる事は出来んからなぁ。
       男は産湯の準備をして、母子共に無事に出産を終えて来る事を祈るしか出来ねぇだろ?」

 

      そう―――奥の空き部屋に急ごしらえで用意した産室で、メイは今まさに出産に臨んでいるのだ。
      陣痛が始まったのは、昨夜遅く。もう、十数時間が経過している。
      キールはすぐに掛かり付けの医師を呼んで来てメイの傍についていたのだが、
      陣痛の間隔が狭まってきた数時間前には、産湯の準備をしておくように言いつけられて部屋を追い出されてしまった。

      「でもメイは……あんなに、辛そうだったのに」

      キールは膝の上に置いた手を、所在なげに組んだり解いたりしていた。

 

      女性にとって出産というものが、あんなに苦痛を伴うものだとは想像もしていなかった。
      『産みの苦しみ』という言葉は知っていたが、実際にその様子を目の当たりにするまで、自覚が伴っていなかったのだ。

      歯を食いしばって、一定間隔でやって来る陣痛に耐えているメイの姿を見て、キールは罪悪感に似た感情を覚えた。
      彼女は自分の子を産む為に痛みに耐えているのに、当の自分は傍についていてやる事も出来ない。
      その無力感たるや、まるで右も左も判らない異世界に放り出されたような気分だった。

 

      「……あいつは、初めてこの世界に召喚された時、きっと同じような思いだったんだ。
       自分の中の常識とか、知識が全く当てにならない世界。そんな所に、いきなり身体一つで放り出されて―――」

 

      泣き叫んで、パニックを起こしても不思議じゃなかった。
      また、自身の置かれた状況を認識し得たとしても、
      帰還の努力を怠り、全て責任者――自分の事だ――に押し付ける事も出来た筈だ。

      しかし彼女は、初めこそパニックを起こしたもののすぐに落ち着きを取り戻し、
      柔軟な物の考え方と持ち前の適応性の高さで、クラインでの生活にすぐに馴染んだ。
      必要に迫られたからとは言え、不本意極まりなかった筈の魔法の勉強も真面目に続けた。

      その結果として、メイは一年足らずで青の肩掛けの一人前の魔道士に成長し、
      そして自らの意思でクラインに留まる事を望み、自分の伴侶となった。

 

      「俺は、あいつを守ると決めた。メイがクラインを選んだ時点で、俺はあいつのこれからの人生全てに責任を負ったから。
       もう二度と、心細い思いなんてさせない。二度と危険な目にも遭わせない。
       この手で―――俺が、守ると決めたから」

      その類稀な魔法の才のお陰で、メイには今まで危険な目にも遭わせてしまった。
      ダリスの国内に潜入して探りを入れたり、魔法研究院の代表として騎士団の演習に参加したりした。
      おまけにこの演習中に大規模な雪崩に遭い、下手をすれば命が危なかったのである。
      自分がエーベの大樹再生の為にダリスに出向していた名代だったとは言え、
      彼女があの時身篭っていると判っていたら、絶対に真冬の演習に参加などさせなかった。

      メイだけではない。
      これから生まれる新しい命も、必ず自分が守るのだ。
      まだ父親になると言う実感は微妙だが、少なくとも夫として、父親としての義務感はキールの胸に確かに宿っていた。

 

      「ま、そんなに気負う事はないんじゃねぇの?
       嬢ちゃんを守るのは確かにお前の義務だろうが、嬢ちゃんはきっと、お前を守るのは自分の役目だって思ってるぜ」
      「俺を守る……メイが?」

      ニヤリ、と笑みを浮かべたシオンを、キールは目から鱗が落ちたような顔で見遣った。

      「お前、昔はもっと荒んだ生活してたもんな。ただ研究の為に日々を費やして、幸せになろうって努力を全くしてなかった。
       他人の事にも自分の事にも無頓着で、自分から歩み寄るって事をしない奴だった」
      「……すみませんね。それが性分だったもんで」

      古傷を突付かれたような顔で、キールが呟く。だがその小さな呟きを、シオンは聞き逃していなかった。

      「そう、それだ。お前、今自分で何て言ったか判ってるか?」
      「え……だから、それが性分だって」
      「違う。『だった』って過去形で言ったんだよ、お前は」

      ハッと、キールが翠の瞳を瞠った。

      「そうさ、お前は変わった。嬢ちゃんと出逢った事で、全てが変わっていったんだ。
       人との付き合い方、誰かを想う事、その為に自分がどう在るべきか―――
       今のお前はもう、三日三晩寝ず食わずで研究をしていたあの頃のお前とは違う」

 

      メイがキールの被保護者となってから、日を追う毎に彼は面白いように変化を見せた。
      本人がそうと自覚しないままに表情が豊かになり、取り留めの無い会話が多くなり、そして一日三度の食事を忘れなくなった。
      傍でその変化の様を見ていた自分や彼の兄であるアイシュ、キールを変えた張本人であるメイには自覚が無いが、
      かつての緋色の魔道士しか知らない者が今のキールを見たら、あまりの変化に腰を抜かすのではないだろうか。

      「人なんて、誰も一人きりでなんて生きてやしない。
       一人で生きてるつもりでも、必ず親から命を貰って生まれて来た訳だし、誰かに寄りかかって生きてるんだ。
       誰かを守りたいと思う半面で、他の誰かに必ず守られてる。
       『自分は一人きりだ』なんて言ってる奴は、まだ運命の相手に回り逢ってないだけだ。まだまだ青いって事さ」
      「……それが俺にとってがメイで、メイにとっては俺だったと?」

      シオンは、軽く片方の眉を上げた。

      「それは、誰かに確認する事じゃないだろ?お前達がそう思うんなら、そうなんだろうさ。
       それでも子供は、お前だけじゃなくて、嬢ちゃんと一緒に守るもんなんだろうけどな」

      親とは、父と母の二人を意味する。
      愛を交わした結果として結ばれた命の証を、両(ふた)親で守り育てるのが、親の義務なのだから。

      「ええ―――そうです。俺とメイとできっと……きっと、大切に―――」

      

      キールが、噛み締めるように口にしかけたその刹那―――奥の部屋から弾けるような産声が、不意に響き渡った。
      思わず口に出しかけた言葉を飲み込み、キールが目を丸くする。

      「呆けてる場合かよ。ほら、産湯の準備だ。すぐにお医者が出て来るぜ」

      ばしん、とシオンに遠慮なく背中を叩かれて、キールはぎくしゃくと沸かしてあった産湯の準備を始めた。

 

 

      医師の手を借りながら、生まれたばかりの我が子に産湯を使わせて、キールは再びメイの所に赤ん坊を抱いて戻って来た。
      その頃にはメイの後産も終わって、彼女も大分落ち着いている。

      ちなみにシオンは『ま、頑張れや』と言う言葉を残して院に戻っていった。
      何だかんだ言いながら、妻の出産を控えて舞い上がっていたキールの気晴らしに付き合ってくれていただけだったのだろう。

 

      「……御苦労様。こんな時に他に何て言ったら良いのか、よく判らないんだが」

      離れていたのは数時間程度の事だったのだが、その少しの間にメイがすっかりやつれてしまったように見える。
      それだけで、彼女にとって出産がいかに重労働だったかを悟って、キールの頭が自然と下がった。

      「ふふ……多分、それでいいんだと思うよ。あたしの生まれた世界でも、よく聞いた言葉だし」

      『そうなのか?』と、キールが少しホッとしたような顔をしたのが、何だか可笑しい。

      「起きられるか?」
      「ん……手を貸して貰えれば、大丈夫。あたしも赤ちゃん抱きたい」

      キールが抱いた赤ん坊を自分によく見せたいと思っているのが判ったから、メイは頷いた。
      本当はくたくたに疲れているので、今すぐにでも泥のように眠ってしまいたかったのだが、母親としての自覚が勝ったらしい。

      「よしよし、良い子ね……ああ、髪の色はキールに似たんだ。明るい色ね」
      「そうらしい。瞳の色は、まだちゃんと確かめてないんだ。泣いている時はずっと目を閉じていたし、俺も気忙しくて」

 

      腕の中の生まれたばかりの娘―――そう、生まれたのは女の子だった―――は、今は泣き疲れてすやすやと眠っていた。
      産声はとても元気で、肌の色も良く、医師からは『健康』の太鼓判を貰っている。

      「どっち似でもいいよ、元気に生まれて来てくれたんだから」
      「そうだな……でも俺は、女の子が生まれたらきっとお前に似てるんだと―――漠然とそう思ってた」

      例えば髪の色が、その想像の最もたるものだった。
      生まれるのが女の子なら、小さなメイを想像していたのに、医師から抱き渡された我が娘の髪の色が自分似だった事に、
      キール自身が一番驚いた。
      そんな夫の様子に、メイがクスッと笑う。

      「でもあたしとキールの子なんだから、キールに似てても不思議じゃないよ」
      「それで性格はお前似か?」
      「あはは、在り得るー。でも見掛けあたし似の性格キールよりも、キール似の性格あたしの方が、インパクトは在るわね」
      「ウケ狙いで子供を育てるなよ?」

      悪戯を思いついたような子供のような笑みを浮かべたメイに、キールが微かに眉をしかめる。
      だがメイは娘に頬を寄せると、『そんな事しないよ』と呟いた。

      「そんな事しなくても、親子なんだから、どっちかに似て当たり前じゃない。
       もしかして遺伝の悪戯でどっちにも似ない個性に育つかもしれないけど、その時はその時。
       子供なんて、いつだって親の勝手な思惑を裏切って大きくなるものだもの。
       でもこの子があたし達の子である事は変わりないし、あたし達がこの子の親である事も変わらない。違う?」

      メイの茶水晶の瞳には、腕の中の我が子に対する愛おしさと優しさが滲んでいる。
      まだ面には幼さを残しているというのに、その眼差しはもう既に母の強さを湛えていた。

      「いや―――その通りだ。そうだな、俺達の子なんだから似て当然か。
       そもそも容姿も性格も、俺に似るという可能性だってあるんだからな」

      噛み締めるようにそう口にしたキールに、

      「そうよ、気にし過ぎちゃ駄目だって。
       あたしが何とかここでやって行けたんだから、もう一人くらい同じようなのが増えても平気よ」

      ……と、メイが笑顔で応えた。
      つまりそれは、容姿も性格もメイに似て育つ可能性があると言う意味で。      

      「……まあ、先の話だ。今から気にしても始まらないな」
      「そうそう、ゆっくり呑気に構えましょ。子育てにせっかちは禁物よ。心のゆとりがまず一番♪」

      明るい妻の笑顔を見遣りながら、キールは今のうちから、将来の臨時支出に備えてこっそり貯金を増やしておこうと心に決めた。

 

 

      「ところでこの子の名前、生まれるのを待ってる間に考えついた?」
      「ああ―――まあ、一応な」

      臨月が近付いた頃から、幾つか生まれてくる子の名前は考えてはいたのだが、そもそも性別がはっきりしないと候補を絞れない。
      だからメイの陣痛が始まってキールが待つ事しか出来なくなったら、
      男と女と、一つずつ名前を考えておいて欲しいと―――それが、前々からの約束だったのだ。
      生まれる直前にはシオンが訪ねて来ていたり、自分もいっぱいいっぱいだったのでとても余裕が無かったのだが、
      医師の手を借りながら産湯を使わせていて―――不意に、胸に浮かんだ言葉がある。

      「シュリ……と言う名は、どうだろうか?」
      「シュリ?クラインの言葉で、『祝福』って言う意味ね」

      それはメイにとっては、数年前まで未知の言語だった。
      この世界に召喚され、エーベ女神の計らいで何故か話し言葉は通じたが、文字の読み書きはこちらで覚えたのである。
      苦労しながらも覚えたクラインの言語で、それはメイがとても好きな言葉の一つであった。

      「シュリ・セリアン……良いんじゃない?言葉の意味も素敵だし、それにあたしの生まれた国でも違和感ないわ、その名前」
      「そうなのか?」

      ただ純粋に胸に浮かんだ名だったので、そこまで深く考えていた訳ではない。
      そもそもキールは日本語など全く知らないのだから、これは本当に偶然だったのだろう。

      「えっと……日本語は読みに対して字は色々当てられるんだけど……あたしなら、この字を当てるかな」

      そう言いながら、キールが手許に差し出した紙にメイがペンで記したのは、『朱璃』と言う文字だった。

      「随分と、複雑な文字だな」
      「そうねぇ。あたしでもそう思うわ」

      『朱』はともかく、『璃』はキールの目から見たら、まるで魔法文字のようなものだろう。
      メイも自分で、よくこの字を覚えていたものだと感心した。

      「この『朱』の字が『シュ』って読むの。意味は『赤』」
      「赤?」
      「そう。それでこっちの『璃』は、単独では意味が違うんだけどね。
       この字を使った『瑠璃』って言葉があって、その意味は『青玉』っていう宝石の名前なの」
      「青い……玉?」

      キールがハッとしたような顔をする。
      メイがどう言う意味を込めてこの字を敢えて選んだのか、気付いたのだ。

      「赤……緋色と、青の肩掛け。俺達二人のそれぞれの象徴から、一文字ずつか」
      「そう。悪くないでしょ?」

 

      両親の証と祝福をその名に込めて。
      きっと守る―――この小さな手に握られた、幸せを。

      シュリが、大きな瞳を開ける。まだ見えてはいない筈だが、その色はメイによく似た茶水晶の煌めきだった。

      「貴女はシュリよ。あたしがママ……こっちがパパ。生まれて来てくれてありがとう。これからよろしくね」

      小さな手が、柔らかな頬に触れようとして差し出していたキールの指を握る。
      見えてはいない。でもシュリは、確かに父であるキールの手を感じたのだ。

      「これからは、我が家も賑やかになるな」
      「赤ん坊は泣いてなんぼよ。元気な証拠、すぐに慣れるわ」
      「ああ。自分が父親になるなんて、なかなか自覚が湧かなかったが―――何とか、やれそうだ」

 

      胸に湧き上がるのは、素直な感情。
      喜びと、嬉しさ―――そして、親となった誇り。

      「幸せにしような、この子を」
      「違うわ。皆で一緒に、幸せになるのよ」

      キールの頬に、メイが口付ける。
      メイとシュリを包み込むように、キールはそっと彼女の肩を抱き寄せた。

                                                                【FIN】


      あとがき

      ……と、言う訳で。ようやくセリアンさん家(ち)に、お子様が誕生いたしました。
      いやー、引っ張った引っ張った(笑)軽ーく一年は、妊娠状態で引いてたからなー。
      誕生つながりで、一応メイ&キールの誕生日記念SSって事で。
      本当はメイの誕生日にも何かすべきだったんですが、丁度手を痛めてて、そのドサクサですっかり忘れてた…すまぬ、メイ(^_^;)

      ずっとウチのファンタ二次創作を読んでくださっているお客様なら、
      生まれてくるのが娘である事は、何となく察しがついていたんではないかと。
      それはかなり前に書いた『見知らぬ友人』と言うSSが、そもそものネタ振りになってます。
      成長したシュリのお話を書く機会があるかどうかは判りませんが、雰囲気だけは『見知らぬ〜』で掴めると思います。
      そちらもご覧になってくださいね、とさり気なく宣伝(笑)     

      娘の名前は如何だったでしょうか?クラインでも日本でも(あまり)違和感の無い名前と言う事で、結構悩みました。
      他にも色々候補はあったんですが、漢字で書いた時にまだしっくり来るのが『シュリ』だったんですね。
      でも当初は二人に関わる字は『朱』しか使う気は無くて、『朱理』(理=ことわり、と言う意味で)にしようと思ってたんです。
      ところが名付ける実際のシーンを打ってる時に、不意に『瑠璃』と言う字を思い出しまして。
      『こうなったら二人の肩掛けの色を象徴にしちゃえ!』と、急遽変更したのでした(笑)

 

INDEX