ウチの姉について
桐生家の夕飯は、滅多に家族四人揃う事がない。
父が外科医、母が同じ病院に勤務する看護婦――しかも婦長だ――では、勤務時間が不規則なのは当たり前で、
今日も姉の真琴と弟の智志の二人きりの夕飯であった。
両親が揃って夜勤で不在の時は、よく叔母に招かれて手塚家に泊まったりするのだが、今日はごく普通に自宅で過ごしている。
シンクで智志が皿洗いをして、真琴が濡れた食器を拭いて食器棚に仕舞う。
これがここ数ヶ月の、二人のお決まりの分業であった。
「姉ちゃんさぁ……」
いつものように二人で夕飯の後片付けをしていると、洗剤のついたスポンジで皿を洗いながら、
顔を上げずに智志が真琴に声をかけてきた。
真琴もいつも通り、食器棚に皿を戻しながら『なに?』と返事をする。
「国光兄ちゃんとつきあってんの?」
ガッチャーン!!
けたたましい音に顔を上げると、手にしていた皿を床に落として木っ端微塵にして、
頭から湯気が出そうな顔色の姉の姿に、『図星だな』と智志は一人納得した。
「な、な、ななな何を……??」
「ああ、いいから。割れた皿は放っといていいよ。後で俺が片付けとく」
まさかこれ程過剰に反応するとは思っていなかったので、智志も少し可哀想に思う。
ポンポンと姉の肩を叩き、少し落ち着けと促した。
「真琴姉ちゃんが割れた皿で指怪我したなんて言ったら、俺が国光兄ちゃんに怒られるし」
自慢の従兄の名を出すと、真琴は真っ赤になって俯いてしまう。
とことん嘘のつけない、愛すべき姉だと智志は苦笑いした。
そもそも自分と姉の真琴には、血の繋がりはない。
両親の再婚に伴い、彼女は智志の義姉となった。
『貴方が智志君?私は真琴よ。これからよろしくね』
初めて真琴と顔を合わせた時の衝撃と来たら、恐らく当年とって12年の生涯で最大級だったんじゃないかと思う。
そのくらい義姉は印象深く、そして忘れがたい存在として、自分の中に植え付けられた。
義姉の実父は英国人だったとかで、およそ生粋の日本人では真似出来ない、整った顔立ちをしていた。
肩よりも少し長く伸ばした天然の栗色の髪、光の加減で色が変わって見える不思議な灰色の瞳。
年相応の『可愛らしさ』でもなく、大人びた『美人』でもなく、一言で言えばごく自然に『綺麗』と形容するのがピッタリだった。
その上抜群の記憶力のお陰で成績は常に上位をキープ。英国と日本を行ったり来たりの生活が長かった為、英語はペラペラ。
事故で左足に大きな怪我をしていなければ将来有望なバレリーナの卵だった事から、運動音痴という訳でもない。
だからと言ってとっつき難い訳ではなく、話してみると気さくで、案外お茶目で可愛らしい性格をしているのだ。
先程の反応を見れば、からかうのが気の毒になってくる。いや、からかっている気は毛頭なかったのだが。
智志自身、正直な所幼稚園からの幼馴染み――一応、今は彼女と言う事になっているのだが――が居なければ、
ちょっとヤバかったかも、などと思う。
従兄妹同士なら問題はないが、例え血の繋がりがなくても義姉に懸想したら犯罪だ。
その点では妙な気を起こさなかったという意味で、自分を褒めてもいいかもしれない。
「ほら、これでも飲んで。何もそんなにビックリしなくても、悪い事してる訳じゃなし」
割れた皿を綺麗に片付けて、残りの皿も片付けてしまってから、智志は紅茶をいれた。
まだ顔の赤い姉にカップを手渡しながら、自分も居間のソファに腰を下ろす。
「で?」
「『で?』って……」
「だから、国光兄ちゃんとつきあってるんだろ?」
別に智志は義姉を困らせようとか、冷やかしてやろうと思った訳ではない。
ただ何となく、事実確認をしたかっただけなのだ。
面白いくらいに真琴が過剰反応してしまったので、結果的にからかっている事になったのかもしれないが。
「……何で気付いたの?」
しばらくして、ぽつりと真琴が呟いた。
自分と従兄の国光が恋人同士である事は、義弟には話していない筈なのだが―――
相変わらず顔は赤かったが、別に弟が冷やかそうとか、からかおうとかしているのではないと判ったので、大分落ち着いたらしい。
「朝練の時にほとんど毎日迎えに来る。練習が終わった後も、委員会とかで遅くなる時以外は国光兄ちゃんが送って帰ってくる。
オマケに帰りは時々腕組んで帰ってくるじゃんか。それに名前の呼び方も『国光君』から『国光』に変わったし……
これで気付かなきゃ鈍すぎるって」
「……!あれは、別に腕を組んでる訳じゃ……」
「うん。暗くなると足下が危なくなるから、姉ちゃんがコケないように国光兄ちゃんが杖代わりになってるんだよな。
でも普通、アスファルト舗装された真っ平らな道を歩いてるだけではコケないし。
姉ちゃんの左足が少し不自由だって知ってる俺はともかく、ご近所さんから見たらただのカップルだから」
「う……」
全く自覚が無かった訳ではないので、真琴は反論出来なかった。
暗くなると足下が危ないから腕に掴まれと、手塚が言ってくれたのは事実だ。
だが智志が言った通り、普通段差も無い道で人は転ばない。
従妹ではなく恋人として手塚に触れたかったから、真琴も黙ってその好意を受け容れていた。
そして恐らくは、同じ想いで手塚も腕を貸してくれているのだと思う。
「隠さなくってもさ、堂々としてればいいのに。
従兄妹のカップルは珍しいかもしれないけど、無い訳じゃないんだし、そもそも姉ちゃん達は血の繋がりはないし」
「それは……そうなんだけど。色々とね」
自分達がよくても、周囲が放っておいてくれないのだ。
手塚の自称ファンクラブは、真琴を彼の従妹と認識しているからこそ、二人一緒に居ても度外視してくれている。
左足に事故の後遺症が残ってしまった事も、手塚が自分の事を構う絶好のカモフラージュになっていた。
最近では以前流したデマ――転校前の学校に好きな人が居る――が効を奏して、
真琴本人に対するアプローチの数が減ったのもありがたい。最も、めげない連中は何処にでも居るのだが――それは別の話である。
そんなこんなでようやく身辺が静かになって来た所なので、敢えて今更周囲を刺激する事もないと考えたのだ。
自分達にさえ自覚があれば、周囲からただの親戚付き合いだと思われていても一向に構わないと。
「……そんな事言ってたら、恋人宣言するのは学校卒業してからになっちまうぞ。
青学って、大学まであるエスカレーター式だろ?周りの顔ぶれなんて、ほとんど変わらないだろうに」
「それでも、今はこれでいいのよ。お互い納得しているし。従兄妹という肩書きだけでも、傍に居る口実としては十分だもの」
そう言って、義姉は笑った。辛さやもどかしさは全く感じない笑顔で。
「そんなもんかな〜。俺だったら彼女とは大っぴらにデートだってしたいし、『これが俺の彼女』って友達や親に紹介もしたいけど」
「あ……でも、お父さんやお母さんは知ってる筈よ?私と国光が付き合ってる事」
「……は、そうなの?」
さらりと義姉の口から出た言葉に、ズリ、と智志がソファからずり落ちそうになる。
「うん。国光と付き合う事になった時にね……ちゃんとお父さん達に、話してくれたみたい」
従兄としてではなく、一人の男として真琴に接する事を許して欲しいと……手塚は真琴の両親である伯父夫婦に筋を通したのだ。
「話すって……付き合ってる彼女を親に紹介したり、彼女の親に紹介してもらったりって言うんなら判るけど。
姉ちゃんたちは従兄妹同士で紹介も何もないのに、今更何を……」
もしや手をついて頭を下げて、『娘さんとの交際を認めてください』とでも言ったのか。
あまり甥が伯父に対して行う行為ではない。
流石にそれは無いだろうと思った智志の目を、真琴は真っ直ぐに見ていなかった。
ティーカップを手に、どっちらけな方向を見ている。
「まさか……本当にやった訳?『真琴と付き合う事を認めてください』って……」
「その、まさか」
案外似ていた義弟の物真似に小さく肩を竦めて、真琴が頷く。呆気に取られて、智志がたらりと汗をかいた。
「うわ、マジで?流石、国光兄ちゃん……頭の堅さ日本一!手塚の祖父ちゃんにそっくりじゃんか。
国晴叔父さんでもそこまで頭堅くないぞ、きっと」
「そこまで言わなくってもいいじゃない……それが、国光の良い所なんだから」
身内の気安さで手塚をこき下ろす義弟に、軽く頬を膨らませる。
何事にも妥協しない事。
一度決めた事は、どんな困難があっても成し遂げる努力をする事。
物事には筋を通す事。
人は堅物だの融通が効かないだのと散々に言うが、ではそんな堅さの無い手塚を想像出来ると言うのか?
恐らく出来はしないだろう。それが、手塚国光という男なのだ。
「そうか。要するに真琴姉ちゃんは、国光兄ちゃんのそう言う所に惚れ込んだと」
「……否定しない」
ぷいっとそっぽを向いた義姉の横顔は、ほんのりとまだ朱に染まっていた。
―――国光兄ちゃん、苦労するな。
ふっ、と智志の顔に苦笑いが浮かぶ。
拗ねた顔や、膨れた顔ですら綺麗だと思えるのだ。
この義姉に真正面からにっこり笑顔を向けられて、思わずドキッとする男が世の中にどれだけ居る事やら。
義姉とて同じ想いで手塚を見ているのかも知れないが、従兄の苦悩は義姉の比ではないだろう。
恋人に向けられる異性の視線に過剰に反応するのは、女性よりも男性の方だと、智志は思う。
男とは女性が思っている以上に嫉妬深く、そして独占欲の強い生き物なのだ。
そうでなくても異性の目を引き易い恋人が、無防備に周囲に笑顔を振り撒いているのだから―――
これは持って生まれた性格や愛想の問題なので、如何ともし難い―――従兄の心労は察するに余りある。
他校に通っている自分の所にまで、テニス部繋がりで義姉の事を聞きに来る者が居る事を、手塚はきっと知らない。
トゥルルルルル……
「あ、いいよ。俺が取る」
電話の呼び出し音に腰を浮かせかけた真琴を、智志が制して立ち上がった。
誰に対しての電話でも代わり易いように、いつものように親機ではなく、子機を取る。
「はい、桐生ですけど……なんだ、国光兄ちゃんか」
智志が背中を向けている間に、火照った頬をペチペチ叩いていた真琴の手が止まった。
手塚は真琴を呼んだようだったが、すぐには代わらず、智志がそのまま従兄と話を続ける。
「丁度良かった。俺も兄ちゃんに用事があったんだよね」
『俺に用事?』
「うん。兄ちゃん達が付き合ってる事、俺、もう知ってるんで別に隠さなくってもいいから♪」
『智志っ!!!』
一瞬、絶句した手塚の耳に、受話器ごしに慌てふためいた真琴の声が聞こえた。
『それと、ライバルは青学の中だけとは限んないからね。
この間テニス部の連中が、大挙して俺の所に姉ちゃんの事聞きに来たし。
相手がモテると、お互い大変だねぇ。国光兄ちゃん、頑張れよ……おっと』
ドタ、バタ、ガシッという賑やかな物音の後で、ゼイゼイという真琴の息遣いが聞こえてきた。
どうやら電話からは離れた居間のソファに座っていた所を、無理矢理移動してきて子機を奪ったらしい。
気配から察するに、恐らくはソファとテーブルを回り込まずに、ソファの上を歩いて移動してきたのだろう。
『ご、ごめんなさいね国光!智志の言ってる事、気にしなくっていいから……あの……』
「いや……いずれ、智志にもちゃんと話すつもりでいたから……あいつ、自分で気付いたのか?」
『うん……そうみたい。気付かないのが鈍すぎる、って言われたけど』
受話器の向こうで、あはは…と、苦笑いが零れた。
『そんなに目立ってたのかな、私達?』
「校外に出たら、少しは気を緩めていたからな。まぁ、気付かれたのが智志なら問題ない。
ところで真琴。智志が通ってる中学は確か……」
『智志の学校?ルドルフよ。聖ルドルフ』
やっぱり、と手塚は、先程の従弟の言葉を思い返して頭痛を覚えた。
―――ライバルは青学の中だけとは限んないからね。
智志は自分がテニスを始めたのと同じ頃から地元の少年サッカーチームに籍を置き、
スポーツ推薦で聖ルドルフに入学したのだ。
自宅からでも通えるので、不二の弟とは違い――彼の場合は通学距離の問題ではないのだが――寮生活はしていない。
そのルドルフのテニス部連中と言う事は、恐らくあの観月達が、『桐生』という姓から探りを入れたのだろう。
まさか智志が真琴の義弟だとは思わなかっただろうが。
「……真琴、ルドルフの誰かと話をした事は?」
『ルドルフ?うーん……あ、あの時!
桃君のダンクスマッシュで柳沢さんが伸びちゃった時に、手当てするのにしばらくいろんな人と話したけど?』
「それだな」
『え、何の話?』
マネージャーとして甲斐甲斐しく働く真琴を見て、ルドルフの連中は気に入ってしまったに違いない。
観月の情報収集能力を持ってすれば、桐生の姓や家族構成を突き止める事など雑作も無かった筈だ。
どうやら先程智志が電話口で話した『ライバルは青学の中だけじゃない』発言は、
子機を奪い取るのに必死だった真琴の耳には届いていなかったらしい。
無意識は一番の罪。
その優しさも、笑顔も。
自分だけの物であって欲しいと願うのに、それらは周囲に無意識に広められてしまう。
青学の中はともかく、他校生の真琴への接触を、少し厳しく線引きした方がいいかもしれない。
見学だ偵察だと来られる度に頭痛の種が増えたのでは、寿命が縮まりそうである。
真琴のたった一人は自分だけ。
その自信はある。
それでもきっと、従弟が言うようにこの先も苦労は尽きないだろうと……しみじみと、手塚は実感した。
【FIN】
あとがき
今回はヒロインの義弟に、少し出張って頂きました。彼が本来、手塚と血縁のある本当の従弟です。
作中で『手塚の祖父ちゃん』と言ってますが、父の妹(つまり叔母)の嫁ぎ先が手塚家ですから、
彼と手塚国一氏との血縁はないんですね。
ただ小さな頃から親の仕事の都合で手塚家にはよく預けられていましたので、国一氏も孫のように思っていると。
それはさておき、ついにルドルフまで巻き込んでしまいました(笑)
当初ヒロインの義弟は普通の公立校に通わせる予定だったんですが、どうせだったら何か関わりがあった方が面白いかなと。
ルドルフが全寮制ではなく、希望入寮制である事を切に望みます(^_^;)そうでないと設定が……
ルドルフネタは今回限りの単発になるかもしれませんが、いずれ機会があれば……練習試合とかもやるんでしょうし?ニヤリ(^ー^)
麻生 司