幽霊屋敷に住まう者


「はぁ、幽霊屋敷?」

ある初夏の昼下がり。
個人的な休みにラボを訪れたシルフィスの前にティーカップを置きながら、メイは間の抜けた声を漏らした。

 

「私が主に警邏を担当している地区の外れにあるお屋敷なんですけど」

シルフィスはそう前置きして、話を切り出した。

彼女は――そう、彼女だ――未分化でアンヘル村を出て見習い騎士となっていたが、
昨年無事に女性に分化し、今年の春に正式に騎士の叙勲を受けた。
一年前には魔法研究院の客員魔道士――と言えば聞こえはいいが、もっとはっきり言えば居候――であったメイも、
今は院から独立したキール・セリアンと結婚して一緒にラボを運営する身である。
お互いにまだやっと一人前になったばかりで心もとない事も多かったが、幾多の困難を共に乗り越えた友として、また仲間として、
それぞれの道を歩み始めてからもこうして時折機会を見付けては交流を持っていた。

クラインに梅雨と言う言葉は無かったが、雨の多い時期と言うのはやっぱりあって、
『もう一雨来たら本格的な夏かしらー』などと考えながらメイが居間から空を見上げていたある日、シルフィスが訪ねて来たのである。

「そこはもう何十年も前に最後の住人が亡くなって以来、人が住まなくなったお屋敷なんです。
 かつての主の傍系の血縁は健在ですが、彼らはすっかり古くなってしまったその屋敷に住む意思は無く、
 実はずっと手放したいと思っていたらしいんですが……」

 

何でも再び人が住めるようにする為に改修するのと、新しく一軒屋敷を購入するのと同じくらいかかると言われたのだそうだ。
かと言ってここ数十年人の住んでいなかった屋敷は荒れ放題で、新しい買い手も借り手も見付からなかった。
それならば多少のコストは掛かるが、屋敷を取り壊して土地だけ売却しようという話になったのだと言う。
ところが―――

「いざ屋敷を壊すつもりで人が手を入れようとすると、世にも恐ろしい出来事が起きて作業がちっともはかどらないと」
「世にも恐ろしいとまでは聞いていませんが」

察しの良いメイがシルフィスの言葉を先取ると、彼女は苦笑いして、ほんの少し訂正した。

「でも作業を始めようとすると、色々と不可思議な現象が起きる事は間違いないようです」

 

全然進まない解体工事に困り果てた屋敷の当代の持ち主が先日騎士団を訪ねて来て、
何とか原因を探って貰えないだろうかと依頼を持ち込んだのである。
『幽霊屋敷』の真偽の程はともかくとして、作業に入った者達がそう噂するだけの『何か』が起きている事は事実だ。
それが人外の力に依るものならば神殿や魔道士の出番だろうが、人の手が為した事ならば騎士団で十分事足りる。
持ち主に屋敷の場所を確認した所、それがシルフィスの担当する地域に掛かっていた為、彼女に正式に探索命令が下りたのである。

「隊長からは、私の一存で応援を依頼しても良いと許可を頂いています。
 以前の保養所の一軒の時にも協力して貰って心苦しいのですけど、出来れば今回も手を貸して頂けないかと思って」

それは今年の春にシルフィスとメイが解決した、保養所に出没する覗き魔退治の事である。
二人の機転とメイの雑学のお陰で、今も件の保養所は無事に営業を続けている筈だ。

「幽霊屋敷ねぇ」

もう一度、先ほどとは少し違うイントネーションでメイは呟いた。
彼女の隣で話を聞いていたキールが、ちらりと妻の顔を見遣る。

「……楽しそうだな」
「え、そう?あたしは純粋に『大変だなぁ、何とかしなきゃ』って思ってるだけだけど」

そう言って振り返ったメイの瞳は、とてもキラキラと輝いていた。
キールがこめかみを抑え、頭の痛そうな顔をする。

「―――どきどきわくわく、と顔に書いてあるぞ」
「ありゃ、バレたか。でも幽霊屋敷って響きは何やら楽しげよね」

メイは可愛らしく舌を見せると、シルフィスに向かって『おっけー、その依頼引き受けた!』と返事をした。

 

 

「つまりねぇ、例の保養所の時と同じよ。枯れ尾花って奴ね。
 大体幾らこの辺りが街の外れと言っても、全く人通りが無い訳でもなし。
 それに真昼間に出て来る幽霊なら、いっそ夜だけ出て来る奴よりも話が通じ易そうじゃないの?」
「要するに一連の不可思議な現象は、人外の仕業ではなく、人の手によるものだとメイも思うのですね?」

確かめるように口にしたシルフィスに、メイは頷いて見せた。

「誰も居ない筈の屋敷の中から変な音がするって言ってもね、『中に人が居れば』問題解決な訳でしょ。
 本当に誰も居なかったかなんて、多分気が動転して調べてないんだろうし。
 人が住まなくなって数十年にもなるお屋敷なら、多分外から壁板が剥がれる所や、鍵の壊れた窓くらいあるわよ」

離れ小島の一軒家ではないのだから、長く放置されていた屋敷に入り込んで住み着いてる人間が居ないとは断言出来ないのだ。
クラインの国内はまだ安定している方だが、全ての国民が安定した生活をしている訳ではない。
中には職を失い、家を失い、その日暮らしをしている者も居る。やっと見付けた雨風を凌ぐ場所を追い出されるのは面白くないだろう。
そんな者達が、屋敷の取り壊しを邪魔している可能性がある。

「意外に論理的だな。幽霊屋敷と聞いて無闇に怖がるか、純粋に面白がるかと思ったが」

幽霊屋敷探索にノリノリだった様子とは裏腹に、案外と冷静に現象の大元について推論を立てていたメイに、キールが軽く目を瞠った。

「そりゃまあ、あたしだってそんな噂がある所に真夜中に乗り込むのはゴメンよ。幽霊屋敷じゃなくても、夜中の廃屋なんて物騒だし。
 でも昼間なら、夜には見えないものも見えるでしょ?だからあまり怖くないだけ。
 それに物音以外にも―――例えば夜中に窓辺に浮かぶ明かりとか、魔法を使えば、簡単に仕掛けられるトリックだもんねぇ」

 

夜中に窓辺に浮かぶ明かり、不意に屋敷の中を横切る影。
それらのものは、魔法の灯火や侵入者が在れば簡単に出来る仕掛けなのだ。
天地が引っ繰り返っても人の手で出来る事ではない!と言う現象か、
実際に自分の目で見るまでは幽霊話を丸まま信じる気にはなれない。メイは案外と現実主義なのである。

自分の目で見て体験したからこそ、このクラインにもあっさりと馴染んだのだ。
巷でちらほら聞く機会のある幽霊話や怪談話の全てが嘘や眉唾とは思わないが、そのほとんどが思い過ごしや気のせいなのだろうと思う。

 

「それじゃ、幽霊を信じてない訳じゃないんだな」

キールの口元が、ほんの少し笑った。
無条件で悲鳴を上げて嫌がる女性も多いのに、肝が据わっていると感心したのかもしれない。

「だって、見た事がないんだもの。実際に見たら信じるわよ、多分。寧ろ初体験だから、本物希望!」

見てしまった後でこれだけ淡々と話していられるか疑問だが、少なくとも前向きな考え方だろう。
見てもいない物を無闇に怖がった所で何の益もないのだから。

「そう言うキールは、信じるの?それとももしかして、精霊を視るようにオバケとかも視えてたりする?」
「さて、それはどうかな」

ニヤリと笑ったキールの表情からは、事の真偽は読み取れなかった。

 

 

翌日。
公言通りメイは、シルフィスと共に問題の屋敷の前に来ていた。
キールが『不安なら一緒に行ってやるぞ』と言っていたが、夜中ならともかく真昼に正騎士のシルフィスと廃屋に乗り込むのに、
緋色の魔道士の援護まで頼むのはどうだろうと思い、丁重にお断りしてきた。

「キールはメイの事が心配で、一緒に来ようと言ってくれたんじゃないでしょうか」

屋敷の持ち主から鍵は借りてきていたが、一応先に屋敷の周りを調べておこうと言う事になり、
ぐるりを歩きながらシルフィスがそう呟いた。
メイが楽しそうにふふっと笑う。

「多分ね。幽霊はともかく、人が入り込んでるんだとしたら、そっちが危ないって思ったんじゃないのかな。
 でもシルフィスが一緒だし、これはラボの正式な依頼と言うよりは、あたしが個人的に受けた話だし」

『忙しいキールに迷惑かけてられないからね』と言ったメイに、シルフィスは『絶対に怪我なんかさせませんから』と頷き返した。

 

「これは……壁板がごっそり外れますね」

門のある方とは丁度反対側の壁板が、微妙にズレている事に気付いたのはシルフィスだった。
しゃがみ込んで手を掛けてみると、思った通り簡単に剥がす事が出来る。
同じ要領で数枚の壁板を外してしまうと、そこには大人でも屈めば通り抜けられそうな穴が開いていた。

「壁板を剥がした後に、中に入り込む為に内壁に穴を開けちゃったんだね。これで誰かが屋敷の中に勝手に入り込んだ事は決定的。
 ちぇ、やっぱり本物さんは見れないか」

メイが苦笑いした。侵入者があったという事実だけで、ほとんどの不可思議な現象は解決出来てしまう。
後は不法侵入者を確保して、どう穏便に屋敷から立ち退いて貰えるように交渉するだけである。

「さて、どうする?中に入って少し探ってみようか。もしかしたら、今も中に人が居るかもしれないし」
「そうですね……じゃあ、私が先に入ります。安全だと判ったら合図しますから、メイは後で来て下さい」
「オッケー」

シルフィスが身を屈めて、壁に開いた穴から中に潜り込んで行く。
ゆっくり50程数えた頃に、『大丈夫です、入って来てください』と言う彼女の声が聞こえた。

 

「ケホッ……やっぱり、埃っぽいね」

屋敷の中に入ると、中はカーテンが閉まったままで、思いの他薄暗かった。
真昼だからと呑気に構えていたが、全部の部屋がこんな状態だとすると、案外気を抜いていたら不意打ちを食らうかもしれない。
メイは呪文を唱えると、ポケットから取り出した小さなオーブに明かりを灯した。
足下くらいはちゃんと照らせるし、本物の火ではないので安全である。
シルフィス用には、彼女が腰に提げた剣の鞘に同じ魔法をかけた。

「メイ、床を見てください。足跡が付いているでしょう」

シルフィスに促されて足下を照らすと、そこには確かに薄っすら積もった埃を蹴散らすように、多くの足跡がついていた。
シルフィスもメイもほとんど身動きしていないのだから、これは彼女達以外の『誰か』の足跡と言う事になる。

「それに何十年か放っておかれたにしては、埃の積もり方が甘いわね。
 きっと、ここに住み着いちゃった誰かが、何度か掃除はしてるのよ」

頷き、シルフィスは床の足跡を目で追った。複数が付けたと思われるその足跡は、部屋の外へと続いている。

「行きましょう。私の前に出ないようにして、出来るだけ静かに付いて来て下さい」

そう呟いて剣の柄に手をかけたシルフィスは、同じ女性でありながらメイが思わず見惚れるほど凛々しかった。

 

「これは……二階に続いてるのかな?」

足跡は、あまり無闇に屋敷の中をうろついてはいなかった。
時々気紛れに違う部屋に続く足跡もあったのだが、基本的に真っ直ぐ二階へと続いている。
一応足跡の続いていた部屋は中を改めたが、遭遇したのは野良猫の一家や迷い込んだ小鳥くらいだった。
恐らくは『誰も居ない筈なのに物音が』と言う現象には、この猫や小鳥たちも一枚噛んでいたに違いない。

「でもまぁ、足のある幽霊ってのも聞かないから。相手は間違いなく人間よね」

屋敷の中の薄暗さに微妙に気圧されていたらしいメイが、殊更明るい口調で前を歩くシルフィスに話掛ける。
しかし辺りに注意を払いながら返してきたシルフィスの言葉は、メイの楽観主義を少しだけ揺るがせた。

「幽霊には足が無いものなんですか?」
「……えっとぉ……あたしが住んでた国では、幽霊には足が無いの。そんで手をね、こう前にたらーんと垂らして『恨めしや』って。
 それが定番と言うか、古典的な幽霊。ひょっとしてクラインの幽霊さんには足があるのかしら?」

だったらヤダなぁと小さくメイは呟いたが、シルフィスは少し小首を傾げて申し訳なさそうにした。

「私も、自分で視た事が無いので何とも言えませんけど。
 でも噂や昔語りで聞く話によれば、特に足が無いと言う言い伝えは無かったですよ」

 

『ちょっと、やめてよー』……と、メイが口にしかけたその時―――二階の廊下に面した一番奥の部屋の方から、カタッと言う物音がした。
自分達の追ってきた足跡も、その部屋に続いている。

「シルフィス……」

つん、とメイがシルフィスの上着の袖を軽く引く。彼女はじっと奥の部屋に通じる扉を見据えたまま、小さく顎を引いた。
それは扉の中に居るのが、猫や小動物ではないと言う証。

「あの部屋に誰か居ます。少なくとも数人は」

静かに鞘から剣が抜かれる。そっと扉に近付きメイが扉の蝶番側、シルフィスはノブの方に立った。
目で合図すると、シルフィスが扉を一気に開け放った。

 

「何だよ、お前たち!!ここは俺達の家だぞ!!」

厳しい顔付きで部屋に踏み込んだ二人を出迎えたのは、自分達と同じくらい硬い表情をした、
声変わりもまだ済んでいない子供達の声だった。
二人が素早く目で頭数を数えると、家族がくつろぐ居間らしき部屋に、5人の子供達が身を寄せ合うようにして部屋の隅に固まっている。
男の子がほとんどのようだが、顔が汚れているのではっきりとは判らない。
もしかしたら一人や二人は女の子が混じっているかもしれなかった。
一番年長らしき男の子は何処で手に入れたものか、慣れない手つきでナイフを構えている。

「慣れないものを振り回すと怪我をしますよ。まず、そのナイフを下ろしてください。私も剣を引きますから」

怯えた獣が威嚇しているような子供達を刺激しないように、シルフィスがゆっくりと剣先を下ろした。
そのまま静かに、剣を鞘に収める。二人が部屋を入った所から近付いて来ない事が判ると、少年もナイフを下ろした。

 

「あんた達、この家を壊しに来た連中の仲間なんだろ」

尖がった物言いに、メイが『ちょっと違うかな』と呟く。
ごつい男がハンマーや杭を持ってずかずか入り込んで来たのなら手酷く追い返してやろうと言う所だが、
剣はおろか武器になりそうな物を何一つ持っていないメイに、子供達も少々拍子抜けしたようだった。

「じゃ、一体何の用だよ。俺達、ここに住んでるんだ。追い出そうったって、そうは行かないからな!」
「うーん、それも困る。あたし達は壊しに来た訳じゃないけど、このお屋敷の本当の持ち主から依頼を受けて調べに来たんだよね。
 この屋敷を壊そうとすると何か変な出来事が起きてちっとも工事がはかどらないから、原因を調べてくれって」

『屋敷の持ち主』という言葉に、子供達の顔に狼狽が広がった。
しかも目の前には、女性とは言え正騎士と一目で判る紋章を身に付けたシルフィスが居る。
彼女達は剣に物を言わせて問答無用で自分達を追い立てるような事はしないが、
彼女達から連絡を受ければ然るべき者がやって来て、最後には追い出されてしまうのだろう。
ナイフを構えていた少年が、悔しそうに唇を噛み締めた。

「工事の人が入ろうとすると、こっそり姿を見せずに物音を立てたり、部屋の中で松明を動かしたりして驚かせてたのはあなた達ですか?」
「……そうだよ。だって、俺達ここを追い出されたら、他に行く所なんか無いんだ」

 

やはりそうだったかと、シルフィスとメイは互いの顔を見合わせた。
恐らくこの子供達は、何らかの事情で親や保護者を失ったのだろう。
城勤めの役人の目に止まるか、もしくは自分で申し出れば一定の年齢に達するまで保護を受ける事が出来るのだが、
そんなシステムすら知らないまま、孤児になってしまったのだろうと思われた。

「このお屋敷の持ち主は、ここを手放したいと考えています。
 でも貴方たちの悪戯で根も葉もない噂が広がって、今は借り手も買い手もつかない状態です。
 だからお屋敷を取り壊して土地だけにして、売りに出そうとしているのですよ」
「俺達の家を、俺達が守って何が悪い!何十年も放ったらかしにしておいて、今更持ち主なんて知るかよ!!」

そうだそうだ、と、子供達が小さな手を突き上げて叫ぶ。
だがシルフィスもメイも、煽られて頭に血を上らせたりはしなかった。

「例えどんなにこの屋敷が長い間放置されていたんだとしても、
 あなた達が勝手に入り込んで好き勝手するって言うのは、やっぱり許される事じゃないのよ。
 出て行けと言われれば、皆ゴメンなさいと言って出て行かなくちゃいけないの。それがルール」

諭すようなメイの言葉に、ぐっ、と子供達が言葉に詰まる。

「あたし達だって、あなた達に酷い事をしたくて来たんじゃないわ。
 此処は幽霊屋敷って呼ばれているけど、十中八九誰かの悪戯だろうって、察しはついてたの。
 だからその悪戯をしている相手と話し合う為に、此処に来た。一方的に、追い出しに来たんじゃないのよ」

 

メイもシルフィスも、勝手に屋敷に入り込んでいた子供達を追い詰めるような事は口にしなかった。
不法侵入は確かに罪にはなるだろうが、子供達とて生きる為に必死だったのである。
彼らに咎が及ばないよう、また適切な施設に入って歳に相応しい教育が受けられるよう、便宜を図ってやる事も出来る。
だが―――

「この幽霊屋敷が、全部俺達の悪戯の仕業?本当にそう思ってるんなら、姉ちゃん達もまだ甘いな」
「どう言う意味です?」

僅かに力の戻った少年の声に、シルフィスの面に緊張が走る。

「俺達は、ここに居て良いって言われたから、ここを家にするって決めたんだ!それを邪魔するなら『おじさん』が容赦しないぞ!!」
「おじさん?誰の事よ」

リーダーらしき少年を中心に、子供達は身を寄せ合うようにして集まっている。一枚の、大きな肖像画の前に。
その絵が、一瞬、揺らいだように見えた。

波打つように、浮かび上がるように。
絵に描かれていた老紳士の姿が沁み出した幻のように―――ゆらりと二人の前に姿を現した。

 

『子供達に狼藉を働く者、今すぐこの屋敷から立ち去られよ』

 

「……メイ、私は目がおかしくなったんじゃありませんよね?」
「耳も多分、普通だと思うわよ。あたしにも見えてるし、聞こえてるから」

シルフィスは手を剣の柄にかけたまま、抜く事は出来なかった。ひくっ、とメイの口元が引き攣る。
自分の目で確かめていないものに対して、噂以上の恐れは抱かない。
だが、実際にその恐怖を目の当たりにしたのだとしたら―――?

「き……」

恐らくは、『きゃーっ!!!』っと悲鳴を上げたかったのだろう。だが二人の口元は絶叫を上げる寸前、後ろから手で塞がれた。
突然口を塞がれた事で、二人がパニックを起こして暴れかける。
だが視界の隅に見慣れた革の手袋を見付けて、メイは振り上げていた拳を下ろした。シルフィスも相手の正体に気付き、大人しくなる。

「屋敷の最後の住人、ティモス・サムド氏とお見受けする」
『ふぃーる?』

もがが、と押さえた手の下からくぐもった声が漏れる。眼鏡の下の翠の瞳が、一瞬メイを見た。
声の主は、キールだったのである。

 

 

『いかにも、私がサムドだ。お主も子供達に狼藉を働くのか』
「いいや、俺達は話し合いに来ただけだ。彼女たちも、そう言わなかったかな」

キールは二人を解放すると、手で後ろに下がっていろと合図した。
肖像画の前に集まった子供達は初めて見る現象ではないのか、平然としている。それどころか万の味方を得たように、堂々としていた。

「最後の住人である貴方の事を、少し調べさせて貰った。
 今から七十年程前にクラインに蔓延した流行病で、貴方は奥方と子供を失われた。間違いはないですね?」
『……いかにも』

 

絵の老紳士――サムド氏は、キールの言葉を認めた。
実体を持たない存在と会話が成立している事にメイ達は面食らったが、キールには精霊を視る力があるから、これもアリなのだろう。
無理にでもそう思わないと、恐怖が驚愕に取って代わりそうであった。

「そして貴方自身も病に冒されながら、この屋敷を病で親を失った子供達に開放し、孤児を養っていた。命尽きる―――その日まで」
『いかにも』

その声には、歳以上に重い響きがあった。

『私は妻と子供を救う事が出来なかった。だからせめて、親を失った子供達を守ろうと決めたのだ。
 その誓いは今も喪われてはおらん。この屋敷は、この子達のように寄る辺の無い者に解放されるべき場所。
 如何なる理由が在ろうとも、子供達に狼藉を働く事は赦さぬ』
「元より狼藉を働くつもりなど無い。だがこのままでは近い内に屋敷は取り壊され、子供達は追い出される事になる。
 どうか俺達に、全てを委ねて貰えないか。緋色の魔道士の称号と誇りにかけて、決して子供達に悪いようにはしない」

キールの言葉に陽炎のようなサムド氏は沈黙し、子供達の面にも、再び不安そうな表情が浮かんだ。

 

 

「お前達が出て行った後、少し気になったんでな。何もなければそれでいいし、万が一と思って屋敷の由縁を調べてみただけだ」
「お陰様で、幽霊だか残留思念だかに取り殺されずに済んだわよ」

ああ疲れたと、メイが居間のソファに倒れこむ。シルフィスも今頃は、騎士団寮の自室でぐったりしているかもしれない。
普通に屋敷の探索をするだけならこんなに消耗しなかっただろうが、
やはり瞬間的な恐怖や緊張は、思いの外心身を疲れさせていたらしい。

結局、サムド氏の残留思念?は、キールの言葉に信を置いて姿を消した。
子供たちには数日分の食事を差し入れ、しばらく屋敷の中で大人しくしているように言いつけてある。
ご飯が貰えて追い出されないのならと、子供達も素直に従った。

「火の無い所に煙は立たずと言うだろう?確かに大部分は人の手による作為的なものだろうが、全てがそうだとは限らない。
 もしかしたら、一つや二つは『本物』が関わっているかもしれない―――そう思ったのさ」

 

何故、最後の住人が屋敷を手放したのか。理由は調べてみれば、あっさりと判明した。
屋敷を受け継ぐべき直系の子や孫が、相次いで病で亡くなっていたのである。
ちなみに現在の屋敷の持ち主は、サムド氏からは遠縁にあたる血筋の子孫なのだが、
末端過ぎて、サムド氏の事は何も知らなかった。

「いずれ自分もその流行病で亡くなる訳だけど、それまで街に大勢出た孤児を引き取って面倒見てたのか。
 だから屋敷に迷い込んで来た子供達の前に姿を見せて、住んでも良いよって言ったんだ―――優しい人だったんだね」

子供達に話を聞くと、流石に初めてサムド氏の姿を見た時は驚いたと言う。
だが屋敷に住んでも良いと言ってくれた事もあるし、取り壊しに来た者を追い返す指示もしてくれたサムド氏の残留思念―――
敢えて幽霊とは言わない―――を、次第に怖いとは思わなくなったのだそうだ。

「手放したいと言う屋敷の持ち主の意向が変わらないのなら、手放せるように段取りをつける必要がある。あの子供達の事もな。
 持ち主の方はシルフィスに話をつけて貰うとして、俺は明日にでも兄貴の所に行って来る」
「アイシュの所に?」

 

キールが考えていたのは、あの土地を王国の予算で買い上げられないかと言う事だった。
適価で持ち主から買い取れたら、古くなった屋敷を建て替え、そこに親を失った子供達を保護する施設を作るのだ。
国営と言う形にして、安定して子供達が生活が出来、教育を受けられるように。

アイシュに持ち込んだとしても簡単に行く話ではないだろうが、実際問題として城下には孤児の姿を見かける事が多くなっていた。
ダリスでエーベの大樹が傷付けられた事で、不作や疫病と言う様々な形で弊害が出ているのだ。
ダリスの内戦が収束に向かったのはつい先頃の事で、クラインから派遣された者の中にも犠牲者は居る。
子を亡くす親も、親を亡くす子も、確実にこの数年増え続けているのだ。大人は経験から生きる術を心得ているが、子供はそうは行かない。
孤児となった子供達を保護する場を早急に確保する必然性があり、今回の一件をその前例に出来ればいいと、キールは考えたのだ。

 

「建て替える間だけあの子供達には他の施設に移って貰い、完成したら戻ってくればいい。
 それで、サムド氏との約束も果たせると思うんだがな」

約束したからには、自分の言葉に責任を持つ義務がある。
言葉にはそれ自体に力があり、簡単に反故にしては自分自身に悪しき影響として返って来るのだ。
二人とも魔道士だから言葉の持つ重要性は判っていたが、
例えそんな事を知らなくてもキールは自分に出来る最善を尽くすだろうと言う確信がメイにはある。
何だかんだ言いながら、キールはこれで結構面倒見がいいのだ。
クラインに来たばかりの頃の自分が、差し当たって何不自由なく生活出来たのが何よりの証拠である。

「上手く行くといいね、キール。あの子達やサムドさんの為にも、頑張ってアイシュに話を捻じ込んでいらっしゃい!」

アイシュは普段あまり無理を言わない――昨年のメイ絡みの追加予算は別だが――キールの頼みなら、
少しの無茶なら聞いてくれそうな気がする。それが利己的な事ではなく、幼い子供達の将来に関わる事ならば尚更だ。
近い内に家に招待して、食事でもごちそうしておこうとメイはこっそり考えていた。

 

 

「ところでキール、普通はああ言うのを見るとビックリするか怖がるもんだと思うんだけど、平然とコミュニケーションしてたわよね。
 不思議だなぁとか、気味悪いとか思わなかったの?」
「少しは驚くが……俺には、あまり珍しい光景ではないしな」

夕食を済ませて落ち着いた後、何気なく尋ねた事に対してのキールの返事に、メイがしゃっくりを飲み込んだような顔をする。

「……じゃ、何?やっぱりキールって、普段からああ言う人たち……視えてるの……?」
「―――さて、それはどうかな」

 

実は精霊もサムド氏の残留思念も、本質はあまり変わらないのだ。実体を伴わない精神生命体と言うべきか。
『子供を守りたい』と言うサムド氏の純粋な願いが、あの屋敷の居間にあった肖像画をかりそめの依り代として、
七十年もの間消える事無く存在し続けたのである。

存在の根底にあるものが怒りや怨みではなく、『願い』だと感じる事が出来たから、
例えそれが死者の思念だとしても恐怖は感じなかった。
しかしそんな事は露知らないメイはまた笑って誤魔化されてしまって、顔から血の気が引いていた。
以来彼女は『曰くつき』の依頼には、必ずキールに同行を願うようになったと言う。

                                                               【FIN】


あとがき

昨年秋に参加したファンタ本に提供する筈だったお話の……第一稿です(笑)
が、案外と手堅く纏まってしまったオチが本の主旨に合わなかったので、
後半の三分の二くらいをごっそり書き直してファンタ本の方には載せて頂きました。
没原稿にしてしまうのも惜しいので、こっそりサイトでUP。本採用となった方も掲載許可は出ているのですけど、それは後ほど改めて(^_^)

ちなみにお話の中で触れている、シルフィスとメイが一緒に解決した保養所に出る覗き魔退治と言うのは、
『○○の正体見たり…?』の事です。そちらも良かったらどうぞご覧になってください。軽いギャグタッチな仕上がりになってます。

                                                          麻生 司

 

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