シレジアの山の奥深くには、白銀(しろがね)の魔女が眠っています。

白銀の魔女は百年に一度目醒めると、山を降りて、一人の人間を選んで謎掛けをします。

その答えに満足したら、白銀の魔女は山に戻ってまた百年の間眠ります。


でももしも、答える事が出来なかったら。
もしも答を間違ってしまったら……?




その時は、白銀の魔女が本当に一番大切な物を連れて行ってしまうのです―――









What's your most important thing ?








「白銀の魔女?」

手にしたカップを受け皿に戻しながら、セティは目の前の少女を見遣った。

「ええ。今日、お城に来ていた子供達が教えてくれたんです。
 シレジアを囲む山の奥深くには『白銀の魔女』が眠っていて、百年に一度目醒めては、一人を選んで謎掛けをするのだと」

ツインテールに結った銀色の髪を揺らして、少女――ティニーが頷く。
まだ幼さの残る顔立ちではあるが、少女と呼ぶべきではないかもしれない。
若くても彼女はシレジア国王の妃―――セティの妻なのだから。


国王夫妻は未だ歳若く、共に二十歳を迎えていない。
だが国民にはよく慕われ、国王夫妻も積極的に国の民と触れ合う事を望んだ。
遠方の村への視察も、日を決めて月に何度か城を開放し、子供達や城下に住む人達と話し合う機会を設けるのもその一環だ。

主にセティは国内で起きる様々な諸問題への対応や、収拾が付かなくなっている訴訟などの仲裁や裁定を依頼される事が多いのだが、
ティニーの元には女性や子供達がよく集まった。
女性同士、同じ卓を囲みながら作物の出来具合を話し合ったり、時には夫に対する不平や愚痴も零しあった。
もっとも自他共に認めるおしどり夫婦であるティニーは、夫婦間の諍い事には全く無縁で聞く専門だったのだが。
また子供達に関しては書庫に収められた物語を読み聞かせたり、文字の読み書きを教えたり、また素質のある子には魔法の指導も行った。
治癒系以外の魔法の才など平和になったこの時代には必要ないのかもしれないが、
幼い内から正しく魔力を制御する方法を知っておいた方が、後に役立つ事を経験で知っているからこその指導だった。

今日もそうして子供たちに物語を読み聞かせていて、件(くだん)の『白銀(しろがね)の魔女』の話が出たのである。


「アルスターで育った私は知りませんでしたけど、シレジアの子供たちは皆知っているみたいで。
 でも百年に一度目醒める魔女の謎掛けって、一体どんなものなんでしょう?」
「そう言えば僕やフィーも昔、母に聞かされたよ。
 『白銀の魔女』はシレジアで
親から子へ代々語り継がれている昔話だけど……そういえば、どんな謎掛けをされるかまでは知らないな」


長い指先が、コツンと机を叩く。
確か亡くなった母も『謎掛けをされる』とは言ったが、それが具体的にどのような謎なのかは話してくれなかった。
知っていて隠されていたのか、本当に母自身も知らなかったのかは定かではないが。


「セティ様が御存じないんじゃ、フィーに尋ねても知らないでしょうね。兄様も御存じないかしら?」
「そうだな。少なくとも僕とフィーは母から同じ話を聞かされている筈だから、知らないと思うよ。
 アーサーは城下の修道院で育ったんだろう?子供が多い環境だったなら、案外詳しく知っているかもしれないけど」


ただその場合子供同士の憶測が飛び交い、真実とは違う伝承を作り出している可能性もある。
『こうだったらいいな』という希望が憶測と混ざり合って、正確な伝承が成されないのだ。
そもそも親から子へと語り継がれる時点で、記憶違い等で原型を喪っているかもしれない。
だとすると、もしかしたら『謎掛けをされる』という伝承自体が既に事実とは違うかもしれないのだ。考えるだけ無駄というものである。



「……ただ、確か亡くなった母はこうも言っていた。『白銀の魔女は子供の守り神』だと」

不意にその一節を思い出し、口にする。

「子供の……守り神ですか?」
「詳しい経緯は、僕も知らないけどね。
 恐らくは言い付けや約束を守らない子供を親が叱る時に、
 『言う事を聞かない子は白銀の魔女に連れて行かれてしまいますよ』という、戒めを込めているんだと思うけど」


謎掛けに答えられなければ、一番大切な物を連れて行ってしまうと言い伝えられる白銀の魔女。
それが果たして物なのか、人なのか、命そのものであるかは判らない。
しかしそんな絶対的な力を振るう事が出来る魔女が、同時に子供の守り神であると言う。




百年に一度目醒める白銀の魔女が望む答とは、一体何なのだろう?

謎掛けをされる人間は、どうやって選ばれるのだろう?


伝承の中に答はない。




その『時』が間近に迫っている事を、ティニーはまだ知らなかった。




「まだ寝(やす)まないのかい?もうすっかり夜が更けたよ」
「ええ。でも、もう少しなので」

遅い時間になっても寝室に姿を見せないティニーを心配して、セティが私室に様子を見に来た。


セティとティニーは、寝室を挟む形でそれぞれに私室を持っている。
国王としての政務を執り行う為にセティは執務室も別に持っているが、個人的な私物などはほとんど私室にある。
とはいえ、それほど物に執着する性質では無い二人の部屋には、さしたる私物も無いのだが。

今は各地に散ってしまったかつての友や、義姉であり義妹でもあるフィーとは頻繁に手紙に遣り取りがある。
読書などは談話室の暖炉前でする事が多いが、手紙の返事などはこの私室で書く事が多かった。
今日は昼間来ていた子供達がティニーやセティの似顔絵を描いて贈ってくれたので、その礼の手紙を書いていたのである。
二十人近くともなれば結構な時間が掛かるのだが、
一人一人の顔を思い浮かべながら、それぞれに対して丁寧にしたためていた。
あと三人分なので、今夜中に全て書き終えることが出来るだろう。


「先に寝(やす)んでください。あと半刻(一時間)ほどで終わりますから」
「熱心なのはいい事だけど、まだ夜は冷えるから温かくしておいで」

妻の肩に羽織られたショールをしっかりと掛け直し、セティが額にキスを落とす。

「おやすみなさい、セティ様」
「おやすみ、ティニー」

いつもの挨拶といつもの笑顔を残して、セティは寝室へと姿を消した。







「……ふう、やっと全部書き上がったわ」

セティが寝室に入って、半刻(一時間)後。
ようやく子供たちへの礼状が書き上がった。

「随分遅くなってしまったわね」

初春の夜はセティの言った通りすっかり冷え込んで、露台に続くガラス窓が室内の暖かさで薄っすらと白く曇っている。
肩に羽織ったショールを手で押さえながら暖炉の火を落とし、完成した礼状を執務机の引き出しに片付けると、
燭台の火も消してティニーは寝室に続く扉を開けた。


―――その筈だった。






「……え?」

キィン、と冷たい空気が鳴るような音がして、ティニーは咄嗟に耳を押さえた。
視界一杯に光が溢れていて、灯りを落とした暗い部屋から入って来たティニーには周りも良く見えない。
やがて徐々に目が慣れてくると、自分が今立っている場所が、全く知らない空間である事に気が付いた。

「そんな……これは一体……」


もしかしたら、自分は夢を見ているのだろうか。
子供達への手紙を書きながら、いつしか眠ってしまったのかもしれない。
夢だとでも思わなければ、説明が付かなかった。


白い光に溢れた部屋は丸い造りで、今自分が入って来た扉を含めて三枚の扉があった。
その中心にガラスか氷で作られた台があり、誰かが横たわっている。
光の加減で、はっきりと顔は見えない。
だが首筋を氷で撫でられるような、嫌な予感が通り抜けた。

恐る恐る近付き、覗き込む。
そこにはやはり、セティが横たわっていた。


「セティ様!?」

まるで人形のように、声を掛けてもピクリとも動かない。
手で触れた頬は冷たく、指先に微かな呼気を感じなければ生きているかどうかさえ疑う所だった。

「セティ様……一体、何が……」
『大丈夫だよ、このお兄ちゃんは眠ってるだけだから』


唐突に声をかけられ、驚いて周囲を見回す。
まるでたった今、空から姿を現したかのように、すらりとした銀髪の女性と、同じく銀髪の小さな子供の姿が目の前にあった。



『今目に映るこの世界は、貴女自身の心の世界』
「私の……心?」

背の高い方の女性が声を発した。
涼やかなその声は決して大きな物ではないのに、不思議にはっきりとティニーの耳に届いた。

「貴女は、誰?」
『白銀(しろがね)の魔女……と、人は呼ぶ。この子は私の使い、イナンナ』

ニコッと、邪気を感じさせない笑みをイナンナが浮かべる。
女性と少女―――白銀の魔女とイナンナの背にさらさらと流れる銀色の髪は、ティニー自身の髪よりずっと色淡く、まるで月の光のようだった。
白銀という二つ名は、この月光のような輝きからついたのだろうか。

「白銀の魔女……貴女が」
『真の名は他に在る。だけど、それは今の貴女にとって必要の無い事』

表情豊かなイナンナとは対照的に、銀髪の魔女の面は凪いだ風のように静かなままだった。

「……貴女は百年に一度目覚めては、誰か一人を選んで謎掛けをすると聞きました。
 答えられなければ、その人の一番大切な物を連れて行ってしまう……とも」

『百年に一度というのは、伝承の中でいつしか生まれた故無き事。私は代々、ただシレジア王妃の前にのみ姿を現してきただけ』

思いもかけなかった言葉に、紫水晶の瞳が瞬かれる。

「代々の……シレジア王妃?では、フュリー様やラーナ様にも?」
『例外は無い』


白銀の魔女は、言葉を濁す事無くはっきりと答えた。
という事は、間違いなく真実なのだろう。
そして歴代のシレジア王妃は、白銀の魔女の存在とその問い掛けの謎を知りながら、全てを明らかにしようとしなかった。
一体、それは何故なのか。

『幾代にも渡り、同じ事を問うてきた。そして今に至るまで、全ての王妃は私(わたくし)の望む答を示してくれた』

青氷の瞳が、面影に幼さを残したままの王妃を映す。

『貴女はどうする?私の謎掛けに答えるか、それとも背を背けるか。
 もしも自らの選択に悔いる事を恐れるならば、私は何も問わず、ただ貴女の心の中の一番大切な物を一つ連れて行きます。

 千を数えるだけの時間をあげましょう。その間に私に答を示しなさい。その時間の中であれば、答え直すのも自由です。
 ただし時間内に答える事が出来なくても、貴女の一番大切な物を連れて行きます。


それは選択か。あるいは、宣告だったのか。

選ぶべき答を選べなければ、一番大切な物を喪う事になる。
また自らの選択を悔やむことを恐れ、答える事を拒んだ場合も、やはり一番大切な物を喪う。

自らの選択で喪うか、有無を言わさず喪われるか。
自分で正しい答を選び取る以外に、至る結末は同じだった。
 

「……私は、試されるのですか?」


果たして自分がシレジアの王妃として相応しいか。
或いは、今王位にあるセティの妃として相応しいか。

相応しくないと断じられたなら、一体自分と言う存在はどうなってしまうのだろう?


『それを試練とするかは貴女次第。
 答はほんの一言で済むかもしれないし、一生の悔いとなって残るかもしれない。選ぶのは貴女自身』


真っ直ぐに見据えられたティニーは、咄嗟に視線を逸らす事が出来なかった。

正体の判らない畏怖に、いつしか身体が竦んでいる。
すっかり強張ってしまった身体を解すように一度大きく息を吐き出すと、確かめるように、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。

「―――私は、争い事は嫌いです。どんな些細な諍(いさか)いであっても、必ず誰かが傷付くから

白銀の魔女は、無言のままティニーの言葉に耳を傾けている。
小さなイナンナはティニーの選択が如何なる物か、期待に満ちた眼差しを浮かべていた。

「でも、例え傷付くと判っていても、戦わなければ守れない物がある事を私は知っている」


例えこの手が血で汚れても、次の世代に平和な世を残せるのならば―――そう信じて、自分は戦って来た。
傷付ける事を、傷付ける事で自分が傷付く事を恐れているだけでは何も為せない事を、今の自分は知っている。

「未だ歳若く、至らないかもしれないけれど―――私はシレジア王、セティの妃。
 その誇りに掛けて、私は自分自身で答える事を望みます」

『良いでしょう』


迷いを絶ったその答が気に入ったのか、初めて白銀の魔女の口元に微かな笑みが浮かんだ。

『私が問うべき事は唯一つ―――貴女の一番大切な物は何?』





白銀の魔女は百年に一度目醒めると、山を降りて、一人の人間を選んで謎掛けをします。


その答えに満足したら、白銀の魔女は山に戻ってまた百年の間眠ります。


でももしも、答える事が出来なかったら。

もしも答を間違ってしまったら……?


その時は、白銀の魔女が本当に一番大切な物を連れて行ってしまうのです―――


ティニーの瞳が、軽く瞠られる。
親から子へと伝えられる伝承の中に、謎掛けは既に示されていたのだ。
自分にとって一番大切な物を正しく答えられなければ、白銀の魔女が『本当に』大切な物を連れて行ってしまうのだと。

『イナンナ』
『はぁい』

ぴょん、と勢いを付けて床を蹴ったイナンナが、まるで体重を感じさせない身軽さでティニーの前に着地する。

『千を数える間に、貴女の一番大切な物を私に示しなさい。
 貴女の心を映し出したかりそめのこの世界を、一定の時間が過ぎる毎にイナンナが少しずつ消していきます。
 大切な物を探す場所が、どんどん消えていくと言う事よ。
 最後まで残るのはこの場所―――他の全ての場所が消え去るまでに私が望む答を見つけ出せないと、
 未来永劫、貴女はその『何か』を喪う事になるわ』


白銀の魔女の手の中に、中空から真っ白な砂が流れ落ちる砂時計が現れる。
さらさらと流れるその砂が全て落ちた時が、刻限の千を数え切った時だと言う事だろうか。


『お姉ちゃん、早く探しに行かないとお部屋を消しちゃうよ?一枚目の扉が消えるまで、あと三百』


小さな手が指差すのは、振り返った先にある一番右側の扉。
ティニーは人形のように眠るセティの頬に口付けると、意を決して一枚目の扉を押し開けた。






真っ白い扉を抜けると、其処は見覚えのある部屋の中だった。
しかしそれはシレジア城で得た私室でもなければ、フリージ城の執務室でもなく―――


「ここは……母様と一緒に暮らした、アルスターのお部屋……?」


踏むと軋む床板の位置まで同じだった。
暖炉の前には古びた椅子と、申し訳程度の敷物。
暖炉にくべる薪も豊富に与えられていた訳ではなかったので、親子二人で身を寄せ合って一つの寝台で眠ったものだ。

その母も、ティニーが五歳になる直前に亡くなった。
まだ幼かった自分には当時母が亡くなった理由が判らなかったのだが、
物心ついてから従姉のイシュタルから聞いた話では、母には何処と言って悪い所は無かったが、少しずつ身体が弱って亡くなったと言う事だった。
伝承として今も伝えられるバーハラの悲劇を辛くも生き延びた事と、
恐らくはその悲劇を生き延びた後遺症で夫のアゼルを喪った事が止めになったに違いないと、イシュタルは話してくれた。


魔道士の身には、稀に『血の兆し』と呼ばれる異変が起きる。
人生の終盤に近付いた魔道士が喀血する事で死期を悟る事から『血の兆し』と呼ばれている。
自身の限界を超えて魔法を発動させた場合、その反動は自らの寿命を削るという形で現れるのだ。
兄を身篭っていた母を父は身を持って庇い、そして寿命を縮めた。だが母もまた、腹に宿った兄を流産という形で死なせない為に自らの命を削っていたのだ。
夫を喪い、二人の子を産んだ母には目に見える兆しこそ無かったものの、残された命の火は、日々細く小さくなっていったのだろう。

部屋の一角に設けられた衣装箪笥の扉を開けると、其処には思ったとおり、薄紅色の一着のドレスが掛けられていた。


「懐かしい……母様が亡くなる直前まで直してくれていたドレスだわ」

それは、元はイシュタルの為に仕立てられたドレスだった。
だがイシュタルはティニーの五歳の誕生日が近い事を知っており、わざとティニーに似合う色、デザインのドレスを作らせた。
仕立て上がってきたドレスに一度は袖を通したものの、『やっぱり気に入らない』と適当に文句をつけ、
気紛れを起こした振りをしてティニーに贈ってくれたのだった。

母のティルテュは娘に対する姪の気遣いをありがたく受け止め、不得手な裁縫を覚え、ティニーに合うようにドレスを直してくれた。
母が眠るように亡くなったのは、その手直しが終わった直後だったのである。

以来そのドレスは、ティニーにとって母の形見となった。
成長に合わせて少しずつ直しながら、数年間大切に着続けていたのである。
流石に十を過ぎた頃には直しても着られなくなってしまったが、アルスターからフリージへ――これは全てが決着した戦後になってからだが――
またフリージからシレジアへと移る度にも、思い出の品として持参した。
今も私室の衣装箪笥には、同じドレスが掛かっている……筈だ。


『それが、貴女の一番大事な物?』

イナンナが窺うようにティニーに尋ねる。
ティニーはドレスを手にしたまま少しの間目を閉じて考えていたが、やがて小さく首を振った。

「……いいえ。掛け替えの無い大切な思い出の品だけど……一番大切な物ではないわ」

手にしたドレスを元通りに片付けると、ティニーが部屋を後にする。

『さあ、次の部屋はどっち?あと七百くらいしかないよ』
「……そうね。じゃあ、今度は左側に行くわ」


ティニーが左側の扉を開けると同時に右側の扉が光に包まれ、やがて幻のように跡形も無く消え去った。






其処は、見慣れない部屋の中だった。

「此処は……」

記憶とは少し違うが、見覚えがあるような気はする。見慣れている訳ではないが、記憶にはあるのだ。
窓の外に広がる雪化粧をした景色を見やって、ティニーはそこがセイレーン城の一室である事に気付いた。


『ティルテュ、このペンダントを君に』

不意に声がして、驚いて振り返る。
先程まで誰の姿もなかった筈の部屋の中央に、今の自分とそう変わらない若い母と―――肖像画でしか知らない父が居た。

『僕も同じ物を持っている。セイレーンの城下で見付けたんだよ』
『ありがとうアゼル。お守りのように、二人で肌身離さず身に付けていましょうね』

幸福そうに父と母は微笑みあったが、やがて夢が醒めるかのように二人の姿はかき消えてしまった。



「……父様がこのペンダントを、母様に渡した時の光景だったのね」

ティニーの手が、胸に揺れるペンダントに触れる。
それはたった今、目の前で父が母に送ったペンダントであり、幼い頃に母から譲り受けた唯一の形見の品だった。
父のペンダントは、母がアルスターへと連れ戻される前に兄に残したのだろう。


両親の思い出の品であり、兄との再会を果たす目印ともなったペンダント。
亡き父と母の形見となった今、間違いなく大切な宝物だ。


『そのペンダントが、貴女の一番大切な物?』

いつの間にかイナンナが目の前に立っており、首を傾げてペンダントを見ている。

『それが貴女にとって一番大事な物だと思うのなら、言葉に出してそう言って。
 千の時を待たずに謎掛けは終わり、貴女が選んだ答の是非が問われるから』


手の中にペンダントを握り、ティニーは目を閉じた。

「……いえ、違うわ。確かにこのペンダントは大切な思い出の品だけど――― 一番ではない」

二度と会えぬ母、自分が生まれる前に亡くなってしまった父、そして十数年間生き別れていた兄との唯一の絆。
喪うなど考えた事もないが―――自分には、もっと大切な物がある。
亡き両親の姿を見て、はっきりとその事が判った。


「戻りましょう、イナンナ。白銀の魔女と……セティ様が待つ、あの場所へ」
『まだ時間は残ってる。もし間違えても、考え直す事は出来るよ』
「大丈夫。私にも、もう判ったから」

応える様に、ティニーは微笑んだ。







定められた時間を残し戻って来たティニーに、白銀の魔女は静かな声で尋ねた。

『答は見付かりましたか?』
「貴女の謎掛けに答える前に、一つお聞きしたい事があります」

歴代のシレジア王妃に、同じ謎賭けを繰り返したという白銀の魔女。
初めて目にした時には恐れも感じたが、今はただ畏敬の念を感じるだけだ。何故ならば―――

「白銀の魔女、それにイナンナ。貴女達はフリージ家に縁の方ではありませんか?」

白銀の魔女の青氷の瞳が僅かに瞠られた。

「その銀色の髪は母の生家、フリージ家縁の証。
 如何なる理由で貴女が白銀の魔女と名乗る事になったのか、それは判らないけれど……
 だとしたら私と貴女達は、共に魔法騎士トードの血を引く一族という事になる」


実際にはほんの一呼吸の間だったのかもしれない。
だがとても長い時間が経ったようにティニーには感じられた。

『そう……やはり貴女はトードの末裔なのですね。その銀色の髪を見た時に、もしやとは思っていたけれど』

囁くような声が紡がれる。

「一族に名を連ねていたとは言え、私がフリージの系図を正確に知ったのはつい最近の事。
 ですが、貴女の姿は城に掲げられた一族の肖像画でも見た事がない。それが不思議でならないのです」

フリージ家に生まれた者が、全て肖像画に描かれる訳ではない。
実際兄のアーサーは父方のヴェルトマー家を継いだ事もあり、フリージ城に兄の肖像画は掲げられていない。
だが目の前のこの女性からは、強い魔力と生粋のフリージの力を感じる。つまり、歴代の神器の継承者であったかもしれないのだ。
なのに何故、フリージに絵姿一つ残っていないのだろう?

白銀の魔女が、ふと目元を和らげた。

『私の絵姿が無いのも道理。フリージ公爵家の祖、魔法騎士トードは……私の実の弟です』
「え―――!?」

紫水晶の瞳が、驚きを映す。

『私達姉弟をはじめ、ロプトウスと戦った仲間達が戦乱の後にそれぞれの地に分かれ、其処に新たな王家と公爵家が出来上がった。
 祖であるトード以降の一族の系譜の中に、既に他家に嫁いだ私の絵姿が無いのは当然でしょう』
「魔法騎士トードの実の姉君……そして貴女自身も、神の器となった聖戦士の仲間だったと……?」
『そう―――神の器に選ばれた彼等を、私達は守って戦った。
 そして長きの戦乱の世が終わりを告げた時―――私は、この美しい国で生涯を終える事を望んだの』


自らの生まれ育った故郷ではなく、冬の雪が深いが故に夏の緑が一層美しいこの国を選んだ。
それはシレジアの祖、セティと共にこの地を治めたという事なのだろうか。


『シレジア建国の王セティは、神の器となれるだけの力があった。でも器と選ばれた彼等でさえ、神の力は手に余るものだった。
 建国から十余年―――四十に満たない歳若さで、彼は亡くなったのよ。人という器を超えた、力の代償として』
「それはまさか……血の……兆し?」

白銀の魔女は、はっきりとは答えなかった。
だが彼女の口元に浮かんだ寂しげな微笑が、ティニーに確信をもたらした。

バーハラの悲劇で命を縮めた父や母と同じく、初代セティ王も血の兆しで命を落としていたのだと。

『……王を守ると誓った私にも、彼を救う事は出来なかった。
 それは彼自身が器となる事を選んだ時に、定まってしまった命運だったから』


ティニーは知る由も無かったが、ユグドラル諸国の建国の祖はほぼ全員が、およそ寿命とは言えないほどの若年で亡くなっている。
ロプトウスとの戦いはそれだけ熾烈を極め、神の力を振るう為に、器となった者に相応の犠牲を強いたのだ。


『王はその身に神の力を宿す。国と民は神の器となった王が守る。
 だから私は王自身と、彼の血を受け継ぐ末裔であり、国の宝である子供達を守るの。
 国と民の為に自分の命すら惜しまない王を時には諌め、時には自分の身を持って庇う為に』


凛とした横顔には、迷いも寂寥もない。
ただ自分の立てた誓いを胸に、今日もなおシレジアを守っているのだ。
伝承では子供の守り神と語り継がれていたが、実際には王と王の末裔を守り続けて来たのだろう。

死して肉体を喪った後に、シレジアの行く末を案じる彼女の想いが姿を成したものなのだろうか。


ティニーの目の前で、白銀の魔女が手にした砂時計の砂が落ちきった。

『時間です。ティニー、貴女の一番大切な物は何?』
「白銀の魔女、私は貴女を満足させる答を持っていないかもしれない―――でもこれが、私の正直な心」

もう恐れはない。
彼女が守ろうとしたものは、自分と同じであると気付いたから。

固く瞳を閉ざしたまま眠り続けるセティにゆっくりと歩み寄ると、その頬にそっと手を触れた。

「思い出のドレスも、母様から頂いた形見のペンダントも……喪ってしまう事は悲しいけれど。
 例えその全てを喪ったとしても、きっと生きていく事は出来る。
 でもこの人を―――セティ様を喪ったなら、私は生きてはいけない」


どんなに遠く離れていても、どんなに心細い夜も、セティを想うだけで強くなれた。
自らが手に掛けた人々の命を犠牲と呼ばない為に、辛さも苦しさも全て受け容れ、前を向いて歩いていく事を教えてくれた。

「セティ様から頂いた愛が無ければ、今の私は存在しなかった。
 この人が私の全て―――この人を愛しく想う心こそ、私という存在を形作る源」

神の器として生を受けた彼が、どれ程心を痛めながら戦って来たか、自分は知っている。
その優しさ故に彼が壊れてしまわないよう、自分が彼を支えようと決めたのだ。

「この人を……セティ様を愛しく想うその心こそ、私の一番大切な宝物です」



その瞬間、ティニーの視界が光に満たされた。


『その想いを、決して忘れないで。
 貴女がその人と大事に育んだ想いと命を……大切になさい』


白銀の魔女の声と共に視界は白い光に満たされ、やがて目の前に横たわるセティの姿も見えなくなる。
そしてティニー自身の意識も次第に遠くなり―――

『ティニー、貴女の大切な人と、必ず幸せになるのよ。早くに逝った叔母様達や……私の分まで』

小さく手を振るイナンナの面影に重なるように最後に耳元で聞こえたのは、あの優しい従姉の声。
そう気付いたのは、再び目覚めた後の事だった。



「……ニー、ティニー?」
「…………セティ様…………?」

目を開けると、すぐ近くに心配そうに見下ろすセティの顔があった。
ティニーが瞳を開けた事で、セティがホッと安堵の息を吐く。

「息をしているかどうかさえ判らないほど静かに眠っていたから、心臓が止まってしまったのかと思ったよ」
「私……眠っていたんですか?」

ぼんやりとしていた頭が次第にはっきりしてくる。

いつの間に、自分は寝台に入ったのだろうか。
子供達に礼の手紙を書き終え、随分遅くなってしまってから寝(やす)もうとして―――
ハッと我に返ると、ティニーは存在を確かめるかのようにセティの顔に手を触れた。
要領を得ない妻の様子に怪訝そうな顔をしてはいたが、指先に触れる彼の頬は温かで、間違いなく生きている。


「良かった……!白銀の魔女に、もしかしたら連れて行かれてしまったかと」
「白銀の魔女に、僕が?」

セティの手が、柔らかなティニーの髪を梳いた。

「僕は此処に居る。今までも傍に居たし、これからもずっと」

そう言って、手に取った髪の一房に口付ける。

「例え魔女に連れ去られようとも、僕は必ず君の元へ還るよ」
「太陽のように私を照らす、貴方の存在こそ私の全て」

セティの手を取り、ティニーが寝台から下りる。

「セティ様、これから一緒に肖像画の間へ行って下さいませんか」
「真夜中だよ?夜が明けてからでは駄目なのか?」

一応、言ってはみたものの。
きゅっと眉を寄せ、頭一つ高い自分を仰ぎ見る妻を目にして、嫌と言える筈も無く―――

「判った。でも、風邪をひかないよう温かくしておいで」
「はい!」

花のように、ティニーが微笑んだ。



石壁に囲われた深夜の肖像画の間は冷え切っていた。吐く息が白くはっきりと見える。
高い位置に設けられた窓からは薄っすらと月明かりが差し込んでおり、夜の闇はまだ深い。

燭台を手にしたセティがティニーを連れて、ゆっくりと奥へと足を進める。
一番手前には、先日描き上がったばかりのセティとティニーの肖像画が掲げられていた。
その隣、奥の方にセティの両親であるレヴィン王とフュリー王妃の肖像画が、更にその奥にはレヴィンの父王とラーナ王妃の肖像画が続く。

ティニーは一度も立ち止まらないまま真っ直ぐ奥を目指し、彼女がようやく足を止めたのは、最奥に掲げられた一枚の肖像画の前だった。


「セティ様、この方は……」

新しい時代になるにつれ王と妃を一枚に描いた肖像画が多くなっていたのだが、
時代が古くなるにつれ、王と妃、子供たちは別々に描かれていた。
ティニーが見上げるのは、最奥に掲げられていた一人の女性の絵姿―――
シレジアの王としてその歴史も学んだセティは、澱みなくその名を答えてくれた。

「かつて伝説の聖戦士と共に戦った魔道士の一人。シレジアの祖、初代国王セティの妃、カティナ様だ」
「カティナ様……」

古い肖像画はやや色褪せていたが、それでも描かれた女性が美しい銀色の髪をしていた事が判る。
カティナ王妃の姿は、まさしく白銀の魔女その人だった。


『白銀の魔女は、代々シレジアの王妃の前にのみ姿を現した……そして、子供の守り神と言われている』


聖戦士でもあった初代セティの役目は、国と民を守る事。

カティナは王自身と、国の宝である子供達を守っていた。
自らの肉体が滅んだ後にも変わる事無く、恐らくはこの世界からシレジアという国が喪われるその日まで永劫に―――


「……私、間違えずに、ちゃんと白銀の魔女の謎掛けに答える事が出来たみたいです。
 今もこうして、セティ様が私の傍にいらっしゃる事がその証」

遠く離れていた時でさえ、一瞬でもセティの想いを疑った事などない。
言葉など無くてもただ傍に居るだけで満たされる、何にも代え難い幸福。

白銀の魔女―――カティナは、ティニーの選択が正しかったと認めてくれたのだ。


「そうか―――すっかり忘れていたよ。カティナ様も、君と同じ銀髪の女性だったんだね」
「それだけではありません。
 初代セティ王とカティナ様の末裔が今に続くシレジア王室の系譜―――そしてカティナ様は、魔法騎士トードの実の姉」
「何だって?」


シレジアの初代王妃カティナとフリージ公爵家の祖となった魔法騎士トードが実の姉弟だったなど、セティも初耳だった。
直系の自分ですら知らない事を、何故彼女が知っているのだろう?
シレジア王家には残されていないカティナとトードの血縁関係を示す文献が、フリージ家には残されていたのだろうか。

尋ねたセティに、だがティニーは小さく首を振った。

「言葉で説明するのは難しい。きっと私にも、もう二度とその機会は訪れないし、証明のしようもない。
 でもセティ様と私は、元は同じ血から分かれた―――その血が、またこうして……」


何気なく口にして、ハッと気付く。
別れの前に白銀の魔女―――カティナが口にしたその言葉が、何故か気に掛かる。

―――貴女がその人と大事に育んだ想いと命を……大切になさい。


『セティ様と育んだ想いと……命……?』


ティニーは、小さく息を呑んだ。

シレジアに嫁いで数ヶ月。
王妃としての政務や、新しい生活に慣れる事に気を割かれて忘れていたが―――そう言えば月の印を、この二ヶ月ほど見ていない。
カティナの最後の言葉は、この身に宿った新しい命の芽生えを報せていたのではないか。


「……セティ様……私……」
「どうした、ティニー?」


セティに肩を抱かれたまま、祈るようにティニーはギュッと胸の前で手を組み合わせた。

思い過ごしかもしれない。もしも間違いだったなら、セティを落胆させてしまう。
だが不思議と確信があった。
何故なら白銀の魔女は、王の末裔である子供の守り神だから―――

ティニーの手がセティの手を取り、そっと自分の腹に触れさせた。


「夜が明けたら、きちんと診て頂かなくてはいけませんけど……私、もしかしたら……」

彼女の行為と面に浮かんだ微笑に、セティの瞳が僅かに瞠られる。
その意味する事に思い当たり、驚きと歓喜が共に浮かんだ。

「子供……本当に?」
「セティ様から頂いた愛が私の全て。今の私に貴方という存在より大事なものなど、何一つ在りはしない。
 でも、これからは―――」


この世で一番愛しい人と、その血を受け継ぐ彼の子が、自分と言う世界の中心になる。
まだ母親になるという自覚には程遠かったが、湧き上がる想いに胸が熱くなった。




翌朝になってティニーの懐妊が正式に判明し、その日の内に広く知らされた吉報にシレジアの民は大いに沸く事になる。
歳若い国王夫妻が待望の世継ぎに恵まれたのは、その年の秋の事だった。

                                                                【FIN】


あとがき

えー…ぶっちゃけますと、このお話も『Even if〜』と同じく、以前の企画創作で没ったネタを手直ししてサルベージしたものです(^_^;)
結局聖戦祭で書いたセティニーは、共に企画モノとしては成立しなかった作品を別の形で完結させたと言う事で。
作品の出来が云々ではなく、頂いたお題とマッチングしなくなったのでとりあえず没にしてたんですよ。
しかしこのまま闇に葬るには惜しいネタだったので、実は六割ほど既に仕上がっていたものに加筆して完成させました。
一度は没の憂き目を見たとは信じられないほど『Even if〜』も長い話でしたが、これも結構なモンですね…(笑)

お話の中に登場した白銀の魔女ことシレジアの初代国王妃カティナの設定は、勿論当サイトのオリジナルです。
でもセリスの代でもあっちこっちで従兄弟や兄弟姉妹が最寄の国に輿入れするなんて状況ザラだったんで、こういう設定もアリかなと。
書いたもん勝ちです(笑)イヒ。

あと銀髪の少女イナンナについては、作中でティニーが悟ったとおり、その正体は亡きイシュタルでした。
彼女はティニーの事は本当の妹のように可愛がっていましたし、セティの事も人として尊敬に値すると認識していましたので
(イシュタルとセティは過去に出会っています。トラナナ設定ですが…)どちらの事も気に掛けていたんですね。
ちなみにイナンナというのはシュメール神話に登場する女神の名です。バビロニアのイシュタルと同一の存在だと思われます。
豆知識ついでにイシュタルは、バビロニア神話における金星と愛の女神、同時に戦神でもあります。
魔神アスタロト、ギリシア神話のアフロディーテ、ローマ神話のウェヌス(英語読みはヴィーナス)の原型と言われています。

そしてこの作品をもって、聖戦祭は終了とさせて頂きます。約一年間、お付き合い頂きありがとうございました。
また別のジャンルでお会いしましょう!(^_^)

2007/03/22

                                                                      麻生 司


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