初めて目が合った瞬間
その一瞬が、僕の中で永遠になった
君に出逢えた事
君という人が存在してくれた
それこそが、奇蹟―――
It fell in love with your eyes
陽気の良い昼下がり。
木漏れ日の下を歩くのが心地よくて、気を抜くとつい鼻歌が出そうになる。
何と言う理由もなく、ただ気の向くまま歩き回っている内に、いつしか城を囲む城壁の傍まで辿り着いてしまっていた。
「しまった……陽気につられて、つい遠出をしてしまった。
いくら好きにしてくれていいと言われたとはいえ、此処は他人(ひと)の城(いえ)だ。そろそろ戻らないと……」
呟きつつ、踵を返したその目の前に。
―――ぽてっ
「…………靴?」
靴が片方、頭の上から落ちて来た。
自分が履くものよりずっと小さくて、しかも爪先の細い女物。
小ぶりなその靴を拾い上げると、当然の事ながら頭上を見上げた。
城壁の内側には壁に沿うように樹が植えられて居るのだが、その内の一本の割としっかりした枝の上に、その靴の落とし主は居た。
年の頃は十二‐三歳くらいだろうか。
明るい色の髪と瞳が活力に満ちた少女―――腕にはしっかりと一匹の子猫を抱いている。
見上げた自分と目が合い、少女は一瞬気まずそうな―――平たく言えば『まずい所を見られたな』という表情を浮かべたものの、
それは本当に一瞬の事で、すぐにそれは屈託の無い笑顔に変わった。
「こんにちは!」
「……こんにちは。この靴は、君の?」
どう答えたものかと考えながら、結局普通に挨拶を交わす。
手にした靴を指し示すと、枝の上で少女がコクンと頷いた。
「うっかり落としてしまったの。すぐ下に下りるから、もう少し持っていて」
言うが早いか腕に子猫を抱いたままスルスルと巧みに枝と幹を伝い、少女は目の前に降り立った。
裾を払い、木登り中に出来てしまった皺を簡単に伸ばす。
「どうもありがとう。私はエスリンよ。貴方は?兄様のお友達?」
「僕の名はキュアン。バーハラの士官学校で、シグルドとは同期だったんだ」
「まあ、貴方がキュアン様?」
靴を履き直す間、肩を貸してくれた客人の名にエスリンが驚きを浮かべる。
それがレンスターの王子キュアンと、シアルフィ公女エスリンの出逢いだった。
「先程は失礼しました」
四半刻(三十分)後、談話室に茶を運んで来たエスリンは、キュアンの前で淑女の手本のような綺麗なお辞儀をしてみせた。
この目で見ていなければ、木登りをしていたあの少女と本当に同一人物かと疑いたくなるほどである。
木登りをしていた事実は、兄のシグルドが彼女を捜しに来た時に、髪に木の葉を付けていた事でバレてしまっていた。
木の葉が偶然ついた物ではなく、木登りだと即座に結論に至ってしまう辺り―――しかも当たっている―――彼女の普段の様子が窺える。
客人の前でお転婆をして―――と妹に対して渋面を作ってみるものの、あまり成功しているとは思えない。
深窓に引き篭もり、刺繍や編み物に精を出し、ちょっとした事で大袈裟な悲鳴を上げる―――そんな妹はらしくないと自覚しているから、
『二度と木に登ってはいけません』などという説教は出て来なかった。
せいぜい『無茶が過ぎて怪我をしないように』という程度である。
「すまないな、キュアン。いきなり目の前に靴が降って来て、さぞかし驚いただろう?」
「いいや。なかなか刺激的な出逢いで、楽しかったよ」
それは世辞ではなく事実だったから、シグルドの言葉にキュアンは微笑を浮かべた。
「元気が良くていいじゃないか。俺には兄弟が居ないから、お前達が羨ましいよ」
直接の面識は無いが、今一人の親友であるエルトシャンにも腹違いの妹がいる。
兄弟を持たないのはキュアン一人なのだ。
「エスリンから元気を取ったら何も残らないよ」
「兄様、酷い!」
兄の言い草に、頬を膨らませてエスリンが抗議する。
「そりゃあ昔は毎日のように木登りもしていたし、兄様と一緒に剣の稽古もしていたけど。
でも最近は大人しくしていたのよ。本当よ」
『いつまでも子供じゃないもの』と、小さな声で呟く。
「だけど、今日はこの猫(こ)が他の猫に苛められた勢いでうっかり高い木の上に登ってしまって、そこから下りて来られずに鳴いていたの。
怖くて震えているのに放ってなんておけないわ。可哀想じゃないの」
胸にぎうっと抱いた子猫が、心優しい恩人を弁護するように『みゃあ』と鳴く。
シグルドとて動物が嫌いな訳ではない。
苦笑いを浮かべると、『子猫にミルクでもやって来なさい』と、妹を一時退室させた。
「元気な、いい娘(こ)じゃないか」
パタパタと遠ざかって行くエスリンの靴音を聞きながら、キュアンがちらりと傍らのシグルドを見遣る。
「そうだろう、俺の妹だからな」
……とは言わなかったが、彼の表情が全てを物語っていた。
母を早くに亡くし、母の代わりに父と自分の支えになろうと懸命に奮闘するたった一人の妹を慈しむ想いが、その眼差しには溢れている。
そんな彼の姿を、キュアンは心から羨まく思った。
「それはそうとキュアン、本当に今回は一体どうしたって言うんだ?
突然やって来るのは構わないが、お陰でエスリンに猫を被らせておく暇がなかった」
「…………」
曖昧な表情で、キュアンが明後日の方向を見る。
キュアンはこの日先触れもなく、突然シアルフィを訪れた。
レンスターの王子の突然の来訪に門番は大いに慌て、シグルドも驚いた。
城主である父は公務でバーハラに赴いており、城の留守は兄妹が守っていたのである。
「キュアン?」
返事をしないキュアンに、重ねてシグルドが問い質す。
「……済まない、シグルド。しばらく匿ってくれないか」
「はぁ?」
藪から棒な悪友の言葉に、シグルドは何とも間抜けな返事を返してしまった。
「あのまま国に居たら、俺は見合いに殺される」
渋い顔をしてキュアンがぼやく。
正確に言えば重臣からの相次ぐ見合い攻勢に押し切られる、というところだろうか。
「なるほどね……寝ても覚めても連日のように縁談話を持ち込まれていては、確かに気も休まらんな」
「俺はレンスターの跡継ぎだ。
早く妻を迎えて子を生(な)せという家臣達の気持ちは判らんでもないが、俺はまだ十八だぞ?」
そんなに急ぐ事もないだろうに、と言うのが正直な思いだ。
判っていても、ついシグルドを相手に愚痴を零してしまう。
「お前は第一子の上に、他に兄弟も居ないからなぁ」
一国の王子や公子、公女ともなると、純粋な自由恋愛の果ての婚姻だけを求めても居られない。
自由恋愛が不可能とは言わないが、周辺諸国や国内諸勢力との関係を円滑にしたり牽制したりと、どうしても政治的な色合いが濃くなる傾向があった。
『それに』と、シグルドが口にしかけて言葉を飲み込む。
実はレンスター王国は、対外的に見てそれ程安定した国土ではないのだ。
国内はよく治まっており、イザークやグランベルとの関係も良好だが、南部に国境を接するトラキアが肥沃なマンスター地方の国土を狙って蠢動している。
先代には大きな戦は起きなかったのだが、トラキア王が代替わりし、まだ若いトラバントが即位したこの数年で加速度的に情勢が悪化しつつあると言う。
もしもレンスターがトラキアと開戦した場合、レンスター王国が誇るランスリッターの総指揮官として、
王家に伝わる地槍ゲイボルグを手にキュアンがその陣頭に立つ事になる。
武芸に長けたキュアンがそう簡単に戦場で討たれるとは思っていないだろうが、
万が一の事を考え一日も早く後継者をと、家臣が望むのも判らない話では無い。
「父上は、それ程でもないんだがな」
寧ろレンスター王は、縁談話から逃げ回る息子に理解がある。
『まあまあ、そう急かなくとも』と、のらりくらりと家臣の見合い攻勢からキュアンを庇っている節があるのだ。
後継者を望む気持ちは同じでも、出来る事なら好いた相手と添わせてやりたいという親心なのだろう。
「……それで、此処には何と言って出て来たんだ?」
「ああ、それなら」
ニヤリ、とキュアンの口元に不穏な笑みが浮かぶ。
「シアルフィのシグルド公子から招待を受けたと言って、堂々と正面から出て来たぞ。
ついでにバーハラに出向いて、アズムール王とクルト王子にも拝謁する事になってるから、そのつもりでな」
「やっぱり、俺をダシに使ったんだな。全く、お前って奴は……」
まさかレンスターの家臣達が釣書を手にシアルフィまで押し掛けてくる事はないだろうが、ちょっと頭の痛い物を感じて、シグルドはこめかみを押さえた。
公爵家を継ぐべき嫡子でありながら、未だに婚約者も居ない立場なのは自分も同じだったので。
「まあ、こうして来てしまったんだから今更だ。ほとぼりが冷めるまで、此処でのんびりしてればいいさ」
シグルドが苦笑を浮かべて滞在を許可すると、キュアンは『恩に着る』と、心から安堵した笑顔を見せた。
正式な客人としてシアルフィに滞在して、早一週間。
城の書庫で余暇を過ごしていたキュアンは、エスリンに午後のお茶に誘われた。
城主のバイロンは未だバーハラから戻らず、今日はシグルドも所用で外出しているので、二人きりのささやかな茶会である。
幼い頃に母親を亡くしたせいか、エスリンは世話焼きな気性に育った。
母の代わりに細々と父と兄の事に眼を配り、シグルドが士官学校に入る時には、
『兄様を一人で行かせて、他の方にご迷惑をおかけしないかしら』…などと、兄の面目丸潰れな事を言われたらしい。
ちなみに当時、彼女はまだ九歳だったというから驚きである。
そんなシグルドも無事に規定の年数で士官学校を卒業し、国に帰って家族水入らずで過ごしていたのだが、
其処に突然押しかける形になってしまった事を、実はキュアンも密かに気にしていた。
だが幸いな事にエスリンは客人が割り込んだとは思わず、もう一人兄が増えたと言う感覚で捉えてくれたらしい。
兄が不在でも自分が代わりを務めるのだと、朝から色々とキュアンに気を遣ってくれた。
「そう言えば、 初めて名乗った時に随分驚いていたね。僕の名は知っていた?」
「兄から、よくお名前だけは伺ってましたから。
ノディオンのエルトシャン様とレンスターのキュアン様は、掛け替えの無い無二の友だと」
なるほど、シグルドが話していたのなら名に聞き覚えがあったのも頷ける。
男兄弟ならともかく、自分に姉や妹が居ても、やはり友の事を色々と話して聞かせただろうか。
こればかりは兄弟姉妹を持たない自分にはよく判らない。
食事やこうした茶の席で、学生時代の武勇伝やらちょっと大きな声では言えないような事まで、
シグルドは何気なく話題にしているのかもしれなかった。
「キュアン様、レンスターはどんな所ですか?私はグランベルから出た事が無いので、他の国の事はよく知らないんです」
貴族の子弟、特に嫡男ともなれば見聞を広める為にも外遊に出たり、或いは留学という形をとって数年間故郷から出て過ごす事もあるが、
女性の場合ほとんど故郷から離れずに暮らす者も少なくない。
必要最低限の教養は家庭教師から学ぶので、下手をしたら年単位で城から出た事が無いという令嬢も存在する。
向学心のある公女や王女も珍しくは無いが、受け入れ側の門戸が狭いというのが実情だ。
どうやらエスリンは初対面時の印象通り、城に篭もって刺繍や編み物に精を出すタイプではないらしい。
「そうだな……気候や風景は、このシアルフィによく似ているよ。緑が豊かで陽の光が暖かな……掛け替えの無い、僕の故郷だ」
こうして離れてみると、余計にそう思う。
シアルフィにはシアルフィのいい所が在るし、ノディオンやバーハラにもそれぞれ此処が一番だと言える部分が在るのだろう。
だがきっとどんな国を訪れる事があっても、自分が『帰りたい』と願うのはレンスターだ。
空の色も大地の匂いも、吹く風さえ全てが懐かしい。
こうしてシアルフィに滞在していても、ふと気付くと故郷を思う自分が居る。
「そう、きっと素敵な所なんですね。シアルフィに似てるのでしょう?なら絶対だわ」
エスリンの顔に屈託の無い笑みが浮かぶ。
「それに、キュアン様もとても良い人だもの。
そのキュアン様が生まれ育って大事に思う国なんだから、当然ね」
「ありがとう、エスリン」
一瞬どう返したものかと迷ったが、結局素直に礼を口にした。
少しでも彼女が、自分と自分の故郷を好意的に思ってくれた事は嬉しい事だったから。
「……でもね、残念ながらレンスターは、このシアルフィ程安定した国ではないんだよ」
「え……?」
褒めて貰ったばかりで申し訳なく思いながらキュアンがそう口にすると、エスリンは僅かに眉を寄せた。
先日自分を滞在させるにあたってシグルドが思い遣ったレンスターとトラキアの長きに渡る確執を、キュアンは彼女に語って聞かせた。
「―――そう言えば、いつか父様と兄様が話していました。『キュアン殿も苦労が増える』……と」
それは恐らく、先年トラバントが即位した際の話だろう。
彼の野心に満ちた人柄は、士官学校で出会った友人の間でも、口の端に度々上っていたから。
「トラキア王トラバントが、必ずしも悪人とは思わないんだよ。
トラキアは国土の大半に山岳地帯を抱え、農地として使える土地も総じて痩せている。
民を飢えさせず、尚且つ国土を保とうと思えば肥沃なレンスターに食指を動かさずには居られない。
だがそれはあくまでもトラキア側の主張だ。僕と父にとってはレンスターの民と国土を守る事が義務であり、責任だ。
その為にもトラキアに屈する訳にはいかない」
自国の存続は、他国の存続と二律背反だ。
共存共栄が出来ればそれに越した事は無いが、そうも言っていられない程に現実が逼迫している場合もある。
そしてその兆候が、今のトラキアにはあった。
「今年の夏、トラキア地方は酷い旱魃でね。
早ければ冬を迎える前に侵攻があるかもしれない。もし無事に冬を越す事が叶えば、次に危ういのは春先だ」
『だから本当は、うかうかと国を離れている訳にもいかないんだけどね』と、キュアンが苦笑を漏らす。
彼がシアルフィに来た本当の理由を知らないエスリンは、怪訝そうに首を傾げた。
「バーハラからお父上が戻られ次第、卿にご挨拶を申し上げて僕は国に帰る事にするよ」
いつまでも見合い嫌さに、侵攻の脅威に晒された自国を放って置く訳にもいかない。
私人である以前に王子として成さねばならぬ務めがある事を、キュアンは忘れていなかった。
「そう……ですか」
エスリンが心なしか肩を落とす。
その事にキュアンは気付いたが、この時点で彼女の胸の内を正確に察する事は出来なかった。
シグルドやバイロン卿も交えて、もっと親睦を深める時間が取れれば良かったのだろうかと、少々的外れな事を考える。
「でもまたいつか来させてもらうよ。グランベルには父の名代で公務として訪れる機会もあるし、バーハラを訪ねた折にでも。
シアルフィはアグストリアとも近いから、今度はエルトシャンも交えて一緒に過ごせるといいな」
「あら、ちゃんと先触れを頂けていたら、エルトシャン様もお呼び出来たんですよ。
いらっしゃると前もって知っていたら、私だっていきなりあんな姿を見せる事も無かったのに」
淑女に有るまじき出会い方をしたのを少しは気にしていたのか、エスリンがつん、と顎を上げてそっぽを向く。
その仕草が怒るというにはあまりに可愛らしいものだったので、キュアンは笑いを噛み殺しながら『それは済まない事をした』と詫びの言葉を口にした。
表向き神妙な顔で頭を下げるキュアンを目の端でちらりと見遣り、エスリンも眉尻を下げる。
「……きっとまた、シアルフィに来て下さいな。その……急でも構いませんから。
兄様も喜ぶと思います。私も―――兄様がもう一人出来たみたいで、嬉しいから」
頬を薔薇色に染めながらやっとそれだけ口にしたエスリンを見下ろしながら、キュアンは目を瞬かせた。
今のこの想いを、どう表現すればよいのだろう?
無性に彼女を抱き締めたいという衝動を、理性を総動員して抑え込んでいるような、そんな気分だった。
「……ありがとう。きっと、またいつか」
「はい!」
曇りの無いエスリンの笑顔はキュアンの胸に爽やかな風を呼び込み、いつしか彼自身の面にも穏やかな微笑が浮かんだ。
それから数日後、キュアンはレンスターへと帰国したが、それからは度々何かにつけてシアルフィに立ち寄る機会が増えた。
秋が終わり、グランベルも冬を迎えたが、懸念されたトラキアの侵攻は未だ起きていなかった。
とは言え、レンスターの南部国境の脅威が消え去った訳ではない。
次に用心すべきは春先だろうと、話し合う兄たちの会話をエスリンも幾度か耳にした。
そして、春が訪れた―――
「お父様、兄様、お帰りなさい。キュアン様、ようこそいらっしゃいました」
それぞれの愛馬でシアルフィ城に戻った家族と客人を、エスリンは内庭で出迎えた。
「こんにちは、エスリン。お邪魔するよ」
「はい。どうぞごゆっくり」
エスリンは笑みを見せると、三人の馬に新鮮な水と飼葉をやる為に手綱を引いて厩舎の方へと姿を消した。
今回キュアンは、以前のように暇を持て余してシアルフィを訪れた訳ではない。
グランベルへはレンスターの王子として、近年体調を崩している父王の名代として公務でやって来た。
シアルフィへは挨拶がてらに顔だけ見せるつもりだったのだが、バーハラで丁度シグルド親子と一緒になり、
是非にと勧められて滞在する事になったのである。
夕食後にシグルドは、自室にキュアンを招いてワインを振舞った。
「すまないな。あまり国を空けていられる時じゃないのは判っているんだが」
「なに、一日や二日の遅れなら大事無いさ。それにシアルフィに滞在している事は伝令で伝えてある」
申し訳無さそうに杯を傾ける親友に、キュアンは笑って応じた。
本当に一刻を争う程に南部国境が緊張していれば、そもそもレンスター王がキュアンをグランベルに寄越したりはしない。
具合が良くないとは言え寝たきりと言う訳ではないのだから、外交は父王が行い、実戦指揮官となるキュアンは国内の守備に専念する事になる。
彼がグランベルに来られたという時点で、まだしも余裕があるという証だった。
「こんな機会でもなければ、ゆっくり話し合う時間も取れなくなって来たしな」
士官学校時代のように、休暇に互いの領地を気軽に行き来は出来なくなった。
疎遠になった訳ではないのだが、各々の立場もあるし、何よりも時勢が許さなくなったのである。
「……次にシアルフィに客人として来られるのが、いつになるか判らない」
十九になったばかりという、歳に似合わぬ陰りが一瞬キュアンの面に浮かぶ。
「トラバント王は若く、しかも野心家だ。
レンスターは極めて厄介で、危険な隣国の脅威に常に晒される事になる―――キュアン、お前の武運を祈っているよ」
「ああ、ありがとう。シグルド」
近い内に、間違いなくレンスターとトラキアの間で戦端が開かれる。
それは予感ではなく、確信だった。
実はキュアンは、明日にもシアルフィ城を発つ心積もりだった。
もう少しゆっくりして行きたいのは山々だったのだが、密かにトラキアに放った密偵からの情報で、
どうやらトラキア国内各地に配備された竜騎士部隊に召集がかかったらしい。
軍の規模から言って即日侵攻は無いにしても、早めにレンスターに帰還し、対応を急ぐ必要はあったのである。
―――短い滞在とはいえ、エスリンにも会えたしな。
それはごく自然に湧き上がった感情だった。
シアルフィに滞在していかないかと誘われた時、真っ先に頭に浮かんだのは親友の妹の笑顔―――
彼女のあどけない、無垢で明るい笑顔を今一度記憶に焼き付けておきたくて、キュアンは招待を受けた。
これで思い残す事は無い。
「当面の危機が去ったら、また寄らせてもらう。今度は、もう少しゆっくりと時間を取って」
微かに頷いたシグルドは、やはりキュアンが明日にも出立する気でいる事を察していたのだろう。
『エスリンも待っているからな』と、声には出さず口の中で呟く。
妹がキュアンに好意を寄せている事には気付いていた。そしてきっと、彼も。
だから本来ならば寄り道をしている暇などない事を承知で、キュアンをシアルフィに招いたのである。
掛け替えの無い親友と大切な妹に、願わくば幸福な未来が待っているようにと、シグルドは祈らずにはいられなかった。
翌朝、まだ空が白み始めたばかりの頃にキュアンは起き出すと、手早く身支度を整えた。
昨夜はあまり遅くならないうちに寝(やす)み、シグルドとバイロン卿には夜明けと共に出立する事は伝えてある。
エスリンは既に寝(やす)んでしまった後だったので、きちんとした別れの挨拶が出来なかった。
それが唯一残念ではあったが、かえってその方が良かったのかもしれない。
彼女の顔を見てしまったら、出立する意気が挫けてしまいそうだった。
簡単な手紙を書き、表にエスリンの名を記す。
客間の小机の上には彼女が摘んで来た花が生けられており、毎日水を替えにやってくる。
此処に手紙を置いておけば、すぐに見付けてもらえるだろう。
バイロン卿など城の主達の私室も程近い為、彼等を起こさぬようにそっと扉を開ける。
廊下に響く足音に気をつけながら一歩を踏み出したキュアンの足が―――不意に止まった。
「おはようございます、キュアン様」
「……おはよう」
扉を開けたその先に、エスリンが微笑を浮かべて立っていた。
「良かった、間に合って」
廊下で話していると他の者を起こしてしまうので、二人はキュアンの馬を出す為に厩舎へと移動した。
「もしかしたら、もう発たれてしまったかとも思ったんです。少し寝過ごしてしまったものだから」
厩舎の方に行こうかと思ったのだが、部屋の中で人が動く気配を感じたので、廊下で待っていたのだと言う。
「驚いたよ。まさかこんなに早く、君が起きているとは思わなかった。
でも発つ前に話が出来て良かったよ。お陰でちゃんと挨拶が出来た」
馬の背に鞍を乗せ、僅かな旅装を括り付けながら、ふとエスリンを見遣る。
「僕が今朝発つ事は、シグルドかバイロン卿から?」
たまたまと言い切るには、いささかタイミングが良すぎる。何せまだ夜も明け切っていない時間なのだ。
だがエスリンは『いいえ』と、小さく頭(かぶり)を振った。
「何となく……です。実は」
理由らしい理由を上手く説明出来なくて、仕方なく思ったままを口にする。
エスリンも、父や兄からグランベルを取り巻く諸国の情勢は聞いている。
ましてレンスターはキュアンの国だ。
シグルドは手に入る全ての情報に注意を払い、常に親友の身を案じていた。
「キュアン様は以前、まず冬を迎える前が危ないと仰っていました。
もしも戦端が開かれないまま冬を越したなら、次は春先が危険だと」
昨夜エスリンは床に横になったまま、自分であればどうするだろうかと考えていた。
シアルフィに滞在するとしても長居はしないだろう。もしかしたら朝一番で発つかもしれない―――と。
「……早朝に発つとは限らないのに、夜も明け切らない内から待っていてくれたのか?」
こうして会えたから良かったものの、もしかしたら全く無駄足になったかもしれないというのに。
「でも、こうしてお会い出来ました」
『だから早起きくらい平気です』と笑顔を覗かせる。
「どうしてもキュアン様にお渡ししたいものがあったから」
「僕に?」
エスリンは頷くと、手にしていた包みをキュアンに差し出した。
「これは……」
大事そうに布に包まれていたそれは、鞘に収まった短剣だった。
柄と鞘には、対になったバルドの紋章が刻まれている。
「十の月がキュアン様の誕生日だったと、年が明けた頃に兄様にお聞きして……何か贈り物をと思ったんですけど」
何が喜ばれるかなど見当も付かなかったから、結局自分の持ち物から選んだのだと、恥ずかしそうに呟いた。
「キュアン様は剣を使われる事はないけれど、どうかお守りとして持っていて下さい。
聖戦士バルドと槍騎士ノヴァの御名に、毎日お祈りしています。キュアン様の身にご加護がありますようにと」
俯いてしまったエスリンはうなじまで真っ赤になってしまっていて―――キュアンはいつか感じた衝動と、再び向かい合う事になった。
「ありがとう。肌身離さず持っている事にするよ」
自分も十分赤くなっている事を自覚しながら、キュアンは馬上に長身を跳ね上げた。
「エスリン、僕はきっとまたシアルフィに来る。その時は―――」
ハッと顔を上げたエスリンと目が合う。
キュアンはその続きを言葉にしなかった。代わりに馬上から手を伸ばし、彼女の頬に軽く手を触れる。
その手が離れると同時に彼は馬の腹を蹴り、城門へと馬を走らせた。
「キュアン様、御武運を……」
エスリンの小さな祈りの声は、風に音に紛れて彼の耳には届かなかった。
「トラキア竜騎士団、ミーズ城に集結完了した模様です。竜騎士の総数、およそ五十騎!」
「五十か……こちらは三百。数の上では僅かに優勢だな」
伝令の声に、キュアンは手にした地図に視線を落としたまま呟いた。
竜騎士は一騎で通常の騎兵五騎分の戦闘力を持つ。
五十を五倍して二百五十騎と計算し、ほぼ相手の戦力と考える。
確かに数だけならばレンスター軍の方が有利だった。だが―――
「ミーズ方面には深く突出せず、寧ろこのマンスター城付近までトラキア軍を引き寄せた方が良いのではありませんか?」
不意に耳に入ったその若い声に、キュアンは顔を上げた。
すぐ傍らに十四‐五歳の少年が立っている。今回が初陣となるフィンであった。
単騎で行動するには経験も実戦技術も未熟という事で、今回は自分の傍に居るようにと言いつけていたのを思い出す。
「今のはお前か?フィン」
キュアンに突然声をかけられて、フィンの背筋が一瞬ピンと伸びる。
『はい』と返事をした後、自分の立場をわきまえない発言に恐縮したのか、赤くなってうな垂れてしまった。
この場には、経験も知識も豊富な他の家臣達の目もあったからだ。
「申し訳ございません。お考え中に、由の無い事を申しました」
「そうではないよ、フィン。お前の発言を咎めた訳じゃない」
歳相応の笑顔を見せ、緊張を解すように軽くフィンの肩を叩いてやる。
「一応聞いておこうか。何故、ミーズ方面に突出してはならないのか」
キュアンの穏やかな口調に、フィンは何とか平静を取り戻した。
一つ大きく深呼吸すると、自分でも驚くほど落ち着いた声を出す事が出来た。
「騎兵に、山岳地帯での戦闘は不利です。
しかも我等は槍騎兵(ランスリッター)……こちらの武器が斧ならまだしも、相手と同じ槍では、
森林による上空への防御効果を考え合わせても、然程のメリットを得られるとは思えません。
山岳地帯が大部分を占めるミーズ方面での開戦を避け、
自軍により有利な平原地帯を擁するマンスター方面へとトラキア軍を引き入れた方が得策だと思われます。
その上で敢えて主力のランスリッターを温存し、先陣には歩兵を用いる事を提案します」
フィンの口から具体的に説明された策に、居並ぶ諸将の間から異論が上がる。
「わざわざトラキアのハイエナ共を、このレンスターの領土深く招き入れると?」
「歩兵を先陣に使うだと?我等ランスリッターが、トラキアの竜騎士に劣ると言うのか!」
「敵の面前で軍を返すなど、相手を増長させるだけではないのか?」
今回が初陣の少年の意見であっても、微塵の容赦も無い。
その若さに見合わぬ慎重さを、臆病と受け取る声がその後も次々と上がった。
未だ経験の浅いフィンに少し無理をさせ過ぎたかと、キュアンが古参の将軍達を諌めようとしたその時―――再び、彼が口を開いた。
拳を握り締め、今にも重圧に押し潰されそうな自分を懸命に奮い立たせて。
「私は自軍の被害をより少なくしたいと考えているだけです。
戦端が開かれたなら、犠牲者を一人も出さないという訳には行かない。
ならばその犠牲の百人を五十人に、五十人を三十人に減らすにはどうすればよいのか……私が申し上げているのは、その為の策です。
誇りや矜持の為に危険を回避する努力を怠り、無為に兵を損なうのは、武勇ではなく愚かな行為であると―――私は考えます」
胸の思いを全て言葉にしてしまったフィンは、半ば放心したようにも見える。もうどうにでもなれ、という心境に違いない。
たった一度の発言で、古参の諸将達を完全に敵に回してしまった。これでもう二度と、取り立てて貰う機会は巡ってこないだろう。
一人息子に希望を託し、騎士見習いとして城に上げてくれた両親には申し訳ないとは思うが、実家に帰り細々とした生活に戻るのも悪くない。
だが、助け舟は思わぬ所からやって来た。
「……なるほど、よく判った」
フィンの傍らでキュアンが立ち上がると、彼は家臣達を見回した。
「私もフィンと同じ考えだ。
マンスターより南は、トラキアへと続く山岳地帯。空を自由に駆ける竜騎士には有利になれど、騎兵が中心の我が軍は苦戦を強いられる。
よって我等はミーズ方面へと進軍する事無く、フィンの策を用いる事を前提にこのマンスター城を拠点としてトラキア軍を迎え撃つ」
実戦指揮官であるキュアンがフィンの意見に賛同した事で、諸将の間にも動揺が広がった。
フィンはと言えば、叱責を受けるどころか意見がそのまま通った事で、放心から一転、呆気に取られたような顔になっている。
「我等はトラキアの侵攻から自国の領土と民を守る為に戦うのだ。名を売る為でも、誇りを守る為でもない。
出来得る限り犠牲を少なくしようと考えるのは、軍を率いる者には当然の事である。故に、私はフィンの策を受け容れる。
だがフィンの策より更に犠牲を少なく、我が軍有利に戦端を開く方法があればこの場で聞こう。どうだ?」
何とも言えない微妙な雰囲気の中、気まずい表情と憮然とした視線が行き交う。
しかし新たな策を挙げる者は誰一人として居なかった。
「では、各々出陣準備を。今日の所はこれで解散だ」
具体的な兵の配置や細かな指示が幾つか出された後、軍議は解散となった。
主だった家臣達がそれぞれ準備の為に退出していく中、フィンだけがその場に残された。
「フィン、お前には素質があるよ」
フィンは経験豊かな家臣達の前で意見を述べた事ですっかり硬くなっていたのだが、
キュアンから水の入った杯を手渡されると、ようやくホッとしたような顔付きに戻った。
「先程は、差し出がましい事を申しまして……」
「そんな事は構わないさ。お前が言わなくとも、俺が言うつもりだった事だ。
だが、まずお前の意見として発言出来たのはいいタイミングだったな。これでお前を傍に置く事に、異論を唱える者を抑えやすくなった」
「私を……ですか?」
氷の塊を飲み込んだような顔で、フィンが目を瞬かせる。
「そうだ。お前には将となる素質がある。
これからは俺の傍で、戦う術と生き残る術を学べ。
そしてどんな生き恥を晒そうとも、決して死ぬな。生きていればこそ仇も討てるという事を忘れるんじゃない。
俺が今、お前に言ってやれるのはそれだけだ」
穏やかな、しかし確固たる自信に満ちたその姿に、フィンは自然と頭が下がった。
以後、キュアンの傍らには常にフィンが従う事になる。
この日初陣を控えた少年は一生の忠誠を誓う主君を得て、そしてキュアンもまた、生涯で最も信頼に足る家臣を得たのだった。
「レンスター軍は以前マンスターに拠点を置いたまま、南下する動きは見られません」
部下からの報告に、トラバントはさして驚いた気配も見せなかった。
「ふん。キュアンめ、眼は良く見えているらしい。
山岳地帯で竜騎士と戦う愚を冒すほど間抜けではなかったようだ。それとも、少しは利口な家臣が居たのか……」
その両方である事を、トラバントは知らない。
「如何致しますか、トラバント様」
「キュアンがもう少し短慮で、のこのことミーズまで突出してくれれば楽だったのだがな」
半ば以上、本気で口にする。
キュアンとフィンが自軍の損害を減らす策を講じたように、トラバントは少しでも相手に多くの損害を出す為に策を弄していたのだから。
最も、こんな陳腐な誘いに乗ってくる指揮官が一国の王子であったなら、レンスターの先行きも暗いというものだ。
「―――明朝、マンスターへ向けて出撃する」
「はっ!」
退出して行く家臣達の姿を見遣りながら、トラバントが呟く。
「さあ、キュアン。貴様はどう出る……?」
「トラキア軍、確認しました!」
「……来たか」
フィンの声に、キュアンが馬上から遙か南の空を見上げる。
微かにではあるが、黒い鳥の群れのようにわだかまる竜騎士の姿を目にする事が出来た。
「全軍、騎乗!トラキア竜騎士団の攻撃に備えよ!!」
朗々たる声が、集結した三百騎のランスリッターの上に響く。
彼らは頭上からの攻撃を防ぐ役を担う為に、金属で出来た盾を各自手にしていた。
ランスリッターが迎撃態勢を形作る間にも、竜騎士団の姿は徐々に鮮明になりつつある。
キュアンは続いて騎兵の作る盾の壁の内側に、三重の歩兵の列を作らせた。
彼らはじっと盾の影に身を隠しながら、密かに手にした武器を頭上に構える。
竜騎士団はいよいよ近付き、その姿は空に黒い翼を広げる一体の大きな魔物のようだった。
あとほんの僅かで、残忍な牙をレンスター軍に突き立てられる距離まで彼等が接近したその時―――
「射(う)て!!」
鋭い号令と共に、激しい矢の雨が地上からトラキア軍を襲った。
三重に組まれた列は手持ちの矢を射尽くすと交代し、絶え間なく矢を竜騎士達に向けて浴びせ続ける。
一つ一つは距離もあり、頭上を狙って射るが故に致命傷には程遠かったが、弓矢が天敵である竜騎士達にはそれでも効果は絶大だった。
そのまま墜落する者こそ居なかったが、傷付いた竜の翼でバランスを取る事に集中を割かねばならず、
秩序立ててレンスター軍を攻撃する事が出来なくなった。
連続的に歩兵が矢を射掛ける事を提案したのはフィン、ランスリッターで盾の壁を作る事を提案し、実際に三百騎を統率したのはキュアン―――
フィンの意見を受け容れた上でキュアンが補ったこの一連の動きこそ、古参の将の不興を買った策であった。
「くそっ……弓とはな。キュアンめ、やってくれるわ」
まさか初陣の少年の意見と、彼の意見に耳を傾けたキュアンの度量に、自分達が大損害を被らされたとは想像だにしなかっただろう。
怒りの形相で、トラバントが地上のキュアンを睨み付ける。
キュアンもまた、トラバントの姿を視界に捉えていた。
一瞬ではあったが、侵す者と守る者、双方の強い意志を秘めた視線が絡み合う。
キュアンの片腕が上がると、弓矢での攻撃がぴたりと止む。
歩兵が素早く城内に撤収し、内側から固く扉が閉ざされた。
「いきなり弓矢に頼るとは、勇名を馳せたランスリッターの誇りをこの地に捨てに来たか!?」
「何とでも言うがいい。誇りや矜持で民は守れぬ。
罪無き多くの民を路頭に迷わせるくらいなら、騎士の誇りなど捨ててやるさ!」
トラバントの挑発をキュアンが一蹴する。
トラバントは内心で舌打ちした。
民を飢えさせる王に、王たる資格は無い。その事を誰よりもよく解っているのは、彼自身であったから。
キュアンが歳に見合った未熟な青年であったなら、『騎士の誇り』を引き合いに出された時点で無意味な突出をしたかもしれぬ。
だが彼は、本当に為すべき事の前では誇りなど要らぬと言い切ったのだ。
大した胆力、そして王としての器―――
「恐ろしい男よ……」
穏やかなその面の裏に底の見えない奥深さを感じ取り、トラバントは背筋に薄ら寒いものを感じた。
この男はきっと生涯の仇敵となるに違いない。
それは確信だった。
「ランスリッター、出撃せよ!!」
号令一過、三百の騎兵が雪崩をうって飛び出した。
しかも手にした武器は全て投擲出来る手槍であり、竜騎士達は容易に近付く事さえ出来ない。
キュアンが部下に下した命は唯一つ―――絶対に殺(と)れる相手以外には手を出すな、であった。
トラバントは不運にも視界に入った手近のレンスター兵をグングニルで屠りつつ、油断無く周囲を見渡した。
五十騎を数えた竜騎士は、今やその半数が翼たる竜を喪い、残る半数の大半がじりじりと劣勢に追い込まれていた。
トラバントの騎竜でさえ、無傷ではない。
―――この戦、負けたな。
勿論口に出しては言わないが、トラバントは自軍の敗北を悟っていた。
元よりキュアンがミーズを戦場に選ばなかった時点で、勝敗は決していたのかもしれぬ。
だが、このままおめおめとトラキアに戻る訳にはいかない。
「キュアン!!」
その声に、キュアンは素早く反応した。
咄嗟に手にしたゲイボルグを引き上げ、突き出されたグングニルの一撃を防ぐ。
突き出されては受け流し、突き下ろされては弾き返す、激しい攻防が数合続く。
しかしトラバントの竜は傷付き、疲れ切っており、またキュアンはいつしか足場の悪い岩場へと誘い出される形となった。
その条件が、どちらがどれだけ有利だったのかは定かではない。
だが、先に幸運が味方したのはトラバントの方であった。
「くっ……!!」
グングニルの穂先を弾いた勢いで騎馬が岩場に足を取られ、キュアンが僅かに体勢を崩す。
「貰った!!」
その隙をトラバントが見逃す筈は無い。
いつでも使えるようにしてあった手槍に素早く持ち替え、キュアン目掛けて投げ付ける。
だがキュアンも、無理な体勢からながら手槍を放っていた。ほとんど無意識だったと言っても過言ではない。
戦場に立つ者の本能だったのだろうか。
「ぐっ……!!」
「キュアン様!?」
キュアンは胸にトラバントの手槍を受けた。
心の臓からは僅かに逸れた様だが、衣服に血の紅が滲むのを目にして、駆け付けたフィンが青褪める。
そして―――
トラバントの騎竜が高度を上げ、光を遮る。
ばさりと大きな羽音がして、キュアンとフィンの上に影を落とした。
フィンが傷付いたキュアンと遠くなるトラバントの騎影を交互に見遣り、唇を噛み締めて主君の傍らに跪く。
トラバントもキュアンの手槍によって脇腹に浅くはない傷を負った。
致命傷ではなかったが、あのまま出血が続けば危険な状態に陥っただろう。
フィンが見たのは紅く染まった脇腹を押さえた姿だったが、後は追わなかった。
否―――追えなかったのだ。
トラバントはキュアンとでさえ互角の戦いが出来る男である。
とても今のフィンが太刀打ち出来る相手ではなかったし、何よりも傷付いたキュアンを放ってはおけなかった。
「キュアン様、お気を確かに」
「ああ……何とか生きているよ」
答えたキュアンは微かに笑みを浮かべたが、手で押さえた胸には血が滲んでおり、痛みの為か顔色も蒼白だった。
不吉な予感に、フィンの背筋を悪寒が走る。
「早く手当てを……!」
「大丈夫だ、辛うじて急所は外れてる。
痛みはあるが、多分肋骨をやられたくらいだろう……これに助けられたよ」
キュアンが胸元から取り出したのは、シアルフィを発つ朝、エスリンから贈られた短剣―――だがそれは、鞘ごと刀身の半ばから折れ砕けていた。
トラバントの放った手槍の直撃を、懐に忍ばせていたこの短剣が防いでくれたに違いない。
衝撃の大部分を吸収し、更にグングニルの穂先を逸らせてくれたお陰で、キュアンは致命傷を免れたのだ。
もしもこの短剣が懐になかったらと考えれば、胸の傷など掠り傷にも等しい。
「それは……砕けてしまっていますが、短剣ですね。護身用にお持ちだったんですか?」
「いや―――これは、お守りだよ」
キュアンは砕けた短剣の破片を丁寧に手布に包みながら、声には出さず『ありがとう、エスリン』と、小さく口の中で呟いた。
シアルフィの城壁沿いに植えられた樹の枝の上に、一匹の猫を抱いてエスリンが腰掛けている。
そこはずっと幼い頃からの、彼女のお気に入りの場所だった。
「キュアン様、大丈夫かしらね……ね、フレイ?」
主人の心なしかか細い声を案じたのか、腕の中のフレイも『ミャウン』と小さく鳴いたのみである。
レンスターとトラキアの間で、長く懸念されていた戦端が開かれたのはもう一ヶ月も前の事である。
半月程前に当のキュアン自身から便りが届いて、近い内にシアルフィを訪ねる旨が書かれていた。
フレイと一緒に手に持っていた便りを開き、綴られた文字に目を落とす。
揃えた膝の上に置いた一本の杖を、空いた手でギュッと握り締めた。
『あのキュアン様が、トラバント王の槍を受けて負傷されたなんて……』
十二聖戦士の武器を継承する証を持つ者の強さを、エスリンは十分に判っているつもりだった。
父や兄の剣捌きは、直接教えを受けている自分でも惚れ惚れする程だ。
ノディオンのエルトシャン王の剣も兄との手合わせで幾度か目にする機会があったが、
彼の剣戟は流れるように美しく、かつ凄まじい程に激烈であった事をエスリンははっきりと憶えていた。
そしてキュアンがシアルフィを訪れていた際、エスリンが乞い、彼の槍で稽古をつけて貰った事がある。
その日の事を、一日たりとも忘れた事は無い。
キュアンの槍術は堅実で、動きの一つ一つが理に適っていた。
稽古をつけながら彼が語った言葉が、エスリンの心を深く捉えて放さない。
『敵を倒す為だけに力を求めては、いつかは行き詰ってしまう。
守る為に強くなれ。守る為になら、人は限界を超える事だって出来る』
そのキュアンが負傷した。
守る事を選んだ彼に力が足りなかったのではない。
彼を討とうとしたトラバントも、生きる為に必死だったのだ。
どちらが正しいとは裁けない。
生きるとは……戦う目的とは、どちらの側にも言い分はあるだろうから。
キュアンは自分の故郷と、そこに生きる人々を守る為に今の力を得た。
ならば、自分には出来るだろうか。
守る為に、強くなるという事が―――
「私にだって、聖戦士バルドの血が流れてる。だけど……」
直系である父や兄とは違う、自分の戦い方が在る筈だ。
エスリンはもう一度、膝の上の杖を握り直した。
彼女がずっと幼い頃に亡くなった母は僧侶(プリースト)だった。
自分の命の灯火が消えるその瞬間まで夫と二人の子の事を案じ続けた、優しい母だった。
母は娘に、自分がかつて夫から贈られ護身用にと身につけていた短剣と、治癒(ライブ)の杖を残してくれた。
エスリンはその杖を手に、正式に治癒魔法の勉強をしたいと父に願い出た。
突然の話に父は驚いた顔を見せたが、自分の歩むべき道を自ら見出し、選んだ娘を笑って祝福してくれた。
僧侶騎士(トルパドール)として生きる事を。
「母様……私、頑張るわ。私も自分の大切なものを守れるように、強くなる。
その為に―――この杖を、使います」
父を、兄を、この国を。
だが一番に守りたい人は―――
その日、何度目かの溜息をついたエスリンの腕から、不意にフレイが抜け出した。
「フレイ?」
もう高い樹の上にも慣れてしまったのか、身軽に枝を伝って幹まで辿り着くと、あっと言う間に下に下りてしまう。
いつまでもこんな場所に居る訳にもいかなかったので、エスリンも樹から下りるべく枝の上に立ち上がった―――その時。
微かに草を踏む足音が、ゆっくりと近付いて来る。
自分を捜しに来た兄だろうか―――枝葉の隙間から、足音の主を窺う。
だがその気配に、向こうが先に気付いた。
「やあ、エスリン」
「……キュアン……様?」
フレイを腕に抱き、微笑を浮かべて樹上の自分を見上げるのは、間違いなくキュアンその人だった。
思いもかけぬ相手を目の当たりにした事で、咄嗟に言葉が出て来ない。
今度会ったなら、話したいと思っていた事が山ほどあった筈なのに。
「そっちへ行ってもいいかな?」
「え……ええ」
エスリンの返事を待たず、キュアンは巧みに樹に上って来た。
樹に上る間、邪魔にならないよう彼の肩や背に居場所を移していたフレイは、今はちゃっかりキュアンの膝の上で丸くなっている。
「あ……私、キュアン様がいらっしゃったのにお出迎えもしないで」
客人の出迎えは、城を預かる女性の大事な役目だ。
うっかりしていた事に気付き、エスリンの視線が下がる。
「ああ、気付かなかったのは仕方がないよ。
君には教えないでくれって、こっそり来たんだ。驚かせたくてね」
「まあ」
キュアンの優しい気遣いが嬉しい。
だからエスリンはいつものように振舞おうと、俯かせていた顔を上げ、こつんと軽く拳で彼の胸を小突いた。
「ッ……!」
「キュアン様!?」
ほとんど力は込めていなかったのだが、たまたま響いてしまったのだろうか。
胸を押さえて一瞬眉をしかめたキュアンに、サッとエスリンが青褪める。彼が戦場で負傷していた事を改めて実感させられた。
彼女の狼狽を察し、『大丈夫だから』とキュアンが笑顔を見せる。
「まさか、まだ怪我が……?」
額に浮かんだ汗を手布で拭いながらエスリンが尋ねると、キュアンは小さく頷いた。
「実は、まだ完全ではないんだ。だけど後は時間が薬だから」
トラバントとの攻防で、キュアンは肋骨を傷めていた。
トラキア軍を退けた後、侍医の言いつけでしばらくは大人しくしてたが、一ヶ月も城に篭もっていれば身体も鈍るし、何より時間を持て余した。
無理をしなければ痛む事も少なくなって来たので、自主的にシアルフィに転地療養に出向いたのである。
一応、父とフィンには言い置いて来たものの、今頃レンスターでは侍医が赤くなったり青くなったりしているかもしれない。
「少し、じっとしていて下さい」
エスリンが服の上からキュアンの傷に手を翳し、更に治癒(ライブ)の杖をもう片方の手に握って目を閉じた。
小さな祈りの声と共に、杖の宝玉に淡い光が浮かぶ。
「エスリン、君は……」
やがて熱を失う様に、ゆっくりと胸の痛みが引いてゆく。
そして遂には鈍く残っていた疼きに似た痛みさえ、完全に癒されて消えてしまった。
「良かった、上手く出来て」
キュアンは思わず、ホッとしたような笑みを浮かべたエスリンの手を取った。
「凄いじゃないか!いつの間に治癒魔法を?」
「ついこの間、勉強を始めたばかり。
でも本当は、戦場などの危急の場以外では、無闇に治癒魔法を使ってはいけないの。
あまり魔法の力に頼ってしまっては、人が本来持っている自己回復力を損なってしまうから」
だがどうしても目の前で痛みに苦しむキュアンを放っておけなかった。
気が付いた時には治癒の杖を彼に翳し、祈りの言葉が口をついて出てしまっていたのだ。
照れ隠しに、エスリンが小さく舌を出す。
「特別です、今日だけは」
「ありがとう。本当に凄いよ」
魔法の才を持たない身としては、初歩の治癒魔法であっても、ただ凄いとしか言いようがない。
完全に痛みの消えた胸に手を当てたキュアンは、不自然な硬い手応えに懐の中の物を思い出し、表情を曇らせた。
「キュアン様……どうかなさったのですか?まだ何処か、痛む所が?」
「いや、違うんだ」
不安気な表情を浮かべたエスリンに向かい合い、キュアンが頭を下げる。
「済まない、エスリン。君に謝らなくてはならない事がある」
「え?」
キュアンは懐から手布に包まれた折れた短剣を取り出し、エスリンの手の上に乗せた。
それは彼女がキュアンに贈り、彼の命を危うい所で救った―――彼女の母が娘に遺したもう一つの形見の品だった。
「この短剣が僕の命を救ってくれた。
懐に忍ばせていたこの短剣がトラバントの一撃を防いでくれなければ、僕は生きて此処に来る事は無かっただろう」
喪う筈だった命を取り留めたのは、エスリンのお陰だった。
彼女がこの短剣を託してくれていなかったらと思うと、我ながらゾッとする。
「そうですか……この短剣が、お役に立ったのですね」
折れた短剣を手布ごと握り締め、大きな瞳に涙が浮かぶ。
聖戦士バルドと槍騎士ノヴァ、そして亡き母に感謝の祈りを呟いた。
「便りでキュアン様が負傷されたと知って……ずっと不安で堪らなかった。
どんなにキュアン様の強さを知っていても、もしかしたら……と」
人の不安とはそういうものだ。
よりにもよって最悪の想像ばかりが、次から次へと頭の中を浮かんでは消えて行く。
不安に眠れぬ夜を、一体幾日数えた事か。
「でも良かった。本当に、キュアン様が生きて戻られたというだけで、私……」
エスリンの言葉は、やがて嗚咽に紛れ―――小さく震える肩に手を伸ばしたキュアンは、僅かに躊躇った後、彼女の細い身体をそっと抱き締めた。
「泣かないでくれ、エスリン。お願いだから……」
いたわるように優しくかけられたその声に、だがエスリンは容易に涙を止める事が出来なかった。
不安を抱えて過ごした時間の長さだけ、拭っても拭っても尽きる事無く涙が溢れ出る。
「泣かないで―――でないと僕は何一つ君に伝えられないまま、レンスターに帰らなくてはならなくなる」
「え……?」
ようやく上げた彼女の頬には、まだ涙の跡があった。
キュアンが自分の手布で、丁寧に残された涙の跡を拭う。
「物心付いた時から考えていた事がある。
僕は自由に相手を選べる立場ではないけれど、出来る事なら笑顔の似合う、
そして願わくば周りまで明るくしてくれるような人に花嫁になって欲しいと」
エスリンのまだ少し潤んだままの瞳が、驚きに瞠られる。
キュアンは彼女を見詰めたまま微笑んだ。
「ずっと好きだった。初めてあったあの日から、君の笑顔が心を捉えて放さない。
この一ヶ月間会いに来る事さえ出来なくて、改めて痛感したよ。
僕には君が必要だ―――どうかレンスターに来て、僕と結婚して欲しい」
凛として揺るぎの無い瞳に見詰められたまま言葉にされた求婚に、エスリンは口を手で覆った。
そうしなければ、また泣いてしまいそうだったから。
「でも……私はまだ子供で……こんなお転婆だし、ちっともお淑やかじゃないのに」
「言っただろう?笑顔の似合う、周りまで明るくしてくれるような人を探していたと。
何も変わらなくていい。明るくて真っ直ぐな、そのままの君を愛しているよ」
包み込むようなその優しい眼差しに―――エスリンは、遂に涙を堪える事が出来なくなった。
胸に溢れるこの想いを彼に伝えたいのに、何一つ言葉にならない。
だからエスリンは代わりにキュアンの首に腕を回して、せめてその涙を彼に見せないようにした。
幸せの涙であっても、もう二度と泣き顔は見せたくなかったのだ。
自分の笑顔が好きだといってくれた、キュアンには。
「エスリン」
そっと彼女の背を抱き、耳元で囁く。
「僕の花嫁になってくれるか?」
一呼吸置いて、エスリンが顔を上げた。
瞳は少し赤かったが、春の木漏れ日のような笑顔が浮かぶ。
キュアンが何にも増して愛した笑顔だった。
その年、エスリンが十四歳になるのを待って、二人の婚礼は執り行われた。
以後彼等は、決して長くは無かった生涯の中で、一男一女を遺す事になる。
全ての悲劇の発端となったヴェルダン王国第一王子のユングヴィ領侵攻は、それから更に二年の後の事であった。
【FIN】
あとがき
個人誌『貴方が瞳に映す夢』より、原題『ROMANCE』を加筆修正してUPしました。
原題のままUPするつもりだったのですが、どうもこそばゆかったので(笑)英語で誤魔化した(^_^;)
日本語では直視するのがこっ恥ずかしいタイトルでも、英語だとスルー出来るからアラ不思議…って、『ROMANCE』だって英語じゃんか!(笑)
正直、元々何で『ROMANCE』ってタイトルになったかよく憶えていないので…うん、若いっていいね。(←逃げた)
他の作品でも多々ある傾向なのですが、キュアンの一人称が幾つもあるのはわざとです。
気心の知れたシグルドや、気を許したフィンの前では『俺』、
王子としての立場で相手を特定しない場合(大勢の家臣の前など)では『私』、そしてエスリンの前では『僕』です。
本当はエスリンに対しても『俺』で通そうかと思ったんですが、悩んだ末にこの時点では『僕』にしておきました。
婚約が正式に決まり、エスリンがレンスターに輿入れしたくらいには、きっとお互いもっと素が出て『俺』になっている筈です。
フィンは公式設定では下級貴族の出身らしいのですが、ウチは平民出身という設定でずっと二次創作を書いてきたので、
そのままの設定でゴリ押ししてます(笑)
しかし実際、下級貴族も平民もあまり生活ぶりは変わらない気がする…単に爵位があるかないかという違いだけで。
麻生 司
2006/06/08