時の邂逅
淡い光の中で、彼女は佇んでいた。
『大好きな人と、並んで歩くのが夢だったの』
そう言って、照れたように笑う。
『クレープ屋さんやアイスクリームショップに一緒に行ったり、買い物したり映画に行ったり。
私の趣味に付き合わされてちょっと退屈しながら、それでも最後まで付き合ってくれて』
自分を見上げた大きな瞳が不意に瞠られて、頬を膨らませた。
『あ、リズ先生、今笑ったでしょ!どうせ子供っぽいですよ、私の夢なんて』
そう言えば、たった今彼女が口にした通りのコースを辿った事があるなと思い出して、忍び笑いをしたのが気に障ったらしい。
機嫌を損ねて、プイッとそっぽを向いてしまった。
―――笑ったりして悪かった。今度の休みに何処でも好きな場所に付き合うから、機嫌を直してくれないか。
ちら、と窺うような視線が向けられる。
悪戯っぽいその仕草は、本当に彼女が怒っているのではない事を示していた。
長く伸ばした髪を翻して、くるり、と望美が身体ごと振り向く。
『仕方ないなー。じゃあ、「Milk Hall」のチーズケーキセットで許してあげる』
―――ああ、判った。今度一緒に行こう。
『やったぁ!約束ですよ、リズ先生』
いつものように、微笑んで。
小鳥を思わせる身軽さで、駆けて行く。
そして―――
「…………ッ!!」
声にならない叫びをあげて、リズヴァーンはベッドの上に跳ね起きた。
開けた窓からは季節外れの涼しい風が入って来ているというのに、まるで水を被ったように汗をかいている。
『―――夢か。しかし、それにしても不吉な……』
心臓はたった今まで走っていたかのような鼓動を繰り返していた。
途中までは、何と言う事も無い夢だった。
望美と話をしていて―――ふとした事で、彼女の機嫌を損ねてしまった。
機嫌を直すように言うと、お気に入りのカフェに付き合えば許すと言われて―――
頷いた次の瞬間、まるで舞台の照明が落とされたかのように視界が暗転した。
一寸先も判らぬ闇の中で聞こえたのは、急ブレーキの音と鈍い衝撃音。
ぽつん、と一箇所だけ点されたライトに浮かび上がるように、血の海の中で横たわる望美が……視えた。
『ただの夢だとしても、縁起でもない』
リズヴァーンは頭を振り、不吉な予感を払おうとした。
だが否定すればするほど、先ほどの夢の光景がまざまざと脳裏に蘇って来る。
時計を見ると、深夜の三時を少し回ったところだった。
幾らなんでも、望美がこんな真夜中に車の通る所を歩いている事はない。
門限は事前申告すればそれほど煩くはないそうだが、あまり遅くに出歩く性質ではないのだ。
どうしても遅い時間に出掛ける用事がある場合には、ほぼ間違いなく隣家の幼馴染――将臣と譲――が同行してくれる。
たった今、彼女が一人で危険な目に遭う可能性は皆無に近かった。
「……『鬼』の力があれば、一瞬で様子を見に行けただろうに」
詮無い事を、思わず呟く。
そう―――リズヴァーンはこの世界に来てから、隠行の術(瞬間移動)が使えなくなった。
その事実に気付いたのは、この世界で暮らし始めてしばらく経ってから。
将臣に『鬼』としての力はどうなったのかと尋ねられ、自分がその力を喪っている事に初めて気が付いた。
逆を言えば、将臣に指摘されるまで喪った『力』に気付いていなかったという事になる。
今思えばそれは、こちらで生きるのに困らぬよう色々と便宜を図られた事に対しての代価だったのかもしれない。
喪ってしまった力を当てにする事は出来ない。
だが、こんな時間に根拠の無い理由で訪ねて行く事も出来なかった。
杞憂だと考えようとするのに、何とも言えない不安で胸がざわつく。
『例え鬼の力を喪っていなかったのだとしても、私に未来を知る術は無かった』
どちらかと言えば、それは星の一族の才だった。
自分の死の瞬間を、長く夢で見続けて苦しんだ譲。
自分が選ばなかった別の時間の中で、彼が無事その運命から逃れた事をリズヴァーンは知っている。
自分に出来たのは、残された逆鱗の力で時を遡り、運命を上書きする事だけ。
だが選んだ時間の中であっても、前もって彼女が辿る運命を知る事は出来ない。
だからこそ幾度も運命を上書きして、望美が生き延びる運命を探し続ける必要があったのだ。
「考え過ぎだ……しっかりしろ」
鏡の中で、頼りなげな顔をしている自分を叱りつけるように呟いて。
気分を改める為にシャワーを浴びる。
汗を洗い流し、着替えてから再び横になったが、昂ぶった神経は遂に夜明けまでリズヴァーンに眠りを与えてはくれなかった。
「一体どうしたんですか?急に『会いたい』なんてメールが来るから、何があったのかと思いました」
「……すまない。お前に何もなければ、それでいいんだ」
帰り道の途中にある公園で待っていたリズヴァーンと合流した望美は、きょとんとした顔で自分を見上げている。
何処か具合が悪いと言う事もなさそうだ。
今朝、通学前の忙しい時間に悪いと思いながら、携帯のメールで放課後に会いたい旨を望美に伝えた。
望美は今年受験生。普通に六限が終わっても、補習と言う名の受験対策授業がある。
それが終わってからになるので五時近くになるが構わないかという返事がすぐに戻って来たが、この時も特に変わった様子はなかった。
まだ陽は長い季節だが、時間はそれなりに遅い。
ついさっきまで傍の砂場で遊んでいた子供達の喧騒は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
「何も無いですよ。受験生になって学校は少し忙しくなったけど、勉強は譲君や将臣君にも見てもらってるし。
京で鍛えたせいか、風邪もひいてません」
リズヴァーンもよく知る二人の幼馴染の名を出して、望美は笑った。
将臣は京から戻ってすぐ家庭の都合と言う事にして退学したが、在学中の成績は結構良かった。
机の前に居るよりは表を走り回っている時間の方が長かった筈なのだが、
要領が良いのか記憶力が優れていたのか、とにかく毎度危なげなく試験は通過していた。
一方譲は将臣や望美よりも一つ歳下だが、典型的な秀才タイプで応用力もある。
何より教え方が上手いので、望美は判らない事があるといつも譲に尋ねていた。
ちなみに将臣は理屈よりも感覚で問題を解く閃きタイプなので、物事を教わるには向いていない。
剣技のコツを尋ねた場合に、『ダーッと行ってグッと締めたら、こうバサーッと』…という答えが返って来ると言えば、想像し易いだろうか。
望美の表情が僅かに翳る。
「私より、先生の方が顔色悪いみたい。
一昨日会ったばかりで、週末にも約束してるのに急に会いたなんて言ったのも……初めてですよね。
もしかして、昨日あまり眠っていないんですか?何処か具合が悪いとか?」
「……昨日は仕事で遅くまで起きていたからな。顔色が悪く見えるのは、そのせいだろう」
言える筈が無い。
夢の中であろうとも、望美が血の海に倒れていたなどと。
望美の幸福だけを願って三十余年を生きて来たのに、どうして自分の言葉で彼女を不安に突き落とす事が出来る?
人の言葉には魂が宿る。幸いを願う祈りにも、災いを求める呪いにも等しく宿る。
不吉な事を口にすれば、悪夢が現実になってしまいかねない。
この世界では言霊など迷信に過ぎないかもしれないが、それでもリズヴァーンは口にする事が出来なかった。
「―――先生は、本当に大事な事は私に話してくれないんですね」
「望美?」
リズヴァーンの頬に触れていた望美の手が、ゆっくりと離れていく。
軽く唇を噛み、キュッと眉を寄せたその面には、やりきれなさが浮かんでいた。
「京に居る時からそうだった。私が本当に聞きたい事には、いつも『答えられない』ばかり」
リズヴァーンが自分の身を案じていればこそと、判っていても口にせずには居られない。
「先生が何も話してくれないのは―――私が女だから?それとも、まだ子供だから?」
「望美……それは違う。私は……」
困らせたくなかった。
彼にあんな顔をさせたくはなかった。
だけど、奔流となって溢れ出した言葉は、自分の意思とは裏腹に止める事は出来なくて。
きっとそれは、澱のようにずっと胸に溜めて来た事だったから。
遠いあの日々にも、戦など無い平和なこの世界に戻って来た後にも感じていた―――僅かな距離。
「リズ先生が、私の為だと思って全てを話さないのは判ってる―――だけど、私だって先生の事が心配なのに。
話してくれないと……先生が、心に引っ掛かっている事を教えてくれないと、私は何をどうしたらいいのか判らない。
この世界に一緒に戻って来た時から、どんな困難も乗り越える覚悟は出来ているのに」
差し伸べた手を、望美の手が押し返す。
「私は、先生の何ですか?目の離せない弟子?歳の離れた妹?」
「そんな風に思った事は、一度も無い!」
間髪入れずに叫ばれたそれだけは、取り乱した望美の心にも届いただろうか。
大きな瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
「……この世界に戻って来てから、ずっと不安だった。私の『好き』と、先生の『好き』は違うんじゃないかって―――」
京なら、ありえない事ではなかったかもしれない。
一部の貴族の中には、孫と祖父ほど歳の離れた夫婦だって存在した。
だが戻って来た世界では、あまりにも二人を隔てるものが多過ぎて。
「私という存在に、貴方を縛り付けているんじゃないかって……ずっとずっと怖かった」
自分はまだ親の庇護を受けた学生で。
リズヴァーンは仕事を持った大人の男性で。
将臣のように学校をやめる事はなかったけど、いつでも心に焦りはあった。
私は、此処に居てもいい?
私は、貴方の傍に居てもいい?
どんな時も、どんなに辛い事でも、分かち合って一緒に生きて行きたいけれど。
授業を聞いている時も、自分の居場所は本当に此処なのだろうかと、ふと思う。
今すぐにでも大好きな人の傍に行きたい。
でも、彼はそれを望んでくれるのだろうか―――
かつて自分とリズヴァーンの望んだ世界は同じだったけれど、いつまでも心が変わらないという証は無い。
だから不安だった。
いつか、リズヴァーンが自分以外の誰かを選ぶ日が来るかもしれない。
そんな不安を笑顔に押し隠して、今まで誤魔化して来たけれど。
遂に、限界を超えてしまった。
「……困らせてごめんなさい―――今日は、帰ります。先生を苦しめている物が何か、私が聞かせて貰える日を……待ってますから」
髪を翻した望美の背中が小さくなっていく。
だが彼女の流した涙を目にしたリズヴァーンは、咄嗟にその背を追う事が出来なかった。
「一体どういうことなのか、説明してもらえませんか?」
譲の声は、まるで冥土に赴く死者に生前の罪過を問う閻魔のようだった。
表情は硬く強張っている。夏でもあまり焼けない色の白い額に、青筋が浮かんでいるのが見て取れた。
「泣かせた挙句に一人で帰すような人に、俺は先輩を任せる気はありませんからね」
「……済まなかった。望美を泣かせた事に対して、弁解する気は無い」
「譲、その辺で勘弁してやれ。事情を説明する気があるから、リズ先生もこうしてウチに来てるんだろ?」
将臣のやんわりした諌めに、不承不承、譲が黙る。
望美の後ろ姿を見送った後、リズヴァーンは彼女を追えなかったという事実に対して自己嫌悪に陥っていた。
どうして、すぐに望美の後を追わなかったのか。
彼女を唯一の相手と大事に想えばこそ、生まれ育った世界よりも、この世界で共に生きる事を選んだ。
何より彼女の傍に在って、彼女を脅かす何物からも守りたいと望んでいるのに―――
二時間ほど、公園のベンチに座り込んでいただろうか。
流石に日が落ちてすっかり街灯が灯った頃、リズヴァーンは意を決して春日家を訪れた。
そんなつもりでは無かったにせよ、自分の言葉と態度が望美を傷付けた。
全ての事情を話す事が出来ないのだとしても、自分が何より彼女の幸福を願っている事だけは疑う余地もなかったから。
だからせめて詫びを言いたかったのだが、望美には会えなかった。
何故かと言えば―――泣き疲れて、既に眠ってしまっていたからだ。
今日はもう彼女に会えない事を告げたのは、丁度望美を送って出て来た将臣である。
将臣は進んで事情を聞きだそうとはしなかったが、リズヴァーンが望美の涙の原因である事は察していた。
有川家で泣いていたというのなら、当然譲も気付いているだろう。烈火の如く怒っている姿が目に浮かぶ。
そして、リズヴァーンは有川家の客となった。
「先輩、自分の家にも寄らずに鞄を持って制服のままウチに来て、そのまま一時間近くずっと泣いていたんです。
理由を聞いても、黙って首を横に振るばかり。それでリズ先生と何かあったのかと尋ねたら……」
―――違うの。先生は悪くないの。先生を困らせる事を言った、私が悪いの……
「結局泣くだけ泣いて、泣き疲れて此処で寝ちまったから、俺が背負って家まで運んだってワケ。
おふくろさん達にはウチの手伝いで疲れて寝ちまった事にしてるから」
「……望美には泣き場所も、泣きたい時に黙って傍に居てくれる相手も居た。感謝している。
お前たちにも心配をかけて、本当にすまない。全ては、私の至らなさの為した事だ」
「……判っているなら、いいんです」
自分の言葉が足りずに望美を泣かせ、あまつさえそのまま一人で帰らせてしまった。
望美の事を姉妹のように大事に想っている有川家の兄弟には、彼女の代わりに殴られても文句は言えない。
開き直られたら、例えリズヴァーンでも張り倒してやろうと譲は思っていたが、将臣と自分の二人に彼は深々と頭を下げた。
これでは、幾ら譲でも詰(なじ)る事は出来ない。
「それで、一体何があった?望美は泣いてただけで、理由は言わなかった。様子で先生が絡んでるって判った以外はサッパリだ」
譲の頭が少し冷えた所で、将臣が切り出す。
譲もジッと耳を傾けていた。
「……夢を、見た。不吉な夢を」
「夢?」
思わず繰り返した将臣に、リズヴァーンが小さく頷く。
そして簡単に、昨夜自分が見た夢の内容を話した。
血の海に横たわる、望美の姿を。
「―――しかし幾ら不吉だって言ったって……夢だろ?」
「……私にも、どう説明していいのか判らない。
だが胸騒ぎがする―――何か、得体の知れないものに追われているかのように」
将臣と譲は複雑な表情で顔を見合わせ、リズヴァーンは軽く目を伏せた。
本当に、馬鹿げた話だと思う。
望美に関する不吉な夢を見た。
だが、たかが夢の話で振り回される将臣や譲、そして望美はたまったものではないだろう。
それでも確かめずには居られなかった。
他でもない彼女自身の口から。
そしていつも傍に居られる訳ではない自分の代わりに、全てを理解した上で望美を見守ってくれる彼等に。
「この際、八葉であり、星の一族の末裔でもあるお前達にも確かめておきたい。
望美の周囲で、何か変化は無かったか?」
彼女に、何か変わった事は起きていないか。
言動や行動、望美を取り巻くものに、異変は無かったか。
目に見え、耳に聴こえる現象だけではない。
六感まで含めた全てで、何か感じた事は無いか―――と。
「確かに俺達は星の一族の血を受け継いでいるが、可能性があるなら譲の方だろうな」
『なあ?』と将臣が声を掛けると、譲はちょっと眉を寄せて眼鏡のブリッジを押し上げた。
「何で俺だけ…まあ、否定はしないけど」
事実、京で自分の死を暗示する夢を見たり、亡くなった祖母から竜玉を――そうとは知らなかったのだが――受け継いでいたのも譲だ。
もしかしたら祖母も、譲の方により星の一族としての才が備わっていると知った上で、大事な玉を託していたのかもしれない。
かつて星の一族は、口伝と書簡で八葉と白龍の神子の伝承を子孫に伝えた。
後世に残す事に意味があるかどうかは判らないが、戻って来てから譲は京で体験した事、自分の知る全てをノートに書き綴っていた。
書き出しが終わったら、念の為にパソコンにも入力し直して記録を残しておくつもりである。
自分や兄の子孫が、これらの記録を全く必要としない―――という、確証が持てないのが恐ろしい所だ。
神子は京に危機が迫る度に全く別の世界から召還されるようだが、星の一族は連綿と続く血脈であるし、
残された文献で見る限り八葉は、不思議と過去にその役目を担った一族の末裔から選ばれる事も少なくなかったからだ。
その良い例が天の玄武である。
記録に残る過去三度の出現において、天の玄武は何らかの形で皇統と関わりを持つ人物だった。
また先代の地の朱雀は、当時の東宮であったとも記されている。
あの世界で唯一一族の力を強く受け継いでいると言われていた菫姫が、新たな八葉と白龍の神子を見出す為に時空を越えた。
それが将臣と譲の祖母、スミレである。つまり京の世界での星の一族は、命脈が尽きたと言っても過言ではない。
もしかしたら一族の存在が本当に必要な時代に、隔世遺伝として眠っていた才能が発現するのかもしれないが、
どちらかと言えば今後自分達の子孫に、その才が受け継がれていくと考える方が自然なような気がする。
まだ十七やそこらの歳で孫やひ孫の心配をしたくは無いが、『ありえない』と断言出来ない以上、出来る事はしておきたかった。
「不吉な事は、言葉にすれば現実になる。だから、望美には理由を告げる事が出来なかった」
「言霊……ですね?」
譲の言葉に、リズヴァーンが頷く。
「今こうしてお前たちに話す事自体も、本当は迷った。だが、全てを理解してもらう為には話さない訳にはいかない。
―――私が夢で見たのは、望美だけではないのだ」
言葉にすれば、現実となってしまうかもしれない悪夢。
血の海に横たわる望美。
その傍らで途方に暮れたように立っていたのは―――リズヴァーン自身だった。
「夢の中の私は『鬼』の姿をしていた。『今』の私が、倒れている望美と『鬼』の私を見ていたのだ」
事態が飲み込めない自分の目の前で、『彼』は望美の傍らに跪いた。
かつて幾度と無く経験した絶望。
命を無くし、人形のように力を喪った彼女の身体をかき抱いて、何度悔恨の涙を流した事か。
望美も自分も、逆鱗を持たないこの世界で、また同じ悲劇が繰り返されようとしているのではないのか?
そう考えたら―――矢も盾も堪らなかった。
「私の願いは、ただ望美の幸福だけ―――だが今も昔も彼女に降りかかるかもしれない災厄を恐れるあまり、言葉が足りずに悲しませてしまった」
事情を聞いてしまえば譲にも、ましてや将臣にもリズヴァーンを責める事は出来なかった。
誰より望美を悲しませたくないと願っているのは、他でもない彼自身であったから。
一言告げる事さえ出来たなら、彼女を泣かせる事はなかったのかもしれない。
悪い夢を見たのだと―――だが、それすらも口にするのは憚られて。
京で長く生き、言霊の呪縛を知る彼であればこそ、何一つ告げる事が出来なかったのだ。
「……多分、望美にだって先生に無理を言う気なんか無かったんだと思う。
だけど色々溜め込んでた事を、一度どうにかして吐き出しちまいたかったんだろうな」
きっと望美は判っていた筈だ。自分の事を大切に想うからこそ、全てを話してもらえない事を。
二人で同じ時間を生きる事を選んでこの世界にやって来たのはいいけれど、京とは違って様々が制約があった。
その最もたるのが、年齢の差―――望美はまだ学生で、リズヴァーンは仕事を持つ大人。
本人同士と、ごく身近な人間は理解していても、万人から理解を得るのは難しい状況だった。
ごく自然にリズヴァーンは、望美が進学し、学業を終えるまで待つ意思を示したけれど―――本当は、望美はずっと不安だったのだろう。
それが、いつもなら受け流してしまえるような事をきっかけに噴き出したのだ。
リズヴァーンを責めた事で、本当は彼女自身が誰より傷ついた。
信じているのに、信じていたいのに、御しきれない不安や焦りが言葉と言う刃になった。
彼女の流した涙は、その代償―――そして、将臣が客観的に出した答えは全く正しかった。
伊達に生まれた時から兄妹のように育っている訳ではない。
「近いうちに、会う約束してたんだろ?」
「ああ―――週末に、図書館へ」
望美はクーラーの効いた場所で勉強する為に、リズヴァーンは必要な資料を探す為に、一緒に行く筈……だったのだが。
「じゃあ金曜の夜にでも、普通にメールで連絡してやってくれ。一言だけ詫びは入れてな。それで、多分大丈夫だから」
ニッと将臣が白い歯を見せて笑う。
「別にどっちも喧嘩したかった訳じゃないんだし。
先生は言葉が足りなかった。望美は大人になりきれなかった。どっちもどっちだろ?」
そう言って、ぱしんとリズヴァーンの広い肩を叩いた。
「明日辺り『リズ先生に無理言っちゃった。どんな顔して今度会ったらいいんだろう』って、相談しに来ますよ。賭けたっていいです」
ふう、と譲が溜息をつく。
望美は昔から悩み事や相談事があると、いつも有川家に来て唸っていたのだ。
聞き手は昔は祖母だったが、祖母が亡くなった後は何となく譲の役目になっている。
明日は平日だが、恐らく放課後に、また真っ直ぐこちらに来るに違いない。
「無理を言った、言葉が足りなかったっていう自覚があるんだからお互い様でしょう。
先輩には詳しく夢の内容を話さず、ただ夢見が悪くて心配だったとだけ言っておけば……それで、治まると思いますけどね。
夢の意味を探るのは、仲直りしてからでいいんじゃないですか?
学校は俺が、家は兄さんが、先生が一緒の時は先生自身が気を付けていれば、不測の事態は防げるでしょう」
本当は、意味など無い杞憂であってくれれば、一番良いのだが。
譲の表情が曇る。
「でも先生。京を救って元のこの世界に還って来た時点で俺達は、八葉と星の一族の役目を終えたのだと思っていました。
役目でなくても先輩の身の周りの事には気を付けていますけど……先生は、『鬼』であった頃の自分の姿を見たと言った。
白龍の神子がその役目を終えても、八葉は八葉で在り続けるのでしょうか?」
龍神によって選ばれた神子は、その役目を果たせば神力を喪い、普通の少女に戻る。
それはかつての神子も同じであったろうし、望美についても例外ではない。
では神子の出現により、力を顕現させた八葉はどうなのだろうか。
神子と同じように役目を終えれば力を喪うのか。それとも、一度顕現させた力は生涯喪われる事はないのか。
神子の神力は龍神の器となった事で発現するものだが、八葉の力は自然の理に属する五行に関わる所が大きい。
元の世界に戻った時点で、もはや必要としない力なので意識していなかったが、
譲達もリズヴァーンも、神子である望美が神力を喪った後にも八葉としての力を持ち続けているのかもしれない。
だとすれば、敢えて『鬼』であった頃の自分が姿を見せたリズヴァーンの夢は、やはり何らかの啓示である可能性がある。
自分の知る白龍の神子と八葉の伝承を記録に残しているのは、いずれ起こるかもしれない遠い未来の事象に対しての備えであり、差し迫った使命とは違う。
だが本当に望美の身に危険が迫っていると言うのなら、どうにかしてその災厄を食い止めたい。
「例え八葉と呼ばれる存在ではないのだとしても、目前に迫った災厄や障害を払う為に出来る限りの事をする。
もっとも『鬼』としての力も無く、剣も持たないこの身では、出来る事などたかがしれているだろうが」
「……リズ先生。俺は一度寝込んだら滅多に起きないし、夢も殆ど見ない。
だけど先生が望美に関する不吉な夢を見て、なおかつその夢が気に掛かると言うのは、やっぱり意味があるんだと思う。
だからもしまた何か引っ掛かる夢をみたら、一体それが何を伝えようとしているのか全神経を集中して探ってくれ。
望美の事は俺達に任せて―――先生は取り敢えず、その寝不足の顔を何とかしなくちゃな」
にやり、と将臣の口端に笑みが浮かぶ。
「夢が気になって、昨日はロクに寝てないんだろ?今度会った時にまだ青い顔してたら、また望美が泣くからな」
「ああ―――お前達に話す事が出来て、少し気が楽になった」
まだ何も確かな事は判っていないが、一人で悩んでいるより遥かにマシだ。
「だったらちゃんと睡眠とって、今度はシャキッとした顔で望美に会えよ。
俺らもフォローするし、多分もう大丈夫だと思うけど。万が一まだ望美がヘソを曲げたままだったら、『Milk Hall』のケーキ驕るって言ってみ?」
「Milk Hall ?」
そう言えば、夢の中でも彼女がその名を口にしていなかっただろうか。
『ああ』と、譲も頷く。彼も知っていたらしい。
「アンティーク調の内装で店内を纏めたカフェですよ。先輩、あの店お気に入りだから」
「ああ……憶えておこう」
この得体の知れぬ不安が去ったなら。
望美と一緒にいつかその店を訪れようと、リズヴァーンは思った。
『あの夢』を見てから、数日が過ぎた。
あの夜以来、望美の死を暗示するような夢は見ていない。
その代わりこの世界に来てから不思議と薄れていた、かつて望美が生き延びる事を願いながら戦い続けた日々の記憶を、より鮮明な夢として見るようになった。
己の無力さを呪い、運命の皮肉さを恨みながら望美の死を見続けた記憶。
血煙の中で、燃え上がる炎の中で、身の軋むような冷たい水の底で、最後に『鬼』である自分はこう呟くのだ。
―――望美を守ってくれ。『私』と『お前』自身の為に。
『ではやはり、あの夢は警告なのか?』
あの忌まわしい夢は、恐れていた通り望美の身に迫る危機を告げているのか。
―――近付いている。彼女の命を脅かす、最後の危機が。
『最後の?ではこの危機を乗り越えれば、望美は持って生まれた寿命を全うできるのか?』
『鬼』の姿をしたかつての自分が、小さく頷く。
―――望美と同じ世界で生きる為に、『お前』は『鬼』の力を喪う必要があった。彼女の生きる世界では、『鬼』の力は存在してはいけない物。
だから封ぜられた……幾度も時を渡り、彼女の死を見続けた記憶の象徴であるこの姿と共に。
新しい運命を歩き始めた『お前』に、『私』は必要無いものだから。
『鬼』の力と共に、過去の記憶も封印されたというのか。
この世界にやって来てから、かつて何度も繰り返した筈の時間の記憶が曖昧なのも、『鬼』の力を喪った事と関係していたとは。
―――その世界で生きる限り、『鬼』の力を取り戻す事は出来ない。
だがもしも望美を守る為に再び『鬼』の力を欲するのならば……『私』を呼べ。『私』自身の存在を賭けて―――
一度だけ、応えてやろう。
『待ってくれ!危機とは何だ!? 私達は何時まで、不吉な影に怯えながら生きなければならない!?』
ゆらりと陽炎のように、『彼』の姿が虚ろになる。
縋るようなその叫びに―――
――― ……もう、間も無く……
消滅間際の存在の揺らぎのような、か細い声が応えた。
金曜日の夜―――ベッドの上に置いてあった携帯が鳴った。
机に向かってリーダーの教科書を開いていた望美が、着信相手を確かめる。
「リズ先生……」
嬉しかった。
何となく連絡し損なっていたけど、責めるような事を言ってしまって、ずっと悔やんでいたから。
しかしいつもの調子で出ても良いものかと迷っている内に三回コールを聞いて、結局望美はごく普通を装って電話に出た。
「―――もしもし」
『望美……私だ』
耳に当てた携帯から聴こえるのは、耳に心地よいバリトン。
ずっと声が聞きたかったのに、気まずくてメールも打てなかった。
ほろり、と瞳から一粒の涙が膝に落ちて、自分が一番驚いた。
『……この間は済まなかった。私の言葉が足りず、お前を不安にさせている事に気付かなかった。
でもどうか判って欲しい。
私はお前と同じ時間を生きる為にこの世界を選び、そしてその想いは今も―――そしてこれからも、決して変わる事はない』
先の事は判らない。人の心は移ろい易いものだ。
だがリズヴァーンが『決して変わらない』と言葉にして誓ってくれた事が、望美には嬉しかった。
言霊の持つ力を、この世界の誰よりも彼は知っているから。
「私こそ……ずっと後悔してた。いつか時間が解決してくれる事に急いで答えを欲しがった自分が悪かったのに、先生を責めてしまって。
だから―――声が聞けて、とても嬉しい。先生……ごめんなさい。そして、ありがとう」
やっと胸のつかえが取れたような気がした。
これで、また笑える。笑ってリズヴァーンの前に立てる。ただそれだけの事なのに、嬉しくてそれ以上言葉にならない。
受話器の向こうで、リズヴァーンが微笑したのが判った。
『明日の十時、いつもの公園で待っている』
「はい。おやすみなさい、リズ先生」
『ああ……おやすみ』
以前の約束通りの時間に待ち合わせをして、二人は電話を切った。
翌朝、リズヴァーンは十分前には約束の場所に到着したのだが、望美はもうベンチに座って待っていた。
リズヴァーンに気付いた望美は立ち上がると、緊張で少し強張った、しかし笑顔で手を振って合図する。
先日の事にも昨夜の電話にも一切触れず、ごく普通に『待たせて悪かった』と口にしたリズヴァーンに、望美はホッとしたような表情を浮かべた。
結局彼を苦しめているモノが何なのか、話して貰った訳ではない。
だが、きっともう済んだ事なのだ。
自分の抱えていたモノは全て打ち明けてしまったし、打ち明けた事でリズヴァーンにも、自分の不安や弱さを判ってもらえた―――今はそれでいい。
何事も無かったかのように合流して、二人は図書館に続く道を歩き始めた。
図書館は、待ち合わせた公園から歩いて二十分くらいの場所にある。
バスがすぐ近くまで走っているのだが、あまり本数が多くないので、望美達はいつも歩いて通っていた。
道行に何とは無い話をしながら歩くのも、楽しい時間だったから。
図書館そのものは少し郊外にあるのだが、しばらくは街の中の大通りを通っていく。
食事をしていくには少々早いし、のんびりと茶を飲んでいたら、良い席は早くに埋まってしまう。
小腹が空いたら図書館の隣にある喫茶店で何か軽く食べる事にして、二人は並んで歩いていた。
ふと、望美が改装中のビルの前で足を止めた。
「どうした?」
「いえ……このビル、建て直しちゃうんだなと思って。
此処に入ってた紅茶のお店、スコーンが美味しくて、落ち着いた雰囲気で好きだったのに。また此処にお店出すのかな?それとも移転しちゃうのかしら」
本当に、女性というのは甘い物やお茶を飲むのが好きなのだなと、つくづく思う。
将臣達に教わった『MILK HALL』も、お気に入りの店だと言っていた。
きっと尋ねたら、片手では足りないほどのお気に入りの店を紹介してくれるだろう。
「あ、先生、今笑ったでしょ!」
忍び笑いをしていたのを、目聡く見付けられる。
「どうせ私は、色気より食い気ですよーだ」
そう言って、可愛らしくあっかんべと小さく舌を出した。
機嫌を損ねてしまったのか、そのままフイッとそっぽを向いてしまう。
その瞬間、リズヴァーンは雷に打たれたように動けなくなった。
―――あ、リズ先生、今笑ったでしょ!どうせ子供っぽいですよ、私の夢なんて。
忌まわしい夢の中、機嫌を損ねてしまった望美。
微妙に前後の会話は違うが、『あの』瞬間が確かに近付いている。
自分は、彼女の機嫌を直す為にこう言うのだ。
「……笑ったりして悪かった。今度の休みに何処でも好きな場所に付き合うから、機嫌を直してくれないか」
―――リズヴァーンは全身の神経を集中して、周囲を探った。
何が起こる?脅威は何処に迫っている?
頭上は……異常無い。改装工事中のビルの傍だが、万が一の為に保安ネットが張られていたし、望美はもうビルの前を通り過ぎてしまった。
では車か?確か夢の中では、急ブレーキの踏まれる音を聞いた。
だが此処は歩道がガードレールで車道と仕切られていて、横断歩道も信号もずっと先。すぐ横を普通に車が走っているだけである。
ちら、と悪戯っぽい窺うような視線が向けられた。
早足で随分先まで行ってしまった望美が長く伸ばした髪を翻して、くるり、と身体ごと振り向く。
「じゃあ、『Milk Hall』のチーズケーキセットで許してあげる」
笑って、望美が口にした時に。
ずっと遠くで、アスファルトとタイヤが擦れる不愉快な音がした。
ざわ……と人のざわめく声と微かな悲鳴。
何事かと望美が自分の背後を振り返る。同じ方向をリズヴァーンも見た。
運転手が急病で意識を喪ったのか、ふらふらと蛇行する車が、自分達からは遠い対向車線を走ってくる。
―――あれか……!
アスファルトを蹴り、リズヴァーンが駆ける。
まだ距離はある。望美を庇って、安全な場所に退避するだけの余裕はあった。だが―――
「危ない!!」
それが、誰の声だかは判らなかった。
たまたま傍に居た見ず知らずの人の声だったのかもしれないし、望美か、あるいは自分自身の声だったかもしれない。
リズヴァーンの目に映ったのは、蛇行する車の前を走っていた車が追突された衝撃で方向を変え、真っ直ぐに望美に向かって突っ込んでいく光景―――
自分以外の全てが、一瞬時間が止まったかのようだった。
望美は大きく目を見開いて、凍りついたように動かない。
突如軌道を変えて彼女に襲い掛かった車は、惰性でそのままガードレールも突き破り歩道に突っ込んでこようとしている。
『間に合わない……このままでは!』
血の海に横たわる望美。
その傍らに呆然と立ち尽くす自分。
またも繰り返される皮肉な運命を止める為にはどうすればいい?
その時、 夢の中で邂逅を果たしたかつての自分自身の声が脳裏に蘇った。
―――望美を守る為に再び『鬼』の力を欲するのならば、『私』を呼べ。
『応えてくれ!どうか……!!』
喪った筈の力を再び手にする事で、どのような代償を強いられるか判らない。
だが例えどのような犠牲を払おうとも、それで彼女を救うことが出来るのならば恐れはしない。
―――『私』自身の存在を賭けて、一度だけ応えてやろう。
『望美を救う為に―――今一度だけ、私に力を!!』
最後の力を振り絞り、望美に手を伸ばす。
だが彼女の身体はまだ遠く、指先さえ届かない。
だが―――
―――心得た。
静かな声が、リズヴァーンの叫びに応えた。
「―――望美っ!!」
「先生っ……!?」
憶えているのは、自分の腕の中に抱き締めた望美の身体の温かさ。
そして、凄まじい衝撃。
背中から地面に叩き付けられ、一瞬呼吸が出来なくなる。
「先生!……リズ先生!?しっかりして!!」
「望美……怪我は……?」
抱いた腕の中から這い出し、望美の手がリズヴァーンの肩を揺らす。
ぼろぼろと涙を零しながら、望美は首を横に振った。
「先生が庇ってくれたから、私は平気です。でも、先生が……!」
すぐ耳元で望美の声と、ざわざわと人が集まって来て騒ぐ声が聞こえる。
自分を庇って事故に遭ったリズヴァーンを見てパニックを起こした彼女の代わりに、救急車を呼べと叫ぶ声も聞こえた。
「大丈夫……お前さえ無事なら、私は―――」
「リズ先生っ……!!」
全身が痛む。あまりの衝撃に何処を打ったのかも判らないが、もしかしたら肋骨を数本折ったかもしれない。
―――だが、これでもう……
望美は与えられた天寿を全うする。
白龍に見出され、神子の大役を務めあげた彼女が、不慮の事故以外で夭折するなど有り得ない。
それに『彼』は言ったではないか。これが最後の危機だと―――
「先生!目を開けて、先生っ……!!」
望美の泣き声を聞きながら、リズヴァーンの意識は暗転した。
リズヴァーンは、闇の中で『鬼』であった頃の自分と向かい合っていた。
―――ありがとう。よく、彼女を守ってくれた。
『こちらこそ、礼を言う。もしもあの時「跳ぶ」事が出来なかったら、私は望美を守れなかった』
あの瞬間、リズヴァーンはかつて持っていた『鬼』の力で、十数メートルの距離を『跳んだ』。
物理法則を無視した力で一瞬で望美の元へ跳び、彼女を庇ったのである。
望めば一度だけ呼びかけに応じて力を貸すと言った彼は、約束を守ったのだ。
『……お前は、どうしてかつての私の姿をしている?お前は、一体何者なんだ?』
『鬼』の姿をした彼は、穏やかに微笑んでいた。
憂いが晴れて、もう何も案じる事が無いというように。
その影は既に薄れ始めていて、存在自体が揺らいでいる事が明らかだった。
―――私は、お前自身。時の輪廻に残された……放浪の記憶。
『あの世界に残された―――記憶?』
望美が生き延びる世界を探し続けて、幾度も幾度も時を遡った。
数え切れないほどの運命を上書きしたその果てに、自分は彼女の手を、ようやく一人の男として取る事が出来たけれど。
ただ彼女の命を願い続けて時の狭間を彷徨った記憶が、未だに残されていたのだろうか。
あの果ての無い、無限連鎖の中に。
―――私は、『鬼』であった頃のお前の力そのもの。白龍により、封じられて永久の眠りにつく筈だった。
遠い時空の果てで生きる彼女に、命の危機が迫っていると気付かなければ。
『では、もう…?』
見慣れた装束の、彼が頷く。
―――白龍の神子の危機は去った。もう『鬼』である私は必要無い。
神子と共に生きる道を見出したもう一人の私自身に全てを委ね、私は眠る。今度こそ永久に―――
ゆらり、と水面に映った影のように彼の姿が揺れた。
消滅の時が近付いているのだろう。
―――もう会う事も無い。お前は人として生き、人の世の理で望美を守れ。
『ああ―――かつての私自身に訪れる眠りが安らかであるように、祈っている』
消え行く、最後のその瞬間。
礼を言うように、あるいはこれから最愛の少女と共に長い時間を生きる、もう一人の自分自身を激励するかのように。
『彼』は、軽く手を上げて見せた。
顔に陽の眩しさを感じて目を開けると、今にも泣きそうな望美の顔が目の前にあった。
「先生っ……良かった…!」
「望美……?」
わっ、とベッドに突っ伏して望美が泣き始める。
その彼女の後ろから、心配顔を覗かせているのは将臣と譲だった。
「お、目が覚めたのか?」
「俺、先生呼んでくるよ」
譲の呼んで来た担当の医師に、幾つか問診を受ける。
「うん、特に吐き気とかも無いようだし、もう大丈夫ですよ。
ただし肋骨を折っているので、恐らく今夜は熱が出ると思います。様子を診る為にも、数日入院して貰いましょう」
「どうもありがとうございました」
身動きの取れない自分の代わりに、望美と将臣達が医師に頭を下げた。
鎮痛剤が効いているのか、痛みはあまり感じない。
だが望美を庇って車の直撃を右脇腹に受けた為に、肋骨を二本骨折、一本にはヒビが入っているらしい。
重要な臓器に損傷が無かったのは幸運以外の何物でもなかった。
「望美が泣きながら電話して来た時は、先生が死んだのかと思ったぜ」
とは、無事にリズヴァーンが覚醒したからこそ言える将臣の言葉である。
将臣と譲は、リズヴァーンが望美に関する不吉な夢を見て、その夢の意味する事をとても気に病んでいた事を知っていた。
だから望美が泣きながら『先生が…先生が、私を庇って車に撥ねられて…!』と電話して来た時、咄嗟に最悪の事態を想像してしまったのである。
実際には辛うじて受け身を取っていたお陰で、命に別状無い状態ではあったのだが、
地面に叩き付けられた衝撃で脳震盪を起こしていたので、覚醒に時間がかかったのだった。
「入院するなら、手続きとか着替えとか要るだろ?俺達がやってくる。先生、部屋の鍵貸して。
望美は、先生についててやれよ」
譲がリズヴァーンの部屋に一度戻って着替えなどを用意して、将臣が入院手続きをしてくれる事になった。
保険証は外出する際には持ち歩くようにしているので、手元にある。然程時間は掛からないだろう。
リズヴァーンから鍵と保険証を預かって席を外した二人を見送って、望美は改めて深々と息をついた。
「でも……将臣君は冗談のように言ったけど、本当に先生が死んじゃったらどうしようって……心配したんですよ?」
「心配をかけて済まなかった。でもこれで―――ようやく、全てを話す事が出来る」
「え……?」
その時、望美は初めてリズヴァーンの見た夢の話を聞かされた。
自分が何らかの危機に晒されるかもしれなかった事。
だがあまりに生々しく不吉な夢であった為に、事情を説明するにも口にするのが憚られた事。
不安に駆られてよく眠れず、顔色が悪かった事を自分が見咎めてしまった事。
その後、将臣と譲には事情を話し、それとなく警戒してもらっていた事……などを。
「ちゃんと説明してやる事が出来なかった為に、お前にも辛い思いをさせて悪かった。
だがもう、これで最後だ。もう二度と―――お前が、今回のような不慮の事故に見舞われる事は無い」
「最後って……どうして判るんですか?」
尋ねた望美に、リズヴァーンは目覚める直前に見ていた夢も話した。
かつて告げられたように、彼女を襲う危機は、これで終わったのだと。
「私はこの世界に来てから『鬼』の力を喪った。それはこの世界で生きる為には、必要な事だったらしい。
お前を救ったあの力―――隠行の術は、龍神に封じられて永久の眠りにつく筈だった『鬼』であった頃の私自身が、一度だけ力を貸してくれた。
ただお前を、救う為に」
「そうか……だからあの時、先生は私を庇えたんですね。ずっと後ろに居た筈なのに、気付いたらもう先生の腕の中に居て……」
一歩間違えば、自分もリズヴァーンも死んでいたかもしれなかったのだ。
最初に蛇行して事故を起こした車の運転手は、やはり急病で昏睡状態に陥っていたらしい。
だがこの運転手も搬送先の病院で緊急手術を受け、一命を取り留めた。
追突されて実際にリズヴァーンと自分を撥ねた車の運転手も、ムチ打ちと足の骨を折る怪我をしたが、こちらも命に別状は無い。
リズヴァーン自身も骨折とヒビという怪我に加えて脳震盪を起こしたが、無事覚醒した。
「本当に……怪我で済んで、良かった」
自分を庇ってリズヴァーンに万が一の事があったなら、きっと自分は立ち直れなかった。
事情を知っていた将臣や譲だって、居た堪れなかっただろう。
事故を起こした当事者も含めて、骨折程度で済んで幸いだった。
「望美。退院したら、一番に『Milk Hall』に行こう」
リズヴァーンが伸ばした手で、望美の髪に触れる。
さらり、と肩から流れ落ちた長い髪が、リズヴァーンの頬をくすぐった。
「先生……憶えてたの?」
自分が悪戯心で、何気なく口にした事を。
「憶えているさ―――お前の事なら、何もかも。事故が無ければ一緒に行こうと約束している筈だった。
……チーズケーキセットで許してくれるんだろう?」」
「ありがとう……先生。きっと行きましょうね、一緒に」
「ああ……必ずだ」
あの夢の中で、望美の微笑は薄氷が融けるように消えてしまったけれど。
二度と彼女の笑顔が喪われる事は無い。
それは時の狭間で邂逅を果たしたもう一人の自分が残した、最後の約束だった。
【FIN】
あとがき
瑠衣瑳さんのリクエストで、キーワードは『喧嘩』と『怪我』でした。
当初、結構軽いノリの話になる筈だったんですよ。リズ先生担当の美人編集さん(リズ先生は旅雑誌と歴史のルポライター)に、
望美がヤキモチやいて…みたいな。
でもそれだと、望美が何だか子供っぽいイヤな子になってしまいそうだったんですよね。
で、ヤキモチネタを取りあえず棚上げして、『怪我』の方を膨らませていたら……こんなお話になった(笑)
長い……長いよ!!(^_^;)リズ先生グルグル考え込んじゃってるし、もう一人『鬼』な先生も出てくるし(笑)望美も自己嫌悪で凹んでるし。
作業途中に外気温のあまりの高さにPC君が熱暴走して、『望美』と『リズヴァーン』がロクに変換出来なくなったというのは此処だけの話。
お話の中に出した『Mlik Hall』というカフェは実在します。参考『横浜・鎌倉 歩く地図』。観光ガイドを読んで現地に行った気になる、お気軽人間(笑)
いや、結構マジで行ってみたいなーと思ったから買った本ですが、目下の所計画倒れになってます。トホホ。
レトロムードに溢れるカフェで、照明を落とした店内にアンティーク家具が並んでいるそうですよ。
ガイドに紹介されてたチーズケーキとコーヒーのセットが非常に美味しそうだったので、そのまま使わせて頂きました(^^)ランチもやってるそうです。
『Milk Hall』HPアドレス→http://www.milkhall.co.jp/
お店は『鎌倉市小町2−3−8』。『小町通り西』という地区だそうです、江ノ電鎌倉駅から徒歩五分らしい。関東方面の方、機会があれば是非(^^)
それとまだCDが未発売なので全歌詞を調べる事が出来ないのですけど、浜崎あゆみの『HEAVEN』という歌がちょっとイメージかなー…と(笑)
マキシは九月中旬発売予定。映画『SHINOBI』の主題歌にもなってます。
映画館とテレビCMで聞いた部分だけなんですけども、サビが印象深くてずっと耳に残ってるもので。♪傍に居て愛する人 時を超えて形を変えて♪…という感じ。
CDゲットして歌詞の確認が出来たら、改めて日記などでご報告します。(もしかしたら最後のこの四行部分がこっそり削除されてるかもしれませんが…)
麻生 司