私を通して、貴方が別の誰かを見ている事には気付いていた。


私は貴方の想い人を映す鏡。


例え身代わりだとしても、この姿と声が慰めになると言うのなら、それでも良かったの。


貴方の為に生きられるのなら、私はそれだけで―――







水 鏡 恋 慕   壱








「倒した……荼吉尼天を……本当に?」

かくん、と望美の膝から力が抜ける。

異国から流れて京に辿り着き、そして時空を越えてこの世界にまで魔手を伸ばそうとした神を。
自分と、自分を支えてくれた仲間達が―――打ち滅ぼした。

「ああそうだよ、俺達が倒したんだ。お前も……よくやったな」
「将臣君……」

その場にへたり込んでしまった望美に将臣が手を貸す。



あの激流の中で別れてしまった時には想像もしていなかった。
子供の頃からいつも一緒だった望美が、白龍の神子だったなんて。

自分が還内府であるという事実を知った上で、源氏との和議を受け容れるよう清盛への説得を敦盛共々託された時には面食らったが、
それもこれも皆『龍神に見い出された神子の慧眼』と思えば納得も行く。
もしかしたら違う理由なのかもしれないが、今更詳しい事情を事細かに知ろうとも思わない。
一応形としての和議は成った―――筈であるし、こうして自分の生まれ育った世界を侵食しようとした荼吉尼天も滅ぼす事が出来た。
自分も含めて仲間も皆無事。これ以上、他に何を望むというのか。



「……しかし何だな、勢いっつーかドサクサ紛れっつーか。案外あっさり戻って来たな、俺達」

ポツリと呟かれた声に、望美と譲が顔を見合わせる。

そう―――此処は、望美たちが生まれ育った元の世界なのだ。
怨霊や魑魅魍魎は昔話や怪談の中の存在であって、
京の危機が訪れる度に出現したと言われる白龍の神子の伝説も、
星の一族も本来ならば存在しない世界である。
もっとも星の一族に関しては菫姫の子や孫である当代の有川一家が居るから、存在しているという事になるのかもしれないが。

「はは……あの京にも結構馴染んでたし、離れる時にはもっとこう、感慨深いものがあるかと思ってましたよ」
「そうだね。白龍の力がある程度戻っていたからとは言え、こんなにあっさり戻って来れるとは思わなかった」

唯一の救いは本来別れを惜しんだり、ゆっくりと最後の挨拶をするべき仲間達が、今この場に揃っていると言う事だろうか。
……それはそれで、なかなかに難しい問題をいきなり抱え込んでしまったような気もするが。

「……やっぱり、普通の人に見付かると厄介よねぇ?」
「そうですね……朔や敦盛さん辺りは誤魔化せそうですけど、刀を持ってる九郎さんやリズ先生、銃を持ってる景時さんはすぐに身を隠さないと」
「だよな。刀や銃もだけど、この成りだけで俺達十分不審人物だぜ。
 知ってるか?バイト先で使ったカッターナイフを、うっかりポケットに入れたままにして歩いてるだけでも銃刀法違反って成立するんだぞ」
「えーっ、そうなの!?カッターナイフで銃刀法違反なら、私達ほとんどその場で現行犯逮捕じゃない!」
「正確にはカッターナイフを武器として携帯していないなら、引っ掛かるのは銃刀法じゃなくて軽犯罪法の方ですけどね。
 職務質問受けたら、取り敢えず劇団のメンバーって事にしときましょう。途中で車が故障して、歩いて移動中って事で」
「それも無茶な設定だけど、他に誤魔化しようがないな。せめて知ってる人間に出会わない事を祈ろうぜ」

望美、将臣、譲の三人が頭をつき合わせて、ひそひそと今後の対策を練る。


何せ本物の武器を携帯している上に、着物に鎧である。
警察官ならまず間違いなく呼び止めるだろうし、下手に子供などに見付かっても騒ぎが大きくなってしまうだろう。
大人は見慣れないものは見なかった事にしてしまうが、子供は疑問に思えば言葉にし、尋ね、友達に触れて回る。
一刻も早く着替えて身を隠せる場所に移動する必要があった。


「……仕方ねぇな。説明すんのが厄介だが、取り敢えずはウチに連れてくしかないだろう」

将臣の提案に、譲も頷いた。

有川家は数代前から神社の神職を務めている。当代の神主は将臣と譲の父親だ。
古いなりに客人が集まる機会が多かった為か家は広く、間仕切りの襖を退かせば十人前後が泊まれる客間も確保出来る。
確かに、有川家しかこの人数を当座匿える場はない。

「あ……でも、流石に男ばかりのところに朔は一緒に置いとけないよね。お兄さんの景時さんだけならともかく」
「それもそうだな。望美、朔だけお前ん所で世話してやれねぇか?」
「うん、お母さん達に話してみるよ。とりあえず、誰かに見られて騒ぎになる前にここから移動しよう」








「よくもまあ、誰にも見咎められずに家に戻って来れたもんだわ」
「全くですねぇ」

安心してホッと安堵の溜息を漏らした望美の前に湯飲みを置きながら、譲も苦笑いを浮かべた。


臨時作戦会議を終えた三人は、残りの八人を率いてゾロゾロと街中を移動する事になった。
見知った知人友人に出くわさなかったのは、日頃の行いの賜物だったのか。
まだ学校に居る筈の時間に、大勢の客人を連れて戻った息子たちを見て、当然有川夫妻は目を丸くした。
信じてもらえなくても、事情を説明するにはありのままを話すしかない。
『言いたい事や聞きたい事は後でまとめて聞くから』と先に言い置いて、将臣、譲、望美は互いの言葉を補完しながら一気に事情を話した。


結論から言えば、有川夫妻は望美達の言い分を信じてくれた。
当然驚かれはしたが、スミレの事にまで話が及ぶと、両親の表情が一変したのだ。正に一瞬で、半信半疑から真剣な眼差しに。
恐らくはスミレが生前に、息子と嫁に何らかの情報を残していたのだろう。
自分の死の約十年後に、孫たちと隣家の娘が遭遇するであろう運命や、自分がこの世界にやって来て子を成した意味を。
何より将臣の姿が朝送り出した時と随分違ってしまっていて、その現実を目の当たりにしたら信じざるを得なかったのだ。

『詳しい話は追々聞く』と言って将臣達の父親は席を立つと、学校に電話連絡を入れた。
身内に不幸があったので急遽息子二人を呼び戻した事、望美にも縁のある人物だった為、彼女も早退させた事……などである。
学校を通さずにいきなり子供達を帰宅させた事で訝しがられたが、
彼等の普段の素行―――譲が五割で、残りの五割が将臣と望美で半々だ―――を考慮し、更に事後報告ではあるが親から連絡があったと言う事で片付いたようだ。
幸い明日は土曜日なので、二日半は自由に使える事になる。


「朔を先輩の家で面倒みるという話は?」
「うん、一応有川のおばさんの遠縁って事にしといて貰ったけどね。こっちが男の人ばっかりになってるから、女の子の朔だけウチでお願い出来ませんかって。
 有川のおばさんが一緒に来て話合わせてくれたから、即OKだったよ」

こういう時に、あまり深く考えない自分の両親の性格がありがたかった。
望美の両親も結婚後に引っ越して来てすぐの頃にスミレに色々と面倒を見てもらったし、歳の近い有川夫妻と家族ぐるみで親しくしてきたのも幸いした。
更に望美と朔が既に知己で仲が良いと判ると、『そういうことなら』とあっさり許可が出た。

ちなみに本日の早退について、望美の親には学校側とほぼ同じ説明をしてある。
表向き有川の遠縁の葬儀の手伝いをする事になっているので、望美も着替えてから有川家にやって来たのだ。
望美の母も手伝いに来ようとしたのだが、有川夫妻とは違って説明が厄介なので丁重に断った。
今回亡くなったのはスミレの縁戚で、自分は昔遊んでもらった人だが母は知らない人だから、などと適当に理由をつけて。
苦しい説明だったが母は納得したようで、『ご迷惑になりそうならすぐに戻ってくるのよ』と言われただけだった。

「そうですか。では、当面の問題は解決ですね」
「そうだね。なんかもういっぺんに色んな事があり過ぎて、悩むのが面倒になって来たよ
 とりあえず皆の寝場所は確保出来たし、これからの事はまた改めて考えましょ。幸い明日から土日だし」

そう口にすると、望美は手にした湯飲みを置いて首を傾げた。

「先輩?どうかしましたか」

茶に何か入っていたのかと不審そうな顔をした譲に、頭を振る。

「……何か変な感じだな、って思って。私達は一年近く、将臣君なんて三年以上もあの世界に居たのに、こっちに戻って来たら一日も経ってないなんてね」
「それは、まあ……でも、本当に一年や三年も時間が経過していたら、もっと大変でしたよ。
 俺と兄さんと先輩がいっぺんに失踪したら、事情を知らない人間に何を言われていたか」


もしかして
自分の両親であれば、何らかの事情を察してくれたかもしれない。
だが、望美の両親は間違いなく娘の失踪を嘆き悲しんだだろう。
一緒に姿を消した隣家の兄弟の事を訝しみ、仲が険悪になっていたかもしれなかった。
この時代、この時間に自分達が戻って来れたのは、ひとえに荼吉尼天が『この時間』を選んだからである。
あの異国の神がもしも五十年先の未来を選んでいたとしたら……考えるだにゾッとする。
白龍の力が完全ではない今、
他の時代に移動するという事も出来ないのだから。


「あははは……三人連れ立ってまとめて家出とかね」
「笑い話じゃないですよ、まったく……」

無邪気な望美の笑い声に、ガックリと譲が肩を落とす。それを言うなら、まだ可能性があるのは駆け落ちだろう。
幼馴染とは言え、十代後半の男女が一緒に姿を消す理由としては、家出より駆け落ちの方が自然のような気がする。
しかしその場合、確実に兄か自分が邪魔者になるのだが。

……考えると辛くなってくるので、それ以上は深く考えない事にした。


「あれ、そう言えば皆はどうしたの?姿が見えないけど」

きょろきょろと望美が辺りを見回す。
有川家に来た時も出迎えてくれたのは譲だけで、九郎やリズヴァーン達はおろか将臣の姿も見えない。
何となくそう遠くない所に人の気配はするのだが。

「九郎さん達なら、兄さんの案内であちこち見て回ってますよ。今は蔵の方かな」
「朔も私より先にこっちに来た筈なんだけど、一緒に居た?」
「ええ。色んなものが珍しいみたいで、暇そうにしてた兄さんに色々尋ねてました。
 ああいうところは、なんだかんだ言ってもやっぱり景時さんの妹ですね」


好奇心が旺盛だということだろうか。
確かに、京には存在しないものがこの世界には数多く在る。
これから仲間達がどのくらいこの世界で過ごす事になるのか判らないが、知識は無いよりあった方がいいだろう。

何気なく表を見遣ると、譲の言った通り蔵から九郎達が出て来る所だった。
骨董品の価値が判らない自分にはガラクタと紙一重でも、有川家の蔵にはかつて奉納された神剣の類いや、美術品もかなり在る。
隅から隅まで見ていたら、しばらく飽きる事はなさそうだ。


「ああ、一通り見終わったみたいですね。それじゃ、皆の分もお茶の用意をしようかな」

譲が縁側に出て蔵の方に手を振り、兄に『皆と一緒に戻って来い』と合図する。
将臣が気付いて手を振りした、その傍らに―――


楽しそうな微笑を浮かべ、寄り添うように朔が居た。
其処に在る事を全く意識させないほど自然に。


「先輩のお茶も淹れ直して来ますね」
「あ……うん、ありがと」


朔は仲間だ。
将臣の事も、一緒に行動した時間こそ他の仲間よりも短かったが、知らない仲じゃない。
蔵で物珍しい物を見て彼女が上機嫌になっている所で、たまたま将臣の傍に居たのを目にしただけだ。
それだけなのに―――

胸が痛い。

ちくりと棘が刺さったような微かな痛みは、結局有川家を出るまで消える事は無かった。




「朔は今は短くしてるけど、元々艶のある黒髪だし。伸ばしたらシャンプーや整髪剤のCMだって出来るよ」

その夜、望美は朔と一緒に風呂を使った。

とりあえず何をどう使うかだけでも教えておかないと、これから先どうしようもない。
先に教えておくという手もあるが、どうせ女同士なのだし、実際に一緒に入ってしまった方が手っ取り早い。
蛇口を捻ると水やお湯が出る事や、シャワーなどの使い方を教えつつ、賑やかな入浴となった。

「しゃんぷー?」
「ああ…ええと、髪を洗う時に付けるコレの事ね」

言葉の意味が判らなくて朔が首を傾げる。
望美は、壁際に並べて置かれたボトルの一つをツンと指差した。

「こうやって少し手にとって……こんな風に泡立てて使うのよ。指の腹で、頭皮を揉むようにしてね。
 で、泡をすすいだ後に、今度はこっちのコンディショナーを髪に馴染ませていくの。
 コンディショナーは使わなくても何とかなるけど、やっぱり髪が綺麗になるから、使った方がいいね」
「『しゃんぷー』と『こんでぃしょなー』ね…ふう、名前を覚えるだけで一苦労だわ」
「名前なんて、後からゆっくり覚えればいいよ。とりあえず使い方だけ判ってれば困る事はないから。
 でも見た目似たような外見の物が多いから、それだけは注意しないといけないけど」

シャンプーのつもりでコンディショナーを使ったり、コンディショナーのつもりでボディソープを使っていたら、折角綺麗な髪があっという間に傷んでしまう。
同じ女として、勿体無いと素直に思うのだ。

「朔は肌も白くて綺麗だね。肌理(きめ)も整っててスベスベじゃない。お化粧したらノリ良さそう〜」

朔に背を流して貰いながら、先程流した彼女の後姿を思い浮かべた。
夏でもあまり焼けない白さと、肌理の整った肌。
真冬だと言うのに、かさついて陽に焼けた自分の髪や肌とは大違いだ。
折角戻って来れたのだし、せめて肌の手入れだけでも気合を入れなくてはと内心思う。

「私は僧籍だから、あまりお化粧はしないのよ。でも望美だって綺麗な肌じゃない」
「ええ、朔に比べたら全然だよ!剣を使うから腕は太くなっちゃったし、陽に焼け易いからすぐ黒くなっちゃうし」


譲は『健康的』と言ってくれるが、やはり男性は少々か弱げに見える女性を好むのではないだろうか。
不特定多数の男性に良く見られたいと思う訳ではないが……やはり、そこは微妙な女心である。

『あんまし鍛え過ぎたら嫁の貰い手が無くなるぜ』と、毒を吐く幼馴染の声が聞こえてきそうだ。
全く、誰の為に剣の腕を磨かなくてはいけなかったと思っているのか。

『還内府』が昼行灯だったなら、もう少し楽が出来た筈なのである。
平家内部に留まらず、敵である源氏からも質実剛健の呼び声も高く、彼が出た戦場では雑兵に至るまですこぶる士気が上がった。
勝てた筈の戦に負ける羽目になり、九郎や弁慶が幾度ぼやいた事か。
散々源氏を苦しめた『あの』還内府の正体が将臣だと知った時の九郎達の表情を、自分は一生忘れないだろうと思う。


「でもこれからは剣を使う事もないでしょう?大丈夫、少しずつ元に戻っていくわよ」
「だといいけど。ありがと、朔。気休めでも嬉しいわ」

こっそり溜息をついた望美の死角で、朔が笑った。
まるで真冬に窓をそっと開けた時のような薄く冷たい笑みが、唇に刻まれる。

「あら、本当の事よ。首筋もほっそりしてるし……簡単に折れてしまい
そう」
「え……?」


ツ…と首筋に触れた朔の指の感触と、何気なく口にされた言葉に違和感を感じて望美が振り返る。
だが朔は、きょとんと不思議そうな顔でこちらを見ているだけだった。


「どうしたの?ちゃんと前を向いていてくれないと、背中が流し辛いわ」
「……う、うん、何でもない」


勘違いだったのだろうと、無理矢理納得する。
朔が自分の首を折ろうとしたと思ったなんて、口に出来る筈もなかった。






「結構纏まった額になったな。付き合いの長い骨董屋だから、多少は色をつけてくれたんだろうけどさ」
「でも私、自分でこんな大金持った事無いよ。骨董品って値段があって無いようなもんだし」

翌日、将臣と望美は有川家が昔から懇意にしている骨董屋に出向いた。


将臣と譲の身に付けていた着物、それに弓と剣を、『蔵を整理していたら出て来た』という事にして買い取って貰う為である。
生活するには衣食住が最低限必要になる訳で、食と住は有川家で何とかするにしても――それにしたって大した出費なのだが――問題は衣だった。
将臣と譲の洋服を貸すと言っても、サイズ的にどうしても無理がある者も居る。
さてどうしたものかと一晩協議した結果、今後必要では無くなった物を換金するという直接的な手段を取る事にしたのだ。

望美も自分の身に付けていた着物と剣を提供しようとしたのだが、
これからどれだけ追加資金が必要になるか判らないし、一度に大量に持ち込んでも買い取って貰えるかどうか判らない。
今後新たに資金が必要になったら改めて提供してもらう事にして、今回は見送る事になった。
ちなみに望美と有川兄弟以外の持ち物は、基本的に手元に残す事になっている。
元の世界に帰る時には必要になるだろう、との配慮だった。


「さしあたって幾らか着回し出来るだけの資金が出ればいいと思ってたが、当面コレで何とかなるだろ」

持ち込んだ着物、特に羽織には正絹が使用されていた為、
傷んでいる事実を差し引いても織や染の美しさから骨董価値が付き、それだけで数万円になった。
武器についても、特に将臣の大剣が骨董屋の主人の好みに合ったのか、驚くほどの高額で引き取って貰えたのである。

「それでも大人八人分だもんね。贅沢は出来ないけど。
 えーっと……着替えの服と、下着でしょ?パジャマとかもいるよね。朔の分は私が貸せるけど、やっぱり下着は要るし」
「下着はともかく、普段着は好みで文句言いそうな奴等ばっかだな。
 俺か譲の服を着せた上で一度街に連れ出して、自分で選ばせた方がいいかもしれねぇな」
「あはは、それもそうか。服って好みに合わないと、新品でも何か憂鬱だもんねぇ。私の服じゃ、朔のイメージとも違うし。
 明日にでも皆を連れて改めて出て来ようか」
「今からでも、手が空いた連中を呼びに行くか?一日で全員分の買い物済ませるのも大変だろ」


望美と将臣以外の面子は、有川家で本格的に居候の準備をしている。
いつまで世話になるか判らないが、『世話になる以上は無駄飯食いに成る訳にはいかない』という極めて現実的な九郎の発想から、
今後の行動指針が出来上がった。

まず事情を理解している有川夫妻はともかくとして、ある日突然、十人近くの居候がやって来たらご近所は不審に思うだろう。
そのご近所対策として、午前中の内に有川夫妻も含めて話の口裏が合わせられた。

結果、有川氏と縁の在る幾つかの神社から、神職の勉強をしている若者を預かっているという事になった。
将来神職に就く為の勉強で居候するならば、少々期間が長くなってもそう不自然ではない。
幸い本当の神職に在るヒノエや、必要に応じて相応の知識を持ち合わせているリズヴァーンに弁慶、景時などが居る為、全くの嘘でもない。
弁慶や朔は本来僧籍なので、穿った事を尋ねられるとボロが出かねないが、いちいちそこまで突っ込まれる事は無いだろう。
更に仲間の年齢が統一されていなかった事が、話に微妙な信憑性を持たせる事にもなった。神職を志すのに年齢は関係無い。

その後、皆で有川家と神社の大掃除をする事になった。
折りしも年末で大掃除のシーズンでもあったし、神職見習いで滞在する者が神社の内外を清めるのは当然である。
まだ普段着に着回せる服が無いので、全員予備の白衣に袴姿か作務衣で、雑巾がけや叩き掛けをやっている筈だ。
人手が有る内についでに蔵の整理もする事になり、譲は父親の手伝いでそちらの監督に残った。
境内の庭には、今頃景時が嬉々として干した布団や洗濯物が翻っている頃だろう。
よって、骨董屋への換金には望美と将臣が出向く事になったのだった。


ちら、と望美が腕時計に目を落とした。まだ昼の三時前である。
確かに今からなら、一度戻って出直して来てもある程度の買い物は出来るだろう。
掃除も蔵の整理も、一日で全部やってしまわなくてもいいのだから、丁度手が空いて休んでいる頃ではないだろうか。

「じゃ、一回戻ろうか。ついでに夕飯の買い物とか、済ませちゃうといいよね」

十名以上の食事を賄うのは、調理そのものも大変だが、食材の量も半端ではない。
従って四人家族用に適応した収容量しかない有川家の冷蔵庫では、頻繁に買出しをしなくては間に合わないのだ。

「なら、先に晩飯の買出しを済ませた後で買い物の方がいいな。服選びには時間掛かるだろうし」
「あ、そうか。先に食材揃ってないと、そもそも料理が出来ないんだ」

ポン、と手を叩く望美に将臣が苦笑を浮かべる。

「やっぱお前は、食べる専門だよ。譲が作ってくれるのに慣れちまって、座って待ってたらメシが出て来るって思ってただろ」
「む……譲君ほど上手じゃないけど、冷蔵庫の残り物を使って料理くらい出来るよ!
ただ十何人分だって事を、うっかり忘れてただけだもん」
「そうかぁ?蓋を開けて湯を入れて三分待つのは料理じゃねぇぞ」
「小学校の低学年の頃の話でしょ、それは!もう、格好悪いから、皆の前でそんな話しないでよ」
「判った判った……?」


『もう!』と振り上げた望美の腕に、将臣は古い傷痕を見付け、一瞬黙り込んだ。
長袖を少し引き上げないと見えない位置だが、右腕の外側に三センチほどの薄い傷痕がある。
将臣の視線に気付き、望美は左手でそっと傷痕を押さえた。

「気付いちゃった?でも、あんまり目立たないでしょ。昔から私も結構無茶やってたもんねぇ」
「ああ―――小学校に上がったばかりの頃だから、お前にとっては十年位前か」


そうかなと言いながら、望美もカラリと笑う。一生残る傷だが、あまり気にしてはいないようだ。
まさか『こんな傷など大した事無い』
と言えてしまう程の、大怪我を京でしたのではあるまいが。


「境内で凧揚げをしてたんだよね。その日は風が強くて、よく上がったんだけど……」
「強風に煽られて、凧糸が木に絡まったんだっけな


何とか取れないかと引っ張っている内に、糸も切れてしまった。
放っておく訳にも行かないので、将臣と譲が梯子と長い棒を探しに行ったその間に―――望美が、木に上ってしまったのである。

「木登りは得意だったから、平気だと思ったんだよ。だけど凧が絡まったのは、思ったよりずっと枝が細い部分で―――」


将臣達が戻って来たのは、丁度望美の手が凧に届いた時だった。
驚いて駆け寄る将臣と、真っ青になって立ち尽くした譲の姿を、不思議と今でもはっきり憶えている。
そして自分の体重を支えていた筈の枝が、不吉な音を立てて折れたその瞬間も。

望美は五メートルの高さから真っ逆さまに地面に落ちたのだ。


「将臣君が下で受け止めてくれなかったら、首の骨を折って死んでたかもしれない。
 スミレお祖母ちゃんは優しい人だったけど、あの時だけは物凄く怒られたっけ。『自分の身体を大事にしなさい!』……って。
 確か、将臣君たちも巻き添えで怒られたんだよね?」
「説教プラス晩飯抜きだったぜ。ついでに譲とセットで、一晩蔵に放り込まれた。お前が危険な真似をするのを止めなかった罰だって言ってな。
 あの時は正直、何で俺達までって思ったが……
 祖母(ばあ)さんが星の一族で、お前を白龍の神子と、俺達を八葉だと見抜いていたのだとしたら―――少しは、判る気がする」


祖母は隣家の一人娘である望美を、実の孫以上に可愛がっていた。
将臣や譲に厳しい事は言っても、望美には基本的に甘い人だったのだ。
その祖母が唯一、望美をきつく叱ったのがその事故の時だった。もっと自分を大事にしろと。


「その時、折れた枝で腕を怪我して。結局五針縫った。それがこの傷痕。
 『女の子が一生残る傷をつけるなんて』って、スミレお祖母ちゃんは泣いて怒ってた。
 だけど将臣君が受け止めてくれて、譲君が直ぐにおじさん達を呼んできてくれたから平気だったよって言ったら、黙っちゃって」

望美の家に、その夜スミレと将臣と譲の両親が謝りに来た。
『ウチの娘が勝手に無茶をしたんですから』と望美の両親が気を遣うほど、スミレは深々と頭を下げていた。
望美と二人の孫の辿る運命を、やはりスミレは知っていたのだろう。
せめてこの世界では、健やかに成長する様を見届けたかったに違いない。

「まあ、五体満足でこうしてこっちに戻って来れたんだから、お前もあんまし無茶すんなよ?
 いつだって俺や譲が傍に居る訳じゃねぇんだからな」
「判ってるって。事故とかに気をつけるのは勿論だけど、自分からトラブル引き受けたりする事なんてないから」
「どうだかな。お前、絶対トラブル体質だろ。じゃなきゃ、白龍の神子になんてそうそう選ばれるかよ」
「む、なんだとー!」



そんな昔話をしながら、望美と将臣は一旦帰宅する事になった。
だが望美の家のすぐ近くまで辿り着いた時、事件は起きたのだ―――






「きゃあああ!!」

聞き覚えのある悲鳴と、ガラスの割れる音が辺りに響く。

「おい、お前の部屋だ!」
「朔の声だよ、今の!!」

二人が同時に同じ方向を見上げる。
望美の部屋の窓が、内側からの衝撃で割れていた。
慌てて走り寄った玄関先に、以前友人から土産で貰ったガラス製のペーパーウエイトの割れた破片が転がっている。
朔がこのペーパーウエイトを投げ付けて窓を割ったのだろうか。

「朔!朔!!どうしたの!何があったの!?」

ドアを叩いても応答が無い。
将臣が持って来た鍵で玄関を開け、望美達は二階へと駆け上がった。



「朔っ!?」

二人が部屋に飛び込むと、窓際から逃げるように壁に背を付け、朔が震えていた。

「どうした、朔!?」
「あ……将臣殿…望美……?」

将臣が近付いて肩を揺すると、放心していた瞳に光が戻る。
我に返って二人の顔を目にすると、ほっとしたような安堵の息を吐く。

「さっき有川のお家からこちらに戻って来たら、その窓から誰かが覗き込んでいて……」
「誰かが覗いてた?」

訝しげに、将臣と望美が顔を見合わせる。

「ええ……咄嗟の事だったから驚いてしまって、思わず手に掴んだ物を投げ付けてしまったの。窓を割ってしまって、ごめんなさい」
「朔に何も無かったんだから、窓ガラスなんて気にしなくていいよ。それにしてもこの部屋を覗くなんて、一体―――」



望美が眉を寄せた所で、階下が騒がしくなった。
どうやら朔の悲鳴を聞きつけて、譲達が様子を見に来たらしい。

「先輩、何があったんですか?朔の悲鳴が聞こえるし、兄さんが血相変えて鍵を取りに来るし。窓ガラスまで割れて……」
「ああ、譲君。それがね……」

譲と、一緒に来たヒノエと弁慶にも、部屋を覗き込んでいた誰かに驚いた朔が、物を投げ付けて窓を割った事を説明した。

「……ねえ将臣君、やっぱり朔も有川のお家に置いてあげてくれないかな。
 私はお母さん達と一緒の部屋で寝ませてもらうけど、こんな事があったんじゃ朔は怖いだろうし、そっちにはお兄さんの景時さんも居るし」
「それはどうにかするが―――お前は大丈夫なのか?覗き込まれてたのはお前の部屋なんだぞ?」

兄の傍らで、譲も心配そうな表情を浮かべている。
望美は正直な思いを口にした。

「平気……じゃないよ。部屋を覗かれてたなんて、気味が悪いし。
 でも、少なくともお父さんやお母さんと一緒なら、大事にはならないと思うから。
 それに覗いてたって人が空き巣だったりしたら、下手に家を無人にしない方がいいと思うし」
「ですが、先輩……!」

納得しかねている譲の言葉を、望美が遮った。

「危ないと思ったら警察に通報するから大丈夫だよ。
 それにお隣には、これだけ頼もしい用心棒が揃ってるんだから。ね?」

促すように視線を向けると、ヒノエと弁慶が話を合わせて頷く。

「勿論。お前が呼ぶなら、夜中でも駆け付けるよ」
「ええ。危険だと思ったら直に報せてくださいね。ご両親とも相談して、特に夜は一人にならない方がいいでしょう。
 有川のお宅にお世話になる件に関しては、僕たち自身も居候の身ですからお返事のしようがありませんけど」
「望美ん家(ち)は家族同然だから、今更居候が三人増えたって、ウチの親は気にしないと思うぜ。
 この大人数だから部屋の都合をつけるのは一苦労だろうが、事情が事情だしな」

『なあ?』と振り返った兄に、譲は『勿論です』と返事をした。

「でも警察に連絡するにも、自分の目で確かめないと通報のしようがないから。
 しばらくこっちで様子を見てみるよ。将臣君、譲君、朔をお願い。景時さんにも事情を説明して、落ち着くまで一緒に居てあげて」
「……判った。一応、ウチの親にも話はしておく。
 何かあったら、夜中でも構わねぇから親父さん達と一緒に来い。いいな?」
「うん、ありがとう。朔、立てる?」

望美の差し出した手に掴まり、朔が立ち上がる。
だが見知らぬ世界で突拍子も無い出来事に見舞われて、余程ショックだったのだろう。
足取りが危なげだったので、結局は将臣が支えるようにして有川家に移動していった。





一方、春日家に留まった望美と天地の朱雀は、玄関先に散らばった割れたガラスの片付けを始めた。
手を切らないように注意深く、細かい破片は箒で掃き集め、広げた新聞紙の上に集めていく。

「ところで望美、前にも同じような事はあったのかい?」
「ううん、こんなの初めて。だから余計に驚いちゃったんだけど……」

ヒノエの言葉に箒を動かす手を止め、望美が顔を曇らせる。
その表情に弁慶も眉を寄せた。

「何か気になる事が?」
「……朔の悲鳴が聞こえた時にね、あたし達、丁度この近くまで帰って来てたの。
 ガラスの割れる音と朔の悲鳴が聞こえてすぐに、あたしも将臣君もあの割れた窓を見たけど―――逃げる人影も、怪しい人影も見えなかったから」

朔に見られた『誰か』が直に窓辺を離れ、望美たちから死角になる方に逃げたとすれば、在り得ない話では無いが……

「あたしの部屋に、外からの足場になるようなベランダは無いの。
 『誰かが覗いていた』と朔の言った窓の下には、この玄関ポーチの屋根があるけど……」
「―――なるほど。覗くにしたって、こんな表通りに面した所を選ぶか……って事だな?」

『うん』と、歯切れ悪く望美は頷いた。

「でも朔は実際に人影を見たから、驚いて物を投げてしまった訳だし―――私達も、まだ落ち着いて朔に話を聞いた訳じゃないのよね。
 多分、時間を置いて冷静に話を聞き直したら判る事があるよ。きっと」


そう言うと、望美はガラスの破片を包んだ新聞紙を丸めて、裏口のゴミ箱まで捨てに行った。





「さて、君はどう見ます?ヒノエ」

望美の姿が見えなくなってから、囁くような声で弁慶は傍らのヒノエに尋ねた。

「リズ先生みたいに隠行の術が使えるか、敦盛のように人間離れして身が軽くない限り、この世界の人間が二階の窓を外から覗くなんて不可能だろ。
 望美の言う通り、窓の近くには足場なんか無いしな」


玄関ポーチの屋根も、実際には窓から随分離れているのだ。
二階の望美の部屋を覗き込もうと思ったら、一旦ポーチの屋根に上り改めて窓枠に飛びつくか、屋根まで上がって上から覗き込むしかない。
例えば窃盗目的や、単に家の中への侵入が目的なら、もう少し人目につかない場所か入り易い場所を選ぶだろう。

ちなみに望美の母は、以前からの友人との約束で出掛けていた為、当時この家に居たのは有川家から戻った朔だけだった。
望美は出掛ける前に自分の鍵を彼女に預けていたので、朔自身は自由に出入り出来た。
将臣が使った鍵は、万が一鍵を失くした時の予備として有川家に預けてあったものである。
隣家から微かに聞こえた悲鳴と、血相を変えて合鍵を取りに来た将臣に驚いて、譲とヒノエ達も様子を見にやって来たのだ。
彼等を疑う気は無いが、少なくともその時点でリズヴァーンも敦盛も有川家に居たのは間違いない。


「身が軽い事だけなら、君や九郎も条件の内ですけどね」
「……あんた、俺や九郎まで疑う気かよ」

嫌そうに顔をしかめたヒノエの隣で、弁慶が人の悪い笑みを浮かべた。

「あくまでも条件に合致すると言っただけですよ。実際、君ならこのポーチを伝って二階の屋根まで上がり、窓から顔を見せるくらいの事はやってのけるでしょう?」


……確かに出来る。
出来るが、自分ならいきなり女性の部屋を覗き込むような無礼な事はしない。
そもそも相手を驚かせて印象付ける事が目的であるのに、怯えさせては意味が無いからだ。
その辺の事をはっきりさせておこうとしたが、弁慶の目が自分をからかっている物ではないと気付き、ヒノエは言葉を飲み込んだ。

「でも仮に窓から顔を覗かせたのが君や九郎、またはリズ先生や敦盛君だったとして―――朔さんがいきなり物を投げ付けるでしょうか?」

驚きはするだろう。
だがその正体が仲間である自分達だと判ったら……普段の朔であれば、怒ったり呆れるのではないだろうか。

「つまり誰かが覗いたってのは、朔の思い違いか?」
「或いは、彼女の狂言か」

すう、と二人の面から笑みが消えた。

「……何の為に、そんな事をする必要がある?」
「そうですね―――例えば、特定の誰かの気を引く為」


ヒノエの眉が微かに動いた。
朔が黒龍の妻であった事は、細かな経緯はともかく、仲間なら誰もが知っている。
彼女が今に至ってまで、どれ程黒龍を深く想っているかも判っているつもりだ。
その朔が、今更他の誰かの気を引こうとするだろうか。


「もしくは不審者が現れた望美さんの家には怖くて居られないと理由をつけて、有川家に移る為……とかは、どうです?」
「おいおい、だとしたら―――」

微かに、裏手から砂利を踏む音が近付いてくる。望美が戻って来たのだろう。

「片付け、手伝って貰っちゃってゴメンね。
 ガラス屋さんに電話したら、少し遅い時間になっちゃったけどお茶にしようか。身体冷えちゃったでしょ?」
「それでは、お言葉に甘えてご馳走になりましょうか。ねぇ、ヒノエ?」
「そうだな」


『この話はまた後で』と、二人は無言のまま視線を交わした。








翌日改めて時間を作り、皆で街に出て買い物を済ませる事になった。

将臣と譲の服をどうにか合わせ、ほとんど全員が出掛けたのだが、如何せんリズヴァーンだけは体格が良すぎて合う服が無かった為、採寸だけして留守番となった。
刀や着物を売ってまとまった現金を作ったとは言え、それでも頭数が多くて個々にあまり高い買い物は出来ないので、
手頃な価格で良い品が揃っていると評判の大型ショッピングセンターに皆を案内する。
一昔前だと百貨店の方が圧倒的に品が良かったのだが、最近は小売店も商品力では負けていない。
男性陣は直に自分の好みをアレコレと言い出して、財布を持った将臣と譲――軍資金を分けて持っている――を引っ張り回し始めた。


「さて、と。男の人達は将臣君たちに任せておいて、朔はどんな感じの服が好き?
 具体的には判らなくても、お店を外からパッと見た感じの印象で好きな所を選んだら、多分気に入った物も見付かると思うけど」
「そうね……私は貴女の着ている様な、裾の短い着物は落ち着かないから。出来れば今日借りた、こんな形の物の方がありがたいわ」

望美は有り触れたトップスに膝上丈のタイトのミニスカート、黒のスパッツにロングブーツを合わせていた。
朔には柔らかな素材のニットにロングのタイトスカート、そして歩き易い用に踵の低いローファーを選んである。
気に入ったのならそのまま彼女に貸していてもいいのだが、やはり着替え用にもう一組は買い揃えた方がいいだろう。
膝上丈かジーンズが多いので、望美もあまりロングスカートは持っていないのだ。

「朔には、少し落ち着いた雰囲気の方が似合うよね……あ、ここなんてどう?」

望美が見付けたのは、『お嬢様がさり気なく着こなすと似合いそうな品の良いデザイン』の洋服が並ぶ店だった。
イメージ通り少し他の店よりお高いが、朔用に望美も軍資金を預かっている。
余程上物を選ばない限り洋服一揃いと靴、下着などを買い揃えるくらいは出来る……筈だ。

「どうかな?」

小声で伺った望美に、店の雰囲気や陳列してある品を見た朔が小さく頷いて見せる。

「ええ。此処の物はあまり派手ではないし、良さそうだわ。でも私はこちらの着物の事は良く判らないから、貴女が見立ててくれる?」
「うん、オッケー。えっと、私の服で少し大きいって事は……七号で丁度いいのかな?」

望美は痩せ過ぎもせず、肥満もしていない標準体型だ。
剣の稽古で腕などはいささか逞しくなったものの、まだ九号が普通に着られる。朔が細身なのだ。
トップスとスカートを幾つか選び、試着室に二人一緒に入る。
朔はファスナーとかボタンに馴染みが無いので、試着しながら着方を教える為だ。


「……そう言えば、昨日はあれから何事も?」

着替えながら、朔が少し遠慮がちに尋ねる。
怖い思いをしたが、自分だけ有川家に避難してしまったので気にしてくれていたのだろう。

「うん、お陰様で。
 不審人物でも見掛けたら警察に通報しておこうと思ったけど、特別何も無かったよ」

これでも一年近く戦場に身を置いていたから、見知らぬ気配を察知するのには敏くなった。
昨夜は両親と同じ部屋で寝(やす)ませてもらい、一応油断せず外の気配には気を付けていたのだが、幸い昨夜は何事も無く明けた。
何か起きた方が良いと言う訳では無いのだが、本当に怪しい人物が近所を徘徊しているのなら、
さっさと尻尾を出してくれた方が此方としても対処がし易い……というのは、少々乱暴な発想だろうか。
冗談ではなく、多分竹刀の一本もあれば並のコソ泥程度なら一人でどうにか出来そうなのがある意味怖い。

「朔の方こそ、大丈夫?昨日は怖い思いをしたけど、ゆっくり寝(やす)めた?」
「ありがとう、私の方は大丈夫。あれから兄上もずっと傍に居てくれたし」

朔の表情に無理をしているような様子は無く、望美はホッとした。
折角こちらの世界に来たのに、おかしな体験がトラウマになっては申し訳無い。

「そう言えば、ちゃんと寝場所は確保出来た?有川のお家は広いけど、朔は女の子だから別の部屋を使わせて貰ったんでしょ?」
「ええ。いつか話に出た、お祖母様のお部屋をお借りしてるの。今は使っていないからいいだろうって、将臣殿が言って下さって」
「そっか……スミレお祖母ちゃんのお部屋をね。そういえば、半分物置みたいになってたんだっけ」


小さな頃には、望美も何度も遊びに行った部屋だ。
だがスミレが亡くなった後は、遺品などが纏めて置かれているくらいで誰の物でもない部屋になっていた。
使っていなくとも掃除はしてあるので、丁度良かったのだろう。


「将臣殿は、やっぱり頼り甲斐があるわね。
 譲殿もしっかりしているけれど、あの将臣殿が兄だったからこそ、その影響を受けたのかしら」
「……さあ、どうかな」

一瞬言葉に詰まらせた望美が、やや歯切れの悪い返事を返す。
朔が仲間である将臣の名を親しげに口にしたからと言って、然程気にする事ではない筈なのに。

『なんだろう……このモヤモヤした気持ち』


先日蔵から出て来た将臣と朔を見掛けた時と同じ胸の痛みに、望美は気付いていた。




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