夕陽に赤く染まるバーハラ城の楼閣に、アルテナは一人佇んでいた。
まるで風景ごと切り取られた、一枚の絵の様だ。
整った横顔に長く伸ばされた髪の影が落ち、面に浮かぶ憂いを一層濃く見せる。
―――この方がもう一度、心から笑える日が一日でも早く来ればいいのに。
杯から零れた水は元に戻りはしない。時間を戻す事など、出来はしない。
だが過去に捕らわれ、未来まで閉ざすのは哀し過ぎる。
「……アルテナ様、こちらにいらっしゃったんですか」
「ナンナ?」
弟の幼馴染であり、最も信頼する騎士の愛娘でもあるナンナの呼びかけに、アルテナはゆっくりと振り向いた。
If you hope, I will live with you
「そろそろ中に入られないと。いくら夏とは言え陽が暮れれば風が冷えて、長居をすると風邪をひかれますよ」
「そうね……風が気持ちよかったから、つい時間が経つのを忘れていたわ」
ナンナに促されて初めて、とうに陽が西に傾いている事に気付いたらしい。
リーフによく似た濃い栗色の髪が風に流され、さらりと背中で揺れる。
「トラキアの空が懐かしいですか?」
暮れ行く城下を見る眼差しが遠く東を見つめている事に気付き、アルテナの背にナンナが声をかけた。
率直なその問いかけに、アルテナが驚いたように栗色の瞳を瞬かせる。
ナンナに他意はない。言葉にして尋ねた以上の事を聞く気はないと、彼女の目は言っている。
だからアルテナも身構えるのを止め、正直な想いを口にした。
「……ええ、少しね。眼下に赤い大地の広がる空を、もう一度トリルと飛びたいわ」
トリルというのは、アルテナの騎竜の名だ。
トラキアの竜騎士は幼少の頃に自らの騎竜となる竜を選び、戦などで失わない限り、生涯をその一頭の竜と共にする。
正確には竜自身が、自分の主人となる人間を選ぶのだ。
どんなに人が望んでも、竜がその人間を主人と認めない限り、決してその背に乗せる事は無い。
それ故に竜と竜騎士は、互いに強い絆で結ばれるのである。
「アルテナ様が初めて竜に乗られたのは、幾つの頃だったんですか?」
「一人で乗ったのは十歳の誕生日よ。それがトリル。
それまでは兄様……アリオーンと一緒に、彼の騎竜であるリヴェールの背に乗せて貰っていたのだけれど」
気を張っていないと今でもアリオーンを兄、トラバントを父と呼んでしまう。
今はナンナの前だから事無きを得たが、トラバントに遺恨のあるリーフやフィンの前では決して見せてはならない失態だ。
ナンナは少し迷う素振りを見せた後、窺うように呟いた。
「……さっき、お父様からお聞きしました。
アルテナ様は新しい国をリーフ様にお任せになって、ご自分はトラキア地方の領主になる事を望んでいる……と」
アルテナは地槍ゲイボルグを継承するノヴァの直系である。
亡き父に代わり、レンスターとトラキアの国土を併合した新たな国の王位に就くと思われていたのだが―――
彼女はその意思が無い事を、先だってリーフと、彼の相談役も務めるフィンにはっきりと告げたのである。
アルテナが小さく頷く。
「私の命は亡き両親に貰ったもの……でも私をこの歳まで育んだのは、赤茶けたトラキアの大地と、彼の地に吹く乾いた風だった。
トラバントを父と、アリオーンを兄と信じて暮らした十数年―――それは偽りではあったけれど、私は確かに幸福だった。
リーフや貴方達がレンスターで苦難の日々を送っている時にも……かりそめの幸福の中で生きていたの。
……こんな事、申し訳なくてフィンやリーフには話せないのだけれど」
ナンナに話せるのは、同じ女性だからだろうか。
あるいは自分と同じレンスターに生まれながらも、母譲りだという彼女の容姿が、何処か異郷を感じさせるからなのかもしれない。
「アルテナ様のせいではありません。どうぞ気に病まれませんよう。
今は無理でも、リーフ様なら判って下さいます。アリオーン様の事だって、いつかきっと……」
敢えて養父の名を出さなかったナンナの気遣いに、アルテナは『ありがとう』と微かな笑みを見せた。
アルテナにとってトラバントは両親の仇であると同時に、二十年近く実の親と信じていた相手である。
実は仇だったと判った今でも、やはり目の前で悪し様に罵られるのは辛いのだろう。
リーフ達の前では務めて平静を装っているが、内心で彼女が未だに吹っ切れていない事をナンナは察していた。
「……アレスやセティが決断したように、本来ノヴァの直系である私が王位を継ぐ事が望ましいのかもしれない。
でもレンスターの血に連なる王を名乗るには、私は少し長くトラキアで生き過ぎた。
長く対立を続けたレンスターとトラキアの二つの民を、一つに束ねる王にはリーフが相応しい。
あの子なら神器を受け継ぐ血に縛られる事無く、レンスターとトラキアを共に慈しんでくれる」
かつて親友であった父達とは違い、リーフは神器を継ぐべき直系として生を受けなかった。
だが直系では無いが故に、血に囚われる事も無い。
王子でありながら苦難の幼少時代を送った彼であれば、分け隔て無く両方の地を治められる筈だ。
「それにリーフには、しっかりものの貴女と、貴女のお父様がついているわ。だから私は、安心して後を託す事が出来るのよ」
「私……ですか?」
自分の事を引き合いに出されるとは思っていなかったのか、ナンナが驚いたように父譲りの青い瞳を瞬かせる。
僅かの沈黙の後、彼女は謡うように言葉を紡いだ。
「―――父は騎士となってまだ間もない頃にキュアン様に見出され、以来ずっと身に余る信頼を寄せて頂いたのだそうです。
その御恩に報いる為、父はキュアン様ご一家とレンスター王家に変わらぬ忠誠を誓った。
今までも、そしてこれからも―――父は生涯の忠誠をリーフ様に捧げるでしょう。でも、私は……」
僅かに下がったその視線に、アルテナは彼女の胸の内にある想いを感じ取った。
「お母様の故郷の……ノディオンが気に掛かる?」
曖昧な笑みを浮かべると、ナンナは『よく判りません』と答えた。
「父とは違い、正確に言えば私はレンスターに忠誠を誓った騎士ではないのです。
ノディオンは母の故郷ではあるけれど、私はその地を見た事が無い。だけどその名を聞くだけで、心が震えるのもまた事実で……」
それはノディオンへと誘う、母の血なのだろうか。
自分の胸の内は告げないまま兄はどうするつもりなのかと話を聞きに行くと、兄もまたアグストリアへ『帰る』つもりなのだと答えた。
父と共にレンスターに残りリーフを補佐する事も考えたそうだが、
新しく生まれ変わるレンスターとトラキアには父だけではなく、ナンナもアルテナもハンニバルも居る。
それならばと兄はアレスと共にノディオンへと帰還し、母の故郷を再興させる事を選んだのである。
「私の忠誠はレンスター王家ではなく、ただリーフ様個人に捧げられたもの―――
リーフ様にとって、騎士としての私の役目が終わったというのなら……私は兄と共にアグストリアへ『帰り』、アレスの助けになろうと思います」
ナンナの決意を聞いて、アルテナが僅かに驚きの表情を浮かべた。
「……少し驚いたわ。貴女はきっと、リーフと一緒になってくれると思っていたから。
貴女がノディオン行きを考えている事、お父様は御存知なの?」
『はい』と小さくナンナが答える。
「さっきお話しして来ました。まだはっきり決めた訳ではないと前置きして」
自分の考えを聞いた父は一瞬驚いた顔を見せたが、やがて『そうか』と頷いてくれた。
レンスターで生きる誇りと共に、ノディオン王家の末裔である事もまた誇りとせよと教え続けたのは父自身。
言葉にはしなくとも、母が生まれ故郷の再興を願っていた事を父は理解していた。
「私はリーフや、父親であるフィン程には貴女の事を知らない。
それが貴女自身で決めた事なら、私には何も言う資格は無いけれど―――
だけど一つだけ言わせて貰えるなら……貴女が義妹(いもうと)になってくれたら、私はとても嬉しいわ」
「……ありがとうございます、アルテナ様……」
血の繋がった本当の妹を案じるようなアルテナの優しさを嬉しく思いながら、ナンナは小さく呟いた。
「ナンナ!こんな所に居たのか」
呼ばわる声にアルテナとナンナが振り向くと、楼閣の入り口にリーフの姿があった。
ナンナと一緒に姉が居た事に気付き、一瞬リーフが申し訳なさそうな顔になる。
「申し訳ありません、姉上。ナンナとお話し中でしたか」
「私はいいのよ、もう話は済んだから。
貴方たちも話は手短に済ませて、早めに部屋に戻りなさい。長居をすると風邪をひくわよ」
自分がナンナに言われた事を、そっくり真似して彼女に返した。
その事に気付きナンナが苦笑いを浮かべる。
『では、またね』とナンナに声をかけると、アルテナはその場から立ち去った。
「珍しいな、ナンナが姉上と二人で話なんて」
「そうでしょうか?」
意外だったと言外に込めたリーフの言葉に、ナンナが小さく首を傾げる。
それほど特別な事とは思っていなかったが、そう言えばアルテナと二人きりで話す機会は、今まで案外無かったかもしれない。
いつも傍にリーフやフィンを始めとした仲間が居たような気がする。
「でも、とてもいい事だ。姉上はいつも何処か寂しそうに見えたから。これからも時々姉上の話し合い相手になってあげて欲しい。
その……男の僕やフィンが相手では、話せない事もあるだろうから」
「―――私でお役に立てるのならば」
いつも通りの打てば響くような答が返らなかった事が気になったのか、やや戸惑ったような表情を浮かべたリーフが窺うように尋ねた。
たった今まで、信じて疑いもしなかったのに。
「ナンナは、レンスターに残るのだろう?」
「え……?」
唐突な問い掛けに、一瞬返す言葉に迷う。
いつかはきちんと話をする必要があると思っていた。
ノディオンへ馳せる想いは確かにあるが、だが今この場で聞かれる事ではないと思っていたから、青い瞳に微かな驚きが浮かぶ。
「兄君のデルムッドは、お母上の意志を継いでアレスと一緒にアグストリアの再建をすると決めたようだが……
レンスターには父親のフィンも居るのだし」
リーフの言葉を耳にしたナンナが、口元に手を当てクスリと笑う。
「それでは私がレンスターに残る理由が、お父様の傍に居る為になってしまいますけど……リーフ様は、それでよろしいのですか?」
「え…!? いや、そんなつもりじゃ……!」
風にそよぐ黄金の髪を手で押さえ、ナンナは一番星の瞬きだした空を見上げた。
「―――私と兄はレンスターの騎士である父の子であると同時に、ノディオン王家の生き残りでもあります。
兄はお父様と共にレンスターに残る事も考えたそうですけど、
アレス王子に是非にと請われ、ノディオン王家の血を引く者として生きる事をいち早く決められました」
アレスはナンナにも声をかけてくれた。
『ノディオンは叔母上の生まれ故郷、お前のもう一つの故郷(ふるさと)でもある。
リーフと共にレンスターに残るのならそれもいい。だがもしもお前自身が望むのであれば―――俺もリーンも歓迎する』……と。
「……解放軍と共に渡り歩いた他には、私はレンスター以外の土地を知りません。レンスターが私の生まれ故郷であり、育まれた場所。
でも確かに、私の中にもラケシス母様の血が流れている」
アグストリアに吹く風を思うと心が揺れる。
とっくに心は決まっていた筈なのに、本当の自分は一体どうしたいのかと想いが波立つのだ。
父の祖国でもあるレンスターに留まり、リーフと共に生きるか。
それとも母の悲願を果たす為にノディオンへと『帰る』のか。
そしてその答を導くのは、ナンナ自身ではなかった。
「レンスターにはリーフ様がいらっしゃいます。お父様はこれからも、生涯リーフ様とレンスターを守り続けるでしょう。
トラキアにはアルテナ様やハンニバル様がいらっしゃる。そしてきっとアリオーン様も、いつかはアルテナ様の為に戻って来て下さると信じています。
でも私は……」
自分はレンスター王家に忠誠を誓う騎士ではない。
幼い頃から父の教育を受け、母の才を受け継いだ剣の修行も重ねて来た。
レンスターで生きる誇りと共に、ノディオン王家の末裔である事も誇りとせよと教えられたのだ。
父はいつか子供達が、母親の意志を継ぐ日が来る事を予感していたのだろう。
「お父様の娘であるという、ただそれだけの理由でリーフ様が私にレンスターに残るようにと仰るのなら―――
騎士としての私の務めが終わったのなら、私は兄と共にアグストリアで、ノディオン王家の再興をお手伝いしようと思います」
「違う…!……そうじゃない……そうじゃないんだ。フィンが居るから残って欲しいとか、そんな理由じゃない。
新トラキアの王妃は君しか居ない!だから……!!」
ハッと、リーフが真っ赤になって言葉を詰まらせる。
勢いで口にしてしまったが、それは明らかな求婚であったから。
青い瞳を丸くして、ナンナは驚いたように瞬きをする。
ゴホン、とわざとらしい咳払いをして、生まれた時から共に育ったレンスターの王子は気まずそうに視線を逸らした。
「その……済まない。勢いで口にするべき事じゃなかった。
でも断られるなんて微塵も思わなかったから―――もうフィンには、言ってしまったんだ。
『僕の妃になるのはナンナしか居ない』……って」
「……お父様は、何と?」
静かな声に、リーフがナンナを見遣る。
歳下である筈の彼女が、まるで姉のような眼差しで自分を見ていた。
「僕が君を妃にと望み、君が僕の妃となる事を望むのであれば―――自分には、何一つ反対する理由は無いと」
ナンナは、物心付いた頃には既に傍に居た。
兄妹のように育った彼女は、いつから自分の事を『リーフ』と呼捨てではなく、『リーフ様』と呼ぶようになっていたのだろう。
彼女が傍に居る事は呼吸をするのに等しい程に当たり前の事で、自分の人生に彼女の存在が無いなど―――
一瞬たりとも考えた事などなかった。
レンスターの王子と、王家に忠誠を誓った騎士の娘。
だが彼女は彼女であって、他の誰も彼女の代わりになどなれない。他の誰も望まない。
自分の中にある弱さも脆さも、何もかも知りながら傍に居て支え続けてくれた彼女以外選べない。
生涯を共に生きる伴侶はナンナしか居ないと―――もうずっと前から、心に決めていたのだから。
「言葉にしなくても判って貰えていると思っていたから―――今までちゃんと言った事は無かった。ずっと、君の優しさに甘えてた。
でも本当に大事な事は、きちんと言葉にしなくちゃいけないんだね」
激しく鼓動が胸を叩く。
これほどに自分の鼓動をはっきりと感じたのは、レンスター城を奪還した際に兵士たちの前に立って演説をして以来だった。
「ナンナ……これから先もずっと、僕の傍に居て欲しい。僕の妻になって、レンスターとトラキアの復興を手伝って欲しいんだ。
他の誰も君の代わりになんてなれない。僕にはナンナが必要なんだ」
「―――私という存在を、望んでくださるそのお言葉が聞きたかった」
リーフは一国の王子。そして自分はその王子に忠誠を誓った騎士の娘。
でもそんな理屈より何よりも、ただ愛しかった。
生まれた時から傍に居て、辛い時も苦しい時も全て共有した―――幼馴染。
その名が示すように眩しいほどに真っ直ぐなこの少年を支えて生きていきたいと願った。
其れが叶わぬのなら、せめて自分の存在を重く感じさせない為にノディオンへ去るつもりだった。
だけどもしも、慕い続けたその人が自分を望んでくれると言うのなら―――
「貴方が望んでくださるのなら、私は喜んで貴方と共に生きましょう。
―――幼い頃からずっとお慕いしていました。私が妻となるのは、貴方以外には無いと」
差し出しされた手に掌を重ね、 陽の光を受けて花が開くようにナンナの面に笑顔が浮かぶ。
その笑顔を目にして、リーフも心からホッと安堵の表情を見せた。
「ずっと一緒に居た筈なのに、なんだか初めて本当の君に出逢った気がするよ」
「そうかもしれません。今この瞬間から、私の故郷はレンスターだと胸を張って言えるようになったから」
ノディオンへの望郷が尽きる事は無いだろう。いつかは必ず訪れたいと今でも思う。
だが帰るべき場所は他にある。
父と母が、僅か数年間ではあったが幸福な時間を共有する事が許された地。
そして唯一と決めたその人が生まれ育った国。
レンスターこそ我が故郷―――
「一緒に、フィンに―――君の父上に報告に行こう」
リーフが柔らかくナンナの手を握り、少し照れた表情を見せる。
「僕には命の親である両親の記憶は無い。姉上とは再会を果たす事が出来たが、父上のお顔も母上のお顔も肖像画でしか知らなかった」
「リーフ様……」
ナンナがそっと手を握り返すと、リーフは小さく『大丈夫』と呟いた。
「僕にとってフィンは、父とも兄とも呼べる人だ。そして君の母上、ラケシス殿には実の子の様に可愛がって頂いた。
ラケシス殿の事は、今でも朧気に憶えている―――
両親が死に、姉上の消息は判らず、数年後にお祖父様も亡くなって天涯孤独となった僕を支えてくれたのは、フィンとラケシス殿と……そして、君だった」
フィンは決して臣下の礼を失する事は無かったが、家族の温もりを、人の絆と言うものを身をもって示してくれたのはやはり彼とその家族だった。
今までは複雑な彼の心中を察して口にする事はなかったが、いつか口に出来る日が来るだろう。
妃となるナンナの実の親として、フィンを『義父(ちち)』と呼ぶ日が―――
「君と僕と、そしてフィン―――ずっと一緒に居た僕達だけど、これでやっと本当の家族になれる」
それはこの世に生を受けて二十年近く、焦がれて止まない絆だった。
フィンやナンナのお陰で本当の孤独を知る事は無かったが、実は何より欲していた繋がりだったのかもしれない。
だからこそ手の中のナンナの温もりに心踊り、新たに『義父』と呼べる人が出来る事が嬉しい。
「私達だけではありません。リーフ様、どうかアルテナ様の事も」
ナンナの表情が改まる。
リーフが『家族』という絆を望むのであれば、アルテナも共に在りたかった。
リーフと結ばれ、義理の妹になってくれたら嬉しいと言ってくれた彼女の為にも。
「アルテナ様がもう一度心から笑える日が来るように、どうか」
「勿論だ。だけどそれは僕達だけではどうにもならない。
姉上に本当の笑顔を取り戻せるのは……きっと、アリオーン殿だけだ」
ナンナが声を掛けるまでアルテナがそうしていたように、リーフもまた東の空を見遣った。
判っていた。
どんなに自分達の手前、平静を装っていても、姉はいつも寂しそうだった。
仇だったとは言え、二十年近く親だと信じていたトラバントを喪った事が辛かったのだろう。
そして兄と慕っていたアリオーンが、実は仇敵の子であったという現実が更に姉を苛んだ。
せめてもの救いは、命の奪い合いとなるその瀬戸際で、アリオーンが姉の説得に応じて同盟軍となってくれた事だった。
あくまでもアルテナ個人に対しての同盟であったが、戦う理由を引き下げるにはそれで十分だった。
全ての戦いが終わった後、アリオーンは一足先にトラキアへと去った。
姉の話によると、トラキアの山岳地に彼個人が所有する小さな山荘があるらしい。
普通の人間が足を踏み入れるような場所では無いそうだが、騎竜や天馬を駆る事さえ出来れば然程難儀する場所でもないと言う。
他の誰にも何処と告げはしなかったが、姉だけには最後に『トラキアへ戻る』と言い残したそうなので、恐らくは其処に帰ったのだろうと。
「時間は掛かっても、きっと説得してみせる。
姉上を任せられるのは―――彼しか居ない。悔しいけどね。
本当の事を言うと、もしもフィンが君の父上じゃなく、尚且つ独り身だったら……是非にとお願いしたいくらいだった」
軽く肩を竦めて見せたリーフに、ナンナは花の顔(かんばせ)を見せた。
「ありがとうございます。アルテナ様がお聞きになったら、どんなにお喜びになるか」
「でも当分はお話出来ない。せめてアリオーン殿が会ってくれない事には、話にもならないからね」
例え会えたとしても、彼が自分の申し出を受け容れてくれるとは限らない。
父親を討った自分の言葉に、彼は耳を傾けてくれるのだろうか。
親を討たれる悲しみは誰より自分が良く知っている。それでも彼は、姉の為にわだかまりを捨ててくれるだろうか。
「きっとアルテナ様を想うリーフ様の心が、アリオーン様の心も解かせてくれます。
アルテナ様とアリオーン様は憎みあって袂を分かった訳ではないのですもの。諦めずに信じ続ければ、必ずいつかは」
「……そうだろうか―――いや、そうだといいな」
信じたい。
諦めたくない。
もう喪う事はたくさんだ。
諦める事も、悔しさに涙を流すのもたくさんだ。
どんなに時間が掛かっても、どれほどに困難であろうとも、それが大切な人の幸福の為ならば自分は力を尽くしたい。
姉とアリオーンは、長く続いたレンスターとトラキアの争いの歴史を真に終わらせる為に、今という時代に生を受けた。
二人が手を取り合う事で、きっと全てが丸く収まる。
姉が心からの笑顔を取り戻したその時こそ―――自分の中で、この戦が終わりを告げるのだ。
「レンスターもトラキアも、そして君達も……必ず守るよ。
もう誰もいがみ合う事の無い、平和な国を作ってみせる。だからナンナ―――」
「どんな時も私はリーフ様のお傍に居ます。父やアルテナ様と一緒に、生涯リーフ様をお助けします。
どうか皆が笑顔で暮らせる国を作ってください」
「ああ、きっと」
一人では成しえない事も、彼女と一緒ならばきっと叶えられる。
繋がれた手を通して、力が溢れてくるような気がした。
リーフの説得により、トラキア領主となったアルテナの元にアリオーンが帰参したのは、それから約一年半後の事だった。
【FIN】
あとがき
元はナンナを中心に書き進めていたお話です。
レンスターに残るか、ノディオンへ帰るべきかと悩んでいる所にリーフがやって来て…という単純な展開だった。
伏線としてアリオーン×アルテナが欲しかったので、前半にアルテナの出番と台詞が増えました。
このままの流れでアリオーン×アルテナに突入したかったのですが、
何だかんだで後回しになり(200%増しになったアレス×リーンとか…苦笑)仕上げるのに時間が掛かってしまいました。
アリオーン×アルテナの展開如何(いかん)で連動するこのリーフ×ナンナにも加筆する必要性があったので、
なかなかこのお話もUP出来なかったのです。やっと出して来れた…(^_^;)
ナンナは父親であるフィンの手元で、ノディオン王女として恥ずかしくない淑女の立ち振る舞いというものを、しっかりと躾けられて育ちました。
その一方であくまでも騎士の娘として、王子であるリーフを立てるという事を学びました。
でも当のフィンは、まさか将来自分の娘がリーフの妃になるとは夢にも思っていなかったんです。
娘を立派な淑女として育てたのは、ノディオン王家の再興を願っていた妻ラケシスの為だったのでした。
ちなみにフィンは『ノディオンに行くかも』というナンナの考えと、『僕の妃はナンナしかいない』というリーフの考えを両方知っていた訳ですが、
どちらも本人(もしくは本人同士)が結論を出す事なので、敢えてどちらにも黙っていたのです。
うっかり忘れてたとか、『娘を嫁にやりたくない』なんて父親の嫉妬心から出た隠し事ではないのですよ(笑)
あと『その名が示すように眩しいほどに真っ直ぐな』という一文は、リーフの名がケルト神話の太陽と光の神であるルーに由来している事から。
北欧神話かと思って資料漁って見付からなかったから慌てた…(笑)ケルト神話だったんか(^_^;)
北欧、ケルト共に、両神話には聖戦に縁の深い名前がいっぱいあります。面白いので調べて見るのも一興。
ギリシャ神話にも若干出典元が。(ラケシス(ラキシスとも表記される)などは、ギリシャ・ローマ神話に於ける運命を司る女神の名です)
麻生 司
2007/01/25