Voice
「眠れ、眠れ、母の胸に〜♪」
何やらあまり聞き覚えのない歌を口ずさみながら、居間でメイが縫い物に精を出している。
歌詞からしてどうも子守唄のようだが、キールには耳慣れない。恐らく、彼女の暮らしていた世界の子守唄なのだろう。
コン、と開いたままの扉をノックすると、メイが縫い物をしていた手を止め、顔を上げた。
「具合はいいのか?」
「うん、今の所大丈夫。あんまり俯いてると気持ち悪くなっちゃうかもしれないから、長い事は出来ないけどね」
そう言いながら、メイは縫っていた物を掲げて見せた。
肌触りの良い、清潔な布で作られた小さな産着。
まだ完全に出来上がっている訳ではないが、何となく形になって来ているそれを見ると、何やら面映い気がする。
「あまり根を詰めるな。まだ先の話しだし……お前一人の身体じゃないんだから」
「ありがと、気をつけるよ」
素直に頷いたメイの顔は、以前に比べてほんの少しふっくらとして来ているような気がした。
メイは現在妊娠中である。医者の見立てでは、4ヶ月目に入った所だ。
先月、国境付近で行われた騎士団の演習に参加した際、妊娠が判明した。
演習中に雪崩に遭うなど大変な目にはあったが、幸いにも被害者は出ず――シルフィスだけは危うい所で一命を取り留めたが――
勿論、メイもお腹の子も無事である。
当時キールは傷付いたエーベの大樹の再生の為にダリスへと出向していたが、メイの参加していた演習部隊が雪崩に遭ったという第一報で、即日帰国を決めた。
今にして思えば、自分の立場や責任の重さを鑑みれば無茶な要求をしたと思うが、ダリス王アルムレディンと王妃ディアーナはキールの心情を汲み、帰国を快諾した。
親友であるメイの見舞いに『絶対に行く』のだと、言い張るディアーナのお供と言う、アルムレディンとディアーナが即興でこしらえてくれた、格好の口実を利用して―――
エーベの大樹の再生については、キールが直接現地で出来る事を全て手を尽くした後だったので、
以降はアルムレディンを通じて今後の事を細かく指示した書面を送る事で解決している。
雪崩に巻き込まれて危うく遭難しかけたシルフィスと、彼女を救う為のダウジングで精神集中しすぎて倒れたメイは、
王家御用達の保養所に『療養』と称して収容された。
ディアーナと共に駆け付けたキールは、そこでメイの妊娠を知らされた。
本人は頑として認めていないが、メイに耳打ちされたキールの顔が真っ赤になり、微かに緩んだ事は、その場に居合わせた全員が証言している。
セイリオスの好意に甘えたのと、大事を取りシルフィス共々約一ヶ月間保養所で過ごしたが、先日ようやくラボへと戻ってきた。
その後の経過も順調で、メイ本人にも、胎児にも特に問題は起きていない。
ただ一つ―――妊婦の宿命を除いては。
「あ……」
「どうした?」
産着の袖口を縫っていたメイが――裁縫は得意ではなかったのだが、クラインに来てから大分慣れた――針を止める。
隣のソファに座って魔道書に目を落としていたキールが、彼女の様子に気付き、腰を浮かせた。
「……いつものやつ。少しじっとしてれば、多分大丈夫」
「気持ち悪かったら吐いてしまえ。その方がラクになるんだろ?」
俄かに顔色の悪くなったメイの背を撫でながら、キールが彼女の顔を覗き込んだ。
ほぼ全ての妊婦が、多かれ少なかれ経験しなければならない関門――それは悪阻であった。
子供を宿した母親が、吐いては食べ、食べては吐くの繰り返し。
それは何も、母体が空腹に耐えかねているから物を食べる訳ではない。
嘔吐感があるのに、吐く物がないと余計に苦しいから、吐く為に食べるのである。
一見矛盾しているようでもあるが、母親は切実である。
出来るだけ嘔吐感を抑える為に、少しずつ少量の食物を何度にも分けて口にするのだ。
後は出来るだけ身体に負担をかけないようにして、安静にしておく事が一番ラクなのだが―――
無理はしないようにしていたつもりなのだが、やはり今回は針仕事が堪えたのだろう。
「うん……少しの間、肩貸してくれるかな……」
コトリ、とメイがキールの肩に額を押し当てた。
吐くとラクになるのは判っているのだが、吐いて胃が空になると、また新たな嘔吐感が襲ってくる。
それが判っているから、出来るだけメイはバランス良く食べ物を口にしたりする事で、悪阻をラクにしていた。
こんな時、男である自分は何もしてやれる事が無い。
辛そうに眉間に皺を寄せているメイの肩を抱き、時には背中をさすってやったりしながら、少しでも彼女の負担が軽くなるようにしてやる事しか出来ない。
子供を宿す事でこれ程女性が苦しむなんて、実際にメイが身篭るまでキールには実感が無かった。
知識として悪阻がある事は判っていたのだが、認識が甘かった事をしみじみと痛感したものだ。
子を宿す事でこんなに苦しみ、また出産の際には別の痛みを伴う。その全てを乗り越えて、女性は母親になるのだ。
『母は強し』とはよく言ったものだと、今にして思う。
そうして自分も兄も生まれたのだと思うと、今後実家の母親には頭が上がらないような気がした。
肩に置かれていたメイの額が離れた。
「大丈夫か?」
「……何か、駄目っぽい……ゴメン、ちょっと一度吐いて来る……」
「足下に気をつけろよ」
「うん」
ふらふらと心もとない足取りで、メイが洗面所へと向かう。
本当はキールもついて行き、傍で彼女の身体を支えるくらいの事はしてやりたいと思うのだが、それは当のメイが拒否した。
キールの気持ちは嬉しいのだが、嘔吐という、あまり美しくない行為を人に見られたくないというのがその理由だった。
そんな事は気にするなと言うのが本音だが、メイ本人が嫌だと拒む事を強要したくない。
だからキールはメイが戻ってくるまで、キッチンで時間を潰した。
やがてしばらくすると、ペタペタという、いささか精彩に欠ける足取りでメイが戻ってきた。
「ラクになったか?」
「うん、まあ、何とか」
ふう、と息をついてソファに座り込む。
安静にしていればマシなのだが、やはり時折襲ってくるどうしても我慢できない嘔吐感は、相当身体に堪えるようだ。
ごく稀に、全く悪阻を経験しない妊婦も居るらしいが、それはあくまでも例外である。
避けては通れない事だと割り切っているから我慢も出来るのだろうが、それでもただ見ているだけの立場はそれなりに辛い。
だから最近キールは、先程のようにメイが席を立つとキッチンで時間を潰すようになった。
「ほら、熱いから気をつけろ」
「ありがと……わぁ、いい匂い」
キールが差し出したのは、彼女の為に温めたホットミルクのカップだった。
熱いとは言っているが、実は火傷する程熱くはしていない。人肌くらいの温かさである。
温めたミルクは匂いが気になるので――キールはどっちにしろ飲めないのだが――バニラ・エッセンスを数滴落としてある。
これは香りがつくだけなので、妊娠で味覚が変化しているメイでも飲む事が出来た。
キールがもう一つ、小さな皿をメイの前に置く。口に入れ易い大きさに、小さく切り分けた青林檎だった。
「少しだけでも、腹に入れておけ」
「うん。ありがと」
シャリ、と噛んで、林檎を一口飲み込む。
妊娠してからすっかり味覚が変化してしまい、以前のように甘い物が食べられなくなってしまった。
大好物だった筈のチョコレートに代表される菓子類も、今はあまり見たくも無いと言うのが実情である。
変わって頻繁に口にする事が多くなったのは、所謂味のハッキリした物だった。
特に上げれば酸味のある果物である。
レモンは酸味が強すぎて苦手だったが、青林檎や酸っぱい蜜柑――普通の林檎や蜜柑では甘すぎて駄目――などが、喉越しが良くてイイ感じだった。
意外な辺りでは、薄荷の葉を噛むのも効果的だった。
これは直接腹に入るわけではないが、悪阻の胸焼けや喉の辺りの違和感などを、一時的に緩和してくれるのである。
本当はミント・ガムを召還出来るといいのだが、今はわざわざ魔法陣を描いて召還するのが億劫で、薄荷の葉を噛んで代用しているのだ。
そんな目に見えて彼女の身体に現れる様々な変化をキールは驚き半分の目で見ていたが、最近では進んでメイがラクに過ごせるように、色々と気を遣ってくれる。
悪いなと思いつつも、メイはそんなキールの優しさに甘えるのが心地よかった。
「少し横になるか?」
「うん……でも、ここに居たいかな」
夜眠る時以外で寝室で横になっていると、本当に具合が悪くなったような気がするのだ。
悪阻は確かにしんどいが、妊娠そのものは病気ではない。
だからこそ出来るだけ意識せず、普段と同じように過ごすように心がけてはいるのだが、
何度かに一度、先程のようなひどい嘔吐感が来ると、やはり多少気が弱くなってしまう。
寝室に引っ込んでしまえば、キールの傍には居られない―――その事は、口にはしなかったのだが。
「なら、ここで横になってろ」
くい、とメイのこめかみを抱くようにして、キールがメイの上半身をソファの上で横にした。
頭はキールの腿の上である。要するに、膝枕状態であった。
「キール……重くない?」
「気にならない」
素っ気無い返事だったが、見下ろす翠の瞳は優しかった。
メイの身体が冷えないように、ソファの背にかけてあった彼女のショールを肩から背にかけて掛ける。
「じっとしてると、退屈でしょ?」
「今日中にこの魔道書を読もうと思っていたから、退屈なんてしない」
そう言って、先程まで膝の上で広げていた本を掲げて見せた。
細かい字で書かれた、ざっと500頁はありそうな魔道書の半分以下の所に栞が挟まれている。
キールは読むのが遅い方ではないが、それでも数時間は軽くかかる量だ。
『気にするな』と、そっと髪を撫でてくれた手が心地よくて、メイは小さく頷いて目を閉じた。
「……こうして、しんどい時にね」
「うん?」
しばらく大人しく横になっていたので眠ったのかと思ったのだが、メイはただ目を閉じていただけらしい。
「キールの声を聞くとねぇ……何だか、ラクになるんだよ」
「……俺の声は鎮静剤か?」
どう反応したものか判断しかねて、微妙な表情を浮べる。
横になったままメイが笑った。
「冗談じゃないの。本当なんだよ。
どんなに気分が悪くても、何だか温かい物にふわっと包まれてるみたいでね……ずっとラクになるの」
『大丈夫か』と尋ねてくれる声。
背中や髪を撫でてくれる、男性にしては少し細い指の、でも自分よりは確かに大きな手。その温かさ。
キールが傍に居るというだけで、とても安心できる自分が居る。
無条件で自分を守ってくれる存在が在ると言うのは、とても幸せだと思った。
「キールは胎教って知ってる?」
「いや、知らない」
クラインではそういう事は、特に積極的に行われていないらしい。
「赤ちゃんがお腹に居る時に、お母さんが自分の好きな曲を聴いたり、お腹の子供の為に絵本を読んで聞かせたりするんだよ」
メイが元居た世界では、『胎教に良いから』と、よく妊婦がクラシック音楽を聞いていた。
だが何もクラシック音楽だけが胎教に良い訳ではない。要は母親がリラックス出来る曲なら何でもいいのだ。
逆に言えばクラシック音楽が嫌いな母親が、幾ら子供の胎教の為だと言って聞いていても、何の益にもならないのだと言う。
だとしたら、自分が今一番リラックス出来るのは、キールの声なのかもしれない。
「何か話して。どんな事でもいいから」
「……何でもいいと言われても」
メイを相手に喋るならともかく、一人で話し続けるなど、キールには出来ない。
「歌でもいいよ。キールの声を聞かせてくれるなら」
「歌!?」
メイの頭が乗っているから立ち上がりはしなかったが、流石にちょっと迷惑そうな表情を浮かべた。
「だってキールの声が一番、あたしは落ち着くんだもの。お腹の赤ちゃんの為だと思ってさ」
その言葉は本当だが、明らかに面白がっている響きがある。だがお腹の子を引き合いに出されては、無下に嫌だとも言えない。
「……歌以外に、何かないのか?」
それが精一杯の妥協だろう。
そのままゴネたら本当に唄ってくれたかもしれないが、可哀想なのでメイも妥協策を出した。
「そうだなぁ……じゃあ、絵本でも読んでもらおうかな」
「絵本なんて、ウチには無いぞ」
「あるわよ。ちゃんと、揃えてあるから」
にっこりメイが笑って見せた。
メイに言われた通り、彼女が仕事をする際に使っている部屋の書棚を探すと、一揃いの子供用の絵本が見付かった。
パラパラと中を見てみると、子供の頃に一度は読んだ事のある、もしくは親から読み聞かせてもらった事のある物語ばかりである。
適当な数冊を手に戻ってくると、メイは身体を起こしてキールを待っていた。
「いつの間にこんな物を揃えてたんだ?」
「ん、ついこの間。買い物に出掛けたら、いつもの本屋さんで絵本売ってるのを見付けたから、買って届けて貰ったの」
自分も子供の頃にはよく絵本を読んでもらった事を思い出し、ついでに胎教の事も思い出したので、揃える気になった。
自分の子にも絵本を読み聞かせてやりたいと、そう思って。
「あたしは、クラインの子供達が知ってる基本的な昔話も知らないから、一緒に憶えるの。キール、読んで聞かせてくれるわよね?」
全開の笑顔で見上げられて、今のキールが嫌と言える筈も無く。
結局その後、メイが夕食の仕度を始める夕方まで、キールは延々と絵本を読み続ける事になった。
【FIN】
あとがき
丸々祖母の家で仕上げたSSです(笑)一緒に遊びに来ていた母に、悪阻の事やらいろいろと教えて貰いながら作ったお話です。
自分が経験してれば手っ取り早いんですが、私はまだ妊娠経験はないので(^_^)
特に母は、所謂『妊娠中毒症』と診断される程悪阻のキツい人でしたので、その辺の話は非常に細かく語って頂きました。
妊娠中に味覚が変化した後のメイの嗜好などは、母の実体験をモデルにしています。
でもこの嗜好の変化で、『壁土』をご主人に要求した奥様が実際にいらっしゃったそうで。(←高校時代の保健の授業で教わった)
壁土なんぞを要求されたご主人は、さぞかし慌てたでしょうねぇ(^_^;)どうしたって食べ物じゃないんですから。
元気な赤ちゃんが授かったのか、それが唯一気になりましたが、それも昔の話です(笑)
胎教のお話も本当です。母体がリラックス出来る音楽が、本当は胎教に一番最適なんだそうです。
お母さんがクラシック好きなら、クラシックを聞いていればいい。
でももしもメタルやパンクを聞いてお母さん自身がリラックス出来るのなら、それでいいんだそうですよ。
メイの場合はクラインにはCDやラジオはありませんから、『キールの声』が一番の精神安定剤(笑)
子供が無事に生まれるまで、キール自身も空覚えする程、きっと絵本を読み続けさせられると思います(^_^)
生まれる頃には、絵本いらなくなってるかもしれませんね(笑)
絵本の読み聞かせは、これは私の私見ですが、『親』になると言う事の疑似体験だと思うんです。
自分の身体に宿る命を自覚して、大切にして行こうと思う気持ちを、早くから養えるんじゃないかと。
子供向けの絵本を読んで怒り出す人はいないでしょうから、精神面での安定効果も図れると思いますしね。
私が子供の頃、親が買い与えてくれた絵本セットは宝物でした。今でも実家に一揃い全部あります。
多分、私が子供を産んだらその絵本がまたフル活用されるんだろうな(笑)
麻生 司