ガタガタと風が窓を揺らせる音に、アリオーンは手にした本から目を上げた。
此処はトラキアでも特に高地に作られた山荘だ。麓より数段風が強く、天候も変わりやすい。
冬の厳しさが一層増し、吹き付ける風には雪が混じって吹雪となる季節だけに、朝夕の冷え込みは並ではなかった。


聖戦終結後にリーフ王の下『新トラキア王国』と名を変え、かつて領土を争ったレンスターとトラキアの二国は事実上併合された。
トラキアの王座を自ら降り、竜でしか辿り着けないこの地に隠遁して早一年余り―――日がな一日、書物に目を通す毎日を繰り返している。
根っから読書好きと言う訳ではない自分にとっては、
楽しむというよりはただ無為に流れていく時間を少しでも有意義な物にしたいという意味合いが強い。

月に数度、生活するのに必要な物資と共にこれらの書物を運んでくれるのは、かつて部下だった竜騎士。
自分の直属の部下であったが故に最後まで戦に付き合わせる羽目になったが、辛くも生き残って家族と再会出来た数少ない者の一人だ。
今は彼の口から聞く話が、アリオーンの身近な世界の全てである。


もはや国の政に関わる気は無い。
自分の生きる意味は既に喪われた。



―――何処に行こうと構わない。私の前に二度と姿を見せなくたっていい。
     でも絶対に、何があっても自ら命を絶たないで。
     それだけ約束してくれるのなら……私は、他に何も望みません。



生きる事にとうに飽いていながら、それでもこうして生き続けているのは―――最後に見(まみ)えた際の、アルテナの懇願故であった。








紅い空と大地の上に









その日は朝から風が強かった。
元々風が吹き付ける土地ではあるが、風鳴りが一層強い。吹雪となるのかもしれなかった。
人里離れた山荘で一人暮らしていると、外の事などどうでも良くなってくる。
必要な物資は全て定期的に運び込まれてくるので、この一年近くアリオーンは山荘を離れた事がない。
騎竜のリヴェールは放して自由にさせているが、自ら竜を駆ることは無かった。

リヴェールは今日は、山荘の脇に作られた専用の小屋で大人しく眠って過ごす事にしたようだ。
既に壮年期に入ったアリオーンの騎竜は、天候を選ばず空を飛び回るほどの血気盛んさは喪われつつある。
或いはまるで一緒に空を飛ぼうとしない主に付き合うつもりなのか、最近は手綱を外して自由にしてあっても、飛び立って行かない事の方が多い。
今朝も天候が悪くなる事を見越し、より風雪が凌げる場所に好きに移動出来る様に手綱を外してやったのだが、
甘えるようにアリオーンに身を摺り寄せた後、いつものように小屋に収まって丸くなっただけだった。
ちなみにアリオーンの住まう山荘とリヴェール用の小屋の屋根や壁は三層になっており、外との寒暖差は随分と緩和される仕組みになっている。


陽の光が雲に遮られていた為、ランプの灯りを頼りに書物に目を落としていたのだが、不意に聞こえたリヴェールの低い唸り声にアリオーンは顔を上げた。
その声からは、それほど強い敵意ではないものの、見知らぬ者に対する警戒を感じる。
月に数度訪れる元部下もその騎竜も、リヴェールにとっては馴染みの深いもので今更警戒する事は無い。
という事は、リヴェールにとって未知の『何か』が近付いているという事だ。

訝しげに眉を寄せたアリオーンは、リヴェールが翼を休める小屋へと向かった。




「リヴェール、どうした?」

長年兄弟のように親しんだ騎竜の背を撫でると、リヴェールはグルルと喉の奥を鳴らしながら小屋の外へ這い出て、アリオーンの前に身を置いた。
得体の知れぬ存在から、主を守ろうとしているのか。
アリオーンが耳を澄ますと、吹き付ける風の音に紛れて、翼が力強く空を叩く音が聞こえる。
それは確かに竜が羽ばたく音に他ならなかった。

群れから離れたはぐれ竜の可能性もあるが、それならばリヴェールは警戒よりも威嚇をするだろう。
竜は同属意識が強い生き物だが、各々のテリトリーは侵さないものだ。
威嚇されれば己が他者の領域に入り込んだ事を察し、離れて行く。
しかしリヴェールは明らかに威嚇ではなく警戒を強め、更に緊張を高めている。
戦場を離れて一年余り―――こんな事は、この山荘に移って以来初めてだった。


――― 一体何者だ?


元よりこの山荘を知る者はそう多くない。
竜か天馬を駆る事さえ出来れば至る事は難しくない場所とは言え、もはや自分の下を訪れる意思と意図を持つ者は限りなく少なかった。
しかも数少ないその何人かは、リヴェールが警戒を抱く相手ではない。

霧の向こうに、滲むように一つの影が浮かび上がる。
紙に落としたインクが広がるようにその影は大きさを増し、翼が空を叩く音が更に近付く。

やがて霧の向こうから姿を現したのは、黒光りする肌の光沢を持った一体の竜。
―――その背に跨るのは、かつて誰より身近であった人の面影を宿す青年だった。




「……珍客だな」
「お久し振りです、アリオーン殿」

皮肉めいた呼びかけに、騎竜から降り立ったリーフが丁寧に頭を下げた。
何の先触れも出さず、突然竜に乗って訪ねたのだから驚かれて当然だ。しかも両手を広げて来訪を歓迎される仲でもない。
リヴェールはまだ低い唸り声を発していたが、アリオーンが『大丈夫だ、敵ではない』と声をかけ宥めると、ようやく落ち着きを取り戻した。

「貴公は竜騎士ではなかった筈だが?」

一目で判る若い竜を見上げ、アリオーンが目を細める。
リーフは確かに優れた騎士ではあったが、彼はレンスターに生まれ育ち、竜とは無縁だった筈だ。
その彼が何故、騎竜を得てこの場に居るのだろう?

「この半年、猛特訓をしてようやく認めて貰ったのですよ。この竜にね」

この時ばかりはニヤリと得意気な笑みを口元に浮かべ、リーフは自身の騎竜の首筋を優しく撫でた。





狭い思いをさせてしまうが、リヴェールの小屋にリーフの騎竜もどうにか入れてもらうと、
二人は山荘内に場所を移し、暖炉の前に置かれた安楽椅子に向かい合って腰を下ろした。
暖炉に灯る炎の温かさ
が身に沁みる。

「ワインくらいしか出せないが」
「ありがたく頂きます。竜に長く乗るのはまだ慣れないので、すっかり手足が冷え切ってしまった」

グラスを二つ用意し、アリオーンがボトルを傾ける。
注がれたワインに口をつけ、リーフは酒気がほんのりと身体を温める感覚にホッと息をついた。
訓練はしたとは言え、竜との付き合いはまだ浅く短い。長時間の飛行、しかも真冬の飛行は心身に緊張を強いたのだろう。
ワインの酒気によって程よく身体が弛緩した事で、思った以上に全身の筋肉が強張っていた事を改めて感じた。

「……それにしても、貴公が竜騎士になるとはな。
 主を選ぶ幼年期の竜は、もはや存在していないと思っていた」


新たな竜騎士が生まれない理由は幾つかある。

一つには竜自体が、それほど数の多い生き物ではないからだ。
竜の寿命は大体三十年で、人間のほぼ倍の速さで齢を重ねる。生涯に数回の産卵を行うが、その全てが騎竜として飼い慣らされる訳ではない。
二つ目に先年起きたトラキアの災厄―――数十年に一度の周期でこの地方を襲う風土病―――で、
次代の竜騎士となる若者が大勢命を落とした。同時に竜を巧みに養い、飼い慣らす事が出来る人材も多く喪われた。
主となるべき騎士がほぼ全滅した今、早急に新たな竜を飼い慣らす必要性もなく、僅かに生き残った者が同じく生き延びた竜を細々と世話している状態なのである。

実質トラキアに残った竜騎士はアルテナ一人であると言っても過言ではない。
自分は既に騎士として生きる事を止め、世間から隔絶した生活を選び、僅かに生き残った元部下達も此処を訪れる以外は竜を降りたと聞いている。
そんな現状で、まさか新トラキアの王となったリーフが新たな竜騎士になるとは予想もしていなかった。

アリオーンの言葉に、リーフが顎を引いて頷く。


「ええ―――だから、正直大変でした。
 あのハーシェルと名付けた竜も、本来ならば主を決める時期は過ぎていたのですが……
 僕にとっては運良く、彼にとっては時悪しく、未だ誰も主と定めていなかったので。
 これでも一応マスターを名乗る事を許された騎士の端くれですが、何度機嫌を損ねて放り出されそうになった事か」


空を飛ぶ竜から落ちるという事は、落馬するより遥かに死に直結する。
勿論馬にしても侮って駆っていた訳ではないのだが、竜を乗りこなすには馬の数倍神経をすり減らさなくてはならなかった。
必要以上に握り締めた手綱との摩擦で、槍と剣の稽古で既に十分分厚くなっていた筈の掌に血が滲むのを見た姉には、
やはり本来主を選ぶべき幼年期を過ぎた竜に、未だ竜騎士を志して日の浅い者を主と認めさせるのは無理だと何度も諭された。

姉の説得にも頑として退かなかった諦めの悪さ故に、今自分は此処に居る。


「何故わざわざ、そのような命の危険を冒してまで竜騎士になった?貴公には今更竜騎士を志す理由など無いだろう」


例えば未だ自国で戦闘状態が続いているのならば、空を自由に駆ける竜騎士になるのも選択肢の一つとして良いかもしれない。
だが既にユグドラル全土で戦は沈静化し、騎士も兵士もその存在意義の多くを喪った。
まして命を賭ける理由など、ありはしないのに。

だが『理由ならあります』と、リーフは小さく笑みを浮かべた。


「貴方に会う為ですよ。こうして自分から出向かないと、山荘に引き篭もってしまった貴方は会ってくれないでしょう」
「俺に……?」

アリオーンの眉が、訝しげに寄せられた。




その答はアリオーンにとって意外と言う他なかった。

実の姉である、アルテナの為だというならばまだ判る。
レンスターの王女として、また地槍ゲイボルグの継承者として生を受けながら数奇な運命を経てトラキアの王女として成長したアルテナは、
当然のように幼少から竜に親しみ、自らも竜騎士となった。
姉の生きてきた人生を理解する為に竜騎士を志したと言えば、なるほどそうかと頷く事も出来る。

だが彼は自分に会う為に竜騎士となったという。
騎士として生きる事を止め、もはやトラキアの王でも無い自分の為に―――


「何故、わざわざ俺に会う必要がある?
 レンスターもトラキアも既にお前のものだ。一度認めた以上、俺はお前の執政に口を挟む気は無い。
 アルテナとハンニバル
、そしてお前の育ての親でもあるフィンという騎士が居れば、助言者としては十分だろう」
「貴方と対等に話し合うには、トラキアの事をもっと深く知るべきだと思ったからです」

リーフは静かにそう呟いた。




「実はこの一年余り、レンスターは義父となったフィンと妃のナンナに任せきりで、僕はずっと姉上が居城と定めたトラキア城に滞在していました。
 其処でトラキアの歴史を学び、トラキアの風土と気候を知り、トラキアに生きる人々と接して暮らして来た。
 その上で、貴方の生きてきた人生を知るには自分が竜騎士になるしかないと……そう、考えたのです」


姉はノヴァの直系でありレンスター王家の長子であったが、
レンスターとトラキアの両国を統一して新たに作られた新トラキアの王位に就く事は頑なに固辞した。

姉に代わって王位に就いたものの、自分はあまりにもトラキアという国を知らない。
トラキアを本当の意味で理解するには、トラキアの民の視点に立つ必要がある。その為にまず、実際にトラキアで生活する事を選んだ。
祝言を挙げたばかりだったナンナには申し訳ないと思ったが、
『リーフ様が決めた事で、それが今後国の為になるのなら』と、彼女は少しだけ寂しそうな笑顔で送り出してくれた。
以来レンスターには、どうしても外せない所用の為にのみ、数回しか戻っていない。

「―――貴方の父親は両親の仇だった。僕から国と家族を奪ったトラバントを、僕はずっと憎んでいました」

淡々と口にされた言葉を、アリオーンは沈黙で受け止めた。
それは事実であり、何をどう足掻いても変えようの無い過去である。
あの運命の日を境にリーフは両親を亡くし、アルテナは生まれ故郷を喪い、仇を親と呼んで生きる事となったのだ。
当時少年だった自分にはどうする事も出来なかったとはい
え、それからの彼等の人生を顧みれば、一抹の苦い思いを禁じえないのもまた事実だった。

「しかし約二十年の時を経て僕はそのトラバントを討ち、僕は貴方にとって親の仇となった。
 貴方には僕を憎む権利が有る―――その事は否定しません」
「…………」

沈黙を保ったままのアリオーンを前にして、リーフは更に言葉を続けた。

「ですが、その憎しみはあくまでも僕一人に向けられるべきもの。
 かつてレンスターと呼ばれた国に生きた人々や、家族として貴方と共に暮らした姉上の、二十年近くに及ぶ時間まで否定しないで欲しいのです」


トラキアで生きた十数年が否定されてしまったなら、姉にとってその時間は全く意味の無い物になってしまう
兄妹として共に暮らした時間をアリオーンが否定したその瞬間に、姉は永遠に笑顔を喪ってしまうだろう。


「……姉上は今でも貴方の事を兄と―――いえ、それ以上の存在として、貴方という男性を慕っています。そしてまたトラバント王の事も」

リーフの口から出た亡き父の名に、アリオーンの表情が微かに動く。
その事にリーフも気付き、彼の面にも微妙な表情が浮かんだ。

「僕やフィンの前では、決して口に出したりはしません。ですが……どんなに隠そうとしても、判るものです」


或いは、隠そうとするが故に。
例えば全く意識していないのなら、何かの折りにトラキアの事を話題にする機会があってもいい筈だ。
寧ろ十七年間を過ごした土地と時間を、一度も顧みる事が無い方が不自然だろう。
少しも気にしないと言えば嘘になるが、これまでの姉の人生を否定する気はリーフには毛頭無い。
だから姉がトラキアで生活していた頃の事を口にしても、受け容れるだけの覚悟も心積もりも出来ていた。

だがアルテナからは、一切トラキアで生活していた頃の話を聞くことはなかった。
それがかえって違和感を感じさせるのである。
意図的にトラキアに関する話題を避けている事が明白だからだ。

「姉上にとって貴方を兄と、トラバントを父と信じて生きた十七年間は幸福な時間だった。
 家族と言う繋がりが偽りであったのだとしても……姉上は確かに幸福だと信じていたんです。
 そしてそれは―――今も変わっていない」
「幸福……アルテナが?」

アリオーンは憑き物が落ちたような表情を浮かべた。

仇を親と呼ばせられ、その仇の子を兄と信じて生きた十数年。
真実を知った今、アルテナは自分と父の事を恨んでいると思っていた。
幸福だと信じていたなら尚の事、欺かれ、裏切られたと思って当然だろう。

リーフがほろ苦い笑みを見せる。


「正直に言ってしまえば、とても悔しい。
 けれど僕達には、どうやっても姉上と離れて暮らした十七年という時間を埋める事は出来ないんです。
 その差を埋めるには、同じだけの時間が必要になる」

一年や二年ならば、迷う前に実践する事を選んでいた。
心を尽くし、言葉を尽くして、離れて過ごした時間を埋めるべく努力を惜しまなかっただろう。
だが埋めるべき十七年という時間は、漠然と取り戻すにはあまりに長過ぎた。

「姉上の心には、今ぽっかりと穴が空いてしまっている。
 レンスターの王女として生まれながら
トラキアの王女として生きた時間が、姉上を酷く不安定な立場にしてしまった。
 ノヴァの直系として生を受けた事は揺ぎ無い事実。レンスターの王女である事を否定出来はしない。
 その反面、トラキアの王女である事もまた、姉上にとっては変えようの無い事実なのです。そのどちらにもなりきれなくて、姉上は一人苦しんでいる」

苦しいのだと言ってくれたなら、その声に応じる事も出来る。
だが姉は内に抱えた孤独を、決して自分やフィンには見せまいとして気丈に振舞っていた。
何処か寂しげな笑顔に孤独を押し隠し、私(わたくし)を捨てて国と民の為だけに生きようとしている。
いつか姉の心が折れてしまうのではないかと気掛かりでならなかった。

「……姉上の苦しみを理解する事が出来るのは、誰より長く同じ時間を共有した貴方だけなのです。
 どうか姉上の想いを汲み、傍で支えてさしあげて欲しい。
 貴方にとっても、姉上と共に暮らした時間の全てが偽りだった訳ではないでしょう?」

きっかけは、いずれ父から姉へと継承される筈のゲイボルグだったのかもしれない。
しかし子供は正直だ。
どんなに上辺は笑って見せても、心から笑っていない者には決して懐かない。
だが幼かった姉はアリオーンを兄と、トラバントを父と信じ、成人に達する歳まで疑う事無く慕っていた。
それは少年だったアリオーンのみならず、いつしかトラバントも姉に対して真の愛情で接していたからではないのか。

「今更悔いても嘆いても、僕の両親や貴方の父親が蘇る事は無い。
 ならば辛くても苦しくても、僕たちは歩き続けなければいけないんです。それが生き残った僕たちに課せられた使命。
 ですがこのままでは、姉上は生きたまま死んでいるも同然です」


アリオーンは目を閉じ、一度深く息を吐いた。
胸の内の澱を吐き出すかのように。


「―――俺は無為に民を死なせた。
 退くも進むも俺次第だと言い残して、父は最期の戦いに赴いた。
 もしもあの時、戦わずして退く事を俺が選んでいたなら……死なずに済んだ兵士も大勢居ただろう。
 だが俺は退かずに戦う事を選び、死ななくても良かった筈の兵と民を数多く死なせた。
 ……その俺がアルテナの傍に居ては、貴公の立場も悪くなるだろう?」
「……そうかもしれません。あの時、僕たちの軍には聖弓イチイバルを持つファバルや、風のフォルセティを持つセティが居た。
 例えトラキア軍の方が数で勝っていたのだとしても、弓と魔法に殊更弱い竜騎士では、勝ち目の無い戦だった。
 止める事の出来たその戦を止めなかった貴方には、確かに非がある。
 でもトラキアで多くの犠牲者が出たのは、戦だけが原因ではない」


そう―――トラキア城下で多くの犠牲者を生んだのは、実は戦ではなく、数十年の周期でトラキアを襲う風土病だった。
解放軍との全面対決の直前に、時悪しくトラキア城下は恐ろしい感染力と致死力を誇る風土病に蹂躙され、戦わずして壊滅状態に陥っていたのだ。
竜騎士達が投降の呼びかけに応じずほとんど玉砕に近い形で死を選んだのは、或いは死の病に侵されていく故郷に絶望していたからかもしれない。
その後トラキア城に入った解放軍も感染の脅威に晒され、事実セティが発症して一時は危篤状態にまで陥ったのだが、
そのセティが命懸けでグルティアの神殿から持ち帰ったリザーブの杖でコープルが全ての罹患者を癒し、辛うじてトラキアの民共々全滅を免れたのである。


「僕も貴方も、あの戦と病の脅威を生き抜いた。そして生きている以上、人は誰にも幸福になるために努力する義務がある。
 それが死者に対するせめてもの償いであると……僕は思っています。
 生きながら命有る事を否定するような生き方を選ぶには、姉上も貴方もまだ若過ぎる。
 自分の為にと考えるのが重荷ならば、姉上の為に、より幸福な生き方をする努力をして欲しい」

面立ちに母の、髪と瞳には父の面影を宿していると言われながらも、
こればかりは育ての親譲りだと誰もが口にする真っ直ぐな気性そのままに、リーフはアリオーンを正面から見返した。

「……姉上が固辞された為に止む無く王位には就きましたが、実際の僕はまだ二十歳にもならない若輩者です。
 国政を執るにはまだまだ経験が浅く、至らない事も多い。まだ接して間もないトラキアの事になると尚更だ。
 トラキアの大地とトラキアに生きる人々を誰より愛した貴方と姉上に、これからも共に僕を支えて欲しいのです。
 ―――どうか姉上の住まうトラキア城に帰って来てください」


沈黙が二人の間に下りる。
時折風が窓を揺らす以外は息遣いさえ憚られるような静けさの中、先に沈黙を破ったのはアリオーンの方だった。


「……俺は一度は貴公に槍を向けた男だぞ?
 そして貴公自身が認めた通り、俺にとっては父の仇―――いつか裏切り、寝首をかくかも知れん。それでもいいのか?」
「親の仇や、元は敵であった者同士が仲間になるなど、解放軍でも珍しくはありませんでした。
 アレスは親の仇の子だと信じたままセリス様と出逢い、後に和解した。
 ヨハン、ヨハルヴァ、ティニー、ファバルも元は敵だった。ハンニバル将軍だってそうです。
 皆一度は敵となったけど、誤解を解き、障害を除く事で仲間になった」

リーフは一度拳を握り締めると、軽く開いた掌に視線を落とした。

「僕は新トラキアの王となる事を受け容れた。
 受け容れた以上は、少しでも多くの人々が出来るだけ幸福に生きられる国を作りたい。その為の努力は惜しまないつもりです。
 でも僕の取る道が貴方の目に誤っていると映ったなら、その時は僕を止めて欲しい。
 そしてその役目を担うのは……僕に対して一切の容赦を捨てる事の出来る貴方が一番相応しい」


クッと喉の奥を鳴らし、アリオーンが苦笑いを見せた。


「呆れた奴だ。自分の寝首をかくかもしれない相手にわざわざ頭を下げ、敢えて姉の傍に置くと言うのか?」
「ええ、ずっと敵だと思っていますよ。僕から姉上を盗って行ってしまうんですからね」

澄ました顔でさらりと口にされた事に、一瞬アリオーンが言葉を喪う。
ニヤリと口端を上げ、リーフは意地の悪い笑みを浮かべた。

「父上なら、貴方に『一発殴らせろ』くらい言ったかもしれません。娘の父親とはそういうものだそうですから」

珍しく冗談めかして、いつかフィンが口にした事を思い出す。
『娘の夫となるのが貴方でなければ、私を倒さない限り嫁にやるつもりはありませんでした』―――と。
女性としての娘の幸福を願う半面で、素直に喜べない複雑な一面もまた男親の心理
なのだろう。

ですが僕は、なんとしても姉上にも幸せになって頂きたいのです。
 今はただ姉上の傍に居てくださるだけでもいい。
 でもいつか国同士の謀(はかりごと)も戦も関係なく、純粋に惹かれ合った二人が結ばれる時が来たならば―――
 その時こそ真に、レンスターとトラキアの二つの王家の血が一つとなれるのではないでしょうか」

リーフがスッと表情を改め、目前のアリオーンに深々と頭を垂れた。

「アリオーン殿。姉上の事を―――どうか宜しくお願いします」






日暮れ間近のトラキア城下に、いつにも増して賑やかな子供達の声が響き渡る。
その騒ぎに何事かと様子を見に表に出た大人たちは、子供達に促されるまま空を見上げ、一様に驚きの表情を浮かべた。

「ねぇ、見てあの竜。もしかして……!」
「ああ、間違いない。あれは……」

空を指差した大人たちがこぞって隣人に声をかける。
歓喜のさざ波は波紋のように広がり、いつしか城下は空を見上げる多くの人達で溢れかえっていた。



その気配は、城の私室で読書をしていたアルテナの元にも届いていた。
戦場に身を置く事も多かったアルテナは、平和になった今も気配を感じ取る事には長けていた。

『何かしら……この感覚』

本を閉じ、訝しげに気配の元を探る。

不快な感じはしない。
寧ろ祭の前のような、不思議な高揚感が城下から伝わってくる。
しかし今日は特別な市が立つ日でも、祭の予定も無い筈だ。
それに市が立つには遅過ぎる刻限である。もう日が暮れるのだ。
だとすれば、此処からでも微かに聞こえるあのざわめきは一体何なのだろう?

城下の様子を見に行ってみようか―――そう考えた時、部屋の扉が忙(せわ)しなく叩かれた。


「姫様……アルテナ様!」
「落ち着いて、一体何の騒ぎなの?城下も随分と賑やかなようだけど」

私室の扉を叩いたのは、この数年アルテナの部屋係をしてくれていた女性だった。
同じ女性で同年代と言う事もあり、アルテナが普段から友人として懇意にしている相手でもある。
一度は自分がトラキアを去った事で縁も切れたと思われたが、彼女はあのトラキアの災厄も無事生き延び、再び部屋係に名乗りを挙げてくれたのだ。

歳は若いが普段は落ち着いた物腰の彼女が、これほど慌てる様を見たのはアルテナも初めてだった。


「姫様、直ぐに謁見の間へお越しください。謁見の間の露台にリヴェールが……!」
「リヴェール?アリオーンの竜が、どうかしたの?」

謁見の間から通じる露台は大きく城下に向かって開けており、確かに其処ならば竜が舞い降りる事も出来る。
リヴェールは隠棲したアリオーンの騎竜であり、今は彼と共に山荘に居る筈だった。
そのリヴェールがトラキア城に姿を見せたという事は―――まさか、アリオーンの身に何かあったのだろうか。
主の抜き差しなら無い状況を察し、アルテナに何かを伝えようとやって来たのかもしれない。

アルテナは私室を飛び出し、謁見の間へと駆け出した。




「リヴェール!」

謁見の間の露台に、かつて見慣れたドラゴンが翼を畳み、黒々とした巨体を休ませていた。

「リヴェール、一体どうしたの?アリオーンに何かあったの!?」

駆け寄ったアルテナに、甘えるようにリヴェールが顔を寄せる。
その仕草はまるで幼い子供のようで、とても主の大事にアルテナを頼ってやって来た様には見えなかった。
リヴェールの首筋を優しく撫でてやりながら、心の何処かに一抹の不安を残しながらも、杞憂であったのかとホッと一つ息をつく。
だから不意に背後に気配を感じた瞬間にも、咄嗟に振り返る事が出来なかった。


「こうも簡単に背後を取られるとは、しばらく見ない間に感覚が鈍ったか?」
「……アリオーン?」

強く背後から抱き締める腕に、アルテナが恐る恐る手を触れた。
優しい温もりと、肩に落ち掛かる栗色の髪。そして風を切る竜の背でもよく通る声。
―――そのどれもが、堪らなく懐かしい。

「―――もう、二度と逢えないと思っていました」

両の手でしっかりとアリオーンの腕を抱く。
これは夢で、振り返ったら消えてしまうのではないか―――そう思うと、怖くて振り向く事さえ出来なかった。

「お前の弟……リーフが、竜騎士となって俺の所へとやって来た」
「リーフが?」

リーフがアリオーンを訪ねたのは、アルテナにとっても意外だったらしい。

「あれに竜騎士となる手ほどきをしたのはお前だろう?」

コクンと濃い栗色の髪を揺らし、アルテナが頷く。

「あの子は祝言を挙げた直後に、妃となったナンナをレンスターに残したまま一人でこの城に滞在していて……
 ずっとトラキアの事を学んでいたのです。それが半年ほど前に、突然竜騎士になりたいと言い出して」


リーフは最高の称号である、マスターを名乗る事を許された程の騎士だった。
しかし天馬や竜を自在に御するには、生半可な訓練では追い付かない。
何故戦も終わったこんな時期になって竜騎士を志すのだと理由を尋ねたら、彼は『必要だから』としか答えなかった。

興味本位なら止めておけと突き放す事も出来たのだが―――リーフは真剣だった。
命懸けの訓練にも、臆する事無く立ち向かった。
歯を食いしばり、手綱を掌に滲んだ血で染めながら訓練を続けた結果、その熱意に絆(ほだ)された一頭の若い竜にようやく主と認められたのである。
それが三ヶ月前の事―――リーフはその竜をハーシェルと名付け、以来二人三脚で訓練を続け、遂に先日、正式に竜騎士と名乗る事を許されたのだった。


「リーフは何の為に貴方の所へ?」

静かな問い掛けに、僅かな沈黙の後、答が返る。

「―――生きている以上、人は誰にも幸福になる為に努力する義務があると説教された。
 それが死者に対する、せめてもの償いであると」
「幸せになる為に……努力する義務」


それはかねてからの弟の口癖だった。
自らアリオーンの元に赴き同じ言葉を投げ掛けたところをみると、敢えて意識して自分の前でも言葉にしていたのかもしれない。

生きながら命有る事を否定するような生き方を選ぶなど認めない―――と。


「アルテナ、今の俺には何も無い」

背後から回された腕を抱く手に、二度と放すまいと力を込める。

「俺はお前の兄ではなく、もはやトラキアの王ですらない。
 それどころか、お前の実の両親を殺めた男の子だ。それでも―――」
「……それでも……私達は生きているから」


生きている以上、歩き続ける。
辛くても苦しくても、人の上には等しく時間が刻まれていく。
喪ったものは取り戻せない―――ならば、新しく築けばいいのだ。

信頼も、絆も、いつか積み重ねられた時間が全てを結び合わせてくれる。


「―――例え二度と会えないのだとしても、この空の下で貴方が生きていてくれれば、それだけで良かった」


パタリ、とアリオーンの手に雫が落ちる。
それはアルテナの瞳から零れ落ちた涙だった。

女としての幸福など要らない。
傍に居る事が叶わなくても、想いを伝えられないのだとしても、アリオーンが生きてさえいてくれたらそれで良かった。
望むのは、ただ彼の平穏な人生のみ―――そう誓いを立て、一人この地で生きる覚悟を決めたけれど。


「なのに貴方の声を聞いたら、この腕に抱き締められたら……心が折れてしまいそうになる」

震える声に腕が緩み、アリオーンの気配が一瞬遠のく。
離れて行く気配を辿るように強く目を閉じたアルテナを、だが彼はゆっくりと振り向かせた。

「……不思議なものだな。俺達には血の繋がりなど無いのに―――同じ事を願っていたとは」

憂いを帯びた栗色の瞳に、一年前より更に美しくなったアルテナの姿が映る。


アルテナにとって、自分は憎むべき存在だと思っていた。
十七年間、父と共に彼女を欺き続けた報いを受けて当然だと―――だが、いつだって彼女の幸福を願っていた。
例え憎まれ、蔑まれようとも、彼女が幸せに暮らしているならばそれだけで自分は充たされた。

憎悪の象徴である自分の姿を、二度とアルテナの前に晒すまい―――その決意を揺るがせたのは、突然山荘を訪れたリーフの言葉だった。


『いつか国同士の謀(はかりごと)も戦も関係なく、純粋に惹かれ合った二人が結ばれる時が来たならば―――
 その時こそ真にレンスターとトラキアの二つの王家の血が一つとなれるのではないでしょうか』


決して明らかにすべきではない願いだと、胸の奥に禁じていた。
だがもしも許されるのならば……兄と妹ではなく、征服者と人質としてでもなく、ただ一人の男と女として手を取り合う事が出来たなら。

望んでも良いのだろうか。
―――アルテナと二人で共に生きる、幸福な未来を。


「―――お前の傍で、生きてもいいだろうか」

気の利いた言葉一つ思い浮かばない。
だがアルテナは微笑を浮かべると、『勿論』と小さく呟いた。

「トラキアのこの紅い空と大地を、私は決して忘れない。
 生まれた場所こそレンスターだったけれど、終(つい)の眠りにつくのはこのトラキアと決めていた。
 もう何を奪う事も、奪われる事も無い。これからはただ穏やかに流れる時間に身を浸しましょう―――共にこの地で」


夕闇の帳の中、遠慮がちに二つの影が一つに重なる。
ようやく一歩を踏み出した二人を穏やかに見守るように、リヴェールの漆黒の瞳が全てを映していた。





アルテナとアリオーンが再会を果たした数刻後。


寝室で友人からの便りに返事を書いていたナンナは、不意に誰かに呼ばれたような気がして顔を上げた。
しかし室内は相変わらずシンと静まり返っており、特に城内も変わった様子は無い。
父の私室も近くにあるが、今日は所用で朝からアルスターの方に出ており、今夜は向こうに滞在する事になっている。
火急の用でもない限り、すっかり夜も更けたこんな時間に自分を呼ぶ者など無い筈なのだ。

遠く離れた友人を思いながら返事を綴っていた筈なのに、それでも気が逸れた理由は判らない。
だがナンナは書きかけの手紙とペンを片付けると、露台に続く扉を押し開けた。

深夜の風は身を切る刃のように冷たい。
肩にかけたショールを胸の前でしっかりと押さえながら、目を閉じ耳を澄ます。
どのくらい、そうしていただろうか。


バサリ……と、何かが羽ばたく音が聞こえた。
鳥ではない。もっと大きな物だ。
その正体が何であるのか考えを巡らせるその前に―――『ソレ』は突然、夜の闇の向こうから姿を見せた。


「きゃっ……!」


闇色の巨体が猛烈な風を巻き起こし、ナンナの髪と夜着の裾が大きくはためく。
一度頭上に気配の逸れた『ソレ』は、一瞬後にはゆっくりと露台の隅へと舞い降りた。

「ナンナ!!」
「リーフ……様?」

ひらりと露台に降り立ったリーフにギュッと抱き締められ、ナンナが目を瞬かせる。
祝言を挙げた直後から一年余り、ほとんどをトラキアの地で過ごしていた夫の突然の帰還に、驚きの余り咄嗟に声が出ない。

「ただいま、今帰ったよ。長い間独りにして済まなかった。フィンは居るかい?」
「え?いえ―――お父様はアルスターに。今夜はお帰りになりません。
 それよりリーフ様、この竜は一体……アルテナ様のトリルやアリオーン様のリヴェールとも違うでしょう?」
「うん、僕の竜―――ハーシェルというんだ。
 ハーシェル、しばらくお前の棲み良い所で休んでおいで。
 また近い内に、もう一度トラキアまで飛んでもらわないといけないからね」


一度ナンナの傍を離れたリーフが鼻先を撫でてそう話しかけると、
ハーシェルと呼ばれたその黒い肌を持った竜は、一度主であるリーフに頬ずりするようにして飛び立った。

竜はかなり遠くに居ても、竜笛という特殊な笛で呼び寄せる事が出来る。
トラキアならまだしも、竜という生き物自体に慣れていない土地では、
下手に城や城下に留め置くより、害にならない所で自由にさせておいた方がいいのだ―――と、いつかアルテナが教えてくれた事をナンナは思い出していた。


「リーフ様、一体いつ竜を御する訓練などされたのですか?
 竜に主と認められるのは、馬のそれとは比べ物にならない程難しいと、いつか仰っていたではありませんか」
「うん、勿論大変だったよ。まず僕を主と認めてくれる竜と出会うまでに三ヶ月。
 やっとハーシェルを得たものの、正式に竜騎士の称号を得るのに更に三ヶ月掛かってしまった。
 簡単ではないと覚悟はしていたけど、何度も背から放り出されて死ぬかと思ったよ」

死と隣り合わせだったと聞いて、ナンナは顔色を喪った。

「そんな……何故そんな危険を冒してまで、竜騎士の称号を得ようなどと……!
 確かに貴方はトラキアの名を冠した国の王となったけど、だからと言って既にマスターの称号を戴く貴方が、
 新たに竜騎士の称号まで得る必要はないでしょう!?トラキアには竜騎士であるアルテナ様もいらっしゃるのに……!」

蒼白になった頬に、湧き起こった怒りが微かに朱を差す。

彼女は滅多な事で怒りの感情を表に見せる事は無い。
どんな時にも客観的に、一歩引いてリーフを支える為に、物心付いた頃から感情を抑制する習慣を身につけていた。
そのナンナがこれ程に怒るという事は、それだけリーフの無謀に対して腹を立て、尚且つその身を案じている証―――
それを理解しているが故に、リーフは静かな声で応えた。

「その姉上の為にも、僕は竜騎士となる必要があったんだよ」
「アルテナ様の……為?」


見栄や面子の為ではなく、アルテナの為にアリオーンと会わなければならなかった。
天馬か竜でしか至る事の出来ない場所に隠棲した彼と直接会い、腹を割って話をするには、自分が竜騎士となる以外なかったのだと。


「それでアリオーン様は、何と……?」
「お互い、親の代から色々あったからね。簡単ではなかったけど―――でも、判って貰えた。
 自分自身の為ではなく、姉上の為にとお願いしたら……最後には、首を縦に振ってくれたよ。
 今頃は姉上と積もる話でもしていらっしゃるだろう。
 僕はアリオーン殿がトラキア城に入られるのを確かめて、そのまま戻って来たんだよ。小姑はお邪魔だからね」
「まぁ……!」

アリオーンの説得が上手く行った事と、リーフの最後の冗談めかした口調にナンナの顔にもようやく笑顔が戻る。

「でもハーシェルで直接戻ってしまったから、トラキアにヴァイスを置いて来なければいけなかった。
 そのうち時機を見て、迎えに行って来るよ。
 竜にはレンスターよりトラキアの空と気候の方が合ってるだろうから、今後は姉上とアリオーン殿にハーシェルを任せようと思うんだ」
「そうですね。これからは行き来する機会も増えるでしょうけど、やっぱり仲間が傍に居た方がハーシェルも寂しくないでしょう」


必要な事だと判っていても、長く離れていたらやっぱり寂しい。
それは誰より、ナンナ自身がよく理解していた。


「アルテナ様にも、これで本当の笑顔を取り戻して頂けますね」
「うん、きっとね。時間は掛かるかもしれないけど……僕以上に、兄妹として長い時間を共に生きて来たあの二人なら大丈夫。
 例え兄妹という肩書きを喪ってしまったのだとしても、互いが本当に大切な人である事は変わりないのだから」

しばらくの間は、かつて兄であり妹であったという隔たりが残るかもしれない。
アリオーンには直接述べた事だが、姉にはっきりとした自覚さえ芽生えれば、いつでも二人の婚礼を祝う心積もりは出来ていた。
それはきっと、遠い話では無いと信じている。

「良かった……
お父様もきっとお喜びになるわ」
「そうだね―――きっと」


自分は既に吹っ切れたが、フィンにとってはまだ複雑な心境かもしれない。
だがそれが姉の幸福であり、政略に由(よ)らないレンスターとトラキアの血の融和だと理解すれば、きっと判ってくれる。


「で、ナンナ。まだ聞いてないよ?」
「え―――?」

きょとん、と父親譲りの青い瞳で見上げるナンナの額を、コツンとリーフが軽く指先でつつく。

「『ただいま』って、僕は言ったんだけど」

レンスターとトラキア両国を併せた領土を持つ国の王となった今でも、少年の表情を浮かべる夫にナンナが照れたような笑みを見せた。
夜着の裾を軽く引き、典雅に頭を垂れる。

「お帰りなさいませ、リーフ様。そしてアリオーン様の説得が無事成功なさって何よりでした。
 ……でも出来れば、今度長く国を空ける時には私もご一緒させてください。
 大事なお務めだと判ってはいても―――離れて過ごすのは、例えようも無く寂しいもの」


最後ばかりは女性としての、この一年会う事さえままならなかった新妻の素直な言葉にリーフが目を細める。
彼女の手を取り、その甲にそっと口付けた。


「ああ―――僕もずっと君に逢いたかった。
 約束するよ。もう二度と、君に寂しい想いはさせないから」


夜風に吹かれて冷え切った身体を温めるように、二人は互いを強く抱き締めた。





それから約二ヶ月の後、正式にアルテナとアリオーンの婚姻が公表された。
互いに数奇な運命を生きた二人の間には一男一女が授かり、それぞれノヴァとダインの聖痕が現れる事になる。

ノヴァの直系として生を受けた長男は、長じてリーフとナンナの間に生まれた娘の婿となり、後に新トラキアの王位を継いだ。
長く戦乱と混迷の歴史を繰り返した二つの国はようやく名実共に血の融和を果たし、末永く繁栄したという。

                                                            【FIN】


あとがき

終わった……!自分で決めた目標とは言え、長い道程でした(つдT)
二つ目の作品を用意しているカプもまだ幾つかありますが、これにて一通りサイト内聖戦全カプSSコンプリートです!
十八組ですよ…(笑)一年仕事になる訳だ(^_^;)改めて振り返って見ると、よくもまぁ途中で投げ出さなかったものだと自分を褒めてあげたい。

アリオーン×アルテナSSと言っておきながら、実はそのアリアルを成立させる為の布石がお話の大部分となっており、
肝心のアリアル自体は全体の二〜三割に留まってしまいました(^_^;)回りくどくて申し訳ない。
でもこのカプの場合、結ばれる前に片付けなければならない諸問題があまりにも多い為に、こういう形を取らざるを得ませんでした。

リーフのドラゴンにつけた『ハーシェル』と言う名は何処かで聞いた事があるなとチラッと思っていたんですが、
後になって調べてみたら天王星を発見した、ウィリアム・ハーシェルという18世紀の天文学者がいらっしゃいました(^_^;)
ああ、道理で…!これでも子供の頃は結構な天文好きだったのですよ。
三十路を超えた今では天文雑学もすっかり抜け落ちてしまいましたが、高校時代は天文関係を少しでも勉強したくて、
受験課目としてはマイナー極まりない地学を選択してました。(文系は生物を選択しておくと受験には便利)
ウィリアム・ハーシェルは本人のみならず妹、息子、孫と、天文学だけに留まらない優れた学者を歴代に渡って輩出した家系だったようです。
興味の有る方はウィキペディアなどで検索してみると詳しく調べる事が出来ますよ。

                                                 麻生 司

2007/02/08


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