貴方が此処に居るだけで
『白龍って、やっぱり凄い神様だったんですね』
恋人の新たな経歴を知った望美の、それが素直な第一声だった。
二度と離れないと誓った望美と共に、彼女の生まれ育った世界に帰還したのはつい数時間前の事。
『この世界に残るか、それとも元の世界に還るか』と、力を取り戻した白龍が望美に尋ねた時、彼女はリズヴァーンに意見を求めた。
「先生……先生は、どうしたいですか?」
もう二度と離れないと誓った。
『望美の死』という終わり無い輪廻から開放されて、ようやくリズヴァーンは新しい人生を歩めるようになった。
元の世界に未練が無いと言えば嘘になる。
だが、もしも自分が生まれ育った世界でリズヴァーンが生き難いと思う事になるのなら……還らなくてもいいと、望美は真剣に思っていた。
生きてさえいれば、何処でだってやっていける。今までだってそうして来たし、これからもきっとどうにかなるだろう。
源平の戦乱は収束を迎え、もう神子も八葉も必要の無い世界になったのだ。
二人で身を寄せ合って、ひっそりと穏やかに暮らす事くらい出来るだろうからと。
だが、リズヴァーンは一瞬の躊躇も無く『神子の世界へ』と答えた。
望美の生まれ育った世界こそが、自分の新しく生きる世界だと。
そしてつい数時間前、平家の生き残りが全員無事に落ち延びたのを確かめた将臣と、譲も共に元の世界へと還って来た。
帰還して判った事だが、望美達が白龍に召還されてから、全く時間の経過が無い時点へと戻されていた。
咄嗟に鎧や防具、着物姿の自分達の出で立ちを想像して慌てたが、
そこは白龍が気を遣ってくれたのか、元の制服姿になっていた。
リズヴァーンもごくシンプルなセーターにスラックス、コートという姿だった。
だが、異世界で過ごした年月―――将臣に至っては約四年だ―――は誤魔化しようも無く、
元々弓道をやっていた譲はともかく、望美も今やすっかり腕や足に筋肉がついてしまっているし、将臣の伸びた髪もそのままである。
それに何より、世間と戦乱の荒波に揉まれてすっかり成人した大人の男の風貌と体格となってしまった彼を、高校生とはもはや呼べなかった。
急いで街を移動するには問題無いかもしれない。
だがこのまま学校に戻る訳にもいかないと、ものの数分でリズヴァーンを除く三人で相談し―――
結局教師に信望の厚い譲が、『望美も世話になった遠縁が危篤と連絡があった』と無理矢理学校側に理由をねじ込んで、
人目を避けるようにして早退したのであった。
学校側に断って堂々と早退して来たものの、やはり真昼間に学生がウロウロしているのは人目を引く。
望美と譲だけならまだ目立たないかもしれないが、どうみても年齢詐称の偽高校生風になってしまっている将臣と、
見上げる長身に金髪碧眼のリズヴァーンが一緒では、目立つなと言う方が無理である。
望美達は極力平静を装いつつ、内心では知人に会いませんようにと冷や汗をかきつつ自宅へ足を速め、
リズヴァーンはそんな三人の後を黙ってついていくしかなかった。
ようやく辿り着いた望美の自宅は、運良く母親が外出していた。
そう言えば中学時代の同窓会に出て来るから、帰りは遅いと朝方――実際に聞いたのは随分前だが――言っていたような気がする。
仕事に行っている父親も帰りは同じくらいだろうから、少なくとも何時間かは今後の事を考える余裕が出来た訳だ。
とりあえず着替えたら行くからと、隣の有川家―――実は神社だ―――に兄弟を帰し、
ついでにリズヴァーンにもしばらく有川家で待機していてもらうことにした。
幾らなんでも両親が一面識も無い男性を家に置いておく訳にもいかなかったからだが、
その辺は譲が『もっともです』と同感してくれて、何とかしてもらえる事になった。
いきなり成長して帰宅した二人の息子と、見知らぬ異国の青年を目の当たりにして、有川夫妻は当然の事ながら目を丸くした。
だが神職を務める兄弟の両親は、星の一族であった先代の菫から何か聞かされていたのか、
互いに言葉を補いながら事情を説明する息子たちの話を冷静に聞き、受け止めた。
彼らの母は有川家に嫁いで来た身ではあったが、やはり心構えはあったのか、驚きはしたものの疑いはしなかった。
その事が、有川兄弟と望美にとっては何よりも有り難かった。
早退についてとリズヴァーンの身元については有川夫妻に口裏を合わせてもらう約束をした上で、
望美達はより現実的な問題に向かい合う事になった。
一つ。リズヴァーンの生活をこれからどうするかという事。
二つ。もう高校には戻れそうも無い将臣が、今後どうすべきかという事。
他者には一瞬で身についてしまったように見える筋肉をどうするんだとか、一年以上放ったらかしていた学業の遅れとか、
細かい事は考え出したらキリがなかったが、いざとなったら『鍛えてた』『油断した』で押し通してしまうしかない。
ついてしまった筋肉をすぐに落とす事は出来ない以上、体格その他については開き直るしかないし、
現役を一年以上離れていた学業に関しては、今更ジタバタしても仕方が無かった。
もっとも、元々成績の優秀な譲はあまり心配しなくても良かったのだが。
将臣の今後の事については、彼自身があっさりと結論を出した。
「俺は自主退学する。例え髪を切って制服を着ても、もう高校生には見えねぇだろ?」
望美達には存在しない三年間を独りで生きた将臣は、そうする事が当然なのだとごく自然に受け容れていた。
それに今更高校に戻ったとしても、大して学業に身が入りそうも無い。
机にかじりついて構文や方程式、年表を憶えるよりも遥かに大きく深い経験をして来た自分には、
他人と比べて成績に優劣を付けられたりする事に、もはや意味を見出せなかった。
同じ勉学に励むのなら、予備校に通うなりして受験資格を得て、専門学校か大学で学べばいい。
ごく普通の学生の歩む道からは逸れてしまうが、こんな生き方があってもいいだろう。
どちらにせよいきなり変わってしまった風貌を隠す為に、当分の間は自宅で大人しくしていなくてはならないだろうが。
直ぐにどうこう出来ない自分たちの事は取り敢えず後で悩むとして、そうなるとリズヴァーンの事を考えるべきだった。
だが意外な形で、それも解決する事になる。
将臣が高校を自主退学する意思を明らかにした直後の事だった。
「…………神子、それに将臣達も、この場所に心当たりはあるか?」
リズヴァーンが唐突に、とある地名を口にした。
それは望美達の自宅から徒歩でも十分くらいの場所で、番地まではっきりしている。
「先生、それは?」
望美が尋ねると、リズヴァーン自身も困ったような顔をする。
どうして自分が『それ』を知っているのか、説明出来ないのだと彼は言った。
「これだけではない。例えば街を歩いて目に入る様々な物―――
それらは全て初めて目にする筈の物なのに、何の為に使われる物なのか、どうやって使う物なのか……何故か、判るのだ」
そう言われてみると、学校から自宅に移動する間も、リズヴァーンは特に奇異な行動を取らなかった。
自分たちも突然元の世界に帰還した事で多少慌てていて気付かなかったのだが、
見る物触れる物全て初めての世界にやって来たにも関わらず、彼は全く自分たちと変わらない振る舞いをしていたのである。
例えば青信号で道を渡り、赤信号では止まる事。
例えば電車に乗る時にも、望美に切符を渡されたが『それが何か』と尋ねるような事はなかった。
ごく当然のように改札機に切符を通し、道路を走る車を黙って見送り、歩道を歩いて此処まで辿り着いたのである。
リズヴァーンが幾ら物の分別をわきまえていて、子供のようにいちいち目新しい物に騒がないからとは言っても、少し不自然だった。
「……これは恐らく『記憶』ではなく、ただの『知識』だ。
神子の世界で生きるのに困らないよう、白龍が便宜を図ってくれたのだろう。
今もこうして目にする多くは初めて見る物ばかりだが、不思議と見ているだけで、それがどういった物なのか判る」
「えーっと……よく判んねぇけど、所謂記憶喪失みたいなもんか?」
記憶喪失の症例として、個人の履歴はすっかり喪われているにも関わらず、生活する事に必要な知識は残っているという物がある。
自分の名も住んでいる場所も判らないのに、文字が読めたり、一般常識――箸の使い方や電車の乗り方など――は憶えているというものだ。
恐らくはそれに近い物なのだろうと、将臣は勝手に結論付けて納得した。
無茶苦茶な理屈でも納得してしまわないと、考え出したらキリがない。
白龍は凄い神様だった。
それで全てを片付けるのが、どうやら一番手っ取り早そうである。
「多分、今言った場所には私の生活の拠点があるのだと思う。これが、その証ではないのだろうか」
そう言ってリズヴァーンがコートのポケットから取り出したのは、
使い込まれた革のキーケースに付けられた、一本の鍵であった。
「おお、確かにあるぜ。先生の言った通りの場所に」
夕方近くになって、受付が締め切られてしまう前に望美達は役所を訪れた。
役所の隅に四人で頭を突き合わせ、請求した住民票で住所を確かめる。
「……リズヴァーン・ヴィノルグ?それが、先生のこの世界での新しい名前なんですか?」
住民票に記されたその名前を不思議そうに声に出して呟いた望美に、リズヴァーンが頷いて見せる。
「ああ、そういう事らしい。どうやら親の代から日本に住んで、帰化した事になっているらしいな」
この世界での名はリズヴァーン・ヴィノルグ。
元々はソヴィエト時代のロシアに生まれ、幼い頃に火事で顔に大火傷を負い、その治療の為に両親が息子を連れて渡日した。
日本の医療技術のお陰で一命を取り留めたが、顔に残った火傷の痕を治療するには長い時間が必要だった事もあり、
両親はそのまま日本へ帰化した。
その両親は数年前に相次いで病気で亡くなっており、今は京都や鎌倉中心とした歴史の考察と、
それに絡めた旅行記の執筆等で生活をしている……らしい。
実感はあまり無かったが、こうして生活の拠点が存在する以上、自活している事になっているのだろう。
この世界では稼ぎがなくては、家賃を払う事も出来ないのだから。
一応生活の拠点を確かめた後、四人は件の住所へと向かった。
住民票に本籍地として登録されている場所に行ってみると、そこには独身者が多く住まう賃貸マンションが建っていた。
二階の一室のドアに、リズヴァーンの持っていた鍵がピタリと合う。
表札代わりのネームプレートには、カタカナで『リズヴァーン・ヴィノルグ』と、住民票通りの名が書かれていた……
「白龍って、やっぱり凄い神様だったんですね。
何だか身体は大きくなっても小さな子供のままのような気がしてたけど、こんな凄い事も出来るなんて」
部屋の中には一通りの家財道具や衣服が揃っており、単に『用事があって朝から出掛けていました』という状態だった。
ただ冷蔵庫の中だけは正直で、電源が入っているだけで中身が空だったので、
将臣と譲が差しあたって必要そうな物を近所のスーパーまで買い出しに行っている。
望美達も一緒になって一通り部屋の中を改めていると、譲が寝室の隅に置かれていた金庫の中から通帳とカード、それに印鑑を見付けた。
名義は勿論リズヴァーンの物で、驚くべき事にそこにはゼロが六つほど付く残高が記されていた。
どちらかといえば、もう一つ上の桁に近い額である。
それを見た将臣が『俺の口座も少しどうにかして貰えないかな』と思わず口にして、譲に足を踏まれた。
しかしご都合主義もここまでくると文句をつける気も無くすというもので、譲は当たり前のようにリズヴァーンから暗証番号を聞き出すと、
当座の生活資金と食料を調達してくると言って、将臣を連れて出掛けたのである。
「私の願いはお前と共に在る事―――ただ、それだけだった。だがこの世界では、生きていくだけでも大変なのだな。
働かなければ生きていけないのは元の世界でも同じだが、白龍の力が無ければ今頃途方に暮れていただろう」
住む場所一つとってみてもそうだ。
この世界には、自分の庵など存在しない。だからと言って山の洞の中や、木の上で夜を明かす訳にもいかないのだ。
生きて行く為には生活する場所が必要であって、衣食住を確保する為には稼がなくてはいけない。
安定して稼ぐ為には職が必要で、職を得る為にはそもそも『この世界に生まれて育った』証が必要なのだ。
その全てを用意してくれただけでも白龍には感謝しなくてはならないが、
白龍は更にこの世界でリズヴァーンが生きていくのに困らないよう、必要最低限の知識をも与えてくれた。
それは神子の伴侶として生きる事を決めたリズヴァーンに対する、白龍の餞だったのかもしれない。
「この世界では、私は生まれたばかりの子供と同じだ。
手に職もあるようだし、生きるのに困る事はないようだが……私がこの世界に存在する理由は、これから考えていく事なのだろうな」
望美が白龍の神子として京に召還されたように。
朔が黒龍に選ばれて、消滅を待つしかなかった彼の支えとなったように。
滅びに瀕した京を救う為に、菫という名の星の一族の姫が独り時を渡ったように。
かつて自分は、望美を死の運命から解き放つ為だけに存在していた。
明ける日も暮れる夜も、ただ彼女が死なない運命を探し求めて生きてきた。
望美が死の連鎖から開放されるのならば、自分の命と引き換えでも構わないと―――だが、今は?
「今、この世界に先生が居る……その事自体が、存在の意味じゃないんですか?」
真っ直ぐな瞳が、リズヴァーンを見上げていた。
「本当なら、私たちは出逢う事すらなかった。
だけど運命とか偶然とか、自分ではどうしようもない色んな事に左右されて、今の私達が在る。
私は、リズ先生とこれからもずっと一緒に居たいと願った。先生も、私と一緒にこの世界で生きる事を望んでくれた。
ならこの世界で生きているという、ただそれだけの事でも……意味があるんだと思います」
「生きているという、ただそれだけの事が……」
傍に居るだけでいいのだと。
愛しい者の為に生きている事―――それこそが、存在理由。
この世界に在る意味。
「……私を守る為に、先生は三十年という時間を費やしてくれた。
剣の腕を磨き、いずれ八葉となる九郎さんに剣を教え、私に戦場で生き残る術を教えて―――
そして私を死から救う為に、何度も運命を上書いてくれた」
それは彼にとっては自身の死よりも辛く、惨い事ではあったけれど。
幾度も自分の死を看取らせる事ではあったけれど。
永く孤独な時間を超えて、自分たちは確かに此処に存在している。
望美が、リズヴァーンの手を包み込むように握った。
「先生のこの手は、もう剣を持つ事は無い。もう誰も傷付けなくていい。
どうかこの世界で、今まで私の為に費やしてくれた時間を取り戻して。
今度は私も傍にいる。ゆっくりと、でも一度しか流れない時間を、貴方と一緒に私も刻んでいくから」
還らない時間。
輪廻しない運命。
過去をやり直す事は出来ず、過ぎ去った一瞬は戻る事はない。
だがだからこそ、一度限りの命に意味がある。
そんな当たり前の事を、もうずっと忘れていた。
「この世界に生きるというその事が、生きる理由……ああ、そうかもしれない」
これから何を成せるか判らない。
過去をやり直す事は出来ないが、未来を知る事もないのだ。
目の前に広がるのは、無限の可能性と未来。
そして傍らには、世界の全てと引き換えにしても共に在りたいと願った望美が居る。
「この世界にお前が在るから、私も此処に在る。ただそれだけの事だ」
どんな困難が待ち受けていようとも、それだけは変わらない。
だがリズヴァーンには、それだけで十分だった。
【終】
あとがき
一応、リズヴァーン×神子。話の都合により、将臣と譲にも登場していただきました。
リズヴァーン編では将臣の去就に触れられていないのをいい事に、望美や譲と一緒に現代に帰還して貰っています。
動かし易いのは譲より将臣の方なもので。
お話の前半はリズ先生の現代での設定付けや、将臣の今後の事をフォローしなくてはいけなくて、妙に説明くさい展開になってしまいました。
将臣をメインにするとED後の事を現代では書けなくなるので、リズ先生ED後だと視点が違って楽しかったです(笑)
諸々の諸設定に関しては、細かいツッコミは無しで。考え出すとキリがありません。
『白龍は凄い神様だった』という望美ちゃんの理屈で、全て納得してください(^_^;)
外国籍の移住者の戸籍とか、正確な所はどうなっているのかもう少し調べる時間が欲しかった……
リズヴァーンの姓が『ヴィノルグ』になった経緯ですが、まず『鬼』という言葉を英語で調べまして。
西洋で言う所の『ゴブリン』(小鬼)に行き当たり、『ゴブリン=Goblin』をアナグラム変換させて、
『Binolg』→『ビノルグ』→語感が良いように『ヴィノルグ』という訳で。適当に決めた訳ではないのです。結構悩んだんだ、コレが(^_^;)
リズ編の場合、譲は望美の事は慕ってますが、相手がリズヴァーンという事で無理矢理納得しています。未練はありそうですが(笑)
今は寧ろ大事な姉が、自分の認めた相手(リズ先生)以外の男にちょっかいを出される事に警戒してる。
将臣も望美の事は幼馴染以上、恋人未満という感じでしたが、約四年という時間を離れて過ごした事もあり、
京で再会を果たした頃にはすっかり妹を見守る兄の心境だったという事で。
有川兄弟が望美に過保護なのは、家族愛に限りなく近いです。実際、家族ぐるみの付き合いをしているという事になってますし。
しかし有川兄弟の実家を神社、親を神職と設定したはいいけど、神社の事や神職の事なんて全然知らないんだよな…(笑)
これからこの設定を使う事になったらどうしよう(^_^;)
麻生 司