普段であればとうに窓の灯りが消える時間になっても、まだ表の賑わいは収まる気配を見せていない。
それもその筈だ。
今日この日をもって、二十年近く続いていた戦乱が終結したのだから。
長引く戦に怯え、疲弊しきっていた民たちは、解放軍盟主のセリスによる戦の終結の宣言を聞いて歓喜した。
もうこれで親や子を、兄弟や恋人を戦乱で喪う事は無い。
バーハラ城下の広場には自然と人が集まり、誰からとも無く唄いだした。
唄が始まると、今度は笛や竪琴で音楽を合わせる者が現れた。
唄と音楽の輪が広がるといつしか人々は互いの手を取り、肩を組み、杯を手に踊り始めた。
男も女も老人も若人も、今日まで生き延びた事を喜び合い、幼い子供達でさえ今日ばかりは早々に眠る事を強要されなかった。
城下が祭の様相を呈して早半日―――夜が更ける頃にはこっそりお忍びで城を抜け出す仲間達も居たようだが、今更咎められる事は無いだろう。
うっかり自分達の正体をばらしてしまう事にでもなれば大変な騒ぎになるだろうが、
この賑わいを間近にしながら城にジッとしていろというのも酷な話である。
自分とて、聞こえてくる楽しげな笛の音や歌声に幾度腰を浮かせかけた事か。
―――でも、折角のお祭も一人で行くのは寂しいもの。
地上に瞬く星明りのような灯火を窓越しに見遣り、ラナは小さな苦笑いを浮かべた。
貴方を守る盾
叶うならば、セリスと一緒にあの賑わいの中に出てみたかった。
だが今となっては無理な話である。
まだ人々がセリスの姿も名も良く知らなかった頃ならばいざ知らず、彼は戦を終結へと導いた解放軍の長として、既に民衆の前に姿を晒してしまっていた。
あれだけの人が集まっていれば、セリスの事に気付く者が一人や二人は居るだろう。
万が一気付かれてしまったら、そこからもう一歩も動けなくなるに違いない。
つまりセリスは無用の混乱を生まない為にも、不用意に群集の中に出て行く事は許されなくなってしまったのだ。
それに今ひとつ、ラナが出掛けられない理由があった。
夕食の後、セリスがそっと耳打ちしたのだ。一刻(二時間)後に部屋に来て欲しい……と。
約束の時間はもう直ぐである。
ラナは部屋を出ると人の気配の無い回廊をゆっくり歩き、セリスの部屋の扉を叩いた。
「セリス様、私です」
「開いてるよ、入って」
すぐに返った返事に扉を開ける。
セリスは窓辺で、先程までの自分と同じように城下に灯る明かりを見ていた。
「ごめんね、こんな時間に呼び出して」
「いえ……どうせこの賑わいでは、寝付けそうにもありませんから」
『そうだね』とセリスも笑う。
恐らくは彼自身、このような立場でなかったなら祭に行きたかったのだろう。
セリスは真面目で聞き分けも良かったが、祭などの人が集まる賑やかな場が嫌いでは無い事を、付き合いの長いラナは知っていた。
「……それで、私に何か?」
ただ他愛も無い話したさに呼んだ訳でもないだろう。
何より城下を見遣るセリスの横顔が、もっと重要な『何か』があると告げている。
セリスは執務机に歩み寄ると、引き出しから一振りの短剣を取り出した。
「君に立ち会って欲しかったんだ」
「セリス様……?」
一体短剣で何をしようというのか。意味を図りかね、ラナが眉を寄せる。
肩口で切り揃えられた彼女の柔らかな癖髪に、セリスはそっと手を触れた。
「ラナの髪はとても温かい色をしてる。
今もそうだけど―――長く伸ばしていた頃は、黄金色の髪が太陽の光を透かして……本当に綺麗だったよ。
知らなかったろう?僕は君の髪が、風に靡くのを見るのが大好きだったんだ」
目を閉じれば、今でもはっきり思い出す事が出来る。
五年前―――セリス自身は十五歳、ラナは十三歳の秋。ラナは母親譲りの黄金色の髪を腰まで長く伸ばしていた。
ある日前触れも無く、ティルナノグ村に兵士が気紛れにやって来るその日まで……
「今年は豊作ねぇ。もう籠に一杯よ」
「本当に。去年は不作でどうなる事かと思ったけど」
枝から林檎をもぎながらラクチェとラナが笑い合う。
ティルナノグは決して豊かな村ではない。ましてや自分達は大所帯だ。
大人三人に子供が六人、飢え死にしないだけの食料を日々確保するのは現実問題としてなかなかに厳しい。
自分達で土地を耕し作物を育てるのは当たり前だが、実りの多い秋にはこうして森に入り、
自然に生っている木の実や果物を収穫する事も多かった。
手塩にかけて人の手が作った物に比べて幾らか味は落ちるが、調理の仕方次第で立派な食材になる。
「幾らなんでも、もう木の根はごめんだわ。飢え死にしない為とは言っても、あんまり侘し過ぎるもの」
「お芋の葉っぱだけで一週間…なんて、まだマシな方だったものね」
芋の葉や茎だけで一週間食い繋いだのは一昨々年の事だ。
その時ももう駄目かと幼いながらに覚悟を決めたものだが、昨年は旱魃によって、一昨々年を上回る不作だったのである。
ラナの実母であるエーディンや親代わりのオイフェとシャナンは、自分達は食べずとも子供達には出来るだけひもじい思いをせさまいとしてくれた。
だが蓄えてあった野菜が底をつき、パンを作るための小麦の粉すら手に入らなくなると、幾ら子供でも窮状を察する。
子供たちも自ら進んで川に入って魚を獲ったり、森に入ってウサギを狩ったりして食料確保に尽力したが、
最終的には木の根元を掘り返しては、食べられそうなまだ柔らかな根を鍋で煮て食べた。
木の根が美味い筈も無かったが、『口に入って飲み込む事さえ出来ればそれでいい』と、当時は切実に思ったものである。
「でもまたお芋の葉っぱや茎だけでしばらく凌ぐ事になっても、今ならもう少し食事らしい食事を用意出来るわよ」
「よしてよ、貧乏料理の腕前が幾ら上がったって虚しいだけじゃない」
コツンとラナの額を指先で小突きながら、『でも万が一の時はお願いね』とラクチェが悪戯っぽい表情を浮かべる。
実際にはほんの二ヶ月しか誕生日は違わないのだが、スラリと背が高くサバサバとした性格の彼女はラナの姉のような存在だった。
「あたしはそろそろ戻るけど、ラナ、貴女はどうする?」
「もう少し摘んでから帰るわ。ジャムにしたり砂糖漬けにすれば日持ちするし。
嵐が来て落ちてしまったら勿体無いもの」
イザークは風の強い土地柄だ。この季節は突風を伴った嵐もよく起きる。
強風で落ちてしまった木の実や果物は鳥や小動物達の餌になるとは言え、どうせなら少しでも多く持ち帰って蓄えにしたかった。
いつどんな状況で、小屋から出られなくなるかもしれないのだから。
「じゃあ、その籠の中の分を半分寄越しなさい。先に持って帰っておいてあげる」
「ありがとう、よろしくね」
林檎も数が多くなれば相当重いのだが、半分どころか三分の二ほどラクチェは引き受けて持って帰ってくれた。
『荷運びも鍛錬よ』が彼女の口癖である。
すっかり軽くなった籠を抱え直し、ラナは森の中をゆっくり奥に向かって歩いた。
この辺りはうんと小さな頃から遊び場にしているので、何処に行けばどんな木の実がなっているか、
沢が何処にあって何処を辿れば小屋に戻れるかなど、すっかり憶えてしまっている。
もう少し奥まで行けば、アケビや山葡萄が生っている筈だ。
アケビの実は井戸で冷やしてそのまま食べる事になるが、残った皮なども灰汁抜きして炒めれば食べられる。
山葡萄は干しておけば保存が効く。 パン生地に練り込んで一緒に焼いてもいいし、お茶菓子代わりに摘まんでもいい。
ラクチェの言う『貧乏料理』もすっかり手馴れた物だ。母の手伝いをしている内に憶えてしまった。
もっとも物心付いた頃にはこのティルナノグで生活していたので、
限られた食材を無駄にしない料理や、大勢の食べる分を一度に大量に作れるシチューやスープくらいしか見覚えがないのだが。
「本当に、こんな知恵ばかり豊富になるわね」
苦笑いしながら、見付けた山葡萄の房に手を伸ばした。
『今日はこのくらいにしておこうかな』
籠の中は新たに摘んだ山葡萄とアケビで一杯だった。
そろそろ戻らないと、先に戻ったラクチェが心配するだろう。
腰を低くして山葡萄の生った枝振りの下から抜け出ようとする。だが―――
「きゃっ…!」
ツン、と髪が後ろに引っ張られて転びそうになった。
辛うじて手の中の籠は落とさずに済んだが、お陰で自由が利かない。
片手だけ頭の後ろに回して探ると、長く伸ばした髪が枝に絡んで引っ掛かってしまっている。
足元に籠を置き、不自由な姿勢で手を伸ばそうとしたその時、誰かが落ち葉を踏んで近付いてくる足音が聞こえた。
一瞬緊張で身体が強張る。
見知ったティルナノグの村人ならいいが、気紛れに森に入ったイザークの兵士だと面倒な事になる。
このまま見付からずにやり過ごせるだろうか―――だが足音の主を確かめるその前に、向こうから声を掛けられた。
「ああ、やっと見付けた。こんな奥まで来ていたんだね」
「セリス様……」
ホッと安堵の息を吐く。ラナの浮かべたその表情に、セリスが申し訳なさそうに眉を寄せた。
「帰りが遅いから迎えに来たんだ。驚かせてしまったかな」
「少し。今、ちょっと身動きが取れなかったものですから…隠れる事も出来ないし、イザークの兵だったらどうなっていたかと」
「身動きが取れない?」
そこで初めて、セリスは彼女の髪が枝に絡まっている事に気付いた。
余程山葡萄を摘むのに夢中だったのか、かなりしっかりと絡んでしまっている。
確かにこれでは咄嗟に逃げる事も隠れる事も出来なかったろう。
「少しの間じっとしてて」
完全に振り向いて両手を使う事の出来ないラナの代わりに、セリスが背中に回って枝から絡んだ髪を解いていく。
時間は掛かったが、セリスは丁寧に絡んだ髪を全て解いてくれた。
「すみません……探しに来て頂いた上に、手間をかけさせてしまって。面倒なら絡んだ部分を切ってしまっても良かったんですが」
ラナがしゅんとうな垂れる。
折角ここまで伸ばした髪を自分の不注意で切ってしまうのは確かに惜しいが、それでも背に腹は代えられない。
そもそも髪など切っても痛くもないのだし、長さがあるから、切ったとしてもせいぜい背中の半ばくらいである。
だがセリスは生真面目な顔で『駄目だよ、そんなの』と釘を刺した。
「僕はラナの髪が好きだよ。太陽の光がふわふわの黄金の髪に透けて、とても温かい色をしてる。
切ってしまうなんて勿体無いよ」
手の中の柔らかな髪が風にそよいで、黄金色の糸のようだ。
畑仕事や掃除をしたり、食事の用意をする時は束ねているが、今は自由に風に泳がせている。
だからこそ枝に絡まってしまったのだが、解けなくなって彼女が自分で切ってしまう前に見付けられて本当に良かったと思う。
ちなみにラクチェも綺麗な黒髪をしているのだが、剣の稽古の邪魔になると言って長くは伸ばしていない。
「もう五年くらい伸ばしているよね。願でも掛けてるの?」
「そういう訳でもないんですけど……セリス様はどうなんですか?」
ニコッと笑った鳶色の瞳がセリスを映す。
ラクチェ同様、剣を使うのに邪魔にならないように常に束ねているが、男性にしてはセリスも長く伸ばしている方だ。
もっとも剣の師であるシャナンはセリス以上の長髪なので、もしかしたら彼の影響かもしれないが。
「うん―――まあ、そういう事になるのかな。
全てが終わったらその時に……切ろうかなと思ってる」
髪と言うのは存外重いものだ。
あまり長く伸ばす習慣の無い男性は自覚する機会が少ないが、
比較的自由に髪型を変えられる女性が伸ばしていた髪を切ると、覿面に『軽くなった』と感じる。
その重さを、セリスはその双肩に掛かった責任の重さとして自覚しようと務めているのだろうか。
「それで、ラナの伸ばしている理由は?」
「私は……えっと、秘密です」
「ええ?ずるいなぁ」
笑みに紛れさせてはぐらかしてしまう。
苦笑を浮かべるセリスを、皆が待っているからと小屋に急かしながら、ラナはきゅっと唇を噛み締めた。
この髪を切らない理由なんて、本当は無い方がいい。
長く伸ばしたこの髪は、武器を持たない自分がセリスを守る為の盾。
こんな時代に聖戦士の末裔として生まれた以上、いずれ戦場に立つのだという覚悟は出来ているけれど。
僧侶である自分が一軍の総大将であるセリスを守らなくてはならない状況が来るとしたら、その時既に軍は壊滅状態だろう。
それは即ち、セリスの命の危機を意味している。
―――出来る事なら、そんな機会など一生来なければいい。
不意に沸き起こった不吉な想像を振り払うように、ラナは小さく頭を振った。
「……で、酔った勢いで喧嘩を始めた二人の仲裁に入ったラクチェを、ヨハンとヨハルヴァの両方がえらく気に入ったみたいで。
今じゃ両方から言い寄られてるんですよ」
「迷惑な話よ、全くもう。こんな面倒な事になるなら、下手に口を挟まずに放っておけばよかったわ」
数日後、ラナ達は子供たちばかりで、他愛も無い話をしながらお茶の時間を過ごしていた。
ラナとレスターの母エーディンは、医者も僧侶も居ない隣の村で急病人が出たと報せが来て、治療に出向いている。
オイフェはエーディンの護衛として同行しており、シャナンは調べる事があるとかでイードの方に数日前から出掛けていた。
普段大人が三人とも揃って小屋を空ける事は無いのだが、
エーディンの治癒魔法を頼って来た急病人を放っておく訳にもいかないし、僧侶の彼女を一人で出歩かせる訳にもいかない。
今日中に戻って来られるだろうという目算で、今日一日セリス達は小屋で大人しくしているようにと、くれぐれも言われている。
ティルナノグの村人はイザークの王子であるシャナンを慕い、協力してくれているので心配ないが、
最近ソファラ領主となったヨハルヴァと、イザーク領主となったヨハンの兄弟には用心する必要がある。
この十数年イザーク地方の統治を任されていたドズル家の役目は、
何処かに潜伏しているといわれるセリスとその仲間を見付け出し、根絶やしにする為だからだ。
彼等自身は悪い人物ではないにしても――実際彼らが領主となってから、兵士たちの酷い横暴や課税は無くなった――
セリスとその仲間である自分達を害そうとする者は敵である。
ラクチェが二人と面識を持った経緯はデルムッドが話した通りだが、その一件で顔と名前を憶えられてしまったのは誤算だった。
以来ラクチェは兄弟からの執拗な誘いを蹴り続けている。
「あの二人はドズル家のダナンの息子だろう?スカサハやラクチェにしてみれば父方の従兄になるんだね」
「ええ。でも、それを知られる訳には行きませんから」
望まぬ相手に想われて膨れっ面の妹の代わりにスカサハが答える。
自分達兄妹がドズル家と縁続きだという事実が明るみになると、それは母の事や、ひいては自分達全ての親に関わってくる。
今までは村ぐるみでセリスの存在を隠して来たが、ラクチェの顔を憶えられてしまった今となっては、いつまで隠し通せる事か。
ヨハンもヨハルヴァも、まだラクチェがティルナノグ村に居る事は知らない。
会ったのはイザーク城近くの別の村だったので、其処の住人だと考えているらしい。
だが村人に話を聞いていけば彼女が村の人間でない事はすぐに判るし、彼等の人脈と力があれば、いずれこのティルナノグ村も突き止められてしまうだろう。
その時にも自分達はセリスの存在を隠し通せるだろうか。
あるいは時が満ちたとオイフェ達が判断すれば、それを機会に撃って出る事になるかもしれなかった。
「セリス様、パイをもう一切れどうですか?」
「ん、貰おうかな。やっぱりラナの焼いたパイは美味しいね」
「ありがとうございます。はい、どうぞ」
「あ、俺ももう一切れ」
「はい、じゃあこれで最後ね」
セリスに続いて、兄のレスターも皿を出す。
お茶菓子にと焼いた林檎のパイは好評で、すっかり皆の腹に収まった。
見かけによらず甘い物好きの兄はともかく、特に甘党ではないスカサハやデルムッドも自分の分をペロリと平らげているから、上出来だったのだろう。
今度母と一緒に修道院で面倒を見ている孤児たちの様子を見に行く時に、焼いていこうかと考えた丁度その時―――
コンコンと気忙しく、だが小さく窓を叩く音が小屋の裏手の窓で響いた。
サッと皆の顔に緊張が走る。表の入り口ではなく裏手の窓を叩くという事は、表から堂々と訪ねられない理由があるからだ。
ラナとラクチェが机の上に広がったままの皿やカップを手早く片付け、レスター達が各々武器を手に取る。
用心深くセリスが窓辺に近付きそっと掛け金を外すと、小さく折り畳まれた手紙が窓の桟に差し込まれていた。
「セリス様……」
手紙を開き目を通したセリスの表情が厳しくなった。
「―――巡回の兵士が気紛れに立ち寄ったらしい。今、村長が話を聞いて足止めしてくれている」
「くそっ…何だってシャナン様もオイフェ様も居ない、こんな時に……!」
ギリ、とデルムッドが歯噛みする。
月に一度、ほぼ決まった日に巡回兵が立ち寄るのは何時もの事だ。
だからその前後は、皆で小屋を離れて森に潜むのが通例になっていた。
だが今回は定期巡回とは明らかにスパンが違う。そういった危険が少ない日であったからこそ、オイフェもシャナンも村を空けたのだが―――
考えている暇は無い。悩んでいる余裕すらない。村長の足止めもそう長くはもたないだろう。
直ぐに決断して動かなければセリスの所在が知れてしまう。
一番安全なのはいつものように小屋を出て森に潜む事だが、既に村に兵士が入っている以上、下手に動くと気配で気付かれる可能性がある。
焦る想いとは裏腹に、咄嗟に頭が動かない。だがその時―――
「兄様、デルムッド、すぐに馬を連れて森に隠れて」
「ラナ?」
妹の言葉に、レスターが微かな驚きを浮かべる。
切迫したこのような状況に、戦う術を持たない僧侶の彼女が意見する事は今までなかったからだ。
「こんな田舎の鄙びた村に、農耕馬でも無い馬が居るのは不自然です。
馬を怯えさせないように小屋を離れて、見付からない場所から様子を見ていてください」
「だが…俺とデルムッドが此処を出たら戦力が半減する。それにセリス様と、戦えないお前を残しては行けない」
いつか解放軍の盟主となるセリスを喪うわけにはいかない。
僧侶であっても修練を積めば攻撃魔法を習得する事が出来るが、ラナはまだ回復魔法しか扱えなかった。
ならばセリスとラナに小屋を離れてもらい、自分達が此処に残った方がリスクが少ない。
だが彼女は頑として首を縦に振らなかった。
「此処で押し問答をしている時間は無いでしょう?
私達は兄様達の馬と一緒よ。こんな小さな村の一つの小屋に、皆が皆武器の扱いに長けた人間が集まっている事自体が不自然なの。
だから私は、此処に残らなくてはいけない」
ラナは護身用に身につけていた短剣を鞘から抜くと、束ねていた自分の髪を首の後ろで一息に切り落とした。
肩口で自由になった髪がふわりと彼女の頬を撫でる。
「ラナ!?」
「貴女、何て事を…!!」
彼女が伸ばした髪を大事にしていた事を知っている仲間達は思わず息を呑んだが、ラナ自身は全く動揺していなかった。
「さあ、早く行って!此処は私たちで何とかします。
スカサハは表の様子を見ていて。ラクチェは手を貸して頂戴」
迷わず髪を切り落とした彼女の決意に、レスターとデルムッドは賭けてみる事にした。
もう一刻の猶予も無い。
二人は頷きあって裏の窓からそっと抜け出すと、自分達の愛馬の手綱を引いて小屋を離れた。
「スカサハ、様子は?」
「まだ動かない。だがもう時間の問題だろう」
手紙が届けられてからも、既にかなりの時間が経っている。
村長が相手に不審を抱かせずに話を引き伸ばすのも限界だろう。
「判ったわ」
返事をしながらもラナは手を休めない。
切り落とした自分の髪をラクチェに持っていてもらいながら、しっかりと端を革紐で縛って形を整える。
それは急ごしらえの鬘(かつら)だった。ものの数分で遠目に見る分には誤魔化せる程度の物が出来上がる。
「セリス様は、寝台に横になっていてください。
絶対に声を出さないでくださいね。顔は鬘で隠せても、声を聞けば男の人だと判ってしまうから」
鞘ごと剣を抱いたセリスを、入り口に背を向ける形で寝台に横たわらせる。
隠し持った剣を隠すように掛け布に包まり、更に顔を半ば隠すようにラナが鬘を被せた。
前髪の部分を軽く手で散らした上に濡らして絞った手布を置き、黄金色の長い髪を印象付ける為に掛け布から少し覗かせる。
「ラナ……済まない、僕の為に」
押し殺したセリスの声に、ラナはそっと彼の頬に指先を触れた。
「セリス様はまだ戦ってはいけない。
シャナン様もオイフェ様も居ない今、私達だけで戦えば必ず村に犠牲が出る。私達には時間が必要なんです。
あの髪は、いつかこんな日が来た時の為に伸ばしていた。
武器を持たない私が、血を流さずにセリス様を守る為の盾として」
「!?」
何故髪を伸ばしているのかと尋ねた時、彼女が答をはぐらかした意味を理解し、セリスが目を瞠る。
「胸に抱いたその剣を抜くのは最後の手段。どうか―――私を信じてください」
『来るぞ』というスカサハの押し殺した声が、ラナの囁きに重なった。
「なんだぁ?こんな奥にも小屋があるじゃねぇか」
訝しむような声と共に乱暴に扉が叩かれる。
注意深く中から扉を開けたのはスカサハだった。
「……イザークの兵士が、こんな鄙びた村に何の用だ」
兵士が腰に提げた剣を見遣り、スカサハの目が剣呑になる。
気の弱い農夫が出て来るかと思いきや、眼光の鋭い少年が扉を開けた事で、多少相手の気勢を削ぐ事が出来ればしめたものなのだが。
武装していてはかえって警戒心を抱かせるので、ラクチェもスカサハも敢えて剣を手放していた。
「用と言う用はねぇ。定期的に村を巡回して、『怪しい連中が居ついていないか』調べるのが俺達の仕事なんでねぇ」
村にやって来たのは二人の若い兵士だった。
小屋の奥に見えるラクチェやラナに好奇の目を向けた事からも、お世辞にも正規の訓練を受けた騎士には見えない。
大方給金に釣られて雇われた野盗崩れのゴロツキといった所か。
「此処はお前等だけか。男はお前以外には居ないのか?」
女所帯に、スカサハ一人が男である事を不審に思ったのだろう。
気の強いラクチェの声が、兵士の疑心を拭うべく発せられる。
「スカサハはあたしの兄よ。兄弟なんだから、一緒に暮らしてて当然でしょ」
「私達は孤児です。物心付いた時には既に親は亡く、当てに出来る身寄りが他に居ない者同士、身を寄せ合って暮らしています。
スカサハは老人や女には難しい力仕事や村の用心棒を、私達は家の内向きの事と畑仕事をしながら日々の糧を得ています」
彼等が更なる疑念を抱く前にラナが先んじた。
女が相手なら話もし易いだろうと踏んだのに、二人とも口が達者で気が強そうで、当てが外れてバツの悪そうな表情が兵士達の顔に浮かぶ。
このまま小屋を出て行ってくれる事を願っていたのだが―――兵士の一人が、ラナが自分の身体で隠していたセリスの存在に気付いた。
「うん……?奥にもう一人居るな。おい女、そこで横になってるのは誰だ!?」
掛け布越しにも、セリスの身体に緊張が走ったのが判る。
だがラナはつとめて平静な声のまま、いたわるようにそっと彼の背を撫でた。
「大きな声を出さないで下さい。昨夜から具合を悪くした私の姉が、ようやく眠ったばかりなんですから」
「お前の姉だと?」
兵士達が肩口で切り揃えられたラナの髪と、掛け布の間から寝台の上に広がる長い髪を見比べる。
よく似た黄金色である事は判ったものの、良く見えない『姉』の顔立ちに興味が湧いたのか、それとも無意識で違和感を憶えたのか、二人が覗き込むように前へ出る。
だが、その不躾な視線を遮るようにラナが男の前に立った。
「姉は具合が悪いと言ったでしょう。病人相手に無体を強いるような真似は止めて下さい。
元々あまり丈夫な人ではないのに、私達を飢えさせない為に幼い頃から無理を続けて病がちになってしまったんです。
十数年前、貴方たちの雇い主とその一族が愚かな戦をしていなければ、
姉はこんな身体になるまで働きづめになる事も無く、例え貧しくとも今でも両親と共に暮らしていたでしょうに」
パン!と乾いた音が小屋に響いた。男の一人がラナに手を上げたのである。
「……お嬢ちゃん、口は災いの元って言うんだぜ。調子に乗って付け上がるのもいい加減にしな。
親を亡くしてもお前達が此処でこうして生きていられるのは、俺達の雇い主であるダナン様のお陰だって事を判ってないらしい。
何も無いこんなシケた村、ダナン様の命令一つでいつでも焼け野原に出来るんだ。あまり俺達に立て付かない方が身の為だぞ」
丸腰のラナが殴られた事でスカサハとラクチェの顔色が変わったが、彼女は二人を手で制した。
「気が済みましたか」
「何……?」
殴られても一歩も退かないその姿に、兵士達が僅かにたじろぐ。
グッと奥歯を噛み締め、逆にラナが一歩前に踏み出した。
「私達は、ただ静かな暮らしを守りたいだけ。私の望みは過分ですか?
具合の悪い姉をゆっくり休ませてあげたいと願う事が、貴方方の雇い主の逆鱗に触れる程に大それた望みなのですか?」
「う……」
静かな声に、男たちが気圧されるように一歩、二歩と後ずさる。
口答えをする村人は今までにも幾人も居た。
だがその多くは、誰かが傷付けられると口を噤んでしまったのだ。
年端も行かない少女の身で、しかも自分自身が殴られながらも、一歩も退かないその勇気と気迫に声が出ない。
だがこのまま逃げるように立ち去っては、雇い主に対して顔が立たなかった。
生意気な口をきいたこの少女を、村に対する見せしめの為に連れ帰ろうか。
不穏な意思のやりとりが、男たちの視線で交わされたその時―――
「止めときな、お前等の負けだ」
突然降って湧いたその声にラナ達も驚いたが、それ以上に驚いたのは兵士達だったようだ。
二人の背が雷に打たれたように伸びる。
恐る恐る彼等が振り返ったその視線の先には、不機嫌そうに腕を組んだヨハルヴァの姿があった。
「ヨハルヴァ!?」
「ヨ、ヨハルヴァさん……なんでこの村に!?」
ラクチェが驚きの声を上げ、兵士二人が竦み上がる。
ヨハルヴァはラクチェにはちらと視線を向けただけで、問答無用で兵士二人の腹に拳を叩き込んだ。
「……ったく、やっとラクチェの居所を突き止めたと思ったら、ボンクラ共のお陰で台無しだ。
お前等の処分は後でゆっくり考える。先に戻ってろ!」
「へ、へい……!」
先を争い、転がるようにして兵士達は表へ逃げ出た。
いずれ処分が下されるにしても、今この場からとにかく逃げ出したかったのだろう。
「さて……と。嬢ちゃん、済まなかったな。もう少し早く俺が来ていたら、手を上げさせたりしなかったんだが」
「あ……いえ、私は……」
予想外の展開に一瞬言葉を無くしていたラナが我に返る。
「丸腰の女に手を上げるような下種(げす)は、今後一切この村には近付けさせねぇ。
あいつらにも後でしっかり灸を据えておくから、それで勘弁してくれるか?」
「―――今後、兵士達がこの村に手出しをしないようにして頂ければ、それで十分です」
兵士に打たれた頬は痛むが、セリスの所在が知れる事に比べたら何でもない。
それどころか、非を咎めない代わりに今後兵士を村に近付けさせないと確約させる事が出来れば渡りに舟だ。
「ラクチェ達も、それでいいか?」
「ラナがそれで良いって言ってるんだから、あたし達がどうこう言う筋合いは無いわよ」
ラクチェの隣でスカサハも無言で頷く。『そっか』と後ろ頭を掻きながらヨハルヴァの表情がようやく解れた。
部下を率いる領主の顔から、歳相応の青年の顔に戻る。
「今日の所は引き上げるぜ。あの二人の事もあるし、何よりケチが付いちまったからな。
その代わりラクチェ、今度会った時には付き合ってくれよな?」
「……あんたが女を殴って自己顕示欲を満たす男じゃないって判ったから。
お茶くらいなら付き合ってあげてもいいわよ」
不本意ではあるが、この際ヨハルヴァを味方につけておいて損は無い。
セリスの居るティルナノグ以外で会うだけなら、実害は無いだろう。
ヨハルヴァは『よし、決まりだ』と呟き、上機嫌で小屋の扉に手を掛けた。
「後で薬を届けさせる。嬢ちゃんに湿布と―――奥で剣を抱いて寝てる『姉さん』にもな」
「!?」
サッとラナの顔色が変わる。
まさか、セリスの事を気付かれていたのだろうか……?
「剣は隠せても、殺気がダダ漏れだぜ。幾ら何でも寝込んでる女を襲ったりしねぇから安心しなよ。
それと、護身用に持たせるならせいぜい短剣にしときな。素人が剣を振り回したら怪我するぜ。じゃあな」
彼は小屋の入り口で肩越しにニヤリと笑ってみせると、ひらりと手を振り、そのまま村を立ち去った。
「……あの時、ヨハルヴァが本当に僕の事に気付いていたかどうかは判らない。
気付いた上で見逃してくれたのか、それとも本当に皆の芝居を信じてくれたのか。
でもあの日、君は戦う事無く兵士二人とヨハルヴァを退けた―――君の勇気と皆の機転が、僕を守ってくれたんだ」
ヨハルヴァは約束通り、その後一切自分の部下をティルナノグへと近付けさせなかった。
父のダナンには他所と同じように巡回をし、異常無しと報告していたようである。
ラクチェは時折ソファラの城下でヨハルヴァと茶を付き合う事になったが、『相手の手の内が探れていいわ』などと言っていたから無駄ではなかったのだろう。
またヨハルヴァがティルナノグには手出ししないとラクチェに約束したと知ったヨハンは、
彼女の機嫌を損ねない為に、自分も弟に倣った。
三年後、ヨハルヴァとヨハンの管轄から離れたガネーシャの兵士が独断でティルナノグを強襲するまで、奇妙な平穏は続いたのである。
後日、ラクチェの説得に応じて解放軍に加わったヨハルヴァにそれとなく当時の事を尋ねてみたが、
『さぁ?何の事だか憶えてねぇな』と曖昧に答え、笑っただけだった……
「僕は、風に靡く君の髪が好きだった。
だからこそあの日―――僕の為に、君にその髪を自ら切らせてしまった事が何より辛かったんだ」
あの日以来、ラナは髪を伸ばそうとはしなかった。
ヨハルヴァたちの計らいでティルナノグに兵士が近付かなくなったのがその一番の理由だが、『いずれ戦場に出る時に邪魔になるから伸ばさない』と。
「髪なんて、またいつでも伸ばせます。
それに私は、戦う事の出来ない自分でもセリス様を守る事が出来て―――とても嬉しかったんです。
だからもう、気に病まないでください」
ヨハルヴァが村を立ち去った後、ラナのすっかり短くなってしまった髪と打たれて赤く腫れた頬を目にして、セリスは血が滲むほど強く唇を噛み締めた。
『ごめん……ごめん、ラナ。僕の為に……』と何度も何度も謝罪の言葉を繰り返し、自分の存在が仲間に犠牲を強いる事に心を痛めて涙した。
幸い今回は誰も命に別状は無かったけれど―――次もまた事無きを得るとは限らなかったから。
それからのセリスは、それまで以上に剣の修行に熱心になった。
もう誰も自分の為に傷つけさせはしない。
誰かに守られるのではなく、自分こそが仲間を守る盾になるのだと―――剣だけではなく、心も強くあろうと懸命だった。
「ユリウスを斃して、この世界を守る事が出来たら……もう誰も戦で泣く必要が無くなったなら―――その時、この髪を切ろうと決めていた。
僕が髪を切るその時には、君に立ち会って欲しかったんだ。
あの日、僕の為に迷う事無く自分の髪を切る事を選んでくれた君に」
「セリス様……」
今日まで自分は、父の果たせなかった悲願と皆の為に生きてきた。
それは確かに自分自身で選んだ人生ではあったけれど、真の意味で『自分の為に生きていた』とは言えなかった。
だから生まれ変わるのだ。
誰かの為ではなく、自分自身として生きる為に―――髪を切るのは、新たな一歩を踏み出す儀式。
これより先、唯一と選んだ人と手を携え、仲間と共に守った世界で生きて行く為に。
ラナは手渡された短剣を、束ねられたセリスの髪に近付けた。
一度目を閉じ、そして一息に奥から手前へと剣を引く。
五年前のあの日と同じように、自由になった髪が一房セリスの頬を撫でた。
「いつだって君の笑顔に救われていた。
ありがとう、ラナ。不甲斐ない僕だけど、どうかこれからもよろしく」
「どんな困難にも決して挫けないセリス様が居てくださったから、私は頑張れた。お礼を言うのは私の方です。
私という存在が貴方を支えられたのなら、それが何より嬉しい」
心から笑って欲しかった。
剣で未来を切り開く必要の無い世界に生きて欲しかった。
その肩に重く圧し掛かる運命から解き放ってあげたかった。
世界を崩壊から救った青年は、これからどのような人生を歩んでいくのだろう?
未来を夢見る事が出来る幸福を、心からラナは神に感謝した。
「もう遅いのに、外はまだ賑やかだね」
目を細め、セリスが城下を見遣る。
星明りのような灯火は未だ消えず、人々の歌声は絶える気配が無い。
「こんなに楽しい夜は本当に久し振りだから。何人かはこっそり城の外に出たみたいですよ」
「ええ、本当かい?でも流石に僕等は、出て行く訳にはいかないだろうなぁ」
何気なく浮かべた残念そうな表情に、歳相応の若さが垣間見えた。
そんなささいな事が嬉しくて、ラナの面に微笑が零れる。
「セリス様が出て行ったら、それこそ大騒ぎになっちゃいますものね」
「じゃあせめて露台に出て、楽しい空気だけでも分けて貰おうか」
自然に浮かぶ笑顔に笑顔が答え、差し出された手にそっと手が重ねられる。
歓喜の歌声響き渡る長い夜は、当分明けそうになかった。
【FIN】
あとがき
当初の予定とは随分傾向の違ってしまったセリラナです。
聖戦後ののほほんなカップル話にするつもりだったんですが、武器を持たずに戦うラナが書きたくて今回のお話が出来上がりました。
予想外にヨハルヴァが良い奴に…(笑)残念ながらラクチェをお嫁にはやれないんですけどねぇ(^_^;)(ウチはシャナン×ラクチェ固定なので)
ちなみに彼は、ベッドの中に隠れたセリスには気付いてます。まあ掛け布めくって確かめた訳ではないので『もしかして…』程度ですが。
怯えの感情ならともかく、殺気を放ってるとなったら、そりゃもう病人じゃないでしょって事で(苦笑)
剣を隠し持ってた事は、恐らく鞘か何かがカチャリと微かな音でも立てたのを聞き逃さなかったんでしょう。
知らないフリをしたのは、一番は勿論ラクチェの為。彼女がセリスの仲間であるなら、表立って行動を起こすまでは見逃そうと思ったから。
あと彼自身が無益な戦いには飽き飽きしていたからです。殴られたら相応に殴り返すけど、自分からは殴らないと。
以前年表を作った際に『解放軍と戦闘、ヨハン死亡』って書くのがどうも居た堪れなくて、ヨハンも生きてる事にしました。
戦闘の際に重傷を負って(大事な神経に損傷を受けた)、そのまま若くして隠棲した事にしたんですね。
歩くのに杖が必要くらいの後遺症が残りますが、命に別状はありません。
この時看護してくれた女性と後にゴールイン。ウチのヨハンは転んでもタダでは起きない(笑)
麻生 司
2006/10/05