Only You
「ひとつ、確かめておきたい事があるんだが」
ある日真琴の病室を訪れた手塚は、神妙な顔でそう切り出した。
手塚の従妹である桐生真琴が、乗り合わせたバスの接触事故により左足に大怪我を負ったのは二ヶ月前の事。
未だ入院はしていたものの、折れた骨は順調に回復しており、今は歩行訓練も始めている。
神経にまで達する裂傷を負った彼女はプリマとしての道は絶たれたが、
家族や友人の支えと励ましを受けて、立ち直りつつあった。
夢を絶たれて、絶望のあまり涙すら流せないほど追い詰められていた真琴を救ったのは、手塚の存在だった。
手塚と真琴は、血の繋がりのない従兄妹同士である。
手塚の伯父の再婚相手の連れ子が真琴―――二人が初めて出逢ったのは、まだ半年程前の事だ。
互いに惹かれあいながらも、二人は共に『自分達は従兄妹なのだから』と、想いを告げられずにいた。
相手が自分に優しいのは従兄妹だから……互いに、そう信じて。
だが皮肉にも、真琴の事故がお互いの想いを打ち明けるきっかけになった。
真琴は手塚の存在を心の大きな拠り所にして、医師も驚くほどの回復を見せている。
また利き腕である左肘を痛めた手塚も、自らを厳しく律して真琴の支えで在り続けようと治療を続けていた。
練習が早くに終わった日には、手塚は必ず病院へ真琴を見舞った。
真琴と同じクラスである菊丸が、彼女の友達に頼んで作ってもらった授業のノート等を届けるのである。
面識のある不二や菊丸も、時には手塚と一緒に病室を見舞う事があったが、今日は手塚一人だった。
いや、正確には周囲を振り切って来たのである。
「どうしたの?いつにも増して難しい顔して」
ベッドの上に半身を起こし、パジャマにカーディガンを羽織った姿で手塚を見て、真琴が目を瞬かせる。
手塚の表情が得てして厳しい事を真琴は十分判っていたが、今日は眉間の皺が普段の二割増だった。
教室やテニス部では気が張っている事が多いせいか、普段から眉間の皺が消える事はあまりないのだが、
自分と居る時は、比較的穏やかな顔を見せる事が多かったのに。
実は練習を終えた帰り道に、こんな会話が交わされていたのだ―――
「そんで、真琴ちゃんリハビリ始めたんだ?」
「ああ。まだ手摺を持ってゆっくり歩く事しか出来ないが、そもそも右足は奇跡的に無事だったからな」
菊丸の言葉に、手塚が頷く。
真琴はバレリーナとしては致命的な怪我を左足に負ったが、
脊椎や右足、その他の神経には大きな損傷を受けなかったので、辛うじて車椅子の生活を免れた。
歩行訓練を繰り返せば、杖無しでも歩けるようになるだろうというのが、医者の見解である。
「この間お見舞いに行ったら、回復が早いって先生もビックリしてたよ。
彼女も一生懸命リハビリしてるようだしね」
さり気ない不二の一言に、ピクリと手塚の眉が動く。
「……お前、見舞いに行ったのか?」
「ああ。先週」
にっこりにこにこ。
不二の笑顔は、腹が立つほど堂々としていた。
「僕も一応、真琴ちゃんとは面識あるしね。部活が終わった後で寄ってみた」
「あ、俺も行った事あるよ!俺は大石と二人でだけど」
「俺も行った。手塚が復学後にマネージャーに推してるそうだから、ちょっとデータを集めに」
「俺も……」
わらわらと次々手が挙がる。
不二だけならまだしも、菊丸や大石、乾、果ては河村までが頬を染めて手を挙げたのには絶句した。
他学年にはまだ然程知れ渡っていないようだが、同じ二年の間では真琴は結構な人気だったのだと、改めて自覚する。
しかも菊丸だけでなく、不二までさり気なく真琴を名前で呼んだのに気付いて手塚の額に青筋が浮いた。
……前髪に隠れて、多分見えてはいなかったと思うが。
不二が手塚を見て、微かに笑ったような気がしたのは気のせいなのだろう……恐らく。
亡父譲りの栗色の髪。不思議な色の瞳。日英混血の端正な容姿。そしてその容姿を鼻にかけない性格。
外国暮らしが長かった故に卓越した英語力と、抜群の記憶力から培われた上位を譲らない成績。
幾ら本人が放っておいてくれと願ってみても、数多の男子生徒が真琴を放っておく筈がなかったのだ。
「でもさぁ、真琴ちゃんって前の学校に好きな子居たんだろ?でも付き合ってた訳じゃないんだよねぇ。
転入してきてからこっち、彼氏の話なんて聞いた事もにゃいし」
「ああ、確か彼女に告白して玉砕した奴がそんな事言ってたな。
『前の学校に好きな人が居るから』って。でも確か……」
菊丸の疑問に、頭の中に既にインプット済であるらしいレポートを乾が読み上げる。
―――手塚がくるりと踵を返したのは、この時だった。
「手塚?」
「……すまん、用事を思い出した」
怪訝そうな不二達を尻目に。
手塚は猛ダッシュで真琴の病室を訪れたのだった……
「そんなにウチの連中は何度も見舞いに来てたのか?」
「何度と言っても……不二君も菊丸君達も、帰りに寄ってくれただけよ。皆一回ずつしか来てないし」
おとがいに手を当て、答えた真琴のベッド傍の椅子に手塚が腰を下ろす。
「ちょっと様子を見たら、すぐに帰ったし……面会時間の兼ね合いもあるから、ほとんどとんぼ返りだったけど……」
一応来たのは学年が同じメンバーだけであったし、テニス部の面子は有名人なので顔は判ったが、
実は河村や大石などはほとんど話した事がなかった。
特に素ではとても大人しい河村とは、見舞いに来て貰って、初めて話したくらいである。
複雑な表情をしている従兄の顔を覗き込んで、真琴が首を傾けた。
「もしかして、妬いてくれたの……?」
図星だったので、一瞬言葉に詰まる。
だが手塚が微かに苦しそうな表情を浮かべたので、真琴の眉がひそめられた。
「前に通っていた学校に……好きな男が居たと聞いた」
それは以前にも聞いた噂話だった。
どんな相手に交際を申し込まれても真琴が首を縦に振らなかったのは、
実は転校前の学校に想い人が居るからだ……と。
聞いた当初には胸に刺が刺さったような痛みを覚え、大層暗い感情を――嫉妬や独占欲であるが――
自覚する羽目になったのだが、真琴の事故等ですっかりうやむやになっていたのである。
「その……もしかして、まだ……」
―――自分の知らない誰かに対する想いが残っているのか。
間違っても手塚は、そんな事を真琴に尋ねたくはなかっただろう。
一生忘れていられたなら、その方が良かったのだ。だが、ふとした事から話を蒸し返されてしまった。
このままでは気になって、ろくろく眠る事も出来ない。だから、この足で手塚はここに来たのだ。
きょとんとして手塚を見ていた真琴が……やがて、ぷっと吹き出した。
「く……くく…あははははは……!」
「真琴?」
ベッドの上で前屈みになり、腹を抱えて真琴が笑う。こんなに笑う彼女を見たのは久し振りだった。
だが訳の判らない手塚は困惑したような表情で、彼女の笑いが収まるのを待つしか無かった。
「あははは……ご、ごめん……まさか、あの話を信じてるとは思わなくて」
笑いすぎて目尻に薄っすら涙まで浮かべた真琴がようやく落ち着く。
「私が通ってた学校は前に住んでた辺りでは結構有名だったから、こんな話しても引くか信じないか、どっちかだったんだけど」
「……どう言う事だ?」
手塚には真琴の言わんとする事が掴めない。
すっかり途方に暮れたような顔をした彼の姿に、真琴は母親のような笑みを見せた。
一方、手塚が脱兎の勢いで姿を消した下校の途上。
残されたメンバーの間では、まだ真琴の話題が中心だった。
先程手塚が顔色を変えるきっかけになった、彼女の『想い人』疑惑である。
「確か桐生さんが通ってた聖志館学園って言うのは、隣県じゃ有名な女子校だよ」
「え、そうなの?」
そう言って、乾が真琴に直接聞いた校名を挙げた。
校名を具体的に出されてみると、確かに菊丸達にも聞き覚えがあるような気がする。
ミッション系の学校で、帰国子女を多く受け容れている事でも有名だとか。
「じゃあ、『前の学校に好きな人が居る』っていうのは……」
「多分、やんわり交際を断わるのに真琴ちゃんが使った悪意の無い嘘か、軽いジョーク。
もしくは伝言ゲーム状態の話の行き違いじゃないかな」
大石の推察に、不二が頷いた。
「…………は?」
たっぷり数秒は間を置いて、手塚の口から気の抜けたような声が漏れる。
「だから私が通っていた聖志館学園は、青学と同じような短大まである、エスカレーター式の女子校だったのよ」
一瞬言葉を失っていた手塚は、ようやく自分が大きな勘違いをしていた事に気付いた。
「じゃ……『好きな男』が居るって言うのは……」
「私は、『男』なんて一言も言ってないわ。前の学校に、『忘れられない人が居る』と言っただけ」
つまりそれは、自分に都合良く相手に誤解させるように仕向けた、真琴の機転だったのだ。
クラスメイトも、世話になった教師も、真琴にしてみれば『忘れられない人』である。
その言葉を『好きな男』の事だと、相手が勝手に勘違いしたのだ……
「でも、どうして国光君がその話を知ってるの?私、幾ら言っても耳を貸してくれない一人にしか言ってない筈だけど」
不思議そうに首を傾げた真琴に、手塚は溜息をついた。
本当に、人の事には勘も考えも鋭いというのに、どうしてこの従妹は自分の事になるとこうも無頓着なのか。
「……君の言葉や行動は、君自身が思っている以上に影響力があると言う事だ。
多分、2年のほとんどの男子が知ってるぞ」
「ええっ!?」
色恋沙汰にはとんと疎い自分の耳にまで入って来たのだ。
他学年にはどの程度広まっているのか想像も出来ないが、恐らく相当広まっているに違いない。
「うーん……そんなに広まってるなんて……悪気はなかったんだけどなぁ」
「まあ、人の噂も七十五日。放っておけばいずれ静かになるだろう」
それにこの噂は、玉砕覚悟以外の男が真琴に近付く事を牽制してくれる。
いつも彼女の傍に居る訳にはいかない手塚にしても、それは好都合だった。
「……ところで、私も一つ聞きたい事があるんだけど」
「何だ?」
「前にスタジオの前で、私が出てくるのを待っててくれた事があったでしょう?」
あれは真琴が事故に遭う一ヶ月前……彼女が一年に一度の定例会で主役に抜擢された日の事だ。
今でもはっきり思い出す事が出来る。
真琴を待つ間、街灯の灯りに照らされながら、色々な想いが胸中に浮かんでは消えて行った。
彼女を想う淡い想いも、真琴を独占したいという、暗い嫉妬や独占欲も―――
「私の通っていたスタジオは隣県で、単に『用事があったから』なんて理由で来るような距離じゃないわ。
本当は、何の用事だったの?」
「…………左肘に、初めて違和感を覚えたのが丁度その時期だった」
テニスを志す者にとって、テニス肘の脅威は避けては通れない。
気にはなったが、地元の医者に通うと目立ちす過ぎる。
万が一故障なら部員には内密に治療を行いたかった手塚は、隣県で開業医をしている大石の叔父を紹介して貰ったのだった。
「お医者様の所に……そうだったの。あの頃には、もう……」
真琴の面に影が落ちる。
その彼女の頬に、そっと手塚が手を触れた。
「……同じ頃に、さっきの話を聞いた……」
「え?」
真琴には、誰か想う人が居るらしいと―――
自分の見知らぬ、遠い地に居る誰か。真琴に交際を申し込んでいた男子生徒。
顔も知らぬ相手に嫉妬して、素直に自分の想いを伝えられる男に嫉妬した。
左肘に違和感を覚えた手塚は大石に医者を紹介して貰ったが、
その病院と真琴の通っていたスタジオが然程遠くなかった事を思い出し、気付いた時には足がそこに向かっていたのだ……
「本当はすぐに聞きたかった―――君に誰か想う人が居るのか。それが一体誰なのか。
嫉妬でおかしくなりそうだったのに、拒絶されるのが怖くて結局何も聞けなかった……不甲斐ない話だ」
その後しばらく澱のようなしこりは胸に残ったが、それも真琴の事故をきかっけにすっかり忘れていた。
―――つい、先程まで。
真琴が手塚の首に腕を伸ばして、肩に頬を預ける。
「心配させてごめんなさい。でも信じて。私が選んだたった一人は……貴方だけだから」
小さく、囁いて。真琴が頬を朱に染める。
手塚の手が、優しく真琴の髪を撫でた。
「……もっと早く聞いておけば、無駄に妬かなくて済んだな」
「でも国光君の意外な素顔が見れて、嬉しかった」
くすっと笑った真琴の額に小さく口付けして、手塚は病室を後にした。
翌朝。珍しく手塚が非常に上機嫌だったと、テニス部の活動日誌の余白に乾が小さく書き記していたという。
【FIN】
あとがき
『そして僕等は歩いて行く』の、追加エピソードです。
↑がえらく長い話になってしまったので、こっちで伏線を処理し切れなかったんですよ(^_^;)
嫉妬で頭の中がグルグルしてる手塚って言うのも、ある意味想像し難いんですが(笑)
でも当初から入れたいエピソードだったので、別作としてUP。
ちなみに手塚と真琴、まだ『きみ(君)』とか、『くん(君)』付けで呼んでます。
時期的にまだこの呼び方なんですよ。
お互いに呼び捨てになるのは、『そして僕等は歩いて行く8』のラスト付近以降。
そのへんのエピソードも追々書いていければいいなぁと思ってます。
麻生 司