レンスターはかつて温和な気候に肥沃な国土を持ち、跡継ぎである聡明な王子は可愛らしい花嫁を迎え、繁栄の只中に在った。
王子夫妻は二人の子宝にも恵まれ、その仲睦まじさは人も羨まんばかりだったという。

だが、今この城に彼らの姿は無い。
年老いた国王が未だ辛うじて王位に就いてはいるが、十二聖戦士の末裔の証であるゲイボルグは後継者であるアルテナ王女と共に喪われ、
当代の所有者であったキュアン王子とその妻エスリンもまた、トラキア竜騎士団の手に掛かりイード砂漠に散った。
キュアン王子の率いていた精鋭ランスリッターも、主君と共にイードの露と消えた。

ゆっくりと滅び行く王国に残されたのは年老い、病がちな王と、王の孫である生まれて間もない王子が一人。
主力のほとんどを喪った騎士団を纏め率いるのは、平民の出ながら亡きキュアンにその才覚を見出され、王家に生涯の忠誠を誓った伝説の騎士フィン。
―――そしてマスターナイトの称号を戴く彼の妻、ラケシスであった。







  福 音






レンスター城は、その規模に比べて随分とひっそりとした佇まいである。
つい数年前の賑わいと活気は、この国の行く末を憂うように遠ざかって久しい。


自国の民に対して温和で慈悲深い王は未だ存命であったが、遠からず老王の後を継ぐ筈だったキュアンは既に亡い。
王子夫妻の忘れ形見であるリーフ王子は、最近やっと一人で歩けるようになったばかりである。
既に戦場に立つ事の叶わぬレンスター王は、残された騎士団の全権を、息子の腹心であったフィンに委譲した。
彼はその異例の任命に驚き、頑なに固辞していたのだが、『唯一人残されたリーフの為にこの国を守ってくれ』と老王に懇願され、承諾して今に至る。
グランベル帝国の勢力拡大を意識してか、今のところトラキアに大きな動きが無いのがせめてもの救いであった。

キュアンとエスリンの訃報に続き、バーハラの悲劇によりシグルドを始め多くの仲間達がアルヴィス卿の謀略により命を落とした。
確実な死を公表された者が半数、生死不明が残りの半数である。

フィンはすぐにもバーハラへと駆け付け、死者の中に名を連ねていなかったラケシスの安否を確かめたかった。
だが亡きキュアンに代わって騎士団の統括と幼いリーフの後見を任された身では、城を空ける事すらままならない。
生きているのか、それとも人知れず何処かで息絶えたのか。
確かめる術すら無く時が流れ―――ミレトス経由でラケシスがレンスターに辿り着いたのは、バーハラの悲劇から半年の後の事であった。


レンスター王には、ラケシスがノディオン王家の王女である事を打ち明けた。
知った上で他の者には素性を隠したまま、王はフィンの妻としてラケシスがレンスターに留まる事を認めてくれた。
老王は早くに亡くした息子と嫁の姿を、フィンとラケシスに重ねていたのかもしれない。
ラケシスは老王に深く感謝し、以降自身の剣はレンスターの為に振るうという誓いを立てた。

それから、半年―――







主を喪った寂寥と傾国の黄昏の中で、それでもゆっくりと時間は流れてゆく。
ラケシスがやって来たばかりの頃には這い這いをしていたリーフが、先日自分の足で歩けるようになった。
小さな足を精一杯踏ん張り、手を伸ばして懸命に歩く姿はまだ頼りなげだが、そのうち元気に走り回るようになるのだろう。
シレジアの王妃となったフュリーとラーナ皇太后に託したデルムッドも、もう歩いている頃だろうか。


古くから王家に仕える執事がリーフの面倒を見てくれている内に、ラケシスは雑事を片付けておこうと自室に戻った。
本来ならば王族が住まう一角なのだが、リーフの寝台がかつてのキュアンとエスリンの私室にそのまま在るので、
孫の目の届く範囲に居てやって欲しいというレンスター王の願いもあって、続きの間を自室として使わせて貰っている。

闇魔法以外の全ての武芸、魔法に通じる証であるマスターの称号を戴くラケシスは、
フィンと共に騎士見習いの武芸の指南役を始め、城の内外の雑務も引き受けていた。
騎士団の維持に必要な物資、武器の調達や、それに伴う経費の捻出など、頭の痛い内容が多い。
時には騎士見習い同士の諍いの仲裁や、城全体で消費する糧食の確保に奔走する事もある。
昨夜からフィンが新規に入団した騎士見習いの編成と訓練計画に悩んでいたようなので、手伝うつもりであったのだが―――

「フィン?」

自室にフィンの姿は無かった。
てっきりまだ部屋で仕事をしていると思っていたのだが、もしかしたら煮詰まり過ぎて稽古場にでも行ったのだろうか。
寡黙に事務仕事をこなす傍らで、時折思い出したように黙々と一人で槍を振るっている事がある。
根っから真面目と言うか、生まれ持った気質と言うか―――あるいはその両方なのだろうが、彼は一人で何でも背負い過ぎる傾向にあった。
言ってくれれば槍の稽古でも話し相手であっても、いつでも気分転換くらい付き合うのに。

フィンの使う執務机の上に置かれたままの書類に手を伸ばそうとして、ラケシスは続きになっているキュアン達の私室に見慣れた背中を見付けた。




出逢った頃に比べてずっと広く逞しくなった後ろ姿は、リーフの為に部屋に掲げられた在りし日のキュアンとエスリンの肖像画を見上げていた。
顔は見えないが、もしかしたら目を閉じているのかもしれない。
そっと近付いたラケシスは声を掛けずに、彼の少し後ろで同じく肖像画を見上げた。

「ラケシス?」

気配に気付き、フィンが振り返る。
戦場ならもっと早くに気付いていたのだろうが、やはり慣れた城の中なので気を緩めていたのだろう。

「キュアン様達のお部屋で、何をしていたの?」

微笑を浮かべ、やんわりと尋ねる。
彼はリーフと一緒で無い時以外は、ほとんどこの部屋に足を踏み入れる事は無い。
どれだけ時間が経とうとも、もう主が戻らないのだとしても、此処がキュアンとエスリンの私室だという意識が抜けないのだろう。
リーフの為とは言え続きの部屋を自室にするようレンスター王に言われた際にも相当悩んだというから、余程の理由でもあったのだろうか。

「ちょっと、尋ね事を」
「尋ね事?」

微かに困ったような表情を浮かべたフィンに、ラケシスは怪訝そうに眉を寄せた。

「まさか生きていくのが辛くなって、『どうしたらお傍に行けますか』―――なんて、尋ねていたんじゃないでしょうね?」


フィンの頬を両手で挟むと、ぐいと自分の顔を近付けて詰問する。
予想外のラケシスの剣幕に驚き彼は瞳を瞬かせていたが、やがて可笑しそうに笑いだした。

「違うよ。神に誓って、死にたいなんて思ってない」
「ならいいけど……」

とりあえず最悪の想像が外れていた事が判ったので手を離す。

「なら、一体何を?わざわざキュアン様達の肖像画にお伺いするような事なんて」
「ここは他の人間が近付かないから―――考え事をするには、良い場所なんだ」


この部屋は、今ではリーフ王子の寝台が置かれているだけだ。
だからリーフが眠る時と、彼が部屋で遊んでいる時にフィンかラケシスが傍に付いているだけで、
後は数日に一度掃除の為に人手が入る他は、続きの部屋からこちらは、ほぼ他人が入って来ないと考えて良い。
だから誰にも邪魔されずに考え事をしたい時には時々此処に来て、
今は亡きキュアンとエスリンの肖像を相手に、会話するように思考を巡らせるのだと言う。


「そうだったの……貴方はあまりこの部屋には入らないようにしていると思っていたから、少し意外だったわ」
「時々だよ。それに、入る時には必ず『失礼します』と断っている」
「貴方らしいわね」

クスッとラケシスが笑いをもらした。
冗談ではなく、本当に言っている姿が目に浮かぶのが彼らしい。

「それで、答えは頂けた?」
「いや―――どうも、自分で考えろと言われてしまったようだ。さっぱりいい考えが浮かばない」

フィンが苦笑いを浮かべる。

「何か悩んでいる事があるのなら、私が相談相手になるわ。それとも、私には話せない事なの?」


騎士団を統括する騎士フィンの妻として、この城に出入りする者にはそれなりに名が通っている。
レンスター王の信頼も篤く、マスターの腕は伊達ではないという自負もあった。
だがノディオン王女、シグルド軍の生き残りという微妙な素性故に、自分には立ち入る事の出来ない部分がある事も承知している。
決して素性を知られてはならない。
万が一自分がレンスターに匿われているという事実がグランベル側に知れれば、その時点で攻め込まれる口実を作る事になる。
もしや自分に関する事で、グランベル側から何らかの探りがあったのだろうか。


「もしかして、私に関する事で何かあったの?
 ならばはっきりそう言って。私の為に、この国を滅ぼすわけにはいかない」

それはレンスターに逃れると決めた時から、ずっと胸に秘めてきた想いだった。
自分という存在を匿う事でレンスターが危うくなるのなら、いつでも国を出る覚悟は出来ている。
フィンとこの国を守る為に必要であるのなら、首を差し出す事さえ厭わない。
異母兄を喪った時に一度は捨てた命を、フィンに救ってもらった。ならばこの命を賭けるのは、彼の為をおいて他に無い。

だが悲壮な決意を明らかにした彼女を、フィンは慌てて宥めた。

「そうじゃない。君の事で悩んでいたのは確かだけど、君が案じているような事ではないよ。
 安心しろ。間者として入り込める程度の者が、ノディオン王女の姿を知る筈が無い。
 ましてやその王女が、貴族出身でも無い一騎士の妻だなどと誰も思わない。レンスターに居る限り、君は安全だ」


そう―――まさにその事実が、キュアンの腹心であり、共にシグルド軍で戦ったフィンに追手が伸びない最大の理由であった。

キュアンと共にシグルドの元に参じた時、フィンは騎士の称号を得たばかりの平民出身の少年でしかなく、
彼の才覚を見出したキュアン以外にその真価を知る者はいなかった。
彼は実戦経験を積む事で見る見る頭角を現したが、後に上級騎士の叙勲を受けてキュアンの腹心となった彼と、
シグルド軍に馳せ参じた少年が同一人物だと、グランベル軍は知る由も無かったのである。

―――騎士フィンは平民出身ながら、誠実な人柄と優れた才覚を今は亡きキュアン王子に見出され、数々の武勲を立てた。

レンスターで騎士を志す少年達には伝説のように語り継がれているが、
国を出た時と帰還した時とでは既に別人のように扱われた為、噂や憶測が一人歩きし、国の内外を問わず正確な彼の実像を知る者は意外に少ない。
ましてその彼の妻がシグルド軍に於いて才色兼備を謳われたラケシス王女であるなど、誰が想像し得ようか。
彼女の事は遠征中に知り合った富豪の娘と、城の者には話を通してある。


「では何?貴方を悩ませる、その原因が私である事は変わりないのでしょう?」

不安を拭い切れないラケシスに、だが彼は『大丈夫』と重ねて呟いた。

「不安な思いをさせて済まない。だが本当に君が心配するような事じゃないんだ。
 三日後の―――君の、誕生日の事を考えていた」

栗色の瞳が驚きに瞠られ、ゆっくりと瞬かれる。

「誕生日……私の?」
「ああ。何か贈り物をしたいけれど、何も思いつかないのだと。

 情けない話だろう?大切な人の誕生日の祝いに、何を贈ればよいのか想像もつかない。
 不甲斐ない男だよ、僕は」


一人で考え込んでいてもさっぱり妙案が浮かばなかったので、キュアン達の肖像画を見て気分転換をしていたのだ。
相変わらず何も思いつかなかった所をみると、『そのくらい自分で考えろ』と、苦笑交じりに突き放されたような気もするが。


「それでずっと考え込んでいたの?私の誕生日に、何を贈ろうかと悩んで……?」
「大事な事だ。君には言葉で言い尽くせないくらい感謝している。その想いを、贈り物という形で表したかったんだ」


その存在にどれ程自分が救われているか、きっとラケシスは知らない。
辛い時も疲れている時も、彼女が笑顔で苦労を分かち合ってくれるから何とかやっていけている。
是非にと乞われ、必要にも迫られて騎士団の統括を引き受けたものの、自分一人では正直どうなっていたか判らなかった。
丁度彼女の誕生日が近い事を思い出し、何かを贈りたいと思ったのである。


「だけど僕には、君にあげられる物が何も無い。
 騎士団の長という分不相応な地位を戴いてはいるけれど、俸給は殆ど無いに等しく、ドレスも宝石も何一つ手に入る当ても無い」


両親は既に亡く、兄弟も居ない。
騎士の叙勲を受けた直後に父が、国を離れている間に母が、相次いで病で亡くなっていた。
最低限自分が生きていくのに必要な俸給だけ受け取り、日増しに困窮する国庫を鑑みて騎士団を統括する将としての報酬は返上して現在に至る。
爵位も財産も持たず、自分の才覚だけで今の地位を得たフィンには、最愛の妻の為に贈るドレスも宝石も無かったのだ。

ラケシスはフィンの手を取ると、彼の青い瞳に自分の姿を映した。


「私はもう、貴方から色んな物を貰ったわ。
 エルト兄様を亡くして死にたいと思っていた私に、何があっても生きろといってくれたのは貴方だった。
 貴方が居てくれたから、今の私が此処に在るの。これ以上何も望まないわ」

「ありがとう、ラケシス」


自分が気に病む事の無いよう、気遣かってくれる彼女の優しさが嬉しい。
その優しさを受け止めながらも、フィンの表情は晴れ切らなかった。

ラケシスがまだ吹っ切れない様子の夫を見遣り、眉を寄せる。
やがて小さく苦笑いを浮かべると、彼女は握ったフィンの手を自分の腹へとそっと当てた。


「一体、どう言えば貴方に判って貰えるのかしら。
 私は貴方から、既に何にも代え難い贈り物を貰っているのに」
「ラケシス……?」

その行為の意味する事を量りかねて、フィンの面に困惑が浮かぶ。
ラケシスは華のような微笑を浮かべると、諭すように彼の耳元へと囁いた。

「判る?此処に、新しい命が宿っているのよ」


その瞬間を見た者が居れば、フィンの表情の変わりようにさぞかし驚いた事だろう。
困惑から放心へ、それから理解が広がり歓喜が爆発する―――ほんの数秒の間にこれだけめまぐるしく表情を変える彼を、恐らく誰も見た事が無い筈だ。
生来寡黙で生真面目であったが、騎士団を統括する将としてキュアン亡き後は努めて感情を抑制する事を心がけていたから尚更である。


「本当はちゃんと診て頂いてから、貴方には話そうと思っていたのだけど。
 でも多分、間違いないと思う。デルムッドの時と同じだから」
「子供……本当に?」

驚きのあまり思わず聞き返してしまったフィンの額を指で軽く小突き、『こんな事で嘘をつく訳ないでしょう』と苦笑する。

「私にこの子を授けてくれたのは貴方。貴方にしか出来なかった事よ。
 これ以上素晴らしい贈り物が他にある?」
「―――うん。いや、あの……済まない。驚き過ぎて、何て言ったらいいか」


思えば一人目のデルムッドの時も、身篭っていると告げられたのは突然だった。
レンスターへの帰国当日、最後に別れを惜しんでいる時にそっと耳打ちされたのだ。
あの時は、彼女をシレジアに残して行かなければならなかったけれど。


「今度は傍に居られる。傍に居て、君と生まれてくる子を守る事が出来る」

未だデルムッドを腕に抱く事は叶わないけれど、彼の分まで新しく生まれる命を愛しもう。
そしていつかきっと迎えに行く。
このレンスターで愛しい妻と子供達と、共に暮らす為に―――

「デルムッドもお腹の子も、貴方に授けて貰った。子供たち以外、形の在る贈り物なんて何も要らないの。
 愛してくれてありがとう―――大好きよ、フィン」
「ありがとう、ラケシス」



腕の中の温もりを確かめるように、フィンがしっかりとラケシスの背を抱き締める。
若い二人に訪れた幸いを祝福するように、見上げた肖像画の中のキュアンとエスリンが微笑んだような気がした。

                                                                          【FIN】


あとがき

最近の作品としては珍しくコンパクトに収まりました(笑)最近、うっかり長くなる事が多かったので(^_^;)
レンスターでのフィンとラケシス。ラケシスが二人目の子(ナンナ)を授かった事をフィンに告げるお話でした。

一番書きたかったのは『子供たち以外、形のある贈り物なんて要らないの。愛してくれてありがとう』という台詞。
ノディオンに居た頃のラケシスは、お嬢様育ちでわがままな一面もあったかもしれない。
でもシグルド軍に身を寄せ、エルトシャンを喪い、フィンと恋に落ち彼の子を授かった事で、人間的に大きく成長しました。
今の彼女に個人的な物欲や権威欲などは皆無です。
ノディオンの再興は悲願ではあるけれど、今はフィンや子供達との暮らしを大切に守っていきたい。その為に戦うという強さを持っています。
ナンナが三歳くらいになった時、ティルナノグのエーディンから便りが届き、ラケシスはデルムッドを迎えに行く決意をしました。
その辺りの経緯は『永遠の約束』を参照してください。

                                                                       麻生 司

2006/06/22

INDEX