そして僕等は歩いて行く 2


    Be in a side.

    Nothing is needed for others. Nothing is desired.

    Your smiling faces are all of me―――  

 

    貴方が傍に在ると言う事。

    他に何もいらない。何も望まない。

    貴方の笑顔が、私の全て―――

    

 

    「ただいま帰りました」

    テニス部の練習を終え帰宅すると、廊下の奥から母が顔を覗かせた。

    「お帰りなさい、国光。すぐに御飯だから、早く着替えてらっしゃい」
    「はい」

    鞄とテニスバッグを手に二階の自室へ上がると、着替えを済ませてすぐに階下へ降りる。

    「あ、国光兄ちゃんお帰り!」

    元気な声に名を呼ばれ、手塚が一瞬目を瞠る。
    すっかり夕御飯の仕度が整えられた食卓には、元気な従弟が既に席に着いて手塚の帰りを待ちわびていた。

    「智志、来てたのか」
    「うん。今日はお父さんもお母さんも夜勤なんだ。『だったらウチに泊まりにいらっしゃい』って、叔母さんが呼んでくれたんだよ」

    桐生智志は先日再婚した伯父の子だ。彼は正真正銘、手塚の母方のひとつ歳下の従弟である。
    伯父は外科医。そして新しく伯母となった人―――沙希子と言う―――は看護婦だ。
    その縁で二人は出逢ったのだが、夜勤の多い仕事である為、母を早くに亡くしていた智志はよく手塚家に預けられていた。

    「今日は腕によりを掛けたわよ。真琴ちゃんが手伝ってくれたから、母さん助かっちゃった。」
    「大した事はしてませんよ。鍋の見張りをしてただけで」

    すっかり上機嫌な母の後ろから、青学の制服の上からエプロンをつけた真琴が姿を見せる。
    この一ヶ月、親睦を深めるという理由で何度か母が手塚家へ智志と真琴を呼んでいた為、手塚も別に驚きはしなかった。
    母も実は娘に憧れていたらしく、真琴に構いたくて仕方がなかったのだろう。

 

    「あ、国光君、これどうもありがとう。助かっちゃった」

    食後、傍に置いてあった鞄の中から古語辞典を出してくると、真琴が手塚に差し出した。
    智志は風呂、祖父はもう部屋で休んでおり、父は今日は仕事が遅くなるとかでまだ帰宅していない。
    母は真琴の泊まる部屋を用意しに席を外しているので、居間に居るのは手塚と真琴だけだった。

    「やっぱり古文って難しい」

    ふう、と真琴が小さな溜息をつく。

    「英語なら辞書なんか要らないのに」

    物心ついた頃から、数年前まで日本と英国を行き来して育ったから、真琴の英語は大したものである。
    日本語の方も同様だ。どちらも普段の生活には全く支障が無い。
    だからこそ、帰国子女である事を特に公にする必要が無いのだ。

    「コツさえ覚えれば、後は普通の文章を読むのと変わりない」
    「それは国光君だからでしょう?今日だけでいろんな話を聞いたわよ」

    クスッと笑って、真琴は転入の挨拶の後、クラスメイトから聞いた話を教えてくれた。

    他の事も実は色々と教わったのだが、特に力説されたのは青学における男子テニス部の存在の大きさである。
    彼らの上げている好成績もその一つだが、真琴が驚いたのは、その部員に対する人気の高さだった。
    その筆頭に上げられていたのが、手塚や不二、そしてクラスメイトでもある菊丸等だったのである。

    「クラスメイトにそれはもう、熱く熱く握り拳で語られて。
     成績はトップクラス、テニスの腕は全国区、次期生徒会長当確で……ファンクラブまであるんですって?
     これは従妹だって言わない方がいいかなって思ったの。変に思ったでしょ?急に『手塚君』なんて呼び方して」

    やはり、真琴は勘が良いと思った。
    そこで自分が手塚の従妹だと明かせば、恐らく初めは単なる驚きとして受け止められていたに違いない。
    だがその事実は、いずれ歪んだ嫉妬として真琴自身に降りかかったかもしれないのだ。
    それが真琴の意思とは関係なく、結ばれた縁なのだとしても。

    「いや、賢明だったと思う。だから俺も合わせた。別に隠す事ではないが、無意味に周囲が五月蝿くなるのはかなわん」
    「そうね。いっそ最初に全部バラしてしまおうかなとも思ったけど、やっぱりしばらく黙ってるわ」

    大きな瞳をぱちっと瞬かせて、真琴が笑う。
    結っていた髪を解いていたので、栗色の髪がふわりと肩で揺れた。
    一瞬その動きを目で追った手塚が、ふと思い出したように口を開く。

    「……あの後、不二と菊丸に君の事を聞かれた」
    「不二?テニス部の?」

    真琴の目が丸くなる。どうやら不二の名前は聞かされたが、まだ顔と名前は繋がっていなかったらしい。

    「辞書を借りに来た時に俺と話していただろう?」
    「ああ、あのニコニコ笑ってた人!」

    ようやく判ったらしくて、真琴がポンと手を叩く。
    一部で『魔王』とも呼ばれている不二も、やましい事のない真琴から見ればただの『愛想の良い人』扱いだ。

    「そっか、あの人が不二君だったのね。ごめんなさい、話の腰を折ってしまって。気を悪くしてなかった?」
    「いや、ただ練習スケジュールの確認をしていただけだからな」

    その後菊丸も問い詰めに来た為に、彼らには自分と真琴の関係を話してあると伝えた。
    真琴がハーフである事を、不二が見抜いた事も。

    「もうバレちゃったのか。そんなに目立つのかな、私の髪」

    微かに唇を尖らせて、真琴が自分の髪をツン、と一房引っ張った。
    天然と言うにはいささか明るすぎるその髪の色は、やはり第三者の目を引く。
    特に強制された訳ではなかったが、いらぬ騒動を起こす前に、真琴は転入と同時に学校側に天然証明書を提出していた。

    「そりゃ数は少ないと思うけど、稀には栗毛の人だって居るわよね?」
    「少なくとも、故意に染めた赤毛や金髪よりは余程自然だと思うがな」

    気休めではなく、手塚はそう思っている。
    大体日本人は黒髪が絶対大多数なのだ。民族的にも、元々黒髪が似合うような風貌なのである。
    そんな日本人が黒髪以外に憧れて髪を染めてみた所で、所詮は似合うものではない。
    例外も勿論存在するが、それはあくまでも例外だ。

    手塚の肯定的な言葉を聞き、真琴の顔に嬉しそうな笑みが浮かぶ。

    「良かった、そう言ってもらえて。これでも結構コンプレックスだったのよ、この髪」
    「そうなのか?」

    真琴の言葉に、手塚が意外そうな顔をする。
    同性も憧れそうなスタイルの持ち主である真琴が、よもや容姿にコンプレックスを持っていたとは。

    「そうよ。
     子供の頃にはからかわれるし、中学に上がったら上がったで『染めてるんじゃないのか』とか『色気づいて』とか言って絡まれるし。
     この髪も瞳も……亡くなったお父さんから貰ったもの。こんな事を言いたくないけど、時々は嫌になったりする事も―――あるわ」

    実は中学に上がったばかりだった頃、一度母が夜勤の時に髪を黒く染めてみた事があるのだと、真琴はこっそり教えてくれた。
    あまり毎日髪の色の事でからかわれるのが鬱陶しくて、染めてしまったのだと。

    「でもね。鏡に映った自分を見て、『こんなの私じゃない』って……思ったの。
     この髪の色も、この瞳の色も、大好きだったお父さんから貰った。どうしてそれがいけない事なの?」

    見上げる眼差しが真っ直ぐに、手塚の瞳を捉えた。
    手塚の目が僅かに瞠られる。

    「私は私。髪の色も、瞳の色も、他の人とは少し違うかもしれないけれど、それも全部私でしょう?どうして外見だけで私を見るの?
     笑って、泣いて、怒って、また笑う。私は飾り物の人形じゃない。皆と同じ……ただの、女の子なのに」

    唇を噛んだ真琴の瞳は迷子のようだった。
    明るく振舞っていた彼女の心に、これほど深い傷があったなんて。

    「……それで、元の色に戻したんだな」

    手塚の言葉に、コクンと頷く。

    「馬鹿な事をしたって思ったわ。
     でも、多分そんな気になるんじゃないかと思ったから、元の髪色によく似た毛染めも買ってたの。
     それでお母さんが夜勤から戻る前に染め直した。これはもう、元の色。アンよりは利口でしょ?」

    自分の赤毛を嫌い、行商人に騙されて髪を緑色に染めてしまったアンを引き合いに出し、するり、と真琴が自分の髪を梳いた。
    絹糸のようなその髪が、照明の光を反射して一層明るい色になる。

 

    『俺、真琴ちゃんみたいに綺麗な子、初めて見た。他の女の子に比べて背も高くて、何だか……そう、外国のお姫様みたい!』
    『お姫様ねぇ。でも、同感だな』

 

    昼間の菊丸と不二の言葉が脳裏を過ぎった。
    顔には出さない自嘲が胸に浮かぶ。

    ……これでは、俺も真琴の外見しか見ていないのかと言われても仕方がないな。

    だが真っ直ぐに自分を見る、まだ出逢って間もないこの従妹を……

 

    手塚は、虚心に綺麗だと―――思ってしまったのだ―――

 

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