『―――居ない。こんなに遅く、何処へ……』
返事の無い扉の前で、エーディンが小さく吐息をつく。
薄い雲に隠された月は、仄かに雲を彩っていた。
切り取られた外壁から風が吹き込み、柔らかな黄金の髪を胸元から背に流す。
微かに水の気配を含んだその風は、城を臨む湖から吹いてくるのだろうか。
「……まるで、私の心の中みたい」
ぽつりと呟き、埒も無い事を口にしたと首を振る。
主の居ない部屋の前から、エーディンはゆっくりと立ち去った。
Deep pain
風が吹き抜ける城砦の上に、エーディンの探し人はこちらに背を向けて腰を下ろしていた。
「こんな所に居たの。部屋に居なかったので、探してしまったわ」
石床を踏む足音に、ジャムカが振り返る。
彼は普段身につけているバンダナを外し、風に濃い栗色の髪を靡かせていた。
「俺に何か用だったのか?」
「少し、お話がしたかっただけ―――傍に居てもいい?」
「……ああ」
言葉少なに返事が返る。
拒絶されたら引き返すつもりだったが、迷惑だという事でもないらしい。
エーディンは拳三つ分程の距離を置いて、ジャムカの隣に腰を下ろした。
「ここから、城下が一望出来るのね。
私はまだこの国をよく知らないけれど、月明かりを映すあの湖も、緑深い森も……とても綺麗だわ」
「ヴェルダンは森と湖の国だからな。その分城下や城そのものも、グランベルほど洗練されていないだろう」
風情があると言えば聞こえがいいが、要するにヴェルダンはグランベルに比べてずっと田舎で、王都にしても垢抜けていないだけの事だ。
国の外れの村落にまで目が行き届かず、時には山賊達が横行する事もある。
報せを受けて度々討伐には出るのだが、その元締めに民を守る筈の王子である兄たちが名を連ねる事もあったから、
実際にはきりの無いいたちごっこだったと言って良い。
亡くなった父王は兄弟に平等に接し、元来諍いを好まぬ人であったのだが―――
その父が怪しげな魔道士の甘言に踊らされるようになってから、この国も随分変わってしまった。
「―――済まなかったな」
「何故、謝るの?」
感情を押し殺したままの静かな謝罪の言葉に振り返り、エーディンはジャムカの横顔を見遣った。
「愚かな兄の愚かな行為によって、略奪されるようにして君はこの国に連れて来られた。
本来ならば、訪れる事など無かった筈のこのヴェルダンに」
「でも、貴方が助けてくれたわ。
お兄様達の目を恐れて、誰も牢に近付く事さえ出来なかったのに。
貴方だけは、私とデューを逃してくれた」
「……君を助けた訳じゃない。自分を救いたかっただけだ。俺だけは、まだ誇りを喪っていないのだと」
父王はヴェルダンの始祖が他国とは異なり聖戦士の血を引かぬ事を、歳を取るに連れて気にしていた節がある。
もしヴェルダンの王家にも聖十二家の血が流れていたならば、他国から殊更に蔑視される事もなかったであろうにと。
「ヴェルダンの王家は聖戦士の末裔ではない。だが民を守り、国を守るという誇りだけは持っているつもりだった。
兄が君を力ずくで攫ってきた事で、そのささやかな誇りさえも地に堕ちてしまったが」
長兄が国境を接するグランベルのユングヴィ領を侵犯して公女を攫って来たと知った時、
父王は勿論絶句したが、すぐに公女を帰せとも命じなかった。
失礼が無いよう丁重に扱えと兄の使いに耳打ちした父の本意は、或いはヴェルダン王家に聖十二家の血が入る事を望んでいたのではなかろうか。
我が子の嫁に聖十二家の末裔を迎える事で、ヴェルダンも聖なる血脈に連なるのだと。
馬鹿な話だ。
例えエーディンが兄の妻となる事を承諾していたとしても、それでヴェルダン王家が聖十二家の仲間入りをしたと言えるだろうか。
そもそも彼女が拉致と言う不当な手段でこの国の地を踏まされた時から、ヴェルダンは聖十二家の末裔を名乗る資格を永遠に喪ってしまった。
愚かな兄が愚行の報いを受けて斃れ、父王もまた長きの病で息を引き取った今―――もはやこの地に留まり続ける理由は無い。
「―――シグルド公子達がヴェルダンから撤退するのを見届けたら、俺は王位継承権を放棄する」
「そんな……王を喪ったヴェルダンの人達をどうするの?」
エーディンが困惑の表情を浮かべる。
『とっつき難くておっかない』などとデューは言っていたが、ジャムカが人一倍責任感が強く、生真面目な男である事をエーディンももう判っていた。
バトゥ王亡き今、彼が後を継いで国を治めていくものだとばかり思っていたのだが……
「王など居なくとも人は生きてゆける。
国の名が変わり、王都が喪われても、民さえ無事であれば彼等の力でこの国は新しく生き返る。
ヴェルダンと国境を接するのは、君の故郷であるユングヴィ公国と、アグストリア諸侯連合だ。
アグストリアで最もヴェルダンに近い、ノディオンのエルトシャン王は公正な人物と聞いている。民にも無体は強いないだろう。
主を喪った城はいつか森に飲まれ、土に還る。百年後にも、森と湖は美しくこの国を彩っているさ」
民の為にならぬなら、いっそ王など戴かない方が民は幸福だろう。
戦を起こすのも、その戦に民を駆り立てるのも、愚かな王の虚勢や権威欲なのだから。
「でも、貴方はそれでいいの?」
黙って海色の瞳にジャムカを映していたエーディンが小さく呟く。
「生まれ育った国を捨て、お父様が守ろうとした国を捨て、自分が守ろうとした民を捨てるの?」
「……何が言いたい?」
彼女の言葉は棘のようだった。
目を逸らそうとしていた現実を目の前に突きつけ、真っ直ぐ見据える事を静かに強要する。
「それが貴方の選択なら、私には何も言う資格はない。
だけど、ならどうしてそんなに辛そうなの?それで―――本当に、貴方は後悔しない?」
「―――逢って間もない君に、俺の何が判ると言うんだ」
自分でも驚くほど強く、突き放すような言葉が口をついた。
今までは父王の采配の元、辛うじて友好的な外交と主権を保って来た。
だが愚兄によるユングヴィ公女エーディンの拉致で、情勢はヴェルダンにとって限りなく不利な物となった。
グランベルが公女奪還を理由に軍勢を送り込んでくれば、王都は数日と持たず陥落するだろう。
今この城に駐留しているシグルド公子に、そのまま占拠を命じるかもしれなかった。
いずれにしても、その時自分の居場所は此処には無い。
王位継承権の放棄で済めばまだ良い。最悪の場合、唯一生き残った王族として首を差し出す事になる。
「貴方が償いたいと願っているのなら、まだ自分の中にある誇りを喪っていないのなら……どうかヴェルダンの王位を継いで。
直には無理かもしれないけれど―――王となって、少しずつこの国を貴方の理想とする姿に変えていけばいい。
国の行く末を案じ、その為に一度はヴェルダンの敵となる事を選んだ貴方になら……きっと出来るわ」
「俺は父に弓を引いた。国の柱であり、命の親である父を討つ事に手を貸したんだぞ!?
ヴェルダンの名は既に地に堕ちた。この上、反逆者である俺を王に戴くなど―――残された再興の道を潰えさせるだけだ」
自分が首を差し出す事で、何もかも決着が着くのならそれで良い。
―――それでもう、苦しむ事も無いのなら。
生きる事に疲れてしまったかのような彼の横顔を見遣り、エーディンは溜息をつくように囁いた。
「―――貴方のお兄様に捕らわれた時に、私は自らの手で命を絶つべきだった」
「……エーディン?」
彼女の瞳に浮かぶのは、深い憂いと自責の色。
何故その眼差しが悲哀を映すのか判らず、ジャムカは困惑した。
突然領地を侵犯され、顔さえ見た事の無い男の妻となる為に、力づくでヴェルダンへと連れて来られたのに―――
だがエーディンは唯一怒りをぶつける相手である筈のジャムカには恨み言の一つも口にせず、ただ自分自身を責めた。
「私に自分の命を絶つ勇気があれば、シグルド様やキュアン王子に迷惑をお掛けする事も、貴方に罪を犯させる事も無かった。
私達に味方するという事は、お父様と国を裏切るという事―――私は、貴方の優しさを利用した。
貴方が裏切りという罪を背負い、永劫苦しむと判っていたのに……」
彼に戦って欲しくなかった。
ほんの一時しか一緒に居る事はなかったが、その時垣間見た彼の目が忘れられなかった。
どうしてそんなに辛そうなのか、何がそこまで彼を苦しめているのか、その理由を知りたかった。
だからジャムカの説得に自ら名乗り出たのだ。あのまま彼を苦しみの中に彷徨わせたくはなかったから。
ジャムカは説得に応じ、敵ではなくなったけれど―――
「ごめんなさい……私は、ただ貴方を救いたかった。
生きてさえいれば、貴方が瞳に映すその憂いを晴らす事が出来るかもしれないから。
でも私のした事は―――結局、貴方の苦しみを深くしただけだったのね」
今も彼は、苦しみの中にある。
尽きない悲しみと罪の意識の狭間で、自分自身の存在を否定する程に。
「何故君が泣く?」
どうして彼女が涙を流すのか。
まるで花が散るように、海色の瞳から涙が零れ落ちる。
「判らない」
消え入りそうな声で、エーディンは呟いた。
「貴方を見ていると、ただ泣きたくなるの。
例え一人の時でも、決して貴方は涙を見せないから」
白い手が、浅黒く陽に焼けた頬に触れる。
「俺の代わりに……泣いているというのか?」
「貴方は、自分がどれ程苦しんでいるか気付いていない。
その優しさと責任感、そして罪の意識が、どれ程貴方の心を苛んでいるのかも」
胸が痛む。
彼女の言葉が、まるで心臓を鷲掴んでいるかのように。
「今も貴方の中で悲鳴を上げ続けている、溢れるような感情から目を逸らさないで。
悲しければ泣けばいい。声を上げて涙が涸れるまで泣く事が出来れば、流した涙の分だけ人の心は癒される。
楽しければ笑い、憤れば怒り、悲しければ涙する―――そうやって人は辛い事も悲しい事も、乗り越えて生きて行くのだから」
鍛えられた厚い胸に頬が寄せられ、細い腕がジャムカの背を柔らかく抱いた。
「貴方自身が気付いていなくても、本当の貴方はとても優しい事を、私は知っている。
生まれ故郷であるこの国を誰よりも愛し、守りたいと願っていた事を知っている。
国を案じ、お父様に弓を引いた事を悔いているのなら、私も貴方と共にその罪を背負うわ。
だからお願い―――貴方自身の存在まで否定してしまわないで。今もこうして、貴方は此処に居るのだから」
ツッ……と、ジャムカの頬を一筋の涙が流れた。
その一滴に指先で触れ、自分が泣いているのだという事を確かめる。
そして、やっと判った。
胸を締め付ける、この痛みが何なのか。
自分自身と引き換えにしても逃れたかった苦しみが、何を訴えていたのかも。
「……俺は、泣きたかったのか」
押し殺した感情の下で、こんなにも泣きたいと願っていた。
病に侵されていく父。怪しげな魔道士によって蝕まれていく故郷。
弱った父王に取り入った魔道士の脅威を取り除く事も適わず、甘言に踊らされる兄たちを抑える事も出来ず、
国の為と言いながら自らの誇りの最後の寄る辺としてシグルドたちに与し、父の最期を看取る事になった。
その全てを憂い、声を上げ、涙が涸れ果てるまで―――ただ、泣きたいと。
一度溢れ出した感情は滂沱と流れる涙となり、尽きる事無く頬を濡らす。
「どんな闇に覆われようと、私が必ず貴方を照らすわ。
貴方が泣きたい時には、私も一緒に涙を流す。だからもう、一人で苦しまないで」
膝を折り石床に跪き、声を押し殺して泣き咽ぶ彼の背を、エーディンは優しく抱き続けた。
数日後、バーハラはヴェルダンの仮統治をシグルドに一任する旨を伝えて来た。
ジャムカの処遇も同じく彼に一任されたが、シグルドは『何ら必要は無い』と一笑に付したという。
ジャムカは次期国王としての即位こそ宣言しなかったが、唯一生き残った王位継承者という立場のまま、シグルドに同行を申し出た。
自らの信念で国を守る事を決意した孤高の王子の傍らには、常に黄金の髪と海色の瞳の公女の姿があった。
約二十年の後、二人の間に生まれた青年が父の遺志を継ぎ、ヴェルダンへと帰還した。
剛毅さと聡明さを兼ね備えた王子は山賊が闊歩し混沌としていた国内を数年で平定すると、その後正式に即位を宣言した。
彼はシグルド公子の遺児、グランベルの王となったセリスとは幼馴染であり、また彼の妹はセリスの妃となった。
その縁で長くグランベルトも親交を続け、先王バトゥの死より三十年近くの時を経てヴェルダンは再び王を戴き、美しい森と湖を臨む国土を取り戻したという。
【FIN】
あとがき
『出来ればウチで扱っている全カップルのお話が書ければいいなぁ』で、何気なく書き始めたお話。
よって、ジャムカ×エーディンSSは初めてです(^_^;)ジャムカの性格が違うかもー…
短いお話ながら纏まる気がしなくて、多分没るだろうと半ば覚悟していたんですが……(苦笑)
とある台詞に救われて、何とか書き上げる事が出来ました。あの台詞が出て来なかったらきっと本当にお蔵入りだったよ、このSS…(^_^;)
しかしこうやってSSという形にした事で、自分の中にあったジャムカのイメージが少し変わりました。
あまり細かい事を気にするような人ではないと思っていたんですが、実は凄く悩む性質で、しかも感情を自分の中に押し殺してしまう人になった(笑)
責任感が強過ぎて、自らを律する事に厳し過ぎて、悲しい時に素直に泣く事さえ出来なくなっていた。
行き場の無い感情を持て余して苦しんでいる彼を救ったのが、エーディンという存在だったという事で。
公式設定では、実はジャムカはバトゥ王の子ではないんですよね。
彼の実父は、若くして亡くなったバトゥ王の長男。
つまりエーディンを攫った長兄と次兄は、実はジャムカの父の弟=叔父であり、バトゥ王は父ではなく祖父。
王の長男である実父が既に亡い以上、血統的に言えば正しく彼こそがバトゥ王に次ぐ王位継承者となります。
ジャムカの父が亡くなった時点であまりに孫(=ジャムカ)が幼かったので、第一王子の子ではなく、自らの子として養育したのでした。
その辺の事情もお話に盛り込みたかったのですが、蛇足になりそうだったので割愛。残念。
背景に使わせて頂いた画像には『彩雲』というタイトルが付けられていました。錦色の雲は吉兆の証なんだそうですよ(^_^)
麻生 司
2006/07/20