約束

彼女に初めて会ったのは、十年ほど前の事。
兄に連れられてバーハラに行った時だった。





約 束





「おーいアゼル、早く来いよ!」
「あ……うん」

レックスが生垣の向こうから手を振っている。
彼はドズル家の次男で、一つ歳上だ。
一年ほど前に歳が近いからという理由で、遊び友達として引き合わされた。
どちらかと言うとアゼルは内向的で、それまで部屋で本を読んだりしている事が多かったのだが、レックスが一緒の時だけは無理矢理表へ引っ張り出されていた。

レックスは今よりずっと幼い頃から利発で、嫡男である兄のダナンより遥かに優秀だと噂されている。
しかし本人は机に向かい合って歴史や数式の勉強をするよりも、表で走り回っている方が性に合っているらしい。
バーハラや互いの居城で会う度に相手をさせられたお陰で、この一年でアゼル自身の顔色もすっかりよくなったと、
兄のアルヴィスに言われた程である。


今日は定期的に催される領主会議に出席する兄に連れられ、バーハラ王城を訪れていた。
他家の者にもアゼルを顔見せしておく為と、幼い内からバーハラの雰囲気に慣れておく為だと兄は言っていた。
レックスは本来、来る予定では無かったのだが、アゼルが行くのならと父親について来たらしい。
兄が会議で不在の間、一人では居心地が悪いので来て欲しいと、こっそりアゼルが手紙で頼んだからだった。
レックスは口は悪いが――よく父親には咎められているようだが、本人全く気にしてない――面倒見は良いので、
『面倒だ』と言いつつもちゃんと約束通り来てくれて、アゼルを安堵させた。

いつものように城の中庭に出て、自分よりよく城の中を知っているレックスの後をついて歩いていた時だった。
何処からか、押し殺したような泣き声が聞こえてきたのは。




「何してんだよ、アゼル!」
「ねぇレックス、泣き声が聞こえない?」
「は、泣き声?」

なかなか来ないので痺れを切らして戻って来たレックスに、アゼルは耳の後ろに手を当てて目を閉じてみせる。
やはり微かだが、しゃくりあげるような―――途切れ途切れの嗚咽が聞こえて来る。
レックスが行こうとしていたのとは別方向の、生垣の向こうからのようだ。

「あっちだ」
「あ、おい……!」


位置的にはそう離れていなかった筈なのだが、簡単な迷路のように生垣が作られている為、
泣き声の主を見付けるにはしばらく探し回らなくてはならなかった。

行き止まりとなった生垣の根元に、黒い服を着た女の子が座っていた。
膝を抱え、その膝と腕に埋めるようにして顔を俯かせている。
頭の高い位置で一つに結わえられた銀色の髪が顔と背を半ば隠してしまっていたが、今もまだ小さく肩が震えていた。


「ねぇ……君、泣いてるの?」

声を掛けられた事に驚いたのか、女の子はハッと顔を上げた。
アゼルとレックスを見上げる紫水晶の瞳には涙が浮かび、泣き過ぎてしまったからか、鼻も頬もすっかり赤くなってしまっている。

「………」

しばらく抗議するようにジッと二人を見ていた女の子は、だが無言のまま再び腕と膝に顔を埋めた。
どうしたものかと困ってしまい、アゼルが再び声を掛けようとする。その肩を、レックスが軽く抑えた。

「止めとけよ。話し掛けても返事しないってのは、放っておいてくれって事だろ。
 泣いてる女なんて、煩くて面倒なだけだ。もう行こうぜ」
「だって……こんな所で、一人で女の子が泣いてるのに放って行くなんて……」

きゅうっと胸が痛くなるような気がして、アゼルが自分の胸元を掴む。
それに、もしも迷子だったらどうするのだ。
バーハラ城は広い。初めて来た子供なら、容易に迷ってしまう事も在り得る。

アゼルの訴えに、レックスは呆れたような溜息をついた。

「もし迷子なら、お前が声を掛けた時にもう少し嬉しそうにする筈だろうが」

それはそうかもしれない。
だがそう思いつつも背を向けられないアゼルを見て、レックスが代わりに声をかけた。

「そんなに気になるなら、はっきりさせりゃ良いんだろ。おいお前、迷子か?」

僅かな沈黙の後、顔は伏せたまま、女の子の首が小さく左右に振られる。迷子ではない、という事だろう。

「ほら、自分で違うって言ってるんだし。これで気が済んだろ?行くぞ、アゼル」
「……ごめん、レックス。先に行ってて」


なおも動こうとしないアゼルに、レックスは唖然とした表情を浮かべた。

「はぁ!?おい、俺はお前が来てくれって頼むから、面白くも無いこのバーハラに来てやったんだぜ?
 その俺放ったらかして、泣いてる女の相手かよ!?」
「本当にごめん。でも今は……後で必ず行くから」

自分が無理を言ってバーハラに来て貰ったのに、その彼より会ったばかりの女の子の方を優先して悪いとは思う。
だがどうしても、一人で声を殺して泣いている女の子を放って行く事が出来ない。

レックスは聞こえるように大きな溜息を一つつくと、『勝手にしろ』と言ってその場を離れてしまった。






それから、しばし。

アゼルは顔を上げない女の子からは少し離れた場所に腰を下ろした。
彼女の方を見ないようにして、でも手を伸ばせば届く程の距離で、ぼんやりと空を眺める。

女の子はそれからも微かな嗚咽を繰り返していたが、いつまで経ってもアゼルが立ち去らないのを不審に思ったのか、しばらく後に再び顔を上げた。


「……あんた、誰?」
「僕はアゼル。さっき一緒に居たのはレックスって言うんだ。口は悪いけど、根は良い奴だから……気を悪くしないでね」

すん、と女の子が喉の奥を鳴らす。だがもう瞳に涙は浮かんでいない。
泣きたいだけ泣いたら、少し落ち着いたのだろうか。

「えっと……君の名前は?」
「……ティルテュ」

こしこしと、腫れぼったくなってしまった目元を擦りながら女の子が小さく返事をする。

「そう、ティルテュって言うんだ。今日は、お父さんか誰かについて来たの?」

こくん、とティルテュは頷いた。
という事は、彼女もアゼルやレックスと同じく、六公爵家に名を連ねる者だと言うことだ。
自分は顔見せ、レックスはその自分の付き合いだが……彼女は行儀見習いか何かだろうか。
或いは、女性ながらいずれ爵位を継承する直系であるのかもしれない。
ユングヴィ家の次期当主は、リング卿の授かった双子の娘の姉だと聞いている。

どちらかかと尋ねたアゼルに対し、ティルテュは今度は首を横に振った。

「どっちも違う。あたしは……嫌だって言ったんだけど、お父様に無理に連れて来られたの。
 賑やかなバーハラに来たら、少しは気が紛れるからって」
「気が紛れる……?」

アゼルが首を傾げる。
だが、よく考えると彼女は此処で一人で泣いていた。
彼女には泣きたくなるような事情があって……恐らくは彼女の両親もそんな娘を心配し、此処に連れて来たのだろう。
一体何があったのかと問う前に、ティルテュがぽつりと呟いた。


「……少し前にね、大好きだったお祖母様が亡くなったの」
「あ……」

ティルテュが黒い服を着ている事に、アゼルは改めて気付いた。
それはつまり、まだ喪が明けていないと言う事だ。

「……そっか、それで泣いてたんだ。優しいお祖母さんだったんだね」
「うん……あたし、不器用だから……魔法の修行でもよく失敗してたんだけど。
 お父様に怒られても、いつもお祖母様が庇ってくれたの」

魔法の修行と聞いて、彼女が魔法騎士トードの血を受け継ぐフリージ家の者だと判った。
六公爵家のうち、魔道士の家系はヴェルトマー家とフリージ家だけである。
そして自分と兄以外、もはやヴェルトマー家の血を継ぐ者は居ない。だとすれば、ティルテュはフリージ家の人間ということになる。

「大好きだったお祖母さんが亡くなったのは……悲しいよね」
「いっぱい泣いたわ。神様にお願いもした。何でもするから、お祖母様を生き返らせてくださいって―――でも叶わなかった。
 『お祖母様は天寿を全うされて亡くなった。お前もフリージ家の人間らしく、亡くなったお祖母様に恥をかかせないよう、
 いつまでも泣いていないでしっかりしろ』って……お父様は言うけれど」


可愛がってくれた祖母を亡くして、何も手に付かなくなる程に悲しい。
なのに公爵家の人間というだけで、肉親を亡くした悲しさに、泣きたいだけ泣く事すら許されないのか。

軽く唇を噛み黙り込んでしまったティルテュに、アゼルは言葉を選ぶようにして声をかけた。


「ねえティルテュ、君にはお父さんやお母さんが居るよね?」
「……居るわよ、勿論」
「じゃあ、兄弟は?」
「兄さんと、妹が」

それがどうしたという顔でティルテュがアゼルを見る。
その視線を受けて、アゼルはニコッと笑顔を見せた。

「そっか。でも、いいね。羨ましいよ」
「親なんて、居て当たり前でしょう?」

アゼルが小さく首を振る。

「僕の両親は、僕がまだ生まれて間もない頃に亡くなった。今の僕の家族は、母親違いの兄さん唯一人」
「え……?」


思いもかけなかったアゼルの言葉に、ティルテュは思わず言葉を喪った。
自分が居て当然だと思っていた家族を、とうにアゼルは亡くしている。
その彼の前で、自分は何と無神経な事を口にしたのだろう。


「詳しい事は、本当は僕もよく知らないんだ。父さんも母さんも僕がまだ
赤ん坊の頃に亡くなったし、兄さんに確かめた事もないから。
 でも……城に長く働いている人から、こっそり色々、言われたりするんだよね。
 僕の父さんは病気や事故じゃなく、自分で命を絶ったとか……母さんが、父さんの正式な妻ではなかった事とか」


城に仕える大人たちは、アゼルがまだ物の判らない子供だからと、自分の前でも好き放題な事を口にしていた。

今よりもっと幼い頃には、一体何を言われているのか判らなかった。
だが、彼等が考えているよりずっとアゼルは利発だった。
言葉を覚え、文字を書く事が出来るようになった頃には、自分の事と自分を取り巻く人間関係などを、知るともなしに漠然と理解していた。


母は城の下働きをしていた娘で、父が気紛れに手を付けて自分が生まれた事。
生まれた子供だけ取り上げられて母は城を出され、その後すぐに若くして亡くなった事。
兄アルヴィスの母であり、正妻だった女性の不義を赦さず、父が抗議の自殺をした事などである。

幼い心に傷を受け、歪んでしまってもおかしくはなかった自分が今まで何とか生きて来られたのは、全て異母兄のお陰だった。


「兄さんは今の僕とそう変わらない歳で家を継いで、それからずっと僕を育ててくれたんだ。
 陰で僕の事を悪く言う人が居たら、本気で怒ってくれた。
 僕にとっては、兄さんと父さんは同じような存在だけど……お父さんやお母さん、それにお兄さんや妹まで居るティルテュは、羨ましいなって思うよ」

屈託無く向けられた笑顔に、ティルテュがバツが悪そうな表情を浮かべる。

「……ごめん。あたし、何も知らなくて」
「ううん。僕こそ、その喪服に気付かなくて悲しい事を思い出させちゃったから。これでお相子だ」


そう口にしたアゼルの横顔は、自分の失言など、本当に全く気にしていないようだった。
余りにも幼い頃に喪ってしまったので、両親という存在に憧れや羨望はあっても、寂しいとか悲しいという想いは湧かないのかもしれない。
アゼルは手に触れる草をゆっくりと撫でながら、自分の思いを少しずつ言葉にした。


「大人たちは『ヴェルトマー家の人間が』とか『フリージ家の者が』って理由をつけて、悲しくても泣くなと言う。悔しくても、感情のままに怒るなと言う。
 僕達には泣きたくても泣く事が許されない時が、この先にもあるかもしれない。怒りたくても、声を荒げてはいけない事も。
 でも僕の前では、好きなだけ泣いてもいいよ。僕を相手に、嫌な相手の事を怒ったっていい。
 このバーハラではそんなに会う機会はないかもしれないけど、ヴェルトマーに手紙をくれたら、ウチに招待してあげる。
 そうしたら、好きなだけ泣いたり怒ったり出来るよ。ああ、でもその時は多分レックスも居ると思うけど」

まだ幼いとは言え、公爵家に連なる女性一人だけを招くとなると、色々と煩い事を言う面々も居る。
だから『友人を招待した』という名目で、彼女以外にレックスも呼ぶという事らしい。
勿論、望むのならティルテュの妹も一緒で構わないとアゼルは言った。

「……レックスって、さっきの嫌な奴ね」

優しく話しかけてくれたアゼルとは違い、放っておけと冷たくあしらったレックスの事を、少しは根に持っていたらしい。
レックスが話しかけてもロクに返事を返さなかったのは彼女の方なのだが、アゼルは敢えて気付かない振りをした。

「レックスは口は悪いけど、根は優しいんだよ。今まで自分から僕に声を掛けて、友達になってくれたのはレックスだけだもの。
 それに言葉はきつくても、絶対に嘘はつかないから」

苦笑いを噛み殺しながら、アゼルが親友を弁護する。


アゼルは父親の死の真相や妾腹の生まれだという理由で、公爵家の一員でありながら肩身の狭い思いをしたのだろう。
彼の兄はそんなアゼルの事を庇い、血を分けた弟として接してくれたようだが、世間の目は子供から見ても冷たかったに違いない。

だがレックスだけは、初対面時から今に至るまで全く変わらなかったのだそうだ。
それとなく自分の生まれの事を話してみたら、『だから?』と返され、アゼルの方が返す言葉を喪ったらしい。

―――嫡子だろうが庶子だろうが、生まれて来たら一緒だろうが。
    大体嫡子として生まれたからって才能があるとは限らないだろ。
    本当に大事なのは、どんな親の子に生まれたかより、どうやって生きるかだ。

…と言ったレックスの言葉を、アゼルは一言一句違えずに憶えている。
それ以来何かと相談に乗ってもらったり、
気晴らしにも付き合ってもらっていた。


今日の埋め合わせは、また後日すればいい。一言くらいは嫌味を言われるだろうが、それ以上は引き摺らない。
それが彼のいい所であり、密かにアゼルが彼に憧れている点でもあった。


「……ねえ、アゼル。どうしてあたしにそこまでしてくれるの?」


尋ねるべきではないと思いつつも、ティルテュはその疑問を消し去る事が出来なかった。

例えば生まれたばかりの頃からの幼馴染とか、数年前からの顔馴染みと言う訳でもない。
さっき初めて会ったばかりで、それまで名前すら知らなかったのだ。
なのに何故彼は大事な友達との付き合いを反故にしてまで、進んで自分を励まし、今後の愚痴まで聞いてくれるというのだろうか。

率直に尋ねると、アゼルはちょっと困ったような顔をした。
自分自身でも、良く判らないという様子で。


「上手く言えないけど……多分、僕にもそんな時期があったからだと思う」

ぽつりと呟いた。

「無性に泣きたくなったり、怒りたくなったり?」
「そう。でもそれはもっと昔の事で……今はもう、泣く事にも怒る事にも……飽きちゃったけど。
 それにレックスと友達になってからは、一人で泣いたり悩んだりする事も無くなったから」


母の事を陰で悪く言われて悲しかったし、悔しかった。
自分という存在は誰にも望まれていないのだと、膝を抱えて泣いた夜もある。
力づくで手篭めにしたにも関わらず、挙句に生まれた子だけ取り上げて城から母を追い出した父に憤りを覚えた事もあった。

だがその父も母も既に亡い。
泣く事にも憤る事にも疲れて、抜け殻のようだった自分が生きる力を取り戻したのは、
自分の母の事を影で悪く言っていた使用人達を、兄が厳しく叱責してくれたのを耳にした時だった。


『例え母親の身分が低くても、アゼルはこの世で唯一私と同じファラの血を引く弟だ』―――と。
兄のその言葉が、どれ程嬉しかった事か。


それからは、自分ではどうにも出来ない両親の事で泣くのを止めた。
時々辛くなる事もあるが、今はレックスが悩みや愚痴を聞いてくれる。
兄も自分の理解者だと判っている。それだけでも、随分ラクになれた。


「だからティルテュにも、僕にとっての兄さんやレックスみたいな人が必要だと思ったんだ。
 もしも家の中に、好きなだけ泣かせてくれたり愚痴を聞いてくれる相手が居るならそれでいい。
 でももしもそんな人が誰も居ないのなら……僕の所においで。一人では泣くのも、悔しさを我慢するのも辛いから。僕が傍に居てあげる。
 泣くだけ泣いて、愚痴も全部吐き出して―――そして最後には、笑ってフリージに帰れるようにね」
「……貴方って、変わってるのね」



まだ赤い目元を細めて、ティルテュが苦笑いを浮かべる。
こんな人は今まで自分の傍には居なかった。

兄はエリート意識の強い性格で、不器用な自分や引っ込み思案の妹を構おうとしない。
妹は自分を慕ってくれているが何せまだ幼くて、愚痴を言う相手にはなり得なかった。
レックスは女の相手は面倒だとばかりに放っておこうとしたのに―――アゼルは進んで自分に関わろうとしてくれる。
その気持ちが、素直に嬉しかった。

「約束よ、アゼル。あたしが泣きたい時には傍に居て。その代わり、貴方が泣きたい時にはあたしが傍に居てあげる」

目の前に小指を差し出されて、赤みがかったアゼルの茶の瞳が驚いたように瞬かれる。

「一人で泣くのは辛いんでしょ。さっきのレックスは愚痴は聞いてくれそうだけど、好きに泣かせてはくれないような気がするわ。
 だから、貴方が泣きたい時には私が傍に居てあげる。フリージに手紙をくれたら、すぐにウチに招いてあげるから」
「うん―――約束だ」

ティルテュの小指に、アゼルが自分の小指を絡める。
指切りをした後、どちらからともなく二人の間に笑みが零れ落ちた。



幼い日に交わされた小さな約束が果たされたのは、約十年の後―――







「ティルテュ……此処に居たんだ。随分探したよ」

シレジア王妃、ラーナの厚意でシグルド達に預けられたセイレーン城の中庭奥の東屋に、彼女の姿はあった。
一目でフリージの血筋だと判る銀色の髪が横顔を半ば隠してしまい、表情は見えない。
歩み寄って来たのがアゼルだと判った為か、ティルテュはその場に彼が留まる事を厭いはしなかった。

「……レックスは?」

小さな声が掠れている。
だがアゼルはその事には触れず、彼女の傍に腰を下ろした。

「レックスもかなりショック受けたみたいだけど……今はアイラが傍についてるから、きっと大丈夫」

『そう』と、ティルテュは溜息をつくように囁いた。



「……ねえ、アゼル。昔二人でした約束―――憶えてる?」

何かを堪えるように、ティルテュは真一文字に唇を引き結んでいた。
微かに震える横顔が、何より雄弁に彼女の心を叫んでいる。

「―――憶えてるよ、勿論。あの日も今みたいに……君は声を殺して、たった一人で泣いていたね」


弾かれたように顔を上げたティルテュの紫水晶の瞳には、いっぱいの涙が浮かんでいた。
溢れ出しそうになる涙を必死に堪え、唇を噛み締めて嗚咽を押し殺し―――声も無く、泣いていたのだろう。
思っていたよりもずっと細い肩を抱き寄せて、アゼルは包み込むように彼女を優しく抱きしめた。


「皆の前では泣けなかったんだよね。どんなに強がりを言っていても、本当の君はとても優しいから……辛かっただろう」

アゼルの腕を掴んだ手に、ギュッと力が篭もる。

「だからオーガヒルからシレジアに無事逃れるまで、誰とも顔を合わせないようにして船倉に閉じこもってた。レックスも同じだったよ。
 君達は昔から顔を合わせる度に喧嘩するくらい気が合わなかったのに……本当によく似てる―――頑張ったね」

トン、と子供をあやすようにそっと背を叩かれた事で、抑えていた感情が爆発する。
ティルテュは幼い子供のように声をあげ、縋るようにアゼルの胸にかきついて、ただ泣き続けた。


「お父様が……あのシグルド様と、バイロン様を陥れるなんて……!」


アグストリアでシグルドを反逆者として追い立てたのが、レックスと自分の父だと知った時、目の前が真っ暗になった。
シグルドはレックスの事も自分の事も、親とは関係無いと責めはしなかったけれど―――
妻を喪い、友を亡くし、国を追われた彼の心痛を思うと居た堪れない気持ちになる。

父の考えを知っていたとしても、一族の落ちこぼれと言われ続けた自分の意見など聞いて貰えるはずも無かったのだが―――
このままシグルド達と共に行動し続けてもいいのか、正直判らなくなっていた。


シグルドは気性の真っ直ぐな男だ。
会ってまだ間もない自分でも、その事だけは良く判る。
お世辞にも政治に関心があるとは言えない自分でも、グランベル国内がクルト王子やバイロン卿、リング卿を中心とした穏健派と、
父とランゴバルド卿を中心とする強硬派に分かれている事くらいは知っていた。

シグルドとバイロン卿の反逆など、父たちがでっち上げた虚言に決まっている。
そう判っているのに、何の役にも立てない自分が腹立たしかった。


「あたし、もう此処には居られない」

泣き疲れてアゼルの肩に頭を預けたまま、ティルテュが呟いた。

「このまま此処に留まったら、シグルド様に迷惑がかかるわ。
 在りもしない反逆をでっち上げてまでシグルド様達を陥れた以上、お父様やランゴバルド卿から折れる事は在り得ない。
 あたしがシグルド様の味方をしても、お父様達はシグルド様が無理矢理あたしを止めているんだと言い掛かりをつけて、
 このシレジアにまで攻め込む口実を作ってしまうかもしれない。そんなの、絶対に嫌だ……!」


自分の信頼を裏切った父の所に戻る気は無い。
でも自分が此処に止まる事で、シグルドや仲間達に迷惑をかけるのはもっと嫌だった。


「それじゃどうするの?君が自分で決めて、此処を出て行くと言ったら誰も止める事は出来ないけど―――
 今の状態でフリージに帰っても、きっと辛いだけだよ」
「……あたしだって、出て行きたくなんかない」

一度は渇いた涙が、また瞳を潤ませる。

「だけど、仕方ないじゃない!

 あたしは『敵』の娘―――皆、気を遣って何も言わないけど……その優しさが、今のあたしには辛いのよ!!」


いっそ『レプトールの娘など信用出来ない』と罵倒して欲しかった。
そうであれば、自分には何も恥じるべき事はないと開き直る事も出来るのに。


「シグルド様も仲間の皆も、優しいから言い出せないだけ。だったら……自分から出て行くしか、ないじゃない……!」


本当に自分が出て行くと言ったら、行くなと止めてくれる人は居るのだろうか。
厄介払いが出来たと安堵の表情を浮かべられたなら、一体自分はどんな顔をすれば良いのだろう?
……そう考えると、背筋が寒くなる。

自分と言う存在を望んでくれる者など誰も居ないと思い知らされるのが怖かった。
一族からも親兄弟からも捨てられ、仲間からも見放されたら、この世の何処にも自分の居場所は存在しない。
この国を出て、フリージにも戻らず、生きていく事など自分に出来るのだろうか。

だが、救いの手はすぐ傍から差し伸べられた。


「駄目だよ、ティルテュ。そんなの絶対に駄目だ」
「アゼル……」

炎のような赤みを帯びた瞳が、真っ直ぐに自分を見詰めている。
少年の時間を過ぎ、もはや青年と呼ばれる歳に達した彼の眼差しに、ティルテュは泣き腫らした目を微かに瞠った。

「君のお父さんは、確かに酷い事をしたと思う。
 だけどそれは、シグルド様がそう判断したように、君自身には全く関係の無い事だ。
 君が此処に居たいと望むのならそうするべきだし―――このまま、僕の傍に居て欲しいと思うよ」


夢なら醒めないで欲しいと思った。
現実であるならば、このまま時間が止まって欲しいと。


「僕はファラの血を継いでいるけど、家督の継げる嫡子じゃない。
 君のお父さんには反対されるかもしれないけど……これから先もずっと、一緒に居て欲しいんだ」
「アゼル、貴方……」

アゼルの手が銀糸のようなティルテュの髪を梳き、その一房に口付ける。

「だから出て行くなんて言わないで。留まる理由が必要なら、僕がその理由になる。
 初めて逢ったあの日から、ずっと君の事が好きだった」


掛け替えの無い言葉を耳にして、ティルテュの面が朱に染まる。
瞳から新たな涙が零れ落ちた。


「もう涙を堪える必要は無いよ。僕の前では、泣きたいだけ泣けばいい。
 君がまたもう一度笑えるように、僕が君を守るから」
「……これは嬉し涙よ―――馬鹿ね」

ぐい、と拳で涙を拭うと、ティルテュはアゼルの唇に掠めるようなキスをした。
照れ臭いのか、赤くなった顔を見られないようにふと視線を逸らせて尋ねる。

「あたしを守ってくれるって、この先もずっと?」
「勿論、一生だ」

間髪を置かずに返されたその言葉に、胸が熱くなる。
だからこそ、確かめておきたかった。

「……あたしは不器用よ?針仕事は苦手だし、お料理だってまるで駄目。魔法だって、フリージの一族の中では一番パッとしないわ。
 あたしは、あたし。エーディンみたいにはなれないけど……本当に、いいのね?」


少し前から、アゼルがユングヴィ家のエーディンに憧れていたのは知っていた。
知的で温和で、僧侶としての才にも恵まれた美しい公女の事は、ティルテュもよく知っている。
歳が離れているせいであまり同席する機会は無かったのだが、同じ女性として手本にしろと、親にはよく引き合いに出された相手なのだ。

そのエーディンにすっかり憧れてしまっていたアゼルを見ていたら面白くなくて……それからだ。
バーハラで見かけたクロード神父を、自分が追い掛け回し始めたのは。


クロードは大人の男性だった。
頭が良くて優しくて、自分の他愛も無い話にも嫌な顔一つせず付き合ってくれた。
多分それは自分に対する感情云々は関係なく、ただ彼の優しさだったのだと今なら判る。
何故なら、自分もまた本当の意味でクロードを見ていた訳ではないからだ。

クロードを追い掛け回す事で、アゼルに気にして欲しい―――大好きな幼馴染に、もう一度振り向いて貰えるように。

エーディンの名を出された事で、アゼルは苦笑いを浮かべた。


「君をエーディンの代わりにする気は無いし、君にエーディンのようになって欲しい訳でもないよ。
 彼女に憧れていたのは確かだけど……多分、余りに早く亡くしてしまった母の面影を、彼女の中に見ていたんだと思う」


自分は母の温もりを知らない。
その温もりを与えられる前に母という存在そのものが目の前から奪われ、そして永遠に喪われてしまった。

顔すら知らない母を思い浮かべる内に、アゼルの中で漠然とした『母親の姿』と言ったものが出来上がっていた。
そのイメージと数年前に偶然バーハラで出会ったエーディンが重なって、或いは姉のような存在として、心に留まってしまったのである。
彼女が幾つか歳上だった事も、母の面影を重ねてしまった要因の一つだった。

だがそのエーディンもヴェルダンのジャムカ王子の妻となり、既に一子を儲けている。
自分もまた、新たな一歩を踏み出す時だった。



「それにエーディンは、僕の事を男として見た事は一度も無かった。それだけは間違いないよ」
「……なら、いいわ」


呟いて、ティルテュが小指を差し出す。
いつかそうしたように、アゼルは彼女の小指に自分の指を絡めた。



「大好きよ、アゼル。一人で泣いているあたしの傍に居てくれた、優しい貴方が大好きだった。
 これからは泣きたい時も辛い時も、そして幸せな時も―――
 例え世界の全てがあたしに背を向ける日が来たとしても、アゼルだけは傍に居てね」
「約束するよ。これからもずっと」



眦(まなじり)に残る涙を拭うように、ティルテュの瞼にアゼルの口付けが落ちる。
長い時を経て交わされた誓いを祝福するかのように、鐘の音がシレジアの空に高く響き渡っていた。


                                                        【FIN】


あとがき

出だしは非常に快調で、子供時代までは数時間で書き上げていた作品。
その後、某ゲームにうつつを抜かしていたお陰でなかなか仕上がりきらなかった作品でもあります(^_^;)
実質作業してたのは三日間くらいなんだけど、仕上がりまでの期間は実に半月以上…ガタガタブルブル。『ペルソナ3』の魔力、恐るべし。
しかし表現に煮詰まって放置していた部分が時間を置いた事ですんなりと書けたり、
焦って書き上げる前に、冷静に読み直して足りない部分を補う事が出来たので、結果的にこれで良かったのかなと。

アゼルとティルテュはゲーム本編ではお互い違う相手に熱を上げていたように見えますが、
ウチの二人は実はお互い初対面からの想いを秘めていたのです。
レックスは二人の共通の幼馴染。アゼルとは所謂親友で、ティルテュとは喧嘩友達(笑)
レックスは口は悪いけど紳士なので、嫌味は言っても実際に女の子に手を上げたりする事はないんですけどね。
その分、ティルテュを怒らせると本気で拳が飛んで来ます。パーなら運が良くて、最悪グーが落ちて来る事も(笑)
彼女は感情の出し方がストレートなだけで、別にレックスを殊更嫌っている訳ではないのですよ。
勿論、そんな二人の間に入って仲裁役になるのはいつもアゼル。実は一番精神的に大人なのかも。
幼い頃から大人ばかりの中で育って苦労もしてるし、人間関係における経験値も望まずして得ていた子ですからねぇ…

ティルテュが自分の事を、一族の中でも一番パッとしない落ちこぼれみたいに言っていますが、
正確に言うと彼女は魔法の才に乏しいのではなく、強過ぎる魔法力を制御するのが、一族の他の者よりほんの少し不得手なだけなのです。
その辺りの事を亡くなった彼女の祖母はちゃんと判っていて、幼いティルテュの事を決して落ちこぼれ扱いしなかった。
一方父親のレプトールや兄のブルームは自尊心が高かった為に、
『何でフリージ家の人間が、たかがエルサンダーやトローン程度を完璧に制御出来ないのだ』と
、イラッとしていた訳ですね。
頭のいい人が、そうではない人に対して『何が判らないのかが判らない』とケチをつけるのと同じ理屈です(笑)

                                                                            麻生 司

2006/08/24


INDEX