今すぐじゃなくていいの。

でもいつか、小さくてもいいから庭があるお家に住めたらいいな。

昔読んだ物語に出てくるような、切妻屋根のお家。

庭にはブランコを置いて、もし広さに余裕があれば、譲君に教わってガーデニングもやってみたい。

一人なら手入れが大変かもしれないけど………と一緒なら、きっと楽しいから。







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「望美、今日は私が家の事をするから良いと言っただろう。お前は居間でゆっくりしていなさい」
「でも、じっとしてると退屈なんだもの。洗濯物くらい、私が干しますから」
「いいから。向こうでテレビでも見ていなさい」
「……はぁい」


外は快晴。
空は一面、鮮やかな青が広がる文字通りのスカイ・ブルー。
まだ少し暑いけど、真夏の熱気は流石に薄れた九月の休日。
大切な人と過ごすこんな日は、本当はとても楽しい筈なのに。


「―――なんか、複雑」


望美は手際良く洗濯物を干すリズヴァーンの背中をしばらく見ていたが、居間のソファに腰を下ろすと、ふう、と小さく吐息をついた。




望美とリズヴァーンが入籍したのは半年前の事。
望美の短大卒業を待って―――正確には卒業式そのものより、入籍の方が若干早かったのだが―――籍を入れた。
リズヴァーンは式を挙げるかと尋ねてくれたが、望美の返事は別に『式は挙げなくてもいい』……だった。



結婚式は確かに一大イベントではあるが、式を挙げなくても婚姻自体は成立する。
必要事項を記入、押印した婚姻届けに必要な書類を添付して提出すれば、それで十分なのだ。
一般に言われる『国際結婚』だと手続きだけでも相当掛かるのだが、
リズヴァーンは条件を満たし、既に日本に帰化しているのでその点は至極スムーズに済んだ。

親しい友人達を招き、自分の一番大事な人を披露したくなかったのかと言えば、嘘になる。

一昔前と最近では随分結婚式事情が変わってきたとは言え、やはり式に招くのはごく親しい友人や親類だ。
だがリズヴァーンは、この世界の友人がそう多くない。両親も十年ほど前に相次いで病死した事になっている。
白龍の力によってもたらされた『リズヴァーン・ヴィノルグ』という人物の経歴は申し分なかったが、
現在の仕事やその延長線上にある知人はともかくとして、幼少時代や学生時代を共に過ごした友人は、当然の事ながら居ない。
そこまでは、白龍の力も及ばなかったのだ。


だから、望美は式を挙げなかった。
将臣と譲は全ての事情を知っているから問題は無いのだが……
仕事関係以外でのリズヴァーンの親しい友人と言えば、未だに彼等だけと言っても過言ではない。

また自分の両親ともう一組の親とも言うべき有川夫妻は、リズヴァーンが幼い頃に負った火傷の治療で来日して、
そのまま帰化したロシア人―――と言う事になっている―――であり、兄弟も無く、既に両親が他界している事も知っている。
まず伝えなくてはいけない人が全てリズヴァーンの事を知っているのなら、敢えて式を挙げる必要は無いと。
遠くの親類や友人たちには、入籍後に手紙で報せれば済む事である。

ちなみに婚姻届には本人たちの署名押印の他に、それぞれ証人の署名と印が必要になるのだが、
望美側の証人は有川夫人が署名をし、リズヴァーンの方は快く将臣が引き受けてくれた。





新生活は式を挙げなかった事もあり、割と唐突にスタートした。
望美の卒業論文が受理され、卒業が確かになった三月始めの事である。
入籍当日、迎えに来たリズヴァーンと共に両親の前で挨拶をした後、役所に出向いて婚姻届を提出し、
望美の実家からもあまり遠くない、新居であるマンションに歩いて帰った。
もっともそれ以前から二人で暮らす為の部屋を探したり引越しの荷物を入れたりしていたので、心の準備は出来ていたのだが。


リズヴァーンは師としては勿論申し分の無い人物だったが、
実際に一緒に暮らし始めて判ったのは、彼が夫としても十分過ぎるほどの出来た男だという事だった。

平日は取材に出掛けたり、自宅の一室に設けた仕事部屋で主に執筆活動をしている。
だが基本的に土日はオフで、掃除や買い物を手伝ったり、時には食事の支度までしてくれた。
よく男性には『料理はするが後片付けをしない』という一面が見受けられるが、この点、リズヴァーンは譲に通じる物があった。
曰く『後片付けまで含めて料理』……である。
自宅に居る時は必ず二人一緒に食事をするのだが、いつの間にか支度は望美、後片付けはリズヴァーンというのが基本の役割になっていた。



休みの日に、家事を手伝ってくれるのはありがたい。
だが『何もしなくていい』と言われてしまうと、正直、困惑してしまうのも事実だった。

望美は短大でデザイン関係を学び、今はリズヴァーンのサポートをしている。
誌面のレイアウトや記事で使う写真を撮影したり選んだりするのだが、実際に記事を書くリズヴァーンとは違い、いつも忙しいわけではない。
取材旅行などに同行すれば話は別だが、どちらかと言えば暇な時間が多いくらいだった。
一応やった仕事の分だけ彼女自身の口座に報酬が振り込まれる為、在宅ワークとしては申し分ないのだが。

仕事の上ですぐに手伝える事がないのだとしたら、後は家庭の事を切り盛りするのが主婦の仕事だと望美は思っていた。
例えリズヴァーンが家事に疎く、全く手伝いもしなかったのだとしても、それはそれでいいと。

夫には夫にしか出来ない仕事があり、それで日々の糧を得ている。
妻である自分は夫が快適に仕事が出来るように、陰になり日向になりながら助けるものなのだと。
だが蓋を開けてみればどうだろう。
世間の多くの主婦が泣いて羨ましがるような細やかさで、リズヴァーンは新米主婦の自分を助けてくれた。


『私が休みの日くらい、お前はゆっくりしていなさい』
『買物か?午後に出版社に出掛ける用事があるから、帰りに私が行って来よう』


こんなに物分りが良く、協力的な夫に不満など言っては罰が当たる。
そう思ってはいるのだが、こっそり出て来るのは溜息ばかり。

何故なら今日は―――


「……私の、二十一回目の誕生日なんだけどなぁ」


やはり日々の雑事に紛れて忘れてしまっているのだろう。
先週、先々週の週末と全く変わらぬリズヴァーンの様子に、望美はもう一度溜息をついた。





時計の針が丁度正午を差す頃、リズヴァーンは傍らの望美に声をかけた。

「望美、今日の昼は外で食事をしないか」
「え?いいですけど…」

隣に座って雑誌を見ていた望美が時計に目をやり、もうそんな時間だったのかと気付く。
どうもぼんやりしていて、時間の経過に無頓着になっていたらしい。
すぐに支度をすれば半時間足らずで何か作れるのだが、こんなに天気が良いのだから、外に出掛けるのも悪くない。

「少し歩かなくてはいけないが、いい店がある。支度が出来たら出掛けよう」
「はーい」

明るく返事をすると、ちょっとだけ気分が上向く。
例えリズヴァーンが誕生日を忘れてしまっているのだとしても、二人で一緒に出掛ける事が出来れば、それはそれで望美にとっては嬉しい贈り物だ。
形のあるものばかりが贈り物ではない。
傍に居られる事―――それだけで十分だった。





リズヴァーンが望美を案内したのは、パスタの美味しい店だった。
何でも懇意にしている出版社の担当編集者から教えて貰ったらしい。
美味いと口コミで評判になっているのだが、未だ雑誌などには紹介されていない穴場の店だ。

そこで食事を摂った後、彼は望美に『少し寄りたい所がある』と口にした。

「此処からそう遠くない。天気も良いし、付き合って欲しいんだが」
「いいですよ。丁度食後の運動にもなるし」

真っ直ぐ自宅に帰ってしまうには、あまりに惜しい晴れた空。
帰宅しても特に予定は無いのだから、散歩と思えば、リズヴァーンに付き合うのは苦も無かった。





寄り添うように片腕を取る望美に併せて、リズヴァーンはゆっくりと歩を進めた。
てっきり仕事の用だと思っていたのだが、彼はオフィス街には出ようとせず、どちらかと言えば閑静な住宅街の中を歩いていく。
足取りには迷いが無いので、間違ってはいないのだろう。
もしかしたら知人の自宅に用だったのだろうか。

昼食を摂った店から十分程歩いたとある家の前で、リズヴァーンは不意に足を止めた。


「リズ…?」

結婚して半年になるが、『リズ先生』と呼ばなくなって
からは四ヶ月くらいだ。
『貴方』と呼ぶ事もあるが、時々は意識して名前で呼ぶようにしている。
とはいえ、昔の呼び掛けが自分の中で定着し過ぎている為に『リズヴァーン』とはなかなか呼べず、愛称の『リズ』と呼ぶのが精一杯だったのだが。

「こちらのお家に御用だったんですか?」
「ああ、そうだ」

並んで目の前の家を見上げ、リズヴァーンが頷いた。




決して真新しくはないのだが、それは静かな住宅街の中に建つ、手入れの行き届いた小綺麗な一軒家だった。
白い壁に深い緑の切妻屋根が、『赤毛のアン』のグリーン・ゲイブルスを思わせる。
敷地の中には一台分の車庫と芝生の敷かれた庭があって―――その片隅には、小さな白いブランコが置かれていた。


「……なんだか、ずっと夢に描いていたお家そのものだわ」


切妻屋根に、芝生の庭には小さなブランコ。
庭に彩りを添える季節の花。

今すぐでなくてもいい。
でもいつか大事な人と一緒に、こんな家に住めればいいと思っていた。
思うは易いと、いつも考えてはいたけれど。


「私も、そう思った。だからこの家にしようと決めたのだ」
「え……?」

驚いたように望美が振り返る。
リズヴァーンは望美の肩を抱き、青い瞳に彼女を映した。

「いつか言っていただろう?小さくてもいいから庭のある、切妻屋根の家に住みたいと。
 庭にはブランコを置いて、譲に教わってガーデニングもやってみたいと。
 一人なら大変な手入れも、私や子供と一緒ならきっと楽しいから―――とな。
 望美、誕生日おめでとう。この家はお前と……もうすぐ生まれてくる、私達の子への贈り物だ」



そう―――望美は入籍して直に、リズヴァーンの子を身篭っていた。
リズヴァーンが殊更望美の身を気遣っていたのは、彼女の身体が既に彼女一人の物ではなかったからだ。
例え懐妊していなかったとしても、彼の誠実さや気遣いは少しも変わらなかったと思う。
だが身篭った事で、時に望美自身が申し訳なく思うほどリズヴァーンに大切にされたのは事実だった。




「先生……憶えていてくださったんですか?私、家の事は一度しか言わなかったのに……」

夫婦となる前の呼び名に戻ってしまっている事にも気付かぬまま、望美の瞳に涙が滲む。

「憶えている。何があっても忘れたりしない。
 お前の言葉であれば、どんなに些細な事であっても……な」

妻の目元を拭い、リズヴァーンは穏やかに微笑んだ。


同じ時を共に過ごし始めてから、四回目の誕生日。
そして、かつて一度だけ口にした子供の戯れのような夢さえ、リズヴァーンは憶えていてくれた。

日々の雑事に紛れて誕生日など忘れてしまったのだと、一瞬でも思ってしまった自分が恥ずかしい。
彼はこんなにも大きく深い愛情で、いつの日も自分を包んでくれていたのに。


「子供が生まれれば、今の部屋では直に手狭になるだろう。
 出来るだけ早いうちにと新しい家を探していて……偶然、売りに出されていたこの家に巡りあった」




この家は、築七年になるという。
元は老夫婦の物で、夫が定年退職したのを機に新築したこの家に、横浜から引っ越して来たのだそうだ。
だが昨年の秋、長年患っていた持病が元で夫人が体調を崩し、医者から空気の良い地方への転地療養を進められた。
彼等には相続させるべき娘夫婦が居たが、その娘夫婦も孫を連れ、ドイツへ長期の海外赴任をしていた。
相談の結果老夫婦は家を手放し、医療設備と環境の整った地方の、終身世話になれる保養施設へ入る事を決めたのだと言う。
それが今年の初夏の事だ。


「今のマンションに移った時にも世話になった不動産屋に事情を話し、転居先を探していたら、一度此処を見てみてはどうかと進められてな。
 急いで手放す必要も無いが、出来れば荒れてしまう前に買い手がつけばいいと、当初老夫婦は言っていたらしい。
 立地条件も悪くないし、金銭面でもすぐに折り合いがついた」


リズヴァーンは不動産屋を介し、既にその老夫婦にも直接会っていた。
身重の妻と生まれて来る子供の為に、妻が語った夢をそのまま形にしたようなこの家を贈りたいのだと話すと、老夫婦はとても喜んでくれたという。
庭のブランコは、三歳まで日本で暮らした孫の為に置いた物だった。
雨風に晒しているので少し傷んではいるが、出来れば手直ししてそのまま使って欲しいと。
リズヴァーンがその申し出をありがたく受け容れた事は言うまでもない。


「お前さえ良ければ、明日にでも正式に契約出来るように話は進めてある。どうだ?」
「こんなに素敵な贈り物を貰ったのは、生まれて初めてです。先生……リズ、本当にありがとう!」




この人が夫でよかった。
この人が生まれて来る子の父親でよかった。
この人を愛せて、本当によかった。

数多の運命を流転したが、自分は間違いなく幸福だと胸を張って言える。



「大変な時期に、また引越しをさせてしまう事になるがな」

「あはは…また将臣君と譲君にお願いしないといけませんね」



今の家に荷物を入れる時も、随分二人には助けてもらった。
将臣が車で何度も往復して荷物を運び、譲は搬入と片付けを手伝ってくれたのだ。
勿論春に引っ越した時は望美も荷物運び等に精を出したが、妊婦となった今では、一切力仕事は手伝わせて貰えないだろう。

望美の頼み事には全く骨惜しみしない二人だからこそ、今後もきっと頭が上がらない。
彼らは自分達にとって血の繋がらない兄であり、弟に他ならなかった。




「ようこそ、此処へ。
 此処が私達にとって、新たな幸福の始まりの地であるように」


差し伸べられた手に、そっと掌を重ねる。
老夫婦が庭に植えたコスモスが新しい住人に挨拶するかのように、そよそよと風に揺れた。

                                                                         【FIN】


あとがき

真朱蓮様からのリクエストで、キーワードは『望美の誕生日』『夫婦』でした。
『誕生日』というお題を目にした時に、何となく『贈り物』という単語がセットで頭から離れませんで(笑)
んじゃあ、何を贈るかなと考える事しばし。行き着いた先が、『ブランコのある庭』=『一戸建ての家』。
先生、頑張って二十年くらいのローン組んだんでしょうねぇ…(^_^;)中古物件だし、三千万くらいと考えてたんですけど。
白龍の神力で、一千万近い預金がリズ先生の口座には最初からあったんですけど(『貴方が此処に居るだけで』参照)、
家一軒ポンと買える額じゃないですし、日々の生活もあるし。
新居のイメージになった『赤毛のアン』のグリーン・ゲイブルスは、アンとマリラとマシューが住んでいた家の事です。和訳すると『緑の破風館』…となる筈。
久し振りに『赤毛のアン』読みたくなった。実家に置いてきちゃったんだよな…
望美ちゃんが『脱先生呼び』をするエピソードは、いずれ遙か3部屋の方で。(←実は既に書き上がってる。お題の最後にUPする予定)
望美ちゃんの誕生日(九月中旬)は、私がロードした時のデータを元に設定してます。

リズ先生についての、現代生活の裏設定とか。
永住とは、外国籍を持ったまま日本に住む事を望む事。つまり「在留期間の更新」手続きがなくなります。
帰化とは、一定の条件を満たした上で日本国籍を取得する事。つまり帰化が認められた時点で、金髪碧眼でも立派な日本人。
国際結婚には様々な諸手続きと時間が必要なのですが、帰化して日本人として扱われるウチのリズヴァーンなら、
通常の日本人同士の婚姻と同じだろう…という前提になってます。
ちなみにリズ先生の場合は参照サイトで言う所の法第五条を適用しています。 コチラを参照させて頂きました。→外国人手続きなび
帰化した場合、日本の姓(田中とか佐藤とか、所謂漢字の名前ですね)を取得しなくてはいけない…という話も昔聞いたような気がするのですが、
少なくとも今回このお話を書く為に調べている時にはそのような条件を目にしなかったので、敢えて触れない事にしました(^_^;)
……と言うわけで、このお話の望美ちゃんのフルネームは『望美・K(春日)・ヴィノルグ』と言う事で。

あと婚姻届けの提出に必要な証人の件ですが、『当事者双方に婚姻(離婚)する意志があったことを証明が出来、
当事者以外の成年に達した二名(=夫側と妻側に一人ずつ)であれば誰でも可』…だそうです。
だから譲ではなく、将臣がリズヴァーン側の証人になったのでした。(望美が婚姻届を提出する時点で譲は十九歳なので)
私自身が結婚した時は母方の伯母にお願いしましたが、実は外国の方でも証人になれるそうです。

                                                                        麻生 司



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