風と空を描いて


    「弥生、今日一緒に帰ろうよ」

    昼休み。
    いつものように幼馴染みの弥生と屋上で待ち合わせていた不二は、
    自分を待つ間広げられていたクロッキー帳を閉じた彼女にそう切り出した。

    「それはテニス部の練習が終わるまで、私に待ってろって事?」

    彼女を好意的に見る者なら、『子犬のような』と形容したくなる黒目がちの瞳が、少し細められて不二を見る。
    だが暖簾に腕押しな笑顔で、不二はニッコリと笑っただけだ。
    この程度で怯むような男なら、『魔王』なんて物騒な二つ名は付かない。

    「うん。今日は姉さんがラズベリーパイを焼いてる筈なんだ。招待するよ?」
    「由美子お姉ちゃんなら、別に周君が招待してくれなくても分けてくれるもん」

    なんせ勝手知ったる隣の家である。
    幼馴染みでずっと小さな頃からお互いの家を行ったり来たりしていたのだから、勿論不二の姉の由美子とも仲が良い。
    寧ろ実の兄弟は弟ばかりなので、由美子は弥生の事を本当の妹のように可愛がってくれていた。
    極端な話『ただいま』と言って不二家に行ったとしても、まず間違いなく『いらっしゃい』ではなく、『お帰りなさい』と言われる自信が弥生にはある。

 

    不二と弥生は幼馴染みではあるが、一応恋人同士でもある。
    周囲――特に不二のファンクラブを自称する女子生徒達――は認めないかもしれないが、
    少なくとも本人同士の見解では、そう言うことになっていた。
    だからもう少し恋人らしく振舞ってくれても良さそうなものなのだが、
    意外に鈍い幼馴染みは、なかなか素直に不二の思うようには反応してくれなかった。

    「判った、ちゃんと言い直す。僕も弥生も時間が合わなくて、いつも昼休みにここで会うくらいしか出来ないだろう?
     だからたまには、弥生と一緒に帰りたいんだ」
    「最初っから、素直にそう言えばいいのに……」

    弥生がくすっと笑う。
    ラズベリーパイは口実で、不二が本当はただ自分と一緒に帰りたいだけなのだとちゃんと判っていて、
    わざと意地悪を言っていたのだ。   

    「いいわ。私も丁度やりかけのデッサンがあるから、それを仕上げながら待ってる。部室の傍のベンチの所に居るね」

    弥生が指定した場所は、生徒が休み時間にのんびりとくつろぐ事が出来るようにベンチが置いてある。
    テニス部の部室やコートからも案外近いのだが、校舎の裏手側になるという事で、屋上と並んで意外に穴場なのだ。

    「デッサンってそれ?」
    「うん、そう」

    手の中のクロッキー帳を指差され、弥生が頷く。

    「そう言えば、昔からよく絵を描いてたっけ。今は何描いてるの?」
    「ん?……内緒。趣味で描いてるだけだから、人に見せる気ないし」

    弥生は美術部だ。青学は運動部も文化部も充実しているが、弥生は入学と同時に迷わず美術部に入部した。
    幼稚園でのお絵かきに始まり、小学校の校内写生会等で、結構高い評価を貰っていた筈だ。
    今手掛けているのも、何処かのコンクールに出品する作品の下地なのかもしれない。

    「それじゃ、終わったらそこに行くから」
    「日が暮れる前には来てよ。幾らなんでも、真っ暗な所に一人は嫌だから」

    日がある時にしか使われないという前提なので、ベンチが置いてある辺りに照明などはないのだ。
    幾ら後片付けや着替えがあるからとは言っても、そこまで待たせる程遅くはならない。

    「大丈夫。そんなに掛からないよ」
    「じゃあ放課後に、またね」

    丁度、昼休みの終了五分前の予鈴が鳴った。

 

    『少し遅くなったな』

    片付けを済ませ、着替えを終えて部室を出ると、西の空が茜色に染まっていた。
    陽が落ちて暗くなり始めるのもすぐだろう。足を速めて、弥生が待つ場所へと向かった。

    木陰にぽつりと置かれたベンチに、こちらに背を向けて座る人影が一つ。

    「弥生、遅くなってごめん」

    声を掛けて近付く。だが、弥生は振り向かなかった。

 

    ―――思ったよりも待たせてしまったから、怒っているんだろうか。

 

    だが、傍に寄って幼馴染みの顔を覗き込んで―――判った。
    微かに聞こえるのは安らかな寝息。
    恐らく、待っているのに退屈して眠ってしまったのだろう。

    パサッと小さな音を立てて、膝の上に置かれた弥生の手からクロッキー帳がベンチに滑り落ちた。
    その気配に、弥生が薄く瞼を開ける。不二が彼女の肩に手を置き、微笑を浮かべた。

    「おはよう、眠り姫。早く目を覚まさないと、送り狼になっちゃうよ?」

    パチっと目を開け、不二を睨む。

    「……虫も殺さないような笑顔で何てこと言うのよ……練習、もう終わったの?」
    「うん。遅くなってごめんね」

    うーーん、と弥生が伸びをする。どうやらここに座ったままで、半時間かそこらはウトウトしていたらしい。
    膝からベンチの上に滑り落ちたクロッキー帳の事も、今は忘れているようだ。

    不二は手を伸ばすと、クロッキー帳を手に取った。
    何気なく、パラリとページをめくる。見せる気はないからと言って、見せて貰えなかったその中に描かれていたのは―――

    「あ!」

    真っ赤になった弥生が、もぎ取るように不二の手からクロッキー帳を取り上げる。
    一瞬だったが、しかしその中がほんの少しだけ見えた。伺うように弥生が不二を見る。

    「………見た?」
    「えっと……もしかして……」

    パラパラとめくれたクロッキー帳に、最初から途絶える事無く描かれていたのはラケットを握る自分の姿―――

    「僕を、描いてたんだ」
    「う〜〜〜内緒だったのに」

    観念して、弥生が肩を落とす。    

    「見てもいいかな?」

    差し出された不二の手にクロッキー帳を乗せると、ふいっと他所を向いた。
    内緒で描いていたのがバレてしまって、恥ずかしかったのだろう。

 

    クロッキー帳の中に描かれた自分は、今にも動き出しそうだった。

    サーブを打とうとしている姿。
    ラケットを持って佇む姿。
    ボレーを打つ姿。
    ロブを上げようとしている姿……
    弥生の目から見た、様々な自分。    

    中には仲間と談笑している所を描いたのか、ただ微笑った不二の顔も描かれていた。

    「……これ、僕が貰っても良い?」
    「え……?」

    ちょっとだけ、弥生が困ったような顔をした。
    まさか、そんな事を言われるとは思っていなかったと言うように。

    「……どうしても、欲しい?」
    「うん。だって、弥生がこんなに僕の事見ててくれたんだなぁって思うと嬉しくて」

    弥生は、顔を赤くして下唇を噛んだまま少し考え込んでいたのだが。

    「それとも肖像権の侵害だって言った方が良い?」
    「う〜〜〜判ったわよ。それは、周君にあげる」

    結局その一言で、クロッキー帳は不二に献上する事になってしまった。
    別に悪い事をしていたつもりはないが、こっそり描いていたのがバレたという負い目が効いた。

 

    「それで、本当の所はどうして僕を描いてたの?」

    帰る道々、幼馴染みに改めてそう尋ねられた。
    テニス部の練習が終わるのを待っていた為、普段よりも格段に帰る時間は遅くなってしまったが、
    『周君と待ち合わせて一緒に帰るから』と、自宅には携帯で連絡済である。

    堂々と正面きって尋ねられ、弥生の頬が少し朱に染まった。

    「……だって、写真とかじゃ、他の子と一緒じゃない」

    ポツリと、呟くように口にする。

    不二をはじめとして、男子テニス部の部員にはファンが多い。
    堂々と練習風景を写真に撮っては、それを友達の間で焼き増しして回す子も結構居る。
    それこそ物陰に隠れての隠し撮りや、登下校時に後を尾行(つけ)て、
    ここぞという一枚を撮っていく強者まで数に入れるとキリが無い。

    「幼馴染みだから私だって、周君の写真くらい持ってるけど……私は、私だけにしか出来ない方法で、周君の姿を切り取りたかったの」

 

    それは弥生の手に宿っていた魔法。
    大切な人の時間を、切り取るように描き留める。
    風と空を背景に―――それは自分にだけ許された方法で、他の誰にも真似出来るものではなかったから。

    「私だけのアルバムにしようと思ってたんだけどな…残念」

    ぺろりと小さく舌を出し、弥生が隣を歩く不二を見上げた。

    「それじゃあ、今度僕の撮った弥生の写真をあげようか?」
    「写真って……私、周君に写真なんて撮って貰った事あったっけ?」

    クロッキー帳の代わりにと言われたものの、肝心の写真に覚えが無い。
    最後に一緒に写真を撮ったのは、確か小学校の運動会だったような気がする。
    しかもそれは、由美子が撮ってくれた筈なのだが。

    「ああ。最近僕、写真が趣味なんだ。天気の良い日は、弥生の家のガーデニング綺麗だもんね」

    ぴたり、と弥生の足が止まる。
    確かに弥生の母はガーデニングが趣味で、庭全体を自分で大改造していると言っても過言ではない。
    丹精こめて綺麗に整えられた庭の真ん中には洒落た白いガーデンチェアとテーブルが置かれており、
    そこで弥生は本を読んだり、気候が良ければ宿題をしたりする事も多いのだが―――

    「……ちょっと待って。もしかして、私の写真って……」

    はた、とある事に思い当たった弥生に、不二がニコニコと天使のような笑みを見せる。

    「思わず昼寝しちゃいたくなるのも判るよ。でも紫外線は肌に悪いから、そろそろパラソルでも立てようね?」
    「やっぱり人の寝顔隠し撮りしたのねーーーっ!?そっちこそ肖像権の侵害じゃないの!油断も隙も無いっ!!」
    「隠し撮りじゃないよ。ちゃんとおばさんに『おじゃまします』って断わって庭に入ったんだから」
    「黙って写真撮ってたら同じ事でしょ!こら待て周助ーーっ!!」

    二人分の鞄を手に、駆け出した不二の後を思わず家まで追いかけてしまった弥生は、
    結局くたびれ果てて、折角の由美子のラズベリーパイもほとんど食べられなかったと言う―――

                                                                【FIN】


    あとがき

    最初書き始めた時は、ヒロインが自分の事をスケッチしてたのが普通に嬉しいって話だった筈なんですが。
    やっぱりウチの不二は黒いのか(笑)隠し撮りとは侮れん奴…(^_^;)
    『早く起きないと送り狼になっちゃうよ』っていう台詞も、最初に打ち込んだ時は『早く起きないと襲っちゃうよ』だったんです。
    …が、『はっ!これではサイトの方針と私のポリシーに反するわ!!』と、若干修正。
    しかし送り狼発言も十分問題あると思う…中学生で送り狼はないだろ、送り狼は。

    ちなみにヒロインの家も、不二家と張るくらいの大きさです。あの家の隣家が建坪30坪って事はなかろう…
    父親は輸入代理店の社長さんなんですよ、一応。

                                                               麻生 司

INDEX