Heirat
クライン王国はその年、例年にない寒波に襲われていた。
いつもならば降誕祭の時期でも雪が積もる事はあまり無いのだが、今年は早くも王都が雪化粧で白く染まった。
根雪にはまだほど遠いが、この調子で何度か降れば、降誕祭の頃にはすっかり銀世界になるかもしれない。
レオ二ス・クレベールは王都の巡回をしながら、一週間後に控えた野外演習の段取りを考えていた。
レオ二ス自身は初めての事ではないし、頼りになる部下もいるので、演習そのものには何の問題もない。
ただ、この寒波は曲者だった。
演習予定地は国境に近い緩やかな山岳地帯である。
地形が起伏に富んでおり、野外演習にはうってつけの土地なのだが……
『この寒波が続くようなら、麓からせいぜい山の中腹手前で演習を行った方がいいな』
山の中腹には小さな湖があり、本来はその傍に拠点を置くつもりだったのだが、それは断念せざるをえないだろう。
演習で遭難者が出ては洒落にもならない。
慣れない雪中行軍だけでも、立派な演習だと割り切る事にした。
冬の日暮れは早い。
神殿の鐘が夕刻を告げる頃には、すっかり辺りは暮れなずんでいた。
鐘の残響が宵闇に消えるのを聞き届けると、レオ二スは適当な所で折り返し、騎士団宿舎に足を向けた。
夜勤の者に引き継を済ませれば、後は帰るだけである。
厚手のコートを着ているとはいえ、寒さは身に沁みる。気持ち足が速まった、丁度その時―――
――― ……お母さん…お母さぁん……
「……子供?」
ひどく心細げな子供の涙混じりの声が、レオ二スの足を止めた。
声の出所がすぐには判らない。
近くの家々からは家族が談笑する声や、元気なざわめきが聞こえてくる。
だがその合間を縫うように、その泣き声は彼に届いたのだ。けっして、空耳などではない。
レオ二スは顎に手を当てて考えると、少し考えて、細い路地へと入って行った……
「報告は以上です。必要物資の準備も順調ですし、予定通り明後日には出発出来ます」
静かな執務室に穏やかな声が響く。
「御苦労。それでは演習に参加する小隊の者に、出発の準備を伝えてくれ」
「はい、隊長」
にこりと笑って頷いたのは、流れるような金髪に翠の瞳を持つ、近衛騎士団初の女性騎士となったシルフィス・カストリーズである。
隊長と呼ばれたのはレオ二スだ。
近隣諸国にも噂に名高い美貌の女性騎士は、この春に正式に騎士の叙勲を受けた後、レオ二ス・クレベールの副官となった。
同期のガゼル・ターナも無事騎士叙勲を受け、今は別の小隊に配属になっている。
「よく降りますね。昨年は、こんなには降らなかったと思うのですが」
窓の外を見やったシルフィスが、小首を傾げておとがいに手を当てる。
「今年は特別だ。私も、こんなに雪が降り続いた経験は無い」
書類の決裁をしていた手を休め、レオ二スも同じ窓を見る。
数日前に降った雪が根雪となり、以来王都を白い沈黙の世界へと変えてしまった。
この異常気象は、おそらくダリスでエーべの大樹が傷ついた事も無関係ではないだろう。
「雪は嫌いではないんです。子供の頃は積もると、雪合戦をしたり…遊びの道具でしたけど。
雪が降ると音が吸い込まれるように静かになって…止んだ後も、月光に反射する雪原を見るのが好きでした」
音と一緒に悩みや辛い事も消えてしまえと思っていた時期もあった。アンヘルの村が嫌だった訳ではない。
ただ自分に対して『何か』に行き詰まるようなものを感じていたのだろう。
その後彼女は王都に出て仕官し、女性として分化し、騎士の叙勲を受けた。
雪を見て思うのは、今はもう、懐かしさだけである。
ふとレオ二スの手元を見たシルフィスの視線が一点に止まる。
レオ二スも彼女のその視線に気付いた。
「ああ、これか」
それは、陶器で作られた小さな笛だった。シルフィスが片手で軽く握れる程の大きさである。
「どうなさったのか、お聞きしてもよろしいですか?」
「別に、大したことじゃない」
半月程前、レオ二スがいつものように城下を巡回していると、不意に子供の泣き声に気付いたのだという。
それはひどく心細げで小さな声だったのだが、レオ二スの耳には確かに届いた。
気になって、裏通りに入り、声の出所を確かめると―――
「ある家で、母親が持病の発作を起こして倒れていた。まだ子供は幼くて、倒れた母親の側で泣いていた」
「ああ、それで…」
事は急を要するので、レオ二スは勝手に家に上がり込むと、そのまま母親を近くの医者に担ぎ込んだ。
どうも夫は亡くなったらしく、他にアテもなかったので子供も一緒に医者の所へ連れて行った。
もう少し手当てが遅ければ命が危うかったが、運良く母親も持ち直した。
人命救助も無事に済み、めでたしめでたし―――とは、実は行かなかったのである。
「先立つものが無くてな」
レオ二スが苦笑する。
母親の意識は、一昼夜戻らなかった。
子供の話からは、家に他に大人がいる気配も、近所に親戚がいるような様子もない。
幸い、レオ二スの顔と名前を医者が知っていたので、取りあえずは事無きを得たが、
転んで出来たかすり傷を診るならともかく、生死の境を一度はさ迷った患者を奉仕で診ろ―――とは、レオ二スには言えなかった。
いや、言ってみれば出来たのかもしれないが、それでは職権濫用である。彼はそういった権威のかざし方は嫌いだった。
それで当座の治療費は、レオ二スが肩代わりしたのである。
「それで、その方は?無事に快方に向かったんでしょうか?」
「ああ。つい数日前に、退院したそうだ」
普通の治療費に少し上乗せして、子供も一緒に医者の所で世話して貰ったのが良かったらしい。
母親は子供の心配をする必要がなくなり、治療に専念出来たようだ。医者からの帰途、親子はその足でレオ二スの執務室に挨拶に来た。
母親は、彼が立て替えた治療費をお返ししますと申し出たのだが―――結局、レオ二スはその申し出を丁重に断った。
持病を抱えている以上、その病気を根治させるか、一生付き合っていかなければならない。
どちらにしても、治療を受けるには金がかかる。
それに、この親子が決して裕福な生活をしていない事は、初めに家に入った時に判っていた。
関わってしまったのも何かの縁。
そう割り切る事にして、その金は今後の蓄えにするようにと受け取らなかったのである……
「その時に、子供が置いて行った物だ。その笛は」
小さな子供が精一杯背伸びをし、『はい!』と満面の笑顔で差し出したその笛を、いらないと突き返せる程にレオ二スも無神経ではなかった。
だが受け取ったものの、彼が笛を吹く訳でもなく―――吹いたら吹いたで、王都の七不思議に数えられそうだったが―――
レオ二スの机の上で置物と化していたのである。
「そうだったんですか…」
シルフィスはレオ二スが、一体どんな顔をして笛を受け取ったのだろうかと想像してクスクス笑う。
多分、普段と変わらない口調と顔で、『では貰っておこう』とでも言ったに違いない。
彼らしいといえば、非常に彼らしかった。
「気に入ったのなら、お前が持っているといい。私が置物にしているよりも、吹いて貰える者の手に渡った方がいいだろう」
「私が頂いてもよろしいのですか?」
「ああ」
穏やかにレオ二スの目元が和む。彼女しか知らない、レオ二スの一面であった。
一応彼に断ってから、シルフィスは軽く笛に唇を寄せる。
笛を吹くなど、アンヘルの村に居た頃―――しかもずっと幼い時分―――以来であったので、上手に吹けるか心配だったのだが……
「ほう―――」
柔らかな澄んだ音色が、零れるようにシルフィスの口元から旋律となって溢れ出す。
彼女の村に伝わる物であったのか、レオ二スにはあまり聞き覚えのない曲だったのだが、
不思議な郷愁と憧憬を感じさせるその音色に、彼は僅かに目を細めた。
「アンヘルの村に伝わる子守唄なんですけど…久し振りだったので、ちょっと緊張してしまいました」
一曲奏し終えると、シルフィスは照れたような笑みを浮かべた。
ずっとレオ二スの視線を感じていたから、それも気恥ずかしかったのかもしれない。
「やはりお前が持っていて正解のようだ。とても良い音だった。その…」
「はい?」
何か言いかけ、ふとレオ二スが口篭もった。
だが、首を傾げて彼の言葉の続きを待つシルフィスの視線に負け、何とか言葉にする。
「お前の声のようだな」
シルフィスの顔がみるみる朱に染まる。
言ったレオ二スの方も、ごほんと咳払いして机に向かい直すと、途中になっていた書類の決裁を再開した。
「ありがとうございます」
やっとそう答えたシルフィスにレオ二スは何も返事は返さなかったが、
規則正しく書類を繰る音が彼なりの照れ隠しなんだと、彼女にはちゃんと判っていた。
「王都よりも、こちらの方が一層雪深いですね」
「ああ。これでは中腹(うえ)に本営を持って行くのはやはり無理だな」
野外演習当日、雪は降り止むどころか勢いをいや増して、参加者たちをげんなりさせていた。
参加する数隊を預かる事になるレオ二スは、出発に際して皇太子セイリオスから、くどい程の注意を受けている。
即ち、訓練は訓練であり、決して人命を損なう事があってはならない事、である。百も承知している事だ。
勿論、セイリオスが立場的に敢えて言葉にしなくてはならなかったも承知している。
この前代未聞の大雪の為に、演習そのものを見合わせる意見も挙がったのだが、
滅多にない機会であるという事も考慮され、決行となった。
「麓付近で本営を設営。取りあえず陽が落ちる迄に隊員たちの寝場所は確保しないと」
吐く息も白く、自らも演習に参加したガゼルがレオ二スに報告する。
彼の所属は違う隊だが、地形調査にあたっていた本来の上司が、彼を伝令に寄越したのだ。
レオ二スはかつての上官。その副官であるシルフィスは同期。
強面のレオ二スと美貌の副官は、他の騎士や見習は敬遠しがちなのだが、ガゼルはその点、一向に気にしない。
慣れからの気安さの方が、萎縮する感情よりも勝っている事を考慮した、ガゼルの上官の人選である。
「それで、良い場所はあったのか?この雪だからな。元の地図が役に立たん」
地図を片手にレオ二スも渋い顔だ。下手な所に野営地を設営すれば、この寒さで参加者が凍死する。
もちろん、対策が無い訳ではない。とても直接的ではあるが。
「で、取り敢えず焚火な訳ね」
若い見習い達が大急ぎで雪を掻いて作った広場に、大きな焚火の炎を点したメイが、苦笑いして戻って来た。
「ま、寒い時には焚火。基本中の基本よね〜」
レオ二ス達の所に戻って来た為に火から離れてしまったメイが、寒くなったのか手を擦り合わせる。
「すまんな。着いて早々、こき使う事になって」
「この為に来たんだし。あたし炎系の魔法は得意だから、これっくらいは全然平気。
本当はキールが来れたら、もっと要領良かったんだろうけどね」
「……あちらはあちらで忙しいからな」
キールの名を口にした時、ほんの少しだけ彼女の顔が寂しそうに見えた。
今年の初め、クライン王国と隣国のダリス王国を揺るがす政争があった。
一触即発の危機にあった二国を救ったのは、シルフィスやメイ、それにディアーナやセイリオス等の尽力である。
今ではダリスも先々王の遺児アルムレディンがクライン王国の後見の下に復権し、日夜母国の復興に力を注いでいる。
彼の下に嫁いだ、クライン王国の第二王女のディアーナは、王妃としてダリスでも絶大な支持を受けている。
ダリス国内では魔法兵器の量産をする為に、世界の礎とも呼べるエーべの大樹を犠牲にした。
僅かずつ再生は始まっているが、自然に任せていたのでは、それこそ数十年、数百年の時間がかかってしまう。
その為、植物の再生を助ける魔法の開発が、クラインの魔法研究院で進められた。
その責任者が、口の端に上ったキール・セリアンだったのである。
「治癒魔法の応用で、新しい魔法を開発したんでしたよね?」
「そう。生き物が本来持っている自然治癒力を活性化させるんだって。人間の怪我を治す時と、要領は同じだって言ってたな」
要領は同じと言っても、全く同じ訳ではない。
人の怪我を治す魔法を植物にかけても、植物の成長は目に見えた形では促進されない。
少しは効き目があるのだが、僅かな効果しか得られないのである。だからこそ、専用の魔法の開発が急がれたのだ。
人と植物は細胞が違う。生きる糧が違う。寿命が違う。
異世界からの客人であったメイはその事を知っていたが、キールも経験で理解していた。
彼は数ヶ月で新たに植物再生促進の魔法形態を構築すると、何とか実用にまで漕ぎ着けた。
ただ、複雑な手順が必要である事と、なによりも彼自身がそのノウハウを他者に伝承する手間と時間を惜しんだ為に、
実質キール一人が、その魔法の使用者となってしまった。
完全に魔法形態の構築が済むと、王宮から魔法研究院を通して正式な辞令が下り、
キールはダリスに出向してエーべの大樹の再生に取り掛かった。
筆頭魔道士のシオンは立場上、なかなか王都を離れる訳には行かない。
皇太子のセイリオスやシオン、総指揮を取るレオ二スとも面識があった縁もあり、今回の演習はメイに指名が回って来た。
これでなかなか、彼女は魔法の才能に秀でているのである。
「もう三ヶ月?大変だなぁ」
「それがお仕事だもんねー」
ガゼルが気遣うようにこぼすと、メイは軽く肩をそびやかして、ぺろっと小さく舌を出す。
口調は明るいが、やはり目元が笑っていない事にシルフィスは気付いた。
「…早くキールが帰って来るといいですね、メイ」
レオ二スとガゼルが本営を設営する場所を相談する為に気を反らした隙に、シルフィスがそっと傍らに立つメイに声をかける。
メイは驚いたように目をぱちくりさせていたが、やがて『お仕事だもん』と、ふっと笑みを浮かべた。
メイは毎日、キールの研究室兼書斎を掃除する。
彼の持ち物には一切手を触れず、ただ黙々と床を掃いたり机を拭いたりするだけだ。
『本とかオーブとか、勝手に動かすと怒るのよ!』と文句を言いながらも、彼女はその日課を欠かした事はない。
それにメイが毎日居ないキールの分まで食事を作っている事を、シルフィスは知っている。
―――いつ、キールが戻っても良いように。
以前、用事で夕方遅くに彼女たちの家を訪れた際に食事を摂って行けと誘われた時には、
不意の来訪であったにも関わらず、きちんと二食分が準備されていた。そしてそんな事が、二回程あった。
それが偶然ではなく、彼女の習慣だと気付いたのは、ずっと後になってからだったけれど……
「まあ、出来れば来年のあたしの誕生日には帰って来てるといいな」
今年のキールの誕生日も、一緒に祝う事は出来なかった。
彼女の十八の誕生日を共に祝った直後に、彼はダリスへと発ったから―――
照れたようにそれだけ言うと、メイはくるりと踵を返して、レオ二ス達の側に歩み寄った。
その耳の片方に、ちらりと見慣れたイヤーカーフが一瞬見える。
最後の言葉が、きっと彼女の本音なのだろう。
まだ少し幼さの残るメイ・セリアンの後姿を見つめながら、シルフィスは彼女の夫の事を考えた。
彼は日に一度、メイの身体に――頭が多かったようだが――触れる事を習慣にしていた。
それはこの世界にあっては異邦人である彼女の魔法力が暴走しないしないようにとの、彼なりの気遣いであった。
彼女がこの世界にやってきたばかりの頃に比べて大分安定したとはいえ、
長く家を空ける事になると判った時には、心配になったのだろう。
自分が残して行ったイヤーカーフに、彼は特殊な魔法を施して行った。
彼女に残した方には、魔力の過剰放出を抑える魔法を。
自分の持つ方には、メイに残したもう片方への魔力を持続させる為の力を、遠く離れた地から送れる魔法を。
それはとても複雑な魔法ではあったが、キールはメイに関する事だけは、絶対に妥協しなかった。
手間隙を惜しまず、幾重にもプロテクトをかけた上で、彼は異国の地へと発った。
だがメイは、その魔法の事を知らない。
『キールは口下手ですからね〜』とは、彼女の義兄となったアイシュの言葉である。
もしもの時の為に――万が一メイの魔法力が暴走した時には、遥かダリスの地からでも抑制魔法が行使する為に――
意思伝達用のオーブと共にこの事を聞いていたアイシュから、シルフィスはこっそり教えて貰っていた。
メイと親しいシルフィスが、先に彼女の異変に気付くかもしれないからと。
本来はメイを伴ってダリスに行ければよかったのだろう。
ダリス出向を命じたセイリオス達も、結婚したばかりであった彼等の心情を察し、
出来るだけの願いは叶えるつもりでいたのだが、ギリギリの所でキールは一人で行く事を決めた。
公務に私事を持ち込む事に、幾ばくかの抵抗があった事。
そして、いまだ完全に情勢が安定しているとは言い切れない地へ、メイを連れて行く事を躊躇した事。
それが理由だった。
勿論、即、命の危険があるような事はもはや無い。
だが、クラインの王家と縁深い者が多数、ダリスに滞在する事は、まだ避けた方が懸命だった。
アルムレディンと王妃となったディアーナは、国民に受け入れられる善政を行うよう、日々努力している。
そしてほとんどの国民は、そんな彼等を好意的に受け入れている。
だが、全ての者が彼等を受け入れたかと言えば―――答えは否、であろう。
どんな国でも、どんな善王でも、全ての人間に受け入れられるなどという事は在り得ない。
排斥された前王の下でこそ権威を振るった者たちは、当然アルムレディンの事を快く思っていない。
彼等に縁深い者達の命を盾に取り、退位を求められたなら―――そんな事態が起きないという保証はない。
だからこそキールは、もっともデメリットの少ない単身出向に応じたのだった。
二人で顔を突き合わせていれば喧嘩する事もしょっちゅうあるようだが、それも彼等なりのスキンシップの一つなのだろう。
メイ本人には知らされていないが、キールは遠く離れた地から彼女を守っている。
知らされていなくても、多分、メイは夫となった人の力を身近に感じていると思う。そういった点で、メイは非常に聡い。
事実を伝えれば『ああ、やっぱり?』とメイは言うに違いないと、シルフィスは思っている。
新婚早々、夫を王家の勅命で隣国に送り出さなければならなかったメイの心情は、シルフィスにはまだ何となくしか判らない。
『それは私が、レオ二ス様と離れる事がほとんどないからだ』
多分、戦場に大事な人を送り出す時と似ているのだろう。それならば、自分にも判る。
ダリスの国政がアルムレディンに完全に移るまでに、何度か先王の残党との武力衝突があった。
事実上、魔法兵器は力を失っていたのでその脅威は恐るるに足りなかったのだが、
レオ二スは最前線の指揮を任されて、常に戦場にその身を置いていた。
当時、表向きにはまだ正式な騎士の叙勲を受けていなかったシルフィスは、他にも事情があった事もあり、
前線からは外され、後方支援の任に就いていた。
後に救国の英雄とまで称される程の武勲を上げていた彼女であったが、
実は丁度この頃女性としての分化が始まっており、精神的な面でいささか不安定になっていた事に気付いたレオニスの采配だった。
レオ二スは前線に出る前には、必ず彼女に姿を見せてくれていた。
勿論、無事に還った時にも。
ただそれだけの事であったのだが、ひどく安心した事を思い出す。
『仕事だから仕方ない』と笑うメイが、どれ程の想いをその笑顔の下に秘めているのか、シルフィスには計り知れない。
ただ自分が同じ立場に立った時に、彼女のように振舞えるだろうかと―――シルフィスは考えざるを得なかった。
雪深い地の夜はとても静かだ。
ガゼルの所属する隊の隊長が、山の麓と中腹の間で岩壁を背にした開けた土地を見つけてきたので、そこが本営となった。
根雪となっていた雪を、メイが炎魔法で吹き飛ばし――もとい、人力よりも早く効率的に熱で雪を溶かして――
演習参加者全員の寝屋となる天幕を張る。
天幕そのものはなめした皮を何層にも重ねた物であり、床には分厚い毛皮を敷く。
中に入って寝袋に包まってしまえば、それなりに暖かかった。
ちなみに天幕の外側には危険のない程度に一定間隔で焚火が焚かれ、外からの暖も絶やさないようになっている。
一日目は本営の設営で潰れてしまった。
それはそれで立派な体力作りにはなったが、本格的な演習は明日からとなる。
参加者達は見習いの作った食事を摂って、焚火の周りで談笑していたが、
後片付けの当たらなかった幸運な者の中には、早々に天幕に引っ込んで寝てしまった者もいたようだ。
シルフィスはメイと一緒に炊き出しを手伝っていたのだが――メイは料理が上手い――大体の者が食事を摂ってしまったのにも関わらず、
レオ二スの姿が見えなかった事に気付いた。
『あの人の事だから……』
きっと食事の事など忘れて、明日からの演習計画の再確認でもしているのであろう。
好き嫌いはしない代わりに、そこにある物を食べ、無ければ食べないと言い切ってしまう彼の事である。
一食抜いたくらいでへこむような鍛え方はしていないのだろうが、シルフィスとしては、毎食きちんと食べて欲しかった。
「メイ、すみません。少し外してもいいですか?」
「んー?」
自分の食器を置き腰を浮かせたシルフィスを見上げ、一瞬考えるような顔をしたが、メイはすぐに察してくれたらしい。
「ああ。うん、オーケー。行っといで」
そう言いながら自分も立ち上がり、少し冷めてしまったシチューをもう一度火にかけて温め直してくれた。
その間にシルフィスは、手早く小さなポットにお茶の用意をする。
メイはパンと、温め直したシチューを取り分けた皿をシルフィスの手に渡し、
すぐに冷めないように真新しいハンカチをその上にふわりとかけた。
「はい、行ってらっしゃい。お仕事熱心な上官相手だと、副官も大変だね」
楽しそうにひらひらと手を振って見送ってくれたメイに、シルフィスはちょっと照れたように笑い返した。
「隊長…よろしいですか?」
「シルフィスか?ああ、入れ」
やはりレオ二スは、本営に使われている一際大きな天幕にいた。
天幕の中央に置かれた机の上には、この辺りの地形図や幾つかの書類が広がったままだ。
「どうした?」
手にした書類から顔を上げ、蒼い瞳がシルフィスを見る。
「お食事をお持ちしたんです。表にいらっしゃらなかったので」
「もうそんな時間だったか」
レオ二スが苦笑する。冗談ではなく、本当に時間が経つのを忘れていたらしい。
手早く脇に書類を退けたその場所に、シルフィスが皿を置いた。
遅い食事を摂り始めたレオ二スの前に、シルフィスがポットから茶を注いでそっと置く。
ふうわりと甘い香りのする湯気が、微かに彼の前髪をかすめた。
「…いい香りだな」
「アンヘルの村でよく飲まれる香草茶なんです。身体がとても暖まるんですよ」
レオ二スが一口飲み、軽くカップを掲げて見せる。
美味しいというその仕草に、シルフィスの顔がほころんだ。
彼が食事を終えると、シルフィスはもう一杯茶を煎れ直した。
今度は自分の分も入れる。
レオ二スと向かい合った椅子に腰掛け、ぼんやりとお茶の湯気を顎に当てていると、気遣わしげな声をかけられた。
「…何かあったのか?」
「――――え?」
そう問われたシルフィスが、意外そうな顔でレオ二スを見る。
「私……変な顔をしていましたか?」
「いや――そういう訳じゃない。ただ……少し、元気が無いと思っただけだ」
彼自身、ほとんど無意識から出た言葉だったから、何をと問われても咄嗟に答えられなかった。
僅かに伏せられた彼女の瞳が、ひどく心細げに見えたかもしれない。
だから彼は重ねて尋ねた。何かあったのか、と。
「…いえ、私は何も。ただ少し……メイの事を考えていたものですから」
「メイ?」
怪訝そうにレオ二スが眉をひそめる。
シルフィスはちょっと笑うと、昼間メイと彼女の夫、キールの事を話す機会があって、それをまだ引きずっているのだと答えた。
「メイは立派だと思います。本当は一日だって離れていたくない筈なのに、『仕事だから仕方ない』と笑顔を見せてくれる。
でも彼女の心は、本当は苦しんでいる――同じ…女だから、判るんです」
側に居たい。
でも邪魔はしたくない。
物分りの悪い女だと思われたくないけれど、それでも我侭を言いたくなるのも、自分自身に違いなくて…
レオ二スが戦場で前線に出るのは辛かったけれど、戦場でも側に居られる副官を拝命して、素直に嬉しかった自分が居る。
「私は…きっと笑えない。彼女のようには、生きられない。
それならば私は騎士として、死の瞬間まで貴方の側に居たいと――そう、願ったんです」
恐る恐る顔を上げたシルフィスの頬に、軽くレオ二スが手を触れる。きっと、今の自分の顔は泣きそうに違いない。
気恥ずかしさとやるせなさで、シルフィスは真っ直ぐにレオ二スの顔を見る事が出来なかった。
たまらずに俯きかけた彼女の耳に―――
「……その言葉が聞きたかった」
シルフィスのみが知る優しい声が、彼女の頭を再び引き上げる。
そこには穏やかな眼差しで自分を見つめるレオ二スがいた。
「―――え……?」
シルフィスの頬に触れた手を一度離すと、レオ二スは自分の上着の内側から小さな箱を取り出した。
パチリと器用に片手で掛金を外し、シルフィスの手にその箱を乗せる。
「……!」
シルフィスが息を呑む。
それは彼女自身の瞳の色を映したかのような、翠色の石をはめ込んだ指輪だった。
「本当は昨年の降誕祭に、お前に渡そうと思っていた物だ。ずっと渡しそびれていたんだが……受け取って貰えるだろうか」
昨年の降誕祭と言えば、例のダリスに対する国内情勢が、緊張を高めていた時期だ。
シルフィス自身も秋から年明けにかけて、単身ダリスに潜り込んだ事もある。
「ずっと…持っていて下さったんですか?いつか、私に渡そうと?」
レオ二スが小さく頷く。
「私は、決して生き方が上手くはない。その事でお前に苦労をかける事もあるだろう…歳も離れているしな。だが、それでも…」
まっすぐに視線が合わされる。シルフィスは頭の芯が痺れたように、動く事が出来なかった。
「お前を失いたくない――それが私の、偽らざる気持ちだ」
翠の瞳に涙が滲む。
「隊長……私で、よろしいのですか?」
「お前以外の何者も、私は望まない。女神エーべの名にかけて」
きっぱりと返されたのは、紛れもない誓いの言葉―――
彼こそ、自分を選ぶ事で何かを犠牲にするかもしれない。
それが怖くてこの一年、ずっと思いを傾け続けながらも、何も口に出せなかったのだ。それが、今―――
「私こそ、貴方は過ぎた方だと思っていました。……ありがとうございます、レオ二ス様」
「それでは―――」
こくりと頷き、シルフィスの面に華のような笑顔が浮かぶ。
「貴方以外の伴侶となる事を、私は望みません。女神エーべの名にかけて」
レオ二スの腕が、しっかりとシルフィスを抱きしめる。
天幕の外では恋人たちを祝福するように、ちらちらと雪が降り始めていた。