半休で正午過ぎにリザが出勤すると、事務所は中途半端に閑散とした雰囲気に包まれていた。



まずブレダとファルマンが、食事か所用で席を外していた。
フュリーとハボックは、それぞれ書類に目を通したり作成したりで自分の席にいる。
……が、本来事務仕事に一番精を出していなければならない筈の人物の姿が見えなかった。

「……大佐の姿が見えないけれど。まさか、逃げたのかしら?」

表情はあまり変化無いが、リザの声に微かな怒りが含まれる。
ロイの机の上は、昨晩整理しておいた書類が山積になったままだ。
減らす努力の跡は見受けられたが、新たに今朝から追加された分が上乗せされているので、実質量は変わっていない。
普段の素行が悪過ぎて余計な疑いをかけられてしまった上官を救ったのはフュリーだった。


「大佐は今、執務室の方で仮眠を取られてます。
 夜勤明けで午後には上がりの予定だったんですが、実は今朝、抜き打ちで中央から査察が入りまして」

東方司令部の総責任者であるグラマン中将と次席のロイが、その応対に追われていたのだそうだ。
新兵の訓練や書類の閲覧、市内の巡察などに駆り出されていたらしい。
ブレダとファルマンの姿が見えないのも、その査察官の要求に応じて現在進行形で資料庫を漁っているのだそうだ。

「大佐も朝からずっと付き合わされて、中尉が来るちょっと前に、やっとこさこっちに戻って来たんスよ。
 それもわざわざ食事の誘いを蹴って、仮眠を取りに来たとか」

仕上がった書類をロイの机の未決済書類の束の上に積んで、ハボックがニヤリと笑った。









Guardian









『あんな不景気な顔を見ながら食事をしたら、どんなに美味い料理も味がしなくなる。
 私は隣で少し寝るから、一時間経ったら起こしてくれ』


……と言い残し、隣室の執務室に篭もってしまったのだそうだ。
この事務所内にもロイの席はあるが、客人を迎えたり他人との接触を絶って仕事をする時の為に、彼はこの事務所と続き部屋で執務室を持っている。
客人用のソファもあるので、そこで眠っているのだろうか。

ロイは昨日の昼から勤務に入っていたから、なるほど、夜勤も含めてほとんど丸一日眠っていなかったのだろう。
あながち、仮眠という理由も嘘ではなさそうだった。
もしかしたら、ただ嫌いな相手と一緒に食事をしたくなかっただけかもしれないが。


「また視察とか言って逃げたのならあれだけど、査察が入っていたのなら仕方ないわね。
 かくなる上は査察官には穏便に、なおかつ速やかにお帰り頂いて、大佐にはさっさと溜まった事務仕事を片付けて頂かないと」

雑然と積みあがった書類の端を、リザの手がトン、と揃える。

「へえ、仕方ないで済むんスね」

おや、という顔で、ハボックが咥えていた火の点いていない煙草を揺らした。
『朝までに昨夜までの分を片付けておけば、これ程事務仕事は溜まらない』くらい、言うかと思ったのだが。

「ええ。その代わり明日に入っていた休日の予定は返上してもらって、週末締め切りの書類の決済に励んでもらうけど。
 そもそも普段から叩かれても埃の出るような業務をしていなければ、査察なんてあっという間に済む筈よ。資料探しも、練兵もね」


にっこり、とリザが笑う。ちなみに今日は木曜日だ。
週末締め切りまでの書類を決裁しろという事は、少なくとも土曜日までは休まずに出て来いという事である。
仮眠をとった後はまた査察に付き合わされるのだろうから、今日も本来の業務は出来ないと思っていい。

「……大佐が前に一日完全に休んだのって、いつでしたっけね」

時々嘘のように暇そうにしているが、実はロイはとても忙しい身の上だ。
半休しただけで夜勤や徹夜をこなしたり、今回のように査察が入れば付き合わされる事も少なくない。
この二週間近くバタバタとしていて、ようやくまともな休みが取れそうだと喜んでいたのだが……

「十三日前よ。中央の調査部勤務者の中には七十八日間休暇無しって記録もあるから、まだまだ大丈夫ね」
「ご愁傷様ッス、大佐……」

ボソッと呟き、ハボックは薄ら寒そうに肩を竦めた。




「埃が出るで思い出しましたけど、出るらしいスよ。五番街裏通りに」
「出るって何が?幽霊でも出るの?」

自分の席に腰を下ろしたリザは、微かに眉を寄せた。
怪談話を嫌うフュリーは資料庫のブレダ達の様子を見て来ると言って離席しているので、今は自分とハボックしか居ない。


少し前にも倉庫街に幽霊が出ると勘違いで大騒ぎしたばかりだと言うのに、相変わらずこの手の話題には事欠かないようだ。

「殺人の被害者が化けて出るというなら、一度お目に掛かりたいわね。被害者本人から犯人の情報を聞き出せたら一番ですもの。
 それで犯人を逮捕出来たら、きっと浮かばれて成仏出来るわよ」

呆れたようなリザの言葉に、ハボックが火の着いてない咥え煙草のままパタパタと手を振る。

「違いますって。今出るって噂になってるのは、痴漢を装った強盗ですよ」
「……それはなに?女性に猥褻行為を強要するフリをして、金品を脅し取るって事?最悪じゃないの」

はぁ、と今度は頭を押さえて見せた。
痴漢行為だけでも許し難いというのに、その犯人は被害女性が怯んだ隙にハンドバックなどの持ち物を奪うのだと言う。

「まだ幸いなのが、本当に暴行などの被害にあった女性は居ないって事っスね。
 いきなり尻とか触られて驚いた隙に、ハンドバックやアクセサリを盗られたって人は十数人居るらしいんですけど、被害は金品だけのようで」
「確かに不幸中の幸いだけど……それだけ被害が出てるのに、憲兵は何も掴んでないの?」



憲兵とは、所謂警察の役割をする部署の事である。
リザやロイのような青服組と憲兵等の所属する黒服組は一応組織系統としては別物なのだが、一般市民から見ればどちらも同じようなものだ。
実際、地方司令部になるとそれ程明確に所轄が分かれている訳でもない。
青服組が黒服の応援を借りる事もあるし、その逆もある。従って、互いの情報もある程度行き来する。
その結果として今回の連続強盗事件の話も憲兵の方から情報が回ってきたが、犯人確保に至る情報などはお互い掴んでいなかった。


「昨日の夜被害に遭ったのが憲兵部に居る奴の知り合いだったみたいで、割と詳しく事情が聞けたらしいんスけど。
 どうも犯人が、『女装の男』だったみたいで」
「………は?」
「つまり、後ろを歩いていたのが女性だと安心してたら実は男で、いきなり襲われた…という事らしいッス。
 今までも同じ手口だったらしいスけど、化粧や服装、髪型まで結構変えてるみたいで、現行犯で押さえる以外、犯人を絞るのは難しいって事ッスね」


被害者は女性。
襲ったのも女性……と思ったら、それは女装の男で。

確かに夜の暗闇で女装をされたら、体型次第で遠目には相当見抜き難くなるだろう。
悪知恵の働く奴なのか、単に女装が趣味なのかは定かではないが、単純に犯人像を定められないのは追う側としては厳しい。
似顔絵を手配するにしても、夜毎に化粧や髪型を変えられたら、人相などガラリと変わってしまう。


「昨日その強盗犯が襲った相手ってのが、たまたまコッチ系だったらしくて」


と言いながら、ハボックが反らせた右手の甲を左頬に当ててみせる。要するにオカマだ。
見掛けに反して腕力があると言いたいのだろうか。


「仕事帰りにハンドバックを引っ手繰られそうになったものの、引き合いの挙句に思わず犯人の髪を引っ掴んだらカツラが取れて、
 それで犯人が女装の男だって判ったらしいッスよ」
「強盗犯も被害者も女装の男って……この街には、そんなお店が結構あるの?」


ハボックに話をした憲兵とその被害者がどんな知り合いなのか微妙に気にはなったが、深く追求しない方がいいのだろう。
自分はあまり盛り場に飲みに行く機会が無いのでその辺の事情には明るくないが、
被害者が強盗犯の顔をはっきり見たと言うなら、もしかしたらそういった店を洗えば情報が拾えるかもしれない。
幾らなんでも、女装の男性が数え切れないほど街を闊歩しているという事はないだろう……多分。


「と言うわけで、まだその強盗犯の特定はおろか、ロクに情報すら集まってませんから。
 中尉も帰りとか遅くなる事多いんですから、気を付けてくださいね」
「あら、心配してくれるの?」

リザが書類から顔をあげ、ちらとハボックを見遣る。
『そりゃあ、まあ』とボソボソとハボックが呟いた。

「強盗犯がうろついているという情報を知りながら放置し、更に中尉が被害に遭った日にゃ、俺は大佐に丸焼きにされますからね」

そう言ってハボックが肩を震わせる。
本人、至って平等に部下を扱っているつもりなのかもしれないが、ハボック等男共とリザの扱いは明らかに天地の差程違う。
仕事上ではなく、こういった微妙な男心が絡む部分だけの事に限られるのが、厄介と言えば厄介だ。

だからハボックはロイとリザが同じ日に夜勤になっていると極力残業せずに帰るし、最悪何か理由を作ってわざわざ別室に移動する事もある。
まだ若くて将来有望な内に、わざわざ好んで馬に蹴られたくは無い。
そんな焔の大佐の男心を、肝心のリザがあまり意識していないのが涙を誘うのだが。

だがリザは『でも』と呟き、シャレにならない事を口にした。

「本当に私の前に現れてくれたら、それこそ好都合なのに。
 わざわざ囮になる気は無いけど、自分から姿を見せたらその場で取り押さえて、即刻憲兵に突き出してやるわ。
 被害者女性全てに、地面に頭をめり込まながら『どうもすみませんでした』と謝りたくなるくらい、きつーーいお仕置きをした後でね」

フフ…と薄く笑ったリザの表情からは、本気なのか冗談なのか読み難い。
だが間違いないのは、彼女を襲った時がその強盗の年貢の納め時だと言う事だ。
願わくば自分の勤務時間外に事が済みますようにと、ハボックはただ祈るしかない。
リザが危険を冒すと知っていて止めなかったとしたら、やはり自分は丸焼けだからだ。


「あら、もうこんな時間?そろそろ大佐を起こさないと、査察官に何を言われるか判ったもんじゃないわ」

リザが内心冷や汗をかいていたハボックの頭上に視線をやる。壁に掛けられた時計は、一時過ぎを指していた。
席を立つと、ロイが仮眠している執務室のドアをノックする。

「大佐、時間です。起きて下さい」

ドアの向こうで、ゴソゴソと人が身動きする気配がした。革張りのソファに横になっていた身体を起こしたのだろう。

「ふあ……一時間など、あっという間だな。あまり寝た気がせん」

ややあって、執務室から少々寝惚けた顔で欠伸をしながらロイが現れた。

「それはそうでしょうけど、ちゃんと顔を洗ってシャッキリしてから司令官室に行ってください。
 査察官に余計な粗を見せたら、三日で終わる査察でも一週間居座られますよ」
「……寝起きに、気分の悪くなるような事を言わないでくれないか」

本気で嫌そうな顔をしたロイの髪にリザが手を伸ばし、ついてしまった寝癖を軽く直す。

「でも上手くやれば、三日掛かる査察が二日で終わるかもしれません」
「…ふむ、なるほど」




……などという遣り取りを背中で聞きながら、ハボックはそうっと席を立つとオフィスを出た。

「全く、何処の新婚夫婦だよ。惚気るんなら、他所でやってくれよな」

背中でドアを閉め、手に持ったファイルでパタパタと顔を扇ぎながらぼやく。
別にリザの死角でロイに追い払われた訳では無いのだが、親愛なる上官の為に、自主的に席を外して差し上げたのだ。
ツーといえばカーの会話が成り立つあの二人が、未だに『上官と部下』以上でも以下でもないのが不思議で仕方が無い。

『そんな事は当人同士にしか判らないじゃないか』と言われそうだが、この件に関してだけは、ハボックは妙な確信があった。
あの二人は確かに親密だし、誰よりも互いを信頼しているのだろうが、それ以上の関係ではない。
微妙な力関係ではあるのだが、『何も無い』関係だからこその、気が置けない仲とでも言うのだろうか。
男とか女だとかいう、煩わしさを超えた信頼があの二人の間には存在する。
口では説明しにくいが、要するにハボックの男の勘だ。
……それを言うなら、上官の為にそっと席を外す自分だって、十分ツーカーだと思うのだが。



ジャン・ハボック、二十代もあと少し。でも焔の大佐よりはちょっと歳下。
彼女居ない暦、今日で六十四日目―――前の彼女には軍人との付き合いを親に反対された、という理由で振られた。本当かどうかは追求していない。
一応焔の大佐の信望も厚く、それなりに荒事も銃の腕も立つ。気だって、それなりに遣う方だ。お買い得物件である筈なのだが。

「あーあ。俺も可愛い恋人欲しいなぁ……」

いや、贅沢は言わない。それなりにボンッ、キュッ!…であれば、器量は人並みで十分だ。
そんな事をふと考えてしまう事自体が、負け犬の証だと気付いて再び凹む。

上背が有るが故に、丸く屈められた背中が一層煤けて見える彼の春は、まだ遥かに遠そうだった。







『そろそろ切り上げようかしら』

翌日、一人事務所に残って書類整理をしていたリザが壁の時計を見遣る。あと一時間ほどで日付が変わろうかという時間だ。

昨日の昼から勤務で、本当は今日の定時で上がる筈だった。
…が、査察官が来ていた事で色々と段取りが狂い、結局こんな時間まで残業となってしまった。
途中仮眠を取りながらではあるが、丸一日以上司令部に詰めていた事になる。
万が一の事を考えて愛犬の食事の用意は一日分余計に準備してあるが、寂しい思いはしているだろう。


グラマン中将とロイの適切な対応、並びに司令部全体が一致団結して査察官をさっさと追い返すべく全力を挙げてロイ達のサポートに回ったお陰で、

なんと査察はリザが例え話にした通りの二日間で終了した。
何故か手際よく切符を手配していたブレダの機転と、法定速度の範囲で可能な限りアクセルを踏んだハボックの運転技術のお陰で、
無事査察官を中央行き最終の汽車に放り込……もとい、乗せる事も出来た。今頃査察官は気だるい振動に揺られている頃だ。

ロイの事務仕事の進行状況は予想通り捗々しくなかったのだが、数日に及ぶ泊り込みと、査察官に付き合わされた精神的苦痛を鑑みて、
今夜は査察官を送り出した直後に帰宅してもらった。
明日はゆっくり休んでください…とは言えないのが、副官のリザとしても辛いところである。
せめて自分が片付けられる仕事は片付けて、明朝から要領良くロイが事務仕事を進められるように段取りをしていたら、こんな時間になったのであった。

事務所内に大した金目のものなど無いが、流出させる訳にはいかない書類などは数多い。
窓などの施錠を確認した後、リザはようやく事務所を後にした。






コツ、コツと軍靴の足音が路上に響く。
ヒールのある靴とは違ってそんなに踵が鳴るような仕様ではない筈なのだが、既に深夜ということもあり、やたらと靴音が耳についた。

着替えて通勤する内勤の女性も多いが、リザは大概軍服のまま自宅と司令部を往復している。
動き易いし、何より銃を携帯しておくのに便利なのだ。私服だと護身用の銃を隠し持つだけでも色々と工夫が要る。
一応司令部にロッカーはあるのだが、もっぱら簡単な化粧道具や財布が入った程度のショルダーバックが入っているくらいだ。

『……?』

その気配に気付いたのは、司令部を出てすぐだった。
時折すれ違うのは、程よく酒が入って千鳥足になった中年の男性や、客引きの女性ばかり。
いつも通りの光景なので気にもせず歩いていたのだが……不意に、背中に視線を感じた。


間近と言うわけではない。だが、遠いというほど離れても居ない。
一定の距離を置きながら、しかし確実に誰かが後を尾行(つ)けている。


『強盗犯の特定はおろか、ロクに情報すら集まってませんから。中尉も帰りとか遅くなる事多いんですから、気を付けてくださいね』


昨日ハボックから聞いた話が脳裏を過ぎる。


―――自分から姿を見せたらその場で取り押さえて、即刻憲兵に突き出してやるとは言ったけど。まさか本当に噂の強盗なのかしら?


歩調を変えぬまま、リザは背中のホルスターに手を伸ばした。
銃把の手応えを確かめながら目の前の角を曲がると、壁に背をつけて待つ。
ゆっくりとそのまま五つ数えると、リザの姿を見失って慌てたような足音が近付いて来た。
そして―――


「動くな!」
「うわっ……」

ホルスターから抜いた拳銃を、足音の主に突き付ける。
ギョッとしながらも反射的に両手を挙げたのは……

「待った!私だ、中尉!!

「大佐?こんな所で、何をしてらっしゃるんですか!?」

両手を挙げて直立不動状態になっているのは、私服姿に冷や汗を浮かべたロイだった。
慌ててリザが銃口を下ろし、元通りホルスターに仕舞う。

「申し訳ありませんでした。物騒な強盗の話を聞いていたものですがら、つい」
「いや、声を掛けずに黙って後を尾行けていた私も悪かった」


司令部から帰宅した後、シャワーを浴びて少し眠ったのだが、中途半端な時間に空腹で目が覚めてしまったらしい。
まだ馴染みの店がやっている時間だったので、軽く食事をしに出て来たのだそうだ。
店から出たら、丁度少し前をリザが歩いていたのだという。


「私もハボックから例の強盗の話は聞いていたしな。
 まだ捕まっていない事だし……深夜の女性の一人歩きは危険だろう」

まるで娘に注意するような顰め面を浮かべ、照れ臭そうに咳払いをする。
こっそり後を尾行けて、無事にリザが帰宅したのを確かめたら自分も戻るつもりだったのに、肝心の被保護対象の勘が良すぎて気付かれてしまったのだ。
尾行を見抜かれたのでは格好のつけようがない。

「……心配してくださったんですか?」
「まあ……平たく言うとそういう事だ」


本当は、リザに護衛など必要ないのかもしれない。
現に彼女はロイの尾行をあっさり看破し、一瞬でその鼻先に銃を突きつけて見せた。
実際に強盗に出くわしたとしても
、多分あっと言う間に返り討ちにしてしまうのだろう。
内心ロイもそう思っていたし、リザ自身も同じ考えだった。

だけどロイは、自分の事を軍人としてでは無く、一人の女性として心配してくれた。
その心遣いがほんの少し嬉しくて……面映い。

「―――では、ここまで来たついでに部屋まで送って頂いてもいいですか?お礼にお茶でも」
「いいのかね?」


……ロイの頭の上に、愛犬によく似た三角の耳がピンと立ったような気がする。
暗くてよく見えないが、ブンブンと尻尾も振っているに違いない。

あからさまに嬉しそうな表情を浮かべてしまったロイに、リザはくるりと背を向けた。


「……と思いましたが、やっぱり遠慮しておきます。
 明日も朝一から書類の決裁に励んでもらわなくてはいけないので、さっさと帰って寝てください」
「ああっ、何故急にそんなつれない事を
!?」
「顔に『しめしめ』と書いてあるような人に送って貰うほど、自分は迂闊じゃありませんので」
「失敬な。人を盛り付いたケダモノのように言わないでくれたまえ」


とまあ、そんなこんなで犬も喰わない何とかに似た遣り取りをしつつ、部屋の前までロイは彼女を送る事になった。

鼻先で一度はピシャリとドアを閉めたものの、それこそ捨てられた子犬のような顔でしょんぼりと肩を落とした姿を見かね、
結局リザはロイを部屋に入れてコーヒーを振舞う事になる。



ロイとリザが擬似夫婦喧嘩――ハボック談――を繰り広げていた頃、イーストシティの別のうらぶれた一角で、一人の強盗が現行犯で捕縛された。
捕まったのは三十過ぎの男だったのだが、噂通り女性と見紛う衣服とカツラを身につけており、メイクもなかなかの腕前だったらしい。
彼は捕まった時、『続けて男を狙っちまうとは俺もヤキが回ったもんだ』とボヤいた。

強盗犯が襲ったのは、老婦人(仮)だった。何故(仮)かと言えば、犯人がボヤいた通りそれが老婦人ではなく、女性を装った老紳士だったからである。
その老紳士は背後から近付いた男の気配を敏感に察すると、あっと言う間に身を翻して、強盗犯を取り押さえてしまった。
自分を組み敷いたその老婦人を男は苦し紛れに見上げたのだが、夜目にも鮮やかな濃い化粧を施したその老女は、
駆けつけた憲兵に『じゃ、ワシは帰るから。あとヨロシク』と飄々と口にしたという。






数日後。
ようやくもぎ取った完全休暇で不在の上官の代わりに、ハボックが司令官室に決済書類を持って行った時の事。

司令官室に入った時、グラマンは何か書状のような物を見ていたのだが、鼻歌交じりで何やら随分楽しそうな様子だった。

「何か、良い事でもあったんスか?」
「うん?何で?」
「随分と機嫌がよろしい様なので」

正確に言えば、この老将軍が不機嫌にしている事はあまり無い。
敢えて言うなら楽しみにしていた昼食が、急遽入った査察や会議などで品切れしていた時くらいだろうか。
要するにそういう、軍人としてはどうでもいいような事でしか機嫌が下降しない人なのだ。
だがそれにしても、今日はいつもにも増して機嫌上々なのである。

グラマンは手元に丸めていた書状を拡げると、それをハボックの前でヒラヒラさせた。

「これは……感謝状?」
「うん、まあねぇ。たまたま散歩中に強盗と出くわしたから、ついでに捕まえた」

若い女性なら語尾に『エヘッ』とでも付いてきそうな軽い口調で、さらりと結構凄い事を口にする。

「ご、強盗っスか…?」
「君くらいの歳の若い男だったけど。何だか女の人みたいな格好してたよ」


もしかしなくてもそれは、巷で噂になっていた痴漢を装った女装強盗ではなかろうか。
実被害が出る前に捕まったのは良かったが……それをグラマンが現行犯で捕まえたという。


……あの強盗は、確か女性しか狙わないのではなかったか?


「嫁入り前の孫に、万が一の事があったら困るからねぇ」
「は、はぁ……」



生活に困窮して、遂に男女見境無く襲うようになっていたのだろうか。
フォッフォッフォと呑気に笑う老将軍の丸眼鏡の奥の目が、
孫娘の事を口にしたその瞬間だけぎらりと光った事に、ハボックは気付く事は無かった……

                                                                【FIN】


あとがき

これは実は、随分前に八割方書き上がった状態のまま、PC内で眠ってた原稿でした(笑)
ロイの尾行に気付いて、リザが銃を突きつける所まで書けてたんですよ?
何故に仕上げないまま放置されていたのかがよく判らない(^_^;)
この原稿をやってる最中に、それどころじゃないネタが振って来たか、何かが起こったかしかないんですが…何だったんだか、もう。

古い原稿だったが故に、まだハボックも現役で(つдT)マスタング組も仲良く一緒(号泣)
ラスト付近でグラマン中将が出張ってますが、女装して強盗を取り押さえたって辺りが、最近の原作の同行を反映してます。
勿論、嫁入り前の孫娘とはリザの事です。ニヤリ。
女装強盗の一件を知ったグラマン中将は、孫娘の身の安全の為に、勤務外に女装して自ら囮になっていたんでした。

                                                                      麻生 司


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