雨に打たれて


「あらっ、困ったわねぇ」

お増が台所で不意に声をあげる。

「どうしたの?お増さん」

台所の隅で芋の皮むきを手伝っていた操が、その声に手を止めた。

「お料理に使うお酒がもう少ししかないのよ」
「お客様に出す夕飯の仕込みは?」
「それは大丈夫。でも明日の分が無いわ。この間酒屋さんに注文を出した時、うっかり忘れてたのね」
「じゃ、あたしが買ってこようか?」

包丁を置き、操が立ち上がる。

「お願いしてもいい?私、しばらく手が離せないから」
「いいよ。じゃ、行って来ま〜す」


裏口から表に出た操は、元気良く酒屋まで走り出した。
歩いても五分程の場所にある酒屋である。そんなに急ぐ必用もないのだが、雲行きが怪しかった。

『帰るまで降らないでね』

雨に濡れても別段平気だが、進んで濡れようとは思わない。
大体長いこの髪は、乾かすのが大変なのである。

「そろそろ切ってもいいかなぁ」

とも思う。元は蒼紫たちとまた逢えますようにという願掛けだったのだ。
それが叶った今―――別に切っても、問題は無い。少々、惜しい気はするが。


酒屋で目的の品を買い外に出てみると、案の定雨が落ち始めていた。
それも結構な強さである。

「うわぁ…これはちょっと大変かな」

中に入って少し待たせてもらおうか、と操が酒屋の暖簾をもう一度くぐろうとした時―――雨の向こうに、背の高い見慣れた影を見付けた。
どんなに遠くたって見間違える筈がない。

「そう言えば蒼紫様、今日は翁の代わりに寄り合いに出るとかって言ってたっけ」


『蒼紫様、一緒に帰りましょ!』


ほんの一言、そう声をかければよかったのだ。蒼紫の隣を歩く、人影に気付く前に―――



「…あれ……菊屋の梓さん…?」

梓とは、葵屋の近くで江戸から商いをしている菊屋という旅籠の一人娘だった。
歳は操よりも二つ上で、近所では器量良しで通っており、操とも仲の良い幼馴染である。
その梓と、蒼紫が差した一本の傘に二人が並んで入り、雨の中を歩いていたのだった。

話し声までは聞こえないが、蒼紫は彼女と何事か言葉を交わしているようだ。
微かに笑みさえ浮かべた蒼紫の姿に愕然とする。
相合傘で歩く二人の姿は傍目にも睦まじく見えて、操はいつの間にか自分が軒先から出て、雨に打たれていた事に気付かなかった。

 




「…っくしゅん!!」
「操ちゃん、風邪ひいたんじゃない?蒼紫様が今、お湯使ってるから、その後で夕飯の前にお風呂入ってきなさい」
「うん……」

お増の言葉に曖昧な返事を返す。

結局操は、蒼紫から少し遅れて葵屋に戻った。
その頃にはもう頭の先からつま先までびっしょり濡れた状態で、手布で拭いたくらいでは全く追い付かない。
台所の隅で丸くなってこしこしと頭を拭いているが、前髪から滴り落ちる意外な程の水の冷たさでくしゃみが止まらなかった。

「夕立だから少し待てば止んだのにねぇ。悪い時にお使いに行って貰っちゃってごめんね、操ちゃん」
「ううん…そんなの、いいんだよ」


寒いのは雨に濡れたからじゃない。
二人が並んで歩く姿がとても自然に見えた。操にはその事が辛かった。
もしも蒼紫の隣に自分が居たら?それはせいぜい、仲の良い兄妹にしか見えないだろう。
自分が望むような―――一人の女性として蒼紫の隣に立てる日が来るのか―――それを思うと、考えまいとしても気が滅入る。


『梓さんと何を話していたのかな…たわいも無い事?天気の話とか?でも、そんな話も…あたしはあまり蒼紫様とした事はないよ』

あるいはとても近過ぎて。
そんな世間話も必要としない程、自分達は初めから近くに居た。だからこそ、自分は蒼紫の妹のようで―――
考えたくなかった現実を思い知ったような気がして、操は自己嫌悪に陥っていた。

 



翌日、操は頭痛がひどくて起きられなかった。

「夏の風邪はこじらせちゃうと厄介だから、今日は大人しく寝てなさい。後でお食事は運んであげるから」
「うん…」

大きな声を出すと頭に響くので、布団の中からお近に小さな声で返事をした。
障子がパタンと閉められたのを目の端で見やり、ほうっと大きく息をつく。

『参ったな…風邪ひくなんて、最近ではあまりなかったのに』

心が弱くなっているからかもしれない。
一晩眠ったら気にならなくなっているかと思ったが、一晩の眠りくらいでは、モヤモヤは晴れなかった。


昨夜の夕食の際にも、蒼紫は別に何も言わなかった。
実は梓と一緒の所を見たんですと、さり気なく言ってしまおうかとも思ったが、薮蛇のような気がして止めた。

「嫌な子だ、あたし」

気になる事があるなら、うじうじせずに本人にすっぱり聞いてしまえばいいのだ。


―――今日は梓さんと一緒に帰られたんですね。何をお話してたんですか?
    あたしも丁度酒屋にお使いに行ってて偶然見かけたんですよ。ひどい雨だったんでしばらく雨宿りしてた時に―――


たったこれだけの事が口に出来なかったばかりに、この体たらくである。
我ながら似合わない自分の後ろ向き思考に、情けなくて涙が出そうだった。
他の事ならば、操もこんなに溜め込んだりしない。蒼紫の事だから…弱くなるのだ。

 



しばらく横になっていると、表に客が来た気配がした。
応対しているお近の声がする。

『誰…?女の人の声……今、四乃森さんって言った……?』
「ぁ痛っ…」

痛む頭を押さえて操は布団から這い出した。
客の通らない身内だけが通る廊下から表が見える所まで出て、そっと様子を伺う。

『やっぱり…梓さんだ』

昨日とは違う仕立ての良い着物を身に纏った梓が、お近と話していた。
ただの世間話のようだったが、蒼紫が呼ばれて奥から出てくると、二人は連れ立って葵屋を出て行った。

「何で見ちゃうかなぁ…」

気にせずに寝ていれば良かった。そうしたら、あの二人の姿を見ずに済んだのに。

「やっぱり…梓さんみたいに綺麗な、大人の女の人の方がいいのかな」

ぽつりと口にして、泣きたくなった。

 



「操ちゃん、起きてます?」
「……なに、お増さん…?」

頭まで布団を被っていた操が、のろのろと返事をする。

「菊屋の梓お嬢さん、ご存知でしょう?操ちゃんが夏風邪で臥せってるって聞いて、お見舞いに来てくれたんですよ。起きれそうならお通ししましょうか?」
「…うん」


本当は会いたくなかった。
梓に対する一方的な嫉妬心や劣等感で、今の自分はきっと醜い。
だけどこれで会わないのは逃げているような気がして、もっと嫌だった。


「操ちゃん、入ってもいい?」
「どうぞ」

スッと障子が引かれ、梓が顔を覗かせる。操はなんとか、口元だけ笑ってみせた。

「雨にあたって風邪ひいたって、四乃森さんにお聞きしたものだから…具合はもういいの?」
「…頭が痛くて。熱は、あまりないんですけど」

梓の口から、蒼紫の名を聞くのが辛い。

「やっぱりあまり顔色が良くないわねぇ。これじゃ四乃森さんが心配する筈ね。駄目よ、気をつけないと」

ぽろりと梓の口から出た言葉に、操が思わず瞬きする。

「心配って…蒼紫様が?」
「ええ。今朝、傘を返しに寄らせて頂いた時にね。お聞きしたのよ」

 


昨日、傘を持っていたのは蒼紫の方だった。
御庭番衆の倣いで、夕方から天気が崩れると読んでいた蒼紫は、翁に代わって出た店主会に傘を持って出ていたのだ。
案の定お開きになった頃に降りだしたのだが、そこで蒼紫は傘を持っていなかった梓に傘を貸そうと言ったのだと。

「でもその傘をお借りしてしまったら、四乃森さんが濡れてしまうでしょう?
 だから大丈夫だと言う四乃森さんを強引に同じ傘に入れて、昨日はここまで帰って来たの。葵屋からウチまでは、結局傘をお借りしたんだけどね」

その傘を今朝返しに来て、礼を言う為に蒼紫を呼んで貰った時に、操が昨日の雨に当たって風邪を引いたと聞いた。

「朝方様子を見に行ったら、全く目を覚ます気配がないほど貴女が弱っているので驚いたそうよ。
 四乃森さん、今日も朝一番で呉服問屋の方に行かなくてはならないらしくて。
 滋養の良い物でも買ってきてやりたいけど、店の者も忙しいし自分もすぐに出なくてはいけないので、
 もしも時間があるのなら代わりに見舞ってやってくれって、お願いされたの」


はい、と梓が操に差し出したのは、よく冷やされた熟れた無花果(いちじく)だった。

「昨日も、ずっと操ちゃんの事をお話していたのよ。素直で優しくていつも元気な、大切なお友達だって。
 四乃森さん、とっても嬉しそうに私の話を聞いていたわ。操ちゃんの事、本当に大切なのね」
「…蒼紫様が…本当に…?」

じわり、と目の奥が熱くなる。

「ええ。『これからも操のいい友達でいてやってくれ』って。…どうしたの、操ちゃん?どこか苦しいの?」
「……なんでもない……大丈夫。今、ほんの少し、風邪で情緒不安定なんだ、あたし」

瞳から零れてしまった涙を手の甲で拭うと、それを風邪のせいにして笑みを浮かべた。
少し目が赤いが、今度こそ本当の笑顔―――風邪で弱った心に巣食った悪い夢は、涙ですっかり流れ落ちてしまった。


「それでね、今度私、祝言を挙げるの」
「ええっ本当に!?」

二人で見舞いの無花果を頬張っていると、梓がそう操に告げた。

「私も一人娘だから、お婿さんを貰うんだけどね。大阪の老舗旅籠の次男坊」

うふふ、と可愛らしい笑みを梓が漏らす。操が思わず脱力した。

「な、なんだ〜…それを先に知ってれば…」

自分の要らぬ早とちりとか誤解とかで、気を揉む事はなかったのだ。

「え、何のこと?」
「…ううん、気にしないで。それで、どんな人なの?」
「そうねぇ…私もまだ何回かしか会った事はないの。でも、とても優しい人よ。残念ながら、四乃森さんみたいな男前じゃないけどね」

そう言って、小さく舌を出す。

「でも、私はこの人じゃないと嫌だって、思ったの。会った回数や、過ごした時間の長さじゃないわ。
 父や母は、私が嫌なら無理に話を進めるつもりはなかったらしいけど…この人しかいないって…そう思ったから、決めたわ」


自分が幸せになれる人。自分を幸せにしてくれる人。
そのどちらか、あるいは両方を感じたのだと。言葉では説明しにくいけれど、梓は確かにそう感じたのだ―――

「操ちゃんも、いつかね」
「…そんな日が来るといいなぁ…ははは」

面と向かって言われると照れてしまい、操は真っ赤になって俯いてしまう。そんな操を見て、梓は目を細めた。

「さあ、それじゃ私は、そろそろお暇しようかな」
「え、もう?」
「顔色もすっかりよくなったみたいだし、もう大丈夫でしょ。
 それに、大急ぎでお仕事を終わらせた四乃森さんが戻って来た時に、私がいるとお邪魔だわ。それじゃあね♪」


はいこれ、と梓は一通の封書を操の手に握らせると立ち上がり、見送りはいいからとそのまま部屋を出て行った。
糊付けされていた封書を開けてみると、中には祝言の祝いの席への招待状が入っており、梓の字で走り書きがされていた。


『四乃森さんと二人でいらっしゃいな。貴女の祝言の時には、必ず呼んで頂戴ね。約束よ   梓』

                                                            【終】


あとがき

暗いっ!(笑)途中までその存在意義を問われる程に、操がドツボにはまり込んでおります。
このお話は軽いギャグタッチにするか、今回のような真面目なお話にするかで若干悩みました。
打ってるうちにどんどん操のテンションが下がっていき、これはもうこの路線で行くしかないなと(^_^;)

でも初めから、完全な操の勘違いであるとは決めてたんですよ。
ちらっとでも梓が蒼紫に気があって、それとなくモーションかけてみたけど蒼紫は操一筋で駄目だった―――という事は最初っから無し。
梓にはちゃんと婚約者がいて、蒼紫とはただのご近所付き合いだったと(笑)
蒼紫の事を『二枚目』と認識していても、自分の運命の相手はちゃんと他に居るとはっきり判っている人です。
ところでこの梓さんに関するお話、実はまだ続きます(笑)梓さん本人はちょい役ですが、まあいろいろと。





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