そして僕等は歩いて行く 5


    Only for one, the wish is.

    God and only one are enough.

    That irreplaceable man―――once again.

 

    願い事はひとつだけ。

    神様、たったひとつでいいのです。

    大切なあの人に、もう一度だけ―――

 

 

    「……はっきり言って、かなり深刻な状態だね。このままでは、二度とテニスが出来ない身体になる」

    左肘に違和感を覚えたのは一ヶ月程前の事。
    筋肉の疲労かと思われたそれは日を追うごとに痛みを増し、やがて不吉な予感は確信になった。
    思い過ごしである事を願って受けた精密検査の結果を、医師は沈痛な面持ちで手塚にそう告げた。

    「……俺の腕は、もう駄目なんでしょうか」
    「今すぐに治療を始めれば、まだ完治させる事も不可能じゃない。
     しかしその為には、数ヶ月間治療に専念しなくてはいけないよ。無理をすれば、もう治す保証は出来ない
     若いからこそ徹底的に治さなくては、後に障害を残すからね」

    手塚の拳が膝の上で固く握り締められる。
    今は大事な時期だ。間もなく三年が抜け、現二年である自分達が部の中心となる。
    一年生の中にも、確実に次代のレギュラーを担う逸材が育ちつつある。
    まだ水面下の話ではあったが、ジュニア選抜の打診も来ていた。
    今度こそ、全国を狙える大事な時期なのだ。だからこそ―――

    「―――俺は、諦めない。例えこの数ヶ月を費やすとしても、それは無為な時間では無い筈だ」

    手塚は、医師に治療を願い出た。
    しばらく一線でラケットを持つ事は出来なくなるだろう。ジュニア選抜の話は断わるしかない。
    だがそれでも、手塚は青学で全国を狙う夢を捨ててはいなかった。

 

    「……まさかあの時の古傷が、今になってこんな形で出て来るなんて……」
    「すまん、大石。大事なこの時期に、負担を掛けるが」

    翌日、手塚は職員室の竜崎の元に大石を伴って出向き、左肘の故障を告げた。
    まだ完治させる余地はあること、その為に数ヶ月は無理が出来ない事を。
    手塚が左肘を故障する引き金ともなった一件を知る大石は蒼白になり、竜崎も言葉を失った。

    「俺は諦めない。必ず腕を治して、全国を狙う。
     だが俺の故障が知れれば、皆を動揺させるだろう。だからこの話は―――」
    「他言無用と言う訳かい……?」

    竜崎が椅子に腰掛けたまま手塚を見据える。

    「はい」

    短く返事をした手塚に、竜崎は表情を緩め、フウと息をついた。

    「本当は休部して治療に専念しろと言いたい所だが、それでは他の者に伏せている意味がなくなるからねぇ。
     どうせあたしが言った所で、もう決めてしまった考えを変える気はないんだろうし」
    「……すみません」
    「仕方ないね。大石、しっかり手塚を見張って、くれぐれも無理をさせるんじゃないよ。
     それが守れない時は、顧問であるあたしの権限で部員に全てを話してお前を休部させる。それでいいね?」
    「はい。ご迷惑をお掛けします」
    「子供は大人に面倒をかけるもんだよ……ゆっくり身体を作るいい機会だと思って、気長にやるんだね」

    ニヤリと笑った竜崎の顔に、大石も手塚自身も少し気がラクになった。

    「……と言う事は、しばらく左腕に負担をかけない体力作りの方にメニューを絞るべきかな。乾に頼んでみるか?」
    「今朝、筋力強化の練習メニューを頼んできた。乾が不審に思わないように、全員分な」
    「……恐い男だよ、お前は」

    大石が苦笑いした。
    だが手塚の束ねるテニス部ならばきっと全国を狙える。その為なら、努力を惜しむ気はない。
    夢に手の届く所に、自分達は立っているのだから―――

    手塚が見に行くと約束した真琴の舞台は、二日後に迫っていた。

 

 

    「真琴姉ちゃん、忘れ物は無い?」
    「うん、大丈夫。一昨日のリハの時に、衣装とかシューズは会場に置いて来てあるし」

    とん、と爪先で床を蹴って、靴を履く。
    体調は万全。普段とは違い髪だけは先に結い上げてあるのが、弟の智志の目にも新鮮な眺めである。

    「それにしても今日に限って急患の手術が入るなんて。父さんも母さんもついてないなー」
    「駄目よ、そんな言い方しちゃ。人の命がかかってるんだから」

    つん、と智志のおでこを指で突付いて、真琴が姉の顔になった。

    先ほど、手術室に入る前に父から連絡が入ったのだ。
    本当なら昼から両親共に休みを取って真琴の舞台を見に来る筈だったのだが、間に合いそうにないと。
    父は外科医として執刀し、看護婦である母も同じ手術に立ち会う。
    真琴の舞台は、恐らく後でビデオに録られた物を見る事になるだろう。

    「でも国光兄ちゃんは大丈夫なんだよね?」
    「練習が終わり次第、会場に直接来るって言ってたわ。もしかしたら主演目の開演時間には間に合わないかもしれないけど」

    予め真琴が手に入れた家族用の指定席の入場証を渡してあるので、少々遅れてきても智志と合流は出来る。

    「じゃ、行ってくるね!」
    「姉ちゃん、頑張れよーー!!」

    振り返って小さく弟に手を振って。
    真琴の姿は、扉の向こうに見えなくなった。

 

 

    『そろそろ終わりか……』

    手塚がちらりと正門の傍にある時計に目をやる。針は一時過ぎを差していた。
    普段は練習中に気を散らしたりしないのだが、今日はもう何度も時計に目を走らせている。

    「手塚らしくないね、練習中に気を散らしてるなんて。何か約束でもあるの?」

    額に浮いた汗を拭き取りながら、不二が手塚の隣に並ぶ。
    目立つように見ていたつもりはないのだが、時計を気にしていた事をしっかり気付かれていたらしい。

    「……ちょっと、智志と約束があってな」
    「智志君って、従弟の?」
    「ああ」

    真琴絡みの話で、智志の話もした事がある。不二はすぐにその名を思い出した。

    「以前話していた真琴の舞台が今日ある。見に来ないかと誘われた」
    「大きな役が貰えるかもしれないって言ってた、あの?結局、どうなったんだい」
    「主役に抜擢されたそうだ」
    「そりゃ凄い。僕も見てみたかったな」

    残念そうに不二が呟いた。多分、自分よりもバレエに対する造詣は深いに違いない。
    確か本番の舞台はビデオに録画されると言っていたから、後からでも見ようと思えば多分見られる。
    だがその事を手塚は口にしなかった。

    理由は判っている。
    他の男に、必要以上に真琴を見せたくなかったのだ―――

 

    「何時から?」
    「主演目は二時からだ」
    「もうそろそろ上がりだから、着替えて会場に行ったらギリギリって所かな」

    顧問の竜崎が腕時計に目を落とした。
    後は集合して、明日の練習予定と必要な伝達事項を伝えて終わりの筈である。

    不二と目で合図して竜崎の方に足を向けた時―――
    テニスコートのフェンス越しに校舎の方から慌ただしく駆けてくる人影に気付いた。
    事務の仕事をしている、親と同じ世代の女性である。

    「手塚君!テニス部の手塚君は居ますか!?」

    自分の名が呼ばれて、部員の視線が一斉に集まる。
    手塚が手を挙げて返事をした。

    「俺が手塚ですが」
    「ああ、手塚君!事務室に電話が入ってるのよ。男の子からで、従弟だって言ってるんだけど……
     何だか泣いていて、要領を得ないの。早く出てあげて!」

    手塚と不二が顔を見合わせる。
    竜崎が頷いたのを見て、手塚は事務室へと走った。

 

    「もしもし、智志か?」
    『うっ……国…光……兄ちゃん』

    受話器の向こうの智志は、泣きじゃくっていた。
    咽んで、言葉がよく聞き取れない。

    「泣いてちゃ判らない。お前、もう会場に行ってる筈だろう?今何処に居るんだ!?」
    『……ちゃんが……』
    「何だって?」
    『うっく……ま…真琴姉ちゃんが……事故に……今…赤十字病院……危ないって……先生が……!』
    「真琴が……事故……!?」

    カターーンと硬い音をさせて、手塚の手からラケットが滑り落ちる。
    終礼を終えて様子を見に駆けつけた不二と菊丸が、その呟きと蒼白になった手塚の様子に事態の深刻さを悟った。

    「手塚、桐生さんが事故に遭ったの!?」
    「真琴ちゃん、大丈夫だって!?」

    受話器を置いた手塚は、放心してしまったように動く事が出来なかった。
    頭の芯が痺れたように働かない。すぐに智志の所に行ってやりたいのに、身体が動かなかったのだ。
    不二が唇を引き結ぶと、パン!、と軽く手塚の頬を張った。
    その動きに菊丸が一瞬ギョッとする。

    「しっかりしろ!智志君の所に行くんだろう?病院は!?」
    「あ……赤十字病院……だ」

    夢から醒めたような顔で手塚が不二を見た。

    「僕たちはタクシーで先に病院に行ってる。
     英二は竜崎先生に事情を話して、手塚の荷物を後で赤十字病院まで持って来てくれ」
    「了解!!」

    菊丸がテニスコートの方に駆け戻って行く。
    恐らくこの一件で手塚と真琴が従兄妹同士である事はバレてしまうだろうが、この際構っていられなかった。
    真琴の状態如何では、手塚が数日部活に出て来れなくなるかもしれないのだから、筋は通しておく必要がある。

    「さあ、僕たちも行くよ。君がしっかりしないと、智志君がどうしたらいいか判らないだろう?」
    「……ああ、すまない……」    

    手塚の足下はまだおぼつかない。ショックで眩暈がしていた。
    ただ一刻も早く行かなければという思いだけで、何とか身体を動かす。

 

    遠くで、救急車のサイレンの音が聞こえていた。

 

BACK INDEX NEXT