そして、伝説が始まる
バーハラの城下に歓喜の声が湧き起こる。
先のグランベル皇帝アルヴィスと、長きに渡り恐怖で圧政を強いた皇子ユリウスが斃された事で、
グランベル王国と周辺諸国は実に二十数年ぶりに完全な自由と平和を取り戻した。
人々は通りに出て歌い踊り、今日のこの日まで命永らえた事を互いに涙して喜び合った。
もう、子供を奪われる恐怖に怯えなくてもいい。
もう、戦で大切な人を喪う恐怖に怯えなくてもいい。
今を生きているという事―――その幸福を。
人々は心の底から感謝して、その平和を勝ち取った解放軍の名を、高らかに称え続けた。
「凄い灯りの数……歌声がここまで聞こえて来る」
ティニーが窓辺に寄ると、バーハラの城下には人々が灯したランプや松明の灯りが星のように煌めいていた。
歌声はいつまでも止む事無く、この城にまで聞こえて来る。
きっと今夜はこのままお祭り騒ぎが続くのだろうと、ティニーは微笑を浮かべた。
二十数年ぶりにようやく取り戻した平和―――一晩くらい、歌って踊って過ごしてもやり過ぎではないと思う。
それ程までに人々は、明日をも知れぬ命の恐怖に晒されて生きてきたのだ。
一夜くらい、そんな人々の歓喜の歌声を子守唄に眠るのも悪くはない。
バーハラ城には、セリスを始め聖戦士の末裔たちが全て入城した。
それぞれ縁のある部屋が一部屋ずつ割り与えられ――
ティニーならばフリージ公の、兄のアーサーならばヴェルトマー公が公式にバーハラを訪れた際に使う部屋だ――もう寝んでいる筈だ。
―――でも、まだ眠るには少し惜しい夜。
ティニーもそんな想いに駆られて、未だに寝む準備はしていなかった。
窓辺から外を見渡し、流れ聴こえる歌声に耳を傾ける。命の歌声。平和の証を―――どのくらい、そうしていたのだろうか。
コンコン。
小さなノックの音に、ティニーは瞬きした。
もうかなり遅い時間になって来ていると言うのに、一体誰が訪ねてきたのか。
「……ティニー、起きてるかい?」
「セティ様?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、間違いなくセティの声で。
驚いたティニーは慌てて鍵を外して扉を開けた。
細く開いた扉の向こうで、セティが口元に指を立てて『静かに』と囁く。ティニーは出来るだけ音を立てないように、そっと扉を開けた。
「どうしたんですか?こんな遅くに」
セティはいつもの服の上から、大ぶりのマントを羽織っていた。明らかにこれから何処かへ出掛ける出で立ちである。
「君を誘いに来たんだ。これから、少し城下へ出てみないか?」
「え、これから?」
確かに、少し城下に行きたい気分ではあった。
楽しそうな歌声や止む事の無い楽器の音色が、少しも眠くさせてくれないのも事実である。
普段控えめで大人しい印象のあるティニーだが、意外にこういう所は、奔放だったという母譲りなのかもしれない。
ティニーは頷くと、差し出されたセティの手に自分の掌を乗せた。
城下は城で見ているよりも、ずっとずっと活気に満ちていた。
普段ならばこんな時間まで起きている子供を親が窘めるのだが、今夜ばかりはどんな小さな子供もまだ笑顔で外を駆け回っている。
「賑やかだろう?」
「びっくりしました。子供までこんなに大勢居るなんて」
「風の精霊に、楽しいから外に出て来いってずっと呼ばれてたんだ。でも一人で来たってつまらないだろう?」
セティとティニーは、衣服の上からマントを羽織っただけの軽装で城を出て来ていた。
城門の見張りには一応断わって出て来たが、番兵が苦笑していた所を見ると、どうも城下に出て来たのは自分達だけではないらしい。
「風の精霊に…ですか?」
大きな瞳を瞬きさせたティニーが、思わず繰り返す。
「うん。ちゃんと姿が視えたり、声が聞こえる訳じゃないんだけどね……何となく、気配で判るんだ」
早く出ておいでと。
風に乗って聞こえて来る城下の声や音楽は、明らかにその距離を無視してセティの耳に届いたのだと言う。
恐らくそれは、セティを城下に誘う風の精霊の悪戯だったのだろう。
「でも実は、僕も来てみたかったんだ。だって城下に灯る光はこんなにも温かで、歌声は本当に楽しそうだったから」
そしてきっとそれは、父であるレヴィンの血が為せる想い。
バーハラの悲劇を生き延びた後は、文字通り生まれ変わったような印象を受けるレヴィンだが、
シグルドやキュアンが存命の頃は、吟遊詩人として軍の士気を鼓舞する事もあったらしい。
亡くなった母やオイフェ、シャナン達からも同じような話を聞いたので、間違いなくそれも父の持つ側面の一つだったのだろう。
「ほら可愛いお嬢さん、この花冠をどうぞ」
「こっちの兄さんにもだ!」
「可愛い恋人を壁の花にさせてちゃいけないな。こっちに来て一緒に踊りなよ!」
広場に差し掛かり、人垣の外側で踊りの輪を見ていた二人は、左右から花冠を被せられ、小さな花束を握らされ、
いつしか踊りの輪の中へ引っ張り込まれていた。
びっくりしている暇も無く、あっという間に新しい曲が始まる。
「踊っていただけますか、ティニー?」
「私でよければ喜んで」
片目を瞑り、道化のような仕草でセティが膝を折って礼をする。ティニーもドレスの裾を引くようにマントの裾を軽くつまんで、その手を取った。
わざと大袈裟にやって滑稽に見せているから周囲は気付いていないが、見る者が見れば、彼らが貴族に連なる者だとすぐに判っただろう。
数曲続けて踊った後、ようやく二人は踊りの輪を抜け出した。
こんなに続けて踊ったのは初めてだったが、ワルツなどとは違い、
音楽に合わせて思うままに自由にステップを踏んでいくのはとても楽しかった。
軽く息切れした顔を見合わせ、互いに笑みが零れる。そんな二人の背を、ポンと叩く手があった。
驚いて振り向いた視線の先に居たのは、共に解放軍で戦った踊子と黒騎士―――リーンとアレスである。
「驚いた……リーンとアレスか」
「驚いたのはこっちだぜ。お堅いともっぱら評判のお前達が、頭に花冠載せて踊ってるんだからな」
踊っている所を見られたと知った二人の顔に少し朱が差したが、アレス達は好意的な笑みを浮かべただけでそれ以上は触れてこなかった。
思わず踊りだしたくなるような空気が、今はこの地に満ちている。
少しくらい羽目を外したとしても、それもこの空気がさせた事だと素直に思えた。
「リーンとアレスも抜け出して来たの?」
「そうよ。だってこんなに楽しくて素敵な夜に、お城でじっとなんてしてられないもの」
リーンがにっこり笑って、くるりと手の飾り布を翻す。
ブレスレットに付けられた小さな鈴が、しゃらりと涼やかな音を立てた。
「俺たちだけじゃないぜ。向こうの方で、娘達に囲まれて鼻の下を伸ばしてるファバルを見た」
「レスターとパティ、リーフ王子とナンナも見掛けたわよ」
セティとティニーが顔を見合わせる。
確かにこれだけ抜け出しているのなら、今更自分達が出て行っても番兵は止める気にもならなかっただろう。
「流石にセリスやシャナン王子は無理だったみたいだがな。しかしお前達も、他に聞こえるように名前を呼ばないようにしろよ」
「え、どうしてですか?」
不思議そうな顔をしたティニーに、リーンが応えてくれた。
「あのね、あんまり自覚ないかもしれないけれど、自分で思っている以上にあたし達の名前は人に知られてるの。
聖戦士の末裔であり、そして今では解放軍の中枢となった……あたし達の名前はね」
未だ解放軍に名を連ねず、ダーナの城下町で傭兵稼業をしていた頃のアレスでさえ、その名の効力は絶大だった。
アレスやセティは特に聖遺物を継承する直系であったから、余計に名が知られ易かった。
そういう意味でティニーやリーンは然程名は知られていなかった筈なのだが、それも昨日までの話である。
長きの戦を終結させた解放軍の中枢にあった聖戦士の末裔達の名は、
義勇兵として集っていた兵士たちや吟遊詩人の口から、今日一日で一気に世に広まったのだ……
「だからうっかり周りに気付かれたら、お忍びじゃ済まなくなるわ。まず間違いなく動けなくなるから」
「ありがとう。肝に銘じておくよ」
真面目な顔でそう返事をしたセティの肩を、ぽんとアレスが軽く叩く。
「まあそう深刻に受け止める事もないさ。万が一バレそうになったら、冗談だって笑い飛ばせば誤魔化せる」
「それでさっき、あたし達も逃げて来たんだもんね」
「何だ、そうだったの」
微笑を浮かべたリーンの肩を、アレスがごく自然に抱き寄せる。
その姿を目にして、ティニーは微笑んだ。
アレスもセティと同じ聖戦士の直系だが、セティとは違う意味でアレスも苦労して成長した。
幼い頃に父を亡くし、母も病で喪って、傭兵団に身を寄せて生きて来たのだ。
王族でありながら市井で育ち、だが彼にしか扱えないミストルティンは、間違いなくアレスの出自を明らかにした。
そんな中でアレスは、生粋の王宮育ちでは持ち得なかったフランクさと、市井にただ生きるだけでは得られなかった誇り高さを身に付けたのである。
しかし如何に強靭な精神力を持っていたのだとしても、そんな生活が重圧に思わなかったといえば嘘になる。
一体自分は何の為に生きているのか。ただ聖遺物を継承するだけの器なのか。
戦いすらも、ただ死に場所を探しているだけのような感覚に捕らわれ始めた頃―――アレスはリーンと出逢ったのである。
『好きだって思う事に、理由が必要?好きだから一緒に居たいって思うのが、そんなに不思議な事なの?』
いつかティニーが、リーンから聞いた言葉である。
アレスとリーンは軍を休めている時など、特に何をするでもなく寄り添って居る事が多かった。
二人で何をしているのかという問いに対する、これがリーンの答えだった。
何もしていない。時には会話すらない事もある。だがそれでも互いの存在が傍に在ると感じるだけで幸せなのだと―――
リーンはそう言って、華のような笑みを見せたのだ……
アレス達と手を振って別れてからも、セティとティニーはしばらく城下を歩いた。
大通りでアーサーとフィーともすれ違ったのだが、お互い小さく手だけ振って言葉は交わさなかった。
どうやら向こうも、うっかり呼び合う名前を聞かれて囲まれかけたらしい。
この分では大人しく城に残っている顔ぶれの方が少ないのは明らかだった。
「ティニー、ちょっと待って」
「どうしたんですか?」
小さな声でティニーを呼び止め、セティが通りの脇に出ていた露天の前で立ち止まっていた。
すぐに戻って来た彼の手にあったのは、硬めの紙で作られた小さな袋に入れられた色とりどりの砂糖菓子。
「わあ、可愛い!」
「一度どんなのか食べてみたくて」
ぽん、と一粒空中に放り上げた砂糖菓子を、器用に口で受け止める。
「甘い。でも美味しいよ」
「凄い、セティ様上手!」
「実は昔、結構練習したんだ」
意外なセティの特技と、その特技を身に付けるまでにあった彼らしい努力を知り、ティニーが笑い声を上げた。
二人がこっそり城に戻ってきたのは、すっかり夜も更けた頃。
門番は交代していたが、大勢抜け出していた話は聞いていたらしく、名を告げると寝たフリをしてそのまま素通りさせてくれた。
そのままフリージ公専用の客間までティニーを送って来たセティは、扉の前で首から下げていた鎖を胸元から引き出した。
「ティニー、これを君に受け取って貰いたいんだ」
「これは……?」
鎖から外されティニーの掌に乗せられたのは、銀の台座に翠玉が埋め込まれ、細かな彫り細工の施された指環だった。
よく見れば指環の内側には、魔道士なら誰もが学ぶ古代グランベルの文字が刻み込まれている。
「『この指環を持つ者に風の加護があらん事を』……そう、刻まれているんだよ」
「風の加護……」
指環に嵌め込まれた翠玉が、廊下に灯された灯りにきらりと光った。
「君がどんな道を選ぼうとも、その指環を君以外に渡す気は無い。だから―――受け取って貰えないか」
「セティ様……」
それは、ティニーの心の内の迷いを読み取ったような言葉だった。
即ち、セティの求婚を受けてシレジアへ行くか、母の生家であるフリージ公爵家を継ぐか―――
「……ごめんなさい。私、まだ選べないんです」
ティニーの瞳が伏せられた。
明日にはディアドラ王女の第一子であったセリスが、正式にバーハラ王家を継承する。
そして更にその翌日には、王位を継承したセリスの前で、聖戦士の末裔達が己の去就を決断する事になっていた。
父の生家を継ぐ者、母の生家を継ぐ者、恋人の求婚を受けて共に帰国する者様々である。
兄のアーサーは、伯父であるアルヴィス皇帝が斃れた時点で、父の生家でもあるヴェルトマー公爵家を継ぐ意思を明らかにしていた。
セティの妹でもあるフィーが彼の求婚を受け、ヴェルトマーに同行する事が既に決まっている。
ティニーもバーハラ城攻略の直前に、セティから正式に求婚を受けた。
戦いが終わり、平和な世になったら、花嫁として一緒にシレジアに来て欲しいと―――だが、ティニーはすぐには頷けなかった。
兄が父の生家を継ぐ以上、母の生家を継げるのは自分しかいない。
せめて従姉のイシュタルが存命であれば彼女に全てを託せたのだが、彼女は戦場で死を選んだ。
最期まで誇り高く、高潔で、そして何よりもフリージの土地を愛した優しい従姉の為にも、フリージ領を再興させたかった。
その為には自分がグランベルに残り、領主として復興の指揮を取る必要がある。
だがそれは、セティとの別離を意味していた。
「まだ一日ある。結論を急ぐ必要はない。だけど、例え君がフリージ領を継ぐと決めても……僕の心は、君と共に在る。
対となったこの指環が、僕達の心を繋いでくれる」
セティが革の手袋を取り、自分の左手を見せる。
彼の薬指には、ティニーの手の上にある指環と同じ意匠の指環が嵌められていた。
「君は君の道を選べばいい―――自分の心に正直に。君の心が、望む道を」
ティニーの唇に、セティがそっと口付けを落とす。
「僕の心は、君の物だ」
「……ありがとうございます、セティ様」
セティの胸に頬を寄せ、ティニーが静かに目を閉じる。
シレジアとグランベルの吟遊詩人により、
長く世に語り継がれる事になるシレジア王セティとその花嫁ティニーの物語は、まさにこの瞬間始まった―――
翌夜、ティニーはフリージ領を継ぐ決意をする。
セティは領地の再興が叶えば必ず迎えに行くと誓って、彼女の決断を受け容れた。
二人が国と領地を越えて結ばれたのは、それから約一年半後の事―――
セティから贈られた指環が、シレジアの代々の王妃に継承されて来た物だと知らされたのは、
ティニーが花嫁として、シレジアに嫁いだ日の事だった。
【FIN】
あとがき
莉奈様からのリクエストで、キーワードは『聖戦後』『お忍び』でした。
聖戦がまさしく終わった直後のお話ですが、二人に絡めて『お忍び』を書くのはこのタイミングがいいかなと思い、敢えてこの時期のお話に。
何となく花冠を頭に載せて、腕を組んで踊っているセティとティニーの姿が思い浮かんだのですよ(^_^)
セティが持っていたシレジア王妃に継承される指環は、元々亡くなったフュリーからフィーが預かっていた物です。
そして兄に再会した後、フィーがセティに渡した。
シレジアの王妃に継承されるものであるなら、いずれ兄が花嫁に選んだ女性に渡すべきだと。
勿論セティのしていた方の指環は、父のレヴィンから受け継いだ物。時期的には、レヴィンとの再会後すぐという辺りでしょうか。
その指環を受け継ぐという事は、即ち王位を継承するという事。
レヴィンから指環を受け継いだその時に、セティは父が二度と国に戻る気がないと悟ったんですね。
ウチのサイトのカップリングを踏襲してお話を考えたので、アレス×リーンにも登場して頂きました。
他にも名前だけですがレスター×パティやリーフ×ナンナ、アーサー×フィーも。
莉奈様、もしもあまり好きじゃないカップルが入っていたら御免なさいm(__)m
麻生 司