演習最終日。初日の夜から再び降り始めた雪は、少しずつ、だが確かに深みを日々増していた。
騎士団で支給される普通のブーツでは、そろそろ歩く事も難しい。

「空も、なんとか保ちそうだな」
「ああ」

ガゼルの所属する隊の隊長――実はレオ二スとは同期――のリデール・マイアスが、レオ二スの隣に馬を並べた。

「寒さもいくらかマシだしな。今日なんて、昨日や一昨日に比べたら暖かいくらいだ」

傍らに馬を立てたレオ二スの返事があろうとなかろうと、構わず気さくに声をかける。
『騎士団の良心』と言われるほど温厚なリデールと、鉄面皮の申し子のようなレオ二スの組み合わせに大概の者は驚く。

だがリデールが不必要に私事に踏み込む事をしない男だったので、何となく二人の交友も続いている。
お互いにお互いを『友人だと思うか』と問えば、恐らくリデールは即答で『そうだ』と答えるであろう。
レオ二スは少し考えた後に、『多分』と答えるに違いない。そんな関係である。

 

「お前の所の副官な」

レオ二スの片眉が微かに上がる。

「…シルフィスが何か?」
「ウチのガゼルと同期だったろう?今年正騎士の叙勲を受けた中では、俺はあの二人が有望株だと踏んでたんだ。
 部下に欲しいと思っていたら、運良くガゼルの方だけでも配属になってくれてな」

カラカラと豪快に笑う。

「あいつはちょっとそそっかしい所もあるが、本当に大事な事はちゃんと判っている奴だ。
 同期ってのは、同じ時期に同じ上官にしごかれるから、自然と気の置けない友人になるもんだが…
 シルフィスは女に分化してからも、変わらずに俺たちやガゼルにも接している。
 そういう意味で、ガゼルは良い友人を失わずに失わずに済んだと思ってるよ。
 お前も助かってるだろ?シルフィスは細かい所まで、神経が行き届いてそうだからな」

伺うようにレオ二スの顔を覗き込む。
そのリデールをちらりと目の端で見やり、レオ二スが微かに笑った。

「…お前が笑う所なんて、初めて見た気がするぞ」
「何だそれは。俺も笑う事くらいある」

ただ見せる相手が限られているだけだ。

「副官が誉められて素直に喜ぶなんて、お前も意外と可愛い所があったんだな。
 感情的すぎるのも騎士としては考えものだが、お前はもう少し感情に依ってもいいと、俺は前々から思っていたんだ。良い傾向だと思うぞ」
「言っていろ」

恋人が誉められて悪い気はしない。
だが無意識に口元が緩んだだけでこの言われ様である。
王都に帰って彼女との婚約が正式に知れ渡ったら、一体何を言われる事やら。

……それを思うと、少し頭が痛かった。

 

 

レオ二スが高く右手を差し上げると、十騎前後の小隊に別れた部下たちが雪原上に広く展開する形で散って行く。頃合を見計らってリデールが細い角笛を吹くと、それに呼応して再び隊列が縮まった。

再びレオ二スが腕を水平に振るうと、今度は横列三重に整然と騎馬の隊列が組み上がる。
リデールが先程とは違い短く二度角笛を吹き鳴らすと、隊列の一列目が盾を構え、後ろの二列が弓矢を構えた。

 

小一時間後程、ランダムな組み合わせであらゆる指示と再編が繰り返された。
寒さに手綱を取る手もかじかんでいるに違いない。

仮とは言え、小隊を任された者がサインを見誤ったり判断が遅れると、レオ二スとリデールの双方から厳しい叱責が飛ぶ。
レオ二スは言わずもがなだが、リデールとて演習中に甘い顔はしない。
リデールは部下にとって話の判る上官ではあったが、騎士としては決して甘い人物ではなかった。

だがその中で、一度も二人の厳しい目にかからなかった者がいる。
シルフィスとガゼルであった。

 

「流石は俺の見込んだ奴等だ。他の連中は何かしらミスがあったが、あの二人だけは何もないな。大したもんだ」

贔屓目無しで、手放しの賞賛をリデールが口にする。

「見習で入りたての頃に真っ先に叩き込んだからな。身体の方が覚えているんだろう」
「……は?」
「あの二人の、見習い時代の直属は俺だったんだ。初日から毎日、サインと角笛の両方を覚えさせた」
「……忘れてた。成る程ね、見事にその刷り込みが活かされてるって訳か」

リデールが苦笑した。

 

シルフィスは最も山側の右翼で、ガゼルは反対側の左翼で、それぞれ巧みに騎馬を操りながら一隊を指揮している。
すぐ隣の隊は、思わず彼等の動きに反応するくらいだった。

「そろそろ休ませるか?」
「そうだな。一度火に当たらせてやらんと、身体が言う事をきかんだろう」

今頃本営では、メイが大きな焚火と温かい飲み物を準備してくれている筈だ。
召集の角笛をリデールが吹こうとした、丁度、その時だった―――

 

ドオォ………ン……―――――

 

「……?」

微かに響いたその音を、レオ二スは確かに聞いた。
一際大きく、リデールの吹く角笛の音がその残響に重なる。……何か、嫌な予感がレオ二スの胸中を満たした。
集まってくる部下達も、自分たちの息遣いと馬蹄の音で聞き取れなかったのか、変わらぬ様子で駆けて来る。

「リデール、今―――」
「隊長さーーん――――――っ!!」

音の正体を確かめようとリデールに声をかけたのと同時に、背後から大きな声で呼ばれる。
何事かと振り返ると、本営の方からメイが走りにくい雪の中を、それでも懸命にこちらに向かって来る所だった。

「どうした!?」

レオ二スの声はメイまで届いた。メイが立ち止まり、口元に手を当ててその場で叫び返す。

「早くそこから逃げて!麓の方へ早く!!雪崩が来る!!」
「何――――!?」

 

レオ二ス達が顔を見合わせるのと、不気味な地鳴りが轟き渡るのとどちらが早かったか。

「雪崩だ!!」

その声が自分であったのか、リデールだったのか、それとも小隊の誰かであったのは判らない。
恐ろしい速さで山肌を滑り落ちてきた雪の波は、あっという間に間近まで迫っていた。

 

リデールが馬首を巡らし、馬の腹を蹴りながら撤収の角笛を吹き鳴らす。
生きる本能か、誰一人違える事無く正確にその意図を感じ取り、麓に向かって一斉に馬を駆った。
レオ二スが腕を伸ばし、メイの身体を騎上にすくい上げる。その視界の片隅で―――

「―――シルフィス―――!?」

彼女の馬の脚が雪に取られたその隙に。
黄金の髪が白い波に呑まれる、一瞬の煌めきを、見た―――

 


―――寒い

シルフィスは自分の身体を腕で抱こうとして…ほとんど身体の自由が利かない事に気付いた。

―――ここは……私は、一体……?

目は開いている筈なのだが、視界は闇のままだ。
目を負傷したか、あるいは―――

「陽の光の当たらない…場所…」

 

小さく呟いた声は、ひどくくぐもって聞こえた。
自分が居るのは、あまり広い空間でもないらしい。

―――そうだ。リデール隊長の召集の角笛とほとんど同時に、変な音が聞こえたんだ。……そうしたら、本営の方からメイが駆けて来て……

それから後の事は、自分でもよく覚えていなかった。

メイの叫びは遠過ぎて聞こえなかったのだが、すぐに吹かれた撤収の角笛と背後に迫った地鳴りに、反射的に愛馬の腹を蹴っていた。
麓に向かって駆けたのだが、馬の脚が凍った山肌に取られて一瞬の隙が出来た。

―――ああ……そうか。私は雪崩に呑まれたんだ。

雪崩に巻き込まれる寸前、レオ二スの声を聞いたような気がする。シルフィス―――と自分の名を呼ぶ声を。

彼女自身は馬の背から放り出されて咄嗟に受身を取ったので、レオ二スの方を見る余裕が無かった……

 

落ち着いて手探りで辺りを探ると、頭の上の方が剥き出しの岩になっていた。
突き出した岩肌部分が彼女の胸から上くらいまでを、かろうじて雪に押し潰されるのを防いでくれたらしい。
その代わり、胸から下は全く動かせなかった。腕だけは、何とか動くのだが……

骨に異常はないと思う。ただ、のしかかる重さに身動きが取れないのだ。
このままではどうにもなりそうにない。息苦しいのも、気のせいではないだろう。

―――どうしたらいい?

自分が雪崩に呑み込まれた事は、きっとレオ二スは気付いている。
だが自分が何処に埋まっているのか、それを捜し出すのは容易ではないだろう。
あまり考えたくはないが、自分ひとりだけが巻き込まれたとも限らない。
何処まで自分が流されたのかも……判らない。

シルフィスは辛うじて動かせる腕で、胸から下を埋める雪を掻いてみた。
浅く埋まっているのなら、中から出られるのではないかと少しは期待したのだが―――少しも身体にかかる重さは変わらなかった。
まずい事に下半身の感覚が無くなってきている。寒さと雪の圧迫で負担がかかっているのだ。

 

―――どうしよう……

息が苦しい。
一体自分は、どのくらい意識を失っていたのだろう。
数秒か、数分か、それとも数時間なのか―――朦朧とする意識の中で、シルフィスは無意識に祈るように胸の上で手を組んだ。

薄い革手袋の下に、レオ二スから贈られた指輪を確かめる。
指輪自体は小振りだったので、手袋の下にしていても目立たなかった。
同じ天幕を使っていたメイだけは気付いたが、彼女は『良かったね』と言っただけで、それ以上詮索しなかった。

―――レオ二ス様…心配してるだろうな…

大きな声でも出してみようかと思ったが、あまり効果はないような気がした。
それに意識が朦朧としてきた今の自分では、どれだけの声が出せるのか判らない。
小さく吐息をつき、手を組み直す。

コツン……

「……?」

 

革手袋越しに、何か硬い物が指輪に触れた。上着の内側から何とか引っ張り出してくる。
それは彼女の手の平に乗る程の、小さな陶器の笛だった。

「これは…レオ二ス様から頂いた……」

母親を救ってもらった礼に、子供が置いて行ったのだと言っていた。
試しに吹いてみたら、レオ二スがその音色をとても気に入ってくれて…そのまま上着の内ポケットに入れたままにしていたのを思い出した。

「笛……もしかしてこれなら……」

同じ肺活量なら、叫ぶよりも効果があるかもしれない。
シルフィスは小さな笛を落とさないように、しっかりと手の中で握り直した―――

 

 

「行方不明は……シルフィス・カストリーズ一人か?確かなんだな?」
「はい。他の者は全員揃ってます」

雪崩の脅威を何とか逃げ切ったその直後、大急ぎで全員の点呼が取られた。
騎馬を失った者が数名。転んだり落馬した際に怪我をしたり骨折した者も数名いたが――行方が判らないのはシルフィス一人であった。

演習中に分かれていた小隊ごとに点呼を確認したガゼルが、リデールとレオ二スに報告する。
だが返事をしたのはリデールだけで、レオ二スは青い顔をして立ち尽くしたままだ。

 

「ごめんね、もっと早くに雪崩に気付ければ良かったんだけど―――」

悔しそうにメイが唇を噛む。

彼女は本営で、焚火の番とお茶の準備をしていた。
リデールが言っていたように、今日は昨日や一昨日に比べてずっと暖かかった。
『雪崩がおきそうねぇ』と思ったのは、もしかしたら予感だったのかもしれない。

 

まず、大地が身震いするような微かな揺れを感じた。
メイがはっとした次の瞬間には、不気味な地鳴りが足下から伝わってきた。

それは厳密に言えば、実際の聴覚で捉えた音ではなかったのかもしれない。
魔道士として、幾らかは修練を積んだ彼女であったからこそ感じ取ったものかもしれなかったが、
メイはそれが雪崩の前兆であると―――唐突に理解した。
咄嗟に焚火に水をかけ火を落とす。
後は手遅れになる前に、演習中のレオ二ス達に危険を知らせなければと、必死で雪の中を走った。

 

「いや…あの一瞬の警告がなければ、もっと大勢の犠牲が出ていただろう。
 あの雪の中を、危険を知らせる為に来てくれただけでも礼を言わなければならない」

レオ二スはようやくそれだけをメイに伝えた。実際、シルフィス一人が行方不明と言うのが奇跡な程である。
全員が雪崩に巻き込まれていたとしても、不思議はなかったのだから―――

雪崩が収束してから数分が経過している。
シルフィスがどんな状態にあるのか皆目見当もつかないが、
彼女が自力で脱出出来ない状況にあるのなら、一刻も早く見つけ出さなくてはならない。
一瞬の判断の遅れが、彼女の命を奪うかもしれないのだ。

 

「最後にシルフィスを見たのはお前だろう、レオ二ス?
 あの娘を最後に見た場所から、麓にかけてをまず捜した方がいいだろう。時間がない」
「ああ……だが―――」

彼等は大分、馬で元の場所より麓の方に向かって駆けていた。
元居た場所は判らないでもないが、おおよそでしかない。
だいいち雪崩がすっかり辺りの風景を洗い流してしまっており、どこを見ても同じに見えてしまう。

「それでも……やるしかない……!!」

手当たり次第に掘り返すのは無駄の極みだ。
だがそれしか方法が無いのなら、無駄でも無茶でもやるしかない。だが―――

 

「待って。どうせ当て推量で捜すのなら――試してみたい事があるの」

はっきりした声で告げたのはメイであった。反射的にガゼルが聞き返す。

「何を?」
「あたし、これでもダウジング…失せ物探しは得意なのよ。一応、ウチの旦那のお墨付き」

精神集中の一環だったのだが、メイは高い成果を上げていたのだ。
例えば部屋の中に隠した小物を見付けたりするのだが、意外な高確率で彼女は特異な才を見せて、キールを驚かせた。

「ただ掘り返すと言うのなら、一度でいい。あたしのダウジングを信じて、そこを掘って。
 それで見付からないのなら…あたしはもう、何も口を挟まないから」
「…いいだろう。よろしく頼む」

藁にもすがりたいのはレオ二スも一緒だった。
少しでもシルフィスを見つけ出す手掛かりになるのなら、何でもやれる事はやった方がいい。

メイは頷くと、とりあえずレオ二スの記憶からシルフィスが流されたであろうおおよその場所を割り出し、そこに移動する旨を告げた。
レオ二ス達にも異存はない。
メイとレオ二ス、リデールにガゼル、それに乗馬が達者で負傷していない者があと二名選ばれて、大急ぎで一度は逃げた雪原を戻った。

 

 

「大体、この辺りだと思うんだが―――」

実はシルフィスの愛馬の亡骸を、リデールの部下がこの近くで見付けていた。
可哀想に、馬は雪崩の直撃を受け、助からなかったらしい。
嫌な予感が全員の頭をかすめたが、あえて口には出さない。

「うん、判った」

レオ二スの馬に一緒に乗せてもらっていたメイが頷く。そして背後のレオ二スに、小さな声で囁いた。

「隊長…指輪、貸して」
「……!?」

レオ二スが一瞬目を瞠る。

「ごめんね。黙っててあげたかったんだけど、シルフィスを捜すのに使いたいんだ…あの娘の指輪は隊長が贈ったんでしょ?
 そして隊長自身も、対になる指輪を持ってる。違う?」
「…その通りだ」

レオ二スは左手の革手袋を外すと、黙って指から指輪を抜いた。
メイの手の平にそっと乗せる。
それは小さな蒼い石――彼自身の瞳の色――をあしらわれた、小振りの指輪だった。

「シルフィスを見付けてくれ。どうか―――」

祈るような、その眼差しに。

「信じて、あたしを。そして自分の、想いの深さを―――」

応えたメイの声は、決して諦めてはいなかった。

 

 

メイはポケットから愛用のダウジング用の振り子を取り出すと、預かった指輪を鎖に通した。
そして利き腕ではない左手に即席のダウザーを掲げると、レオ二スの馬に片鞍乗りしたまま目を閉じる。

風の音が雪原を滑る。

本当は少しでも長い間集中したかったが、一刻を争う今、それは出来ない。
メイはこの世界でキールから教わった、ありとあらゆる精神集中の方法を考えた。
短い時間で、確実に効果のある方法を。それは―――

―――信じる事……そうだよね、キール―――

シルフィスはメイにとっても大事な友人だった。
クラインに召還されてからというもの、奇異と畏怖の対象でしかなかった自分を、彼女だけは普通の女の子だと言ってくれた。
たったそれだけの事だったが、それがどれ程自分の心を軽くしてくれたか、言葉ではとても言い尽くせない。

メイはシルフィスを見付けたかった。
そして彼女が側に居るのなら、必ず自分の呼び掛けに応えてくれると信じている。
その為に、今もっとも彼女に近い魂を持ったレオ二スの指輪を借りたのだ。

 

『シルフィス、応えて!隊長が待ってるよ。あたしも、ガゼルも、皆待ってる。貴女を失うのは嫌だ!』

不意に、メイの掲げる指輪がくるりと回転した。

メイは目を開けない。
固唾を飲んでレオ二ス達が見守る中、くるくると回転した指輪は、ある一点を指すように垂直に触れた。
彼等の立つ地から、いくらか谷側を指して。
―――その時だった。

 

ピィ――――――――ッ……

 

「あの音は…!」

まさしく指輪が指したその方角から微かに響いたその音に、真っ先に反応したのはレオ二スだった。
メイを振り落とさないように抱き込むようにして、一直線に馬を走らせる。

「隊長!今のシルフィスだと思う!?」
「間違いない!あの笛の音は、確かに―――!」

だがその笛の音は、長くは続かなかった。
それでも雪に埋まった彼女には精一杯だったのだろう。
間近まで駆け寄ったその時には、もう、名残の残響すら静まってしまっていた。

 

メイは素早く馬から下りると、もう一度指輪を掲げた。
雪の中を膝上まで埋まりながら、それでもお構いなしに歩く。……先程と同じように、不意に指輪が回った。

「―――そこか!?」
「そうよ。皆、来て!」

遅れてついて来ていたリデール達に叫ぶと、メイはすぐに炎の魔法の詠唱に入った。

間違いなくシルフィスは『ここ』に居る。ここまで来て、彼女の居場所がはっきりと判った。
だが、かなり深い。人の手が掘り返していては間に合わないかもしれない。だからこその、非常手段だった。

「もう少し……もう少しだから、頑張って!シルフィス―――!!」

メイの手から炎が放たれる。雪原が一瞬で熱に溶かされて、大きな陥没となる。
魔法の一撃で穿たれたその穴は、ゆうに彼女自身の身の丈程はあった。

「急いで!この下よ!!」

男たちが一斉に穴の底に下りた。
レオ二スとリデールが剣の鞘を使って底を掘り、ガゼル達が掻き出された雪を穴の外に運ぶ。
手応えは、すぐにあった。

 

見覚えのある防寒用のマントが雪の下から現れる。
レオ二スは剣を置くと、彼女を傷付けないように手で慎重に、だが手早く雪をどかしていく。
彼女の胸から上は、僅かな岩の出っ張りにかろうじて守られていた。
長い黄金の髪を辿るようにゆっくりと抱き起こす。
長い間雪の中に閉じ込められていたせいか、シルフィスの身体はゾッとする程冷たかった。

まさか、間に合わなかったのだろうか―――?

暗い予感にレオ二スの心臓が、氷の手で鷲掴みにされたように冷える。

「シルフィス……?」

小さな、その呼び掛けに―――

「う……」

確かに、彼女の喉から声が出た。同時に、すうっと大きく息が吸い込まれる。
無意識の大きな呼吸が数度続いたその後で。

……長い睫毛を震わせて、ゆっくりと……翠の瞳が開かれた―――

 

 

「本当に、もう駄目かと思いました。どこを見ても周りは真っ暗。
 自分が雪崩に巻き込まれた事は判ったんですけど、今、身体がどちらを向いているのかも判らないんです。
 どうやっても身体は腕以外動かせないし、そうこうしているうちに息が苦しくなってきて」

王都のさる療養所で、ベッドに半身を起こして熱弁を振るっているのはシルフィスであった。
隣のベッドにはメイが同じような格好で座っており、二人の周囲には珍しい顔ぶれも含めた見舞い客の姿が在る。

 

演習は雪崩という突発事故が起こった為に、整然と帰途に着くという訳には行かなくなった。
怪我人を安全に搬送しなくはならなかったし、馬はその傷病者の搬送に優先的に使われたので、
比較的怪我が軽かった者は覚悟を決めて徒歩での帰途となった。

シルフィスは差し当たって命に別状はなかったのだが、やはり雪の中に閉じ込められていたせいで、体力の消耗が激しかった。
リデールの強い勧めもあり、結局彼女はレオニスに付き添われて帰途に着いた。
勿論身体に負担がかからないように、細心の注意を払って。

 

実はシルフィスが救出された直後、メイも倒れた。本人曰く、『神経の使い過ぎ』。
だがその後、とんでもない事実が判明する。

それは咄嗟にメイを支えた、何気ないリデールの一言から発覚した。

『済まなかったな。お前さん一人の身体じゃないのに、非常事態だったから無理をさせてしまって』

ちなみにシルフィスはこの時はまだ意識が朦朧としていて、その後の騒ぎは聞いた話である。

『え…一人の身体じゃないって…まさか…?』

呆然と、ガゼルが繰り返す。
その後に続いたリデールの言葉は呆れるほど在り来たりな物だったが、その場の男性陣を凍り付かせるには十分だった。

『お前さん、お腹に子供がいるだろう?』

軽々とメイを抱き上げ、リデールがニヤリと笑う。
シルフィス用に用意していた毛布を半分ガゼルの手からから分け取り、メイの身体を包み込む。

メイはちょっと困ったような顔をすると、

『……多分』

……と、返事をした。

 

妊婦を雪の中歩かせていたのかと思うと、背筋が寒くなる。
とにかく知ってしまった以上、無理をさせる訳にはいかない。
彼女はレオ二スに絶対安静を言いつけられると、シルフィスと同じように王都までの帰路をリデールに伴われて帰って来たのだ。

「うーん、もしかしてそうかなーとは、思ってたんだけどね。丁度生活も変わった時期だったし、精神的なものかなぁ、と」

一応、気を付けてはいたのだ。
衣服は保温性に優れたものを選んで着ていたし、決して重い物を持たず、身体を冷やす事が無いように注意していた。

月の印を見なくなって三ヶ月。
演習の丁度真ん中辺りの時分に、どうにも気分が悪くて、食べた物を吐いてしまった。そこをリデールに見られていたのである。
確信があった訳ではなかったので、ただ気分が悪かったと説明していたのだが……
リデールはそれが悪阻だと見抜いていた。流石は妻帯者である。

 

「全く…何事も無かったから良かったものの。頼むから心臓に悪い事は控えてくれ」

渋い顔で額を押さえたのはキールである。以前なら喧嘩になっていたかもしれないが、今回はメイが大人しかった。

「…ごめん。あたしも自覚が足りなかった」

この身体で無理をするという事。それは即ち、お腹の子を危険に晒すという事なのだ。
全く自覚が無かったというならまだしも、『もしかしたら』と思っていたのだから、
ちゃんと事情を説明して、演習参加そのものを見合わせるべきだった。
キールはフウッと息をつくと、しょんぼりとうなだれてしまったメイの髪をくしゃりと撫でた。

「判ってるんなら、もういい」
「キール、そんなにメイばっかり責めないで下さいな。メイがあの場にいなかったら、シルフィスは助からなかったかもしれませんのよ?」

 

おっとりと口を挟んだのは、ダリス王妃となったディアーナである。

「キール、私からもお願いします。メイが捜し出してくれなければ、私は今、ここには居なかった。
 感謝しています。言葉では言い尽くせない程に」

メイを庇ってキールに頭を下げたシルフィスに、ディアーナがパタパタと手を振った。

「キールの事も放っておいてよろしいのよ、シルフィス。
 キールは肝心な時にメイの側に居られなかったから、自分で自分に腹を立てているのですから」

憮然とした表情で、キールがふいっとそっぽを向く。図星だったのだろう。

「演習参加者が雪崩に巻き込まれた第一報が入ってきた時の、キールのうろたえぶりを見せて差し上げたかったですわ」

少々意地悪い笑みをディアーナが浮かべる。メイが驚いたような顔をしてキールを見た。

 

 

エーべの大樹の再生も無事に軌道に乗り、後は簡単な引継ぎをダリスの関係者に行えば、キールは近い内に帰国する筈だった。
年内か、遅くとも新年早々には帰れそうな旨をクラインのメイ宛てに手紙でしたため、
帰国の準備を進めていたそんな折―――雪崩の第一報が入ったのだ。

魔道士の名代としてメイも参加していた事を知っていたキールは、それだけでも真っ青になったのだが、
続報の中でメイが倒れた事を知らされ―――キールは急遽、帰国を決めた。
早めたどころではない。即日帰国を決めたのである。

 

「キールは王宮に来たその足で、すぐにも帰国する旨を、アルムに伝えに来たんですわ。すぐにも発ちたい、って」

彼から話を聞いたアルムレディンは、少し考えると謁見室にディアーナを呼んだ。
そして彼女に簡単に経緯を説明し、キールが帰国を望んでいる事を告げた。

 

『そこで、だ。ディアーナ、君に我侭を言ってもらいたい』
『我侭を…ですの?』
『そう。君の故郷で大変な事故があった。その事故には君の友人のシルフィスやメイも巻き込まれている……心配だね?』

 

そこまで言って、アルムレディンは軽く口の端で笑って見せた。ディアーナがポン、と手を打つ。
一体夫が、自分に何を言わせたいのか。その答えは不意に、彼女の口を借りて出た。

『大変!お見舞いに行きませんと。アルム、構いませんわよね?いいえ、駄目だと言っても行きますわよ!!』

よく出来ました、とアルムレディンの目は言っていた。

『おや、ディアーナの我侭が出てしまったね。彼女がこう言い出したら、私が何を言っても聞かないんだ。
 仕方が無い。キール、君を彼女の護衛として任命する。クラインまでの道中、よろしく頼むよ』
『アルムレディン陛下―――』

アルムレディンとディアーナは、顔を見合わせるとニコリと笑った。

『済んでない引継ぎに関しては、後日私宛に書簡を送ってくれ。後任の者に、私から渡しておこう』

……こうしてディアーナの『我侭に付き合わされて』、キールは慌ただしくダリスを後にしたのである。
完全な引き継ぎが済まないままの彼の帰国も、『ディアーナの護衛を任せた』というアルムレディンの一声で、何一つ文句も出なかった。

 

 

他にもディアーナは、ダリスでのキールの事をいろいろメイに教えてくれた。

どんなに忙しい時でも、きちんと食事は摂っていた事。
どうしても仕事が押して仕方がない時は徹夜も辞さなかったが、二日続きの徹夜は絶対にしなかった事。
肌身離さず持っている手鏡を時折取り出しては、じっと見つめていた事…などである。

その手鏡とは、以前彼自身がメイに贈り、そしてダリスに発つ際に彼女がいつの間にか彼の荷物の中に入れていた物だった。
彼自身もクラインを離れる最後の夜、魔力を込めた自分のイヤーカーフの片方を、傍らで眠る彼女の耳に残して来た。

彼等はお互いが残した物を、お互いが身に付けて手放さなかった。
何も約束はしなかったが、それがごく自然な事であると。

 

「キールは道中、すっかり心の方が先にクラインに帰ってしまっていて。
 何を話し掛けても『ええ』とか『はい』とかいう返事しか、返って来ませんでしたのよ」

可笑しそうにディアーナが笑う。メイの頬は、うっすらと上気して朱に染まっていた。

自分の想いは、ちゃんとキールに伝わっていた。そして彼の想いも。
言葉にこそしなかったが、離れて過ごした三ヶ月を『寂しい』と思っていたのは自分だけではなかった。
それが確かめられただけでも、メイは嬉しかった。

『メイってば愛されてますのね〜』とディアーナは悟り、キールを話し相手にする事は諦めたのだという。

ようやくクラインに帰り着き、三ヶ月ぶりに愛妻と再会し……そして彼女の口から懐妊を告げられた。
本人は絶対に認めようとしないが、直後のキールの顔が微妙に緩んでいた事は…その場に居た全員が証言している。

 

「でもですわ。メイの赤ちゃんの話にも驚きましたけど、シルフィスとレオ二スの婚約にも驚きましたのよ」

シルフィスのベッドの傍らの椅子に腰を下ろしていたレオ二スが、軽く肩を竦めて見せる。

「何やら騒ぎの混乱に乗じてしまったようで、私達も少々心苦しいのですが」

約束そのものは交わされていたので、後々おかしな誤解が生まれぬよう、王都に戻ってすぐにレオ二スは国王に目通った。

彼の口から婚約の報告をし、改めてシルフィスの回復を待って挨拶に参上する旨を告げて、快諾を得た。
騎士の名を拝命している以上必要な通過儀礼ではあったのだが、例の事故の事後処理等もあり、いささか形式的になってしまったとは思う。

 

「それで、お式はいつ挙げますの?」
「シルフィスがここを出て、国王陛下に目通りましたらすぐにでも」

開き直ってしまえば気にならないのか、レオ二スがすらりと答える。
あの雪崩に巻き込まれた者は全員、療養と言う名の一ヶ月の休暇に入っていた。
実はこの療養所は王室御用達なので、事実上、彼等で貸切状態である。
シルフィスとメイの為にこの場所を手配したセイリオスの心遣いだった。

「でしたらわたくし、貴方たちの結婚式を見るまでクラインに滞在する事にしますわ」

にっこり笑って宣言する。

「大切なお友達の、大切な日ですもの。是非ともお祝いさせてくださいな」

 

ディアーナはシルフィスの手を取ると、『ね?』と満面の笑顔を浮かべた。

この歳若い王妃となった元王女が、キールとメイの結婚式にも駆けつけて参加した事を思い出す。
シルフィスがレオ二スを見ると、彼もシルフィスを見た。どちらからともなく頷き合う。

「是非、列席して頂きたいと存じます。内輪の者だけで済ませようと思っておりましたので、あまり派手には出来ませんが―――
 ディアーナ様は、シルフィスの大事な『友人』ですので」
「構いませんわ。わたくしも、内輪の一人ですから」

レオ二スの言葉の意味を汲み、微笑を返す。
元王女でも、隣国からの賓客でもなく、シルフィスの友人として彼女の新たな門出を祝福する為に残るのだ。
アルムレディンには手紙を書いて、帰国が遅れる旨を伝えておけばいい。きっと彼は、笑って許してくれるだろう。

「メイも、来てくれますか?」
「あったりまえでしょ。呼ばなかったらひどいわよ!」

からっとメイが笑う。隣でキールが複雑そうな顔をしていたが、口に出しては何も言わない。
メイが参加を表明した時点で、彼の列席も自動的に決まっているのだ。それはこの一年で、よーーく判っている。

 

「これからはレオ二スとシルフィスが、二人の歴史を築いて行くんですのよ。夫婦として、二人だけの」

静かなディアーナの声に呼ばれたように、シルフィスの手にレオ二スの大きな手が重ねられる。
心臓の鼓動さえその手を通して感じるというのに、不思議と心は穏やかだった。
まるで母の胎内に居るかのような静かな静寂が、彼女たちを優しく包み込む。

「そうして新しい命に、その歴史を繋いで行くんですわ―――幸せになってね」

 

それはキールとメイの結婚式に際しても、ディアーナから贈られた、力有る言葉―――

「はい―――」

手を繋いだまま、二人はしっかりと頷いた。

 

降誕祭の空に、雪が舞い降りる。
それは女神エーベの祝福のように、淡く優しく煌いていた―――

                                                                 【FIN】        


あとがき

レオシルメインで以前に書いたSSだったんですが、キルメイの絡み具合が密かに気に入っていて、
どこかに発表出来る機会がないか狙っていました。
実は一度、同人誌として発表済みな作品なのですが、身内にタダで配った意外は一冊も売れなくて(笑)
埋もれさせておくのも勿体無いので、一時「crystal world」の万里さんにお願いしてUPしてもらっていました。
万里様、その節は我侭な申し入れを受けて頂いて、ありがとうございました(^_^;)
ちなみにタイトルの「Heirat」とは、ドイツ語で「結婚」という意味です。
                                                           麻生 司

 

BACK INDEX