あたしが風邪を引いた時には、お兄ちゃんがお粥を作ってくれた。
一人用の土鍋で、あたしだけの為に作られたお粥はとても美味しかったのを憶えてる。
熱が高い時とか、喉が痛い時はパンを飲み込むのも辛いだろうからって、
仕事に行く前にいつもより早起きして、朝からお粥を作ってくれたっけ。
『生米から作ると、時間掛かるし大変でしょ。あたし、朝はパンでいいよ』
『でも、パンはもそもそして食べるの辛いだろう?病気の時には、気なんか遣わなくていいんだよ。
少しでも多く精の付く物を食べて、早く良くなってくれればそれでいいんだから』
『じゃあ、お兄ちゃんが風邪をひいたら、今度はあたしがお粥を作ってあげる』
それは楽しみだなって、お兄ちゃんは笑ってた。
元気になった後で、土鍋を使ったお粥の作り方を教えて貰った。
これでいつお兄ちゃんが寝込んでも大丈夫よって、言っていたのに……
結局、お兄ちゃんは一度も寝込んだりする事が無かった。
あの日突然、サヨナラもちゃんと言えないままお兄ちゃんが亡くなって、あたしが一人ぼっちになってしまうまで―――
I am not lonely
「じゃ、今日はこれで終わり。風邪が流行りだしてるから、皆も気を付けんのよ!」
担任の越智の、相変わらず教師らしくないHRが終わると、教室からはすぐに半分くらいの生徒が居なくなった。
部活に行った者も居るし、帰る前に友達と少し話してから帰る子も居る。
織姫は手芸部に所属しているが、毎日部室に通う必要性は無い。
コンクール前などは遅くまで部室に詰めて、縫い物をしたり刺繍や編み物をしている事もあるが、今は比較的暇な時期なのだ。
ちなみにこの時期になると、寒いので必然的に編み物をする部員が多くなる。
石田雨竜の姿は、もう見えなかった。
彼は用事が無ければほぼ毎日部室に顔を出しているので、今日も行っているのだろう。
たつきも試験前以外は毎日部活の練習がある。今日もHRが終わると、すぐに織姫に手を振って教室を後にしていた。
別に用事などなくとも、部室に顔を出してもいいのだが……何だか、変にだるくて気が乗らなかった。
「……今日は、このまま帰ろっかな」
「なんだ、井上も帰るのか?」
ぽつんと呟くと、すぐ傍から聞き慣れた声が降ってくる。
鞄を肩の上で担いだ一護だった。茶渡が一緒の事もあるが、今日は一人らしい。
「部活には顔出さなくていいのかよ」
「あ…うん。コンクールも終わっちゃったしね。特別急ぎの用事や製作も無いし、今日は帰っちゃおうかなって」
教科書などをコンと机の上で揃えると、鞄に片付けて席を立つ。
「へぇ、井上は部活に精出す方だと思ってたけど」
「ええ、そうかなぁ?あたしだって、たまにはサボって早く帰りたい時もあるよぉ」
別に示し合わせたわけではないが、当たり前のように二人は連れ立って教室を出た。
天然のオレンジ頭と茶髪の組み合わせは人目を引く事甚だしいのだが、
最近は茶渡や石田、それにたつきも含めて一緒に行動する機会が多いので、僅かに残ったクラスメイトも特に気に留めなかったようだ。
「つまり今日は、部活に出るような気分じゃないって事か?」
「そうそう。昨日遅くまでテレビのお笑い選手権見てたせいか、朝からちょっとダルくって。まあウチの部長って石田君だから、融通効くんだけどね」
「なに、あいつ部長だったのか!?」
「あれ、知らなかったっけ?石田君、三年の先輩からはメガネミシンって呼ばれててねぇ。創部以来の逸材って言われてるんだよ」
「……逸材はともかく、メガネミシンは多分褒め言葉じゃないと思うぞ……」
そんな他愛も無い話をしながら、ゆっくり道を歩く。
以前は一護に遅れないよう、話す余裕も無いくらい一生懸命歩かなくてはいけなかったけれど、
最近では茶渡や石田も含めて一緒に行動する機会が多かった為か、一護が自分のペースに合わせてくれる。
ほんの数ヶ月前にはこんな風に話をしたり、一緒に帰る日が来るなんて想像も出来なかった。
「寒っ……」
不意に吹き抜けた風に、織姫が首を竦める。
ゾクッとした寒気を感じて、自分の手で腕をかき抱いた。
「おい井上、大丈夫か?」
顔を上げると、一護の心配そうな顔が思ったよりもずっと間近にあって、ドキリとする。
「あ…うん、大丈夫大丈夫。ちょっと寒いだけだから」
慌てたようにそう言った織姫に、一護は首を傾げた。
確かに暖かいとは言えないが、それほど寒いとも思わない。予報でも、例年より若干最高気温は高めだと言っていたくらいだ。
一年で一番陽が早く落ちる季節とはいえ、HR終了後にすぐ下校したから、まだ日没まで一時間近くあるというのに。
「そういやお前さっき、朝からダルかったって……悪寒がするって事は、風邪ひいて熱が出始めてるんじゃねぇのか?」
「え?」
そう言いながら一護が手を伸ばし、織姫の額に当てる。
だが風に晒されて冷えてしまった彼女の額では、正確な体温は判らなかった。
「うーん……よく、判んない。寝不足なのも本当だし、このコート、ちょっと薄手で実は見かけほど暖かくないんだ。だから寒いのかも。
でも風邪の引き始めだといけないから、今日は早めに寝む事にするね」
織姫はいきなり額に手を当てられて驚いたような顔をしたが、丁度辿り着いた分かれ道で『じゃあね』と手を振る。
その手を、咄嗟に一護が掴んだ。
「風邪かもしれねぇなら、ウチに寄ってけよ。直ぐに親父に診させるから」
「でもまだ午後の診察時間には早いし……」
確か黒崎医院の午後の診察は五時からの筈だ。まだ四時過ぎだから、一時間近くある。
「それに今、保険証持ってないの。大丈夫だよ、風邪でも安静にしてれば大した事ないって!」
「保険証なんざ、元気になった後で持って来たら、どうとでも処理してやるよ。
休診時間なんて医者が休む為の方便なんだから、気にすんな」
診察時間外の父親は、奥の自室で昼寝してるか、新聞でも読んでるだけだ。
普段の自分や妹たちへの接し方はどうあれ、一護は医者としての父親を疑った事は無い。
可能な限り手を尽くして怪我人や急病人の治療にあたるし、自分の所の設備で手に負えないほどの重篤患者なら、
手遅れになる前にどうにか出来る所へ手際よく搬送する。
あれで医者仲間には人望もコネもあるらしく、大病院の院長にさえ、その名は影響力を持っていた。
織姫は、かつて黒崎医院で兄を亡くしている。
自宅近くで事故に遭った兄を、一番近かった黒崎医院に織姫自身が担ぎ込んだのだ。
その時点で既に手の施しようが無かったのだが、父が何とか彼女の兄を救おうと八方手を尽くしていた事を一護は憶えている。父も憶えているだろう。
一護のクラスメイトであり、なおかつそのような因縁のある彼女を、診ない訳が無い。
だが織姫は、髪を揺らせて頭を振った。
「心配してくれてありがと。でも、今日はやっぱりこのまま帰るよ。夕飯の買い物もして帰らないと、冷蔵庫の中空っぽなんだ」
『パン買って来ないと、明日の朝ごはんも無いんだよ』と笑う。
「もしも本当に具合が悪くなったら、すぐに黒崎君家(ち)に行くから。その時はよろしくね」
「……そうか」
一護はまだ納得しかねる顔をしていたが、重ねて大丈夫だと言う織姫に折れ、掴んでいた手を放す。
見上げる織姫は普段と変わり無く、いざ手を放して見ると、何故にあれほど強引に医者に行く事を促したのか不思議な程だった。
実家が町医者と言う特殊な環境で育った、自分の杞憂だったのだろうか。
「じゃ、また明日ね」
「あ、ちょっと待て!」
小さく手を振って、背を向けた織姫をもう一度呼び止める。
足を止めて振り返った織姫の首筋に、明るい色のマフラーがふわりと巻かれた。
「寒いんだろ?首筋温めると、それだけでかなり体温上昇するんだぜ」
「でもこれ、黒崎君の…」
「いいから持ってけ。俺は今寒くないし、此処からなら俺ん家(ち)の方が近い。
それと、具合悪くなったら夜中でもいいからウチに来いよ。医者は患者の為に居るんだから、余計な気を遣う事ねぇ。
万が一動けなかったら電話しろ。親父を叩き起こして、往診に行かせるから」
それだけ一気に言い切ると、『じゃあな』と言って織姫にマフラーを返す余裕を与えないまま、一護はあっという間に角を曲がって行ってしまった。
「……ありがと、黒崎君」
誰も居ない路上で、ぽつりと呟く。
一護の髪の色を思い出させる渋いオレンジ色のマフラーは、とても温かかった。
「一兄、さっきから何処に電話してんの?」
居間でテレビを見ていた夏梨が、兄に声をかける。
兄が部屋から電話をしに降りてきてから十数分経つが、その間、幾度か電話を掛けては切るを繰り返している。
十数回もコールして相手が出なかったら、留守にしてるか出られないと見なして諦めるだろうに。
「クラスメイトん家(ち)だよ。今日の帰り、ちょっと気になる事があってな」
何度目かの掛け直しの受話器を耳に当てたまま、一護は返事をした。
だが二十回以上コールを繰り返しても、まだ織姫が出る気配は無い。
風呂にでも入っていたなら確かに出られないだろうが……
普通何度か電話が続けて掛かると、また掛かって来るかもしれないと思い、例え入浴していても早めに出てきたりしないだろうか。
あるいは、近所のコンビニにでも出掛けているのかもしれない。もしかしたら、たつきの所に行っているのかもしれない。
―――だが、無性に嫌な予感がした。
指が憶えている、たつきの家の番号を押す。
こちらは数回のコールの後、運良くたつき本人が出た。
『はい、有沢です』
「たつきか?俺だ」
『一護?何よ、こんな時間に』
受話器の向こうで、僅かに驚いた気配がする。
子供の頃は割と頻繁に電話の遣り取りもあったのだが、母親が亡くなってからはとんと機会が無かったのだから当然だろう。
「悪いな、遅くに。ちょっと確認したいんだが、今、お前ん家(ち)に井上行ってるか?」
『織姫?来てないよ。今日はHRの後、あたしが部活に行く時に別れてそれっきり』
だとすると、やはり一人で出掛けているのだろうか。
しかしもう夜の十時近くである。
携帯を所持していれば連絡の取りようもあるのだが、生憎と昨今の女子高生にしては珍しく、織姫は携帯を持っていない。
親戚の援助で生活する彼女にとって携帯電話は必ずしも必要ではない贅沢品であったし、
何より彼女自身機械系がからっきしで、特に今まで欲しいとも思わなかった事がその最大の理由だったらしいのだが。
『何、織姫がどうかしたの?』
一護の口調に何かを感じ取ったたつきが、事情を話せと無言で促す。
「……井上ん家に掛けても出ねぇんだ。さっきから数分おきに、何度掛けても出ねぇ。
あいつ今日帰りに悪寒がするって言ってたから、様子を聞こうと思ったんだが」
『出ないって……あの子塾とかにも行ってないから、いつもお風呂とかは早いのよ。
夕飯を七時過ぎくらいに済ませて、その後片付けてすぐにお風呂にも入っちゃうから、この時間なら絶対出られる筈なのに……』
たつきの声にも、不安そうな色が混じる。
やはり付き合いの長いたつきも不自然だと感じたのだ。
「たつき、井上ん家の鍵持ってたよな」
織姫は部屋の合鍵をたつきに預けている。
ウッカリ鍵を失くした時の為だと言っていたが、まさかこんな事で役に立つ日が来ようとは。
幼馴染は、すぐに自分の意図を察してくれた。
『全速力で行けば十分で着く。そっちに寄ってると余計に掛かるから、直接向こうで』
「悪ぃ、頼む。俺もすぐに行く」
『ちょっと一兄、何処行くの!?』という夏梨の声が聞こえる。
一護は『直ぐに戻る』とだけ言い残すと、上着を掴んで家を飛び出した。
また電話が鳴った。これで何度目だろう。
少し前から、鳴っては切れるを繰り返している。たつきだろうか。
だが織姫は、起き上がって電話に出る事が出来なかった。
『寒いよ……身体も、痛い……』
夕方に一護と別れてから、織姫は近所のスーパーに寄って買い物を済ませて帰宅した。
だがその頃には少しずつ感じていた悪寒が一層酷くなり、辛うじて買い物してきた物を冷蔵庫に入れ、制服を着替えるだけで精一杯だった。
少し横になればマシになるかとも思ったが、一向に悪寒は治まらず、じきに関節や腰まで痛み出して身動きが取れなくなってしまった。
多分、高熱が出ているのだろう。
こんな酷い関節や筋肉の痛みと、悪寒を伴う発熱はどれくらいぶりだろうか。
以前最後に寝込んだのは……まだ、兄が存命していた頃だった。
織姫が具合を悪くすると、兄はいつも一人用の土鍋を使って手製のお粥を作ってくれた。
いつも心配をかけるばかりだったので、今度兄が寝込む事があれば、自分がしっかり看病してあげるからねと、お粥の作り方も教わったけれど。
結局、兄は病気らしい病気一つしないまま―――ある日突然事故で逝ってしまった。
思えばあの日、黒崎医院に兄を担ぎ込んで以来、織姫は病院に足を運んだ事が無い。
兄が息を引き取った黒崎医院だけではなく、病院そのものを無意識に敬遠していたのだ。
本当は、朝から体調が悪い事には気付いていた。
身体がだるく、少し喉がいがらくて、腰にも微かな痛みを感じていた。恐らく熱が出始めているのだと。
だから驚いた。
何とかいつも通りに授業を終え、たつきでさえ見抜けなかったのに、一護が自分の体調が悪い事に気付いたから。
あのまま一護の言う通り素直に診察を受けていたら、恐らくここまで悪くなる事は無かっただろう。
適切な薬を処方されて、ずっとラクになっていたかもしれない。
だがそれでも、織姫は病院を避けた。
……行けなかったのだ。
微かに香る消毒液の匂い。
無機質な診察室や白衣は、どうしても兄が死んだあの日を思い出させるから。
自分がいつまでも引きずっていては兄が安らかに尸魂界で暮らせないと判っているのに―――どうしても、病院に行く勇気が出なかった。
『具合悪くなったら夜中でもいいからウチに来いよ。医者は患者の為に居るんだから、余計な気を遣う事ねぇ。
万が一動けなかったら電話しろ。親父を叩き起こして、往診に行かせるから』
「苦しいよ……黒崎君」
ようやく出た声は掠れていた。
喉を動かした事で、咳の発作が出る。咳をする度に頭と腰に響いた。
僅かに動いただけなのに、全身が悲鳴をあげるように痛む。
もう関節が痛いのか、それとも筋肉が痛むのかさえ判らない。
電話しなきゃ。
たった一言『苦しい』と言えれば、直ぐに彼は手を打ってくれるだろう。
だけど寒くて起き出せない。
身体中が痛くて動けない。
一護の家の番号を書いたメモは電話の横に置いてあるのに、そこまで辿り着けない。
伸ばした指先が、畳んで傍に置かれていた一護のマフラーに触れる。
織姫は縋るように、いつしかそのマフラーを握り締めていた。
最後に電話が鳴ってから、どれだけ時間が過ぎたのか。
泥の底に沈んだような朦朧とした意識の底で、織姫は玄関の鍵が開く音を聞いた。
慌てたような足音が部屋に入ってきて、何事か声を掛けられる。
「泥棒さん…?ウチには、盗る物なんて何も無いよ……」
「何言ってんの織姫!あたしよ、たつき!!」
たつき…たつきちゃん?
薄っすらと目を開けると、軽く肩を上下させたたつきの姿が見えた。
ここまで走って来たのだろうか。
「駄目。織姫、意識が朦朧としてる」
「やっぱ動けなくなってたのか。もう少し早く来てれば……!」
聞き憶えのあるもう一人の声の主は……一護だった。
苛立ちを隠し切れない呟きの後、忙しなく何処かに携帯から電話を掛ける。
「あ……すみません、タクシーお願いします。住所は…」
ちら、と一護がたつきを見た。
たつきがこのアパートの住所を番地まで暗唱すると、一護が続けて復唱する。
短い応対の後、一度電話を切った一護は再び何処かへ掛け直した。
「遊子か?俺だ。今から急病のダチを運び込むから、親父を待機させといてくれ。
発症は多分今朝、夕方以降に急な発熱。恐らく相当高い。症状は高熱に伴う悪寒に筋肉痛、意識混濁。咳の発作も出てる。
…・…ああ、そうだ。タクシー呼んでるから、十分ほどでそっちに戻る」
一護が電話を切ると、たつきが代わりに立ち上がった。
「あたし、急いでこの子の着替えとか用意する。ちょっと織姫を看てて」
「ああ、頼む」
直ぐ傍に、一護の気配を感じる。
たつきと一緒に来てくれた事に『ありがとう』と言いたいのに、声にならない。
やがて下でクラクションを軽く鳴らす音がして、一護の呼んだタクシーが到着した事が判った。
「ちょっと苦しいかもしれないけど、辛抱してくれよ。すぐに親父に診せてやるからな」
出来るだけ負担を掛けないように細心の注意を払いながら、ゆっくりと身体が抱き起こされた。
だが抱き起こした織姫の手が渋いオレンジ色のマフラーを握り締めている事に気付き、一瞬動きが止まる。
僅かな逡巡の後、そのまま織姫は広くて大きな背中におぶわれた。
そこから先の記憶は無い。
温かな背中に身体を預けた織姫は、そのまま意識を手放した。
パタパタと廊下を歩くスリッパの音に、織姫は目を開けた。
しばらく瞬きを繰り返す。
ぼんやりとした意識は相変わらずだったが、今居るのが、見慣れた自分の部屋ではない事だけは判った。
小花模様を散らした壁紙と、淡いライムグリーンの天井とカーテン。
視界の端に見えるパイプベッドの白い柵……そのどれもに、憶えが無い。
「あれ……ぇ……?」
ボソリと呟いた丁度その時、軽いノックの音がして、ドアが開いた。
「お、目ェ覚めたか。気分どうだ?」
「黒崎……君?え、此処って……」
手に小さな盆を持った制服姿の一護が傍に立つ。
織姫が事情を理解していない事に気付き、『まあ仕方ないか。昨日はお前、意識朦朧としてたもんな』と苦笑いを浮かべた。
「とりあえず結論から言う。お前が罹ったのは、風邪じゃなくてインフルエンザだ。しかも症状はかなり重い。
俺とたつきが処置の間に合う段階でお前を見付けたから、まだこの程度で済んだが、手遅れになって肺炎か脳炎を起こしてたら命に関わったんだぜ」
「そう…だったんだ」
インフルエンザと聞いて、なるほどと思う。
あの急激な発熱などの体調の悪化は、言われてみれば、よく耳にするインフルエンザの初期症状だ。
「夜の間に点滴を打っておいたから、少しは身体がラクになってるだろ。でも薬で熱が下がってるだけだから、当分安静にしてろよ」
盆をベッド脇の小机に置き、『ほれ』と差し出された電子体温計をゴソゴソと脇に挟む。
一分程でピピッと電子音がして、体温計が計測終了を告げる。
受け取った一護が数値を見て、片眉を上げた。
「うん、やっぱな。下がったっつーても、まだ38.3度ある。ちなみにウチに運び込んだ時には、39度を軽く振り切って40度近くまで上がってた。
よってお前は回復して自力で動けるようになるまで、最低一週間はウチで入院だ。当然学校も休み。判ったな?」
「え…え、入院?インフルエンザで…??」
確かに昨晩は身体がバラバラになるんじゃないかと思うほど、全身が痛くて苦しかったが……今は然程でも無い。
高齢者ならともかく、インフルエンザで入院などするものなのだろうか。
一護の表情が、ふと改まる。
口にしたものかと、一瞬迷うように。
「基本は適切な薬を処方して、家で安静にしとけって言う所だ。
でもお前は……家に帰っても、具合の悪い自分を看てくれる家族が居ないだろ?」
「あ……」
もう自分を看病してくれる兄は居ない。
どんなに苦しくても辛くても、腹が空けば自分で用意しなくてはいけないし、清潔な物を身につけていたいと思うなら洗濯だってしなくちゃいけない。
高熱を出して身動きの取れなくなるような病人が、一人で居るべきではないのだ。
「……こんな言い方して悪い。でも、此処に居た方が絶対早く回復する。それは保証するぜ。
着替えの洗濯とかは、毎日たつきが寄ってくれるって言ってるからさ」
「うん……ありがとう、黒崎君。昨日の電話、ずっと取れなくて……ごめんね?」
本当にあの電話が一護からだったと、確かめた訳ではない。
だが不思議と確信があった。
朦朧とする意識の中でずっと響いていたコールは、彼が自分を呼ぶ声に聞こえたから。
しっかりしろ、頑張れと励ますように。
「今度からお前の意見は却下な。具合が悪いと俺が判断したら、引き摺ってでもウチの親父に診せる」
照れた顔を隠すように、ふいっと一護がそっぽを向く。
その仕草が、自分の勘は間違っていなかったという証だった。
「……あたしね、お兄ちゃんが亡くなってから……お医者様を避けてたの」
「井上……」
ぽつりと口にされたその言葉に、一護が軽く目を瞠る。
「あの時お世話になった黒崎君のお家を、という訳じゃなくて……
お医者様に行くと、どうしても色んな事でお兄ちゃんが亡くなった時の事、思い出すから」
消毒液の匂い、無機質な診察室、白衣。
それらの全てが息苦しさを憶えさせる。悲しい記憶を引き摺り出す。
「だから昨日、黒崎君がお父さんに診てもらえって言ってくれた時も……本当は具合が悪い事判ってたけど、行けなかった」
「―――そうだったのか」
やはり変わり無く見えたのは、織姫が精一杯隠そうとしていたからだったのだ。
数時間であれほど具合が悪くなったという事は、少なくともそれ以前から少なからず兆候はあった筈なのに、
何故彼女が頑なに医者に行く事を拒んでいたのか不思議だったが……それで、得心が行った。
「でもこの病室は、ずっと怖いと思ってたイメージとは全然違う。花柄の壁紙とか、真っ白じゃない天井とかカーテンとか……とても可愛いね」
「ああ……ウチの内装は、二年程前に遊子の意見を入れて随分変えたんだ。
『真っ白いだけの病室じゃ、余計に具合が悪くなりそうで嫌だ!』……つってな。
病室だけじゃなく待合室や診察室も同じ内装だから、ウチの病院部分は何処もこんな感じだぜ」
「そっか……妹さんが、この部屋を作ってくれたんだ……」
トラウマになっていた病的な白さが、此処には無い。
目に優しい淡い色使いは、とても心地よかった。
なおかつ壁越しに女の子達の微かな話し声と、賑やかな大人の男性の声が聞こえてくる。
一護の妹たちと、父親だろう。
ピキッとこめかみに青筋を浮かべた一護が病室を出ると、
すぐに『うるせぇ!病人が居るんだから、ちょっとは気ィ遣って静かにしてやがれ!!』…という彼の声と共に、
ゴンという鈍い音と、『ぐおっ!』という男性の苦悶の声が聞こえて来る。
ガチャリと再びドアを開けた一護が、申し訳無さそうに頭を下げた。
「朝っぱらから騒々しくて悪ぃな。学校の方には俺とたつきで話通しとくから、ゆっくり寝てろ。
あと胃が空っぽじゃ薬も飲めねぇから、ちょっとだけでもソレ腹に入れとけよ」
一護がベッド脇の小机に置かれた盆を指差す。
こくん、と織姫が頷いた。
「うん、ありがとう。行ってらっしゃい」
『おう』と軽い返事をすると、一護の姿はドアの向こうに消えた。
織姫はそろそろと身体を起こした。
まだ身体を動かす度に全身が錆びたようにギシギシ言うが、少なくとも今はあの異常な悪寒はしない。
起き上がれるようになっただけマシだろう。
小机に置かれた盆の上には小さな土鍋。そして薬包。
コップとミネラルウォーターの入ったペットボトルは予め置かれていたようだ。
コトリと土鍋の蓋を開けると、温かな湯気の立つお粥が軽く盛られていた。
土鍋を重石にして、折り畳まれた紙がある事に気付く。
広げて見ると、それは短い手紙だった。
『食欲無くても、食わないと治らねぇぞ。メシ食ったら、忘れないように薬も飲めよ』
クスッと笑いが零れる。まさか、このお粥も一護が作ってくれたのだろうか。
そうかもしれない。
違うのかもしれない。
でも自分が目を覚ましていなかった時の為に彼がこの手紙を書いてくれたのは確かで、その気遣いが素直に嬉しかった。
「どうもお世話になりました!」
一週間後、無事に回復した織姫は黒崎医院を退院した。
たつきが自宅から持って来てくれた荷物を手に、見送りに出た一護に律儀にペコリと頭を下げる。
「回復したっつっても、ほぼ一週間寝込んでたんだから、まだ無理すんなよ。
メシとかはしばらくたつきが面倒みてくれる事になってるし」
「うん、色々ありがとう。でもさっきの入院費用の精算、本当にあれで良かったの?」
申し訳無さそうに、織姫が眉を寄せた。
一週間個室に入院していたのだから、相当な費用が掛かる事は覚悟していた。
親戚の援助で生活している身なのでほとんど貯えは無いが、今回ばかりはなけなしの貯金をはたくつもりでいた。
だが先ほど一護の父から手渡された精算書には、『計三千五百円』と書かれていたのである。要するに日額五百円だ。
仮に一日三千五百円だとしても、普通の病院で個室で入院していると思えばまだ安い。
驚いて確認したら、一護の父は豪快に笑って、
『君は一護のクラスメイトなんだって?だからお友達価格だ!元気になってよかったな!!』
……と言ってくれたのである。
「お薬代も部屋代も食事代も込みで一日五百円なんて、お友達価格だって言っても破格過ぎると思うんだけど…」
「親父がそれで良いって言ってんだから、良いんだよ。あんま細かい事、気にすんなって」
色んな事情を知った上での厚意だと判っている。自分が、すっかりその厚意に甘えている事も。
だが実際、一日一万円で一週間分も請求されたら無一文になりかねなかったので、その気遣いが正直ありがたかった。
「あ…それと、このマフラー返さなきゃ」
「ん?」
織姫が荷物の一番上に置かれていたマフラーを取り出し、一護に差し出す。
「よく憶えてないんだけど、黒崎君とたつきちゃんが来てくれた時、あたしこのマフラーを握り締めてたらしいのね。
だから荷物の用意してくれたたつきちゃんも、あたしの物だと思ったみたい」
「あー…そういや、ガッチリ掴んで放さなかったな。あの時は慌ててたから、そのままこっちに持って来ちまったんだけど」
ほりほりと一護が自分の頬を掻く。
バタバタしていたので、織姫にこのマフラーを貸していた事実を既に忘れていた。
「可愛い色だし、本当に凄く温かかった。どうもありがとう」
丁寧に折り畳まれたマフラーを、だが、一護は受け取ろうとしなかった。
「……じゃあ、井上にやるよ。それ」
「え?」
織姫が目を瞬かせる。
「俺はあんまし寒がりじゃねぇし、それはたまたま俺の髪の色に合いそうだと思ったから買っただけだ。
こんなオレンジ頭だと、寒色系が似合わねぇんだよな」
「ああ、判る判る!私も青とか緑があんまり合わなくて」
織姫の髪も、平均的日本人と比べるとずっと明るい色をしている。誤解を受け易いが、一護も織姫もこの髪の色は生まれつきなのだ。
中学の頃にはそれが原因でいじめにもあったりしたが、色々あって今では笑い話に出来るようになった。
「俺に合うんだから、お前の髪の色にも合うだろ。気に入ったんならそのまま使ってくれ。
井上に貸した日に初めてして行っただけだから、新品同様だぜ」
「黒崎君……」
どきん、と織姫の鼓動が跳ね上がる。
だが彼女がそれ以上何か言う前に『また風邪引かれちゃ、大変だからな』と、一護が意地の悪い笑みを浮かべた。
「でもこれで、少なくとも『ウチ』に来るのは、もう怖くないだろ?」
「……うん」
小さく織姫が頷く。
今でも病院は嫌い。
消毒液の匂いと、病的な白さが嫌い。
だけど、此処は違う。
「今度具合が悪くなった時には、歩ける間に来い。
でもまた急に動けなくなるくらい具合が悪くなったら―――意識を喪う前に、せめて電話だけでもして来いよ。
夜中でも明け方でも……必ず、迎えに行ってやるからな」
「―――うん、ありがとう」
自分には、もう看病してくれる家族は居ない。
でも自分ではどうしようもなく苦しい時に、駆けつけてくれる人が居る。
織姫には、その事実が何より嬉しかった。
【FIN】
あとがき
はい、インフルエンザからの復帰後初の更新は、そのインフルエンザネタでお送りしました(笑)
39度の熱が出てる病院からの帰り道に、よろよろしながら立ち寄った本屋でBLEACHのコミックス買い込みまして。
寝込んでた約一週間は、ほとんどエンドレスでコミックスを読んでいたのですよ(^_^;)その時浮かんだのが、今回の一織SSでした。
BLEACHの二次創作は、今のところシリーズ化する予定はありません。
たまたまネタが出て来たので、じゃあ単発で書いてみようかなと思っただけなので。
ベッタリでもなく、すれ違ってもいない、微妙に両想いっぽい一織が書きたかったのです。
ちなみに当初は織姫が一護の手紙を読んだ所で終わってたんですが、マフラーネタを消化し切れてなかったんで、急遽ラスト付近を書き足しました。
更新当日に、全体の八割書き上げたってのは秘密です…(笑)
※UPから二日後に改題。改題に伴い、若干加筆しました。一護の差し入れとか、マフラー絡みネタとかをほんの数行(笑)
麻生 司