葵屋の真の夜


「操ちゃんは知らないかもしれないけど」

ある日の昼下がり。お茶と茶菓子を囲んで休憩していた操、お近、お増の三人は、ふとした事から妙な話を話題に上げた。
所謂『七不思議』である。

普通に数えると十段なのに、実際に上り下りすると十一段になる階段やら、夜中に見ると知らない人間が一緒に映る鏡とか、
怪談の一歩手前の諸々の話である。
操は怪談などは嫌いなのだが、自分が体験した訳ではない(もしくは、体験する予定のない)話なので、比較的冷静に話を聞いていた。

ところが。


「この葵屋にも、七不思議はあるのよぉ」

にやっと笑ったお近が、ご丁寧にも湯呑みを盆に戻して、さながら幽霊のようにだらんと胸の前で手を垂らした。


「またまた〜。あたしがそう言う話嫌いなの知ってて、わざと脅かすんだから。あたしだってここに住んで八年になるけど、七不思議なんて聞いた事ないよ?」

と言いながらも、操の口元がほんの少し引き攣っているのはご愛嬌である。
表に出れば心地よい風も吹いているというのに、背筋には冷たい汗が伝っていた。

「お近ちゃん、あんまりおどかしたら操ちゃんが可哀想よ」

堪えきれなくなったのか、お増が吹き出して操とお近の間に入った。ほっ、と操の表情が緩む。

「や、やっぱり作り話なんでしょ。もう、ちょっと本気にしちゃったよ」
「そうよ。幾ら何でも、七つは無いわよねぇ」


お増がにっこり笑う。一度は緩んだ操の口元が、再度ひくっと引き攣った。

「お増ちゃん、それ全然操ちゃんの助け舟になってないから」

お近の方が逆に気の毒になったらしく、子供をあやすように操の頭を撫でる

「ななな何!?本当に、七不思議ってあるの?この葵屋に!!?」

操はもう涙目だ。拳を握り締めて、嘘だと言ってくれと目が訴えている。お近とお増が、互いの顔を見合わせた。

「うーん……七つも無いけど、幾つかは変な話聞くわよね」
「そうそう。夜中に独りでに落ちる釣る瓶とか」


何でも井戸の釣る瓶が、皆が寝静まった真夜中にからからと落ちるのだという。
水音がするのに気付いた白が確かめに行くと、そこには誰も居らず、ただ釣る瓶から零れたらしい水溜まりが井戸端にあっただけなのだとか。
不審に思って部屋を回って確かめたが、皆自分の部屋で眠っていて、結局今でも真相は判っていない。

 

「う、そう言えば大分前に白さんが夜中に起こしに来た事があったけど、その話だったのぉ?」

操が心底嫌そうな顔をする。自分は全く関わりない話だと思っていたのに、案外身近で事が起きていたのが嫌だった。

「あと、いつの間にか中身が無くなっちゃう籠とか」
「何それぇ……」



台所に置いてある籠に果物や野菜等を入れておくと、
誰も食べてないし触っていない筈なのに、いつの間にか中身が無くなっているのだという。
そう頻繁ではないが時々ある事なので、白や黒が『またか』と言って首を捻る事もままあるらしい。

 

「そう言えば、夜中に読経が聞こえた事もあったわ」

お増が、ポンと手を叩く。操が今にも泣きそうな目をして嫌々をするように首を振っていた。
何がどうしても信じたくないと言うのが本音だろう。

「あ、あたしも聞いた事ある。夜中にふっと目が覚めると、耳元で何かお経が聞こえるのよね」
「も、もういい……あたし、ちょっと庭でも掃いてくる」

これ以上付き合っていられない。お増達に悪気は無いのだろうが、今の話だけでも当分寝付きが悪くなること請け合いである。
せめて葵屋の雑用でもして少しでも身体を疲れさせないと、とても眠れそうになかった。

 



さかさかと庭を掃きながら、操はぼんやりと先程の話を思い出していた。

まず一つ目の釣る瓶の話。これは夜中に人気が無くなった時に、猫か何かが悪戯して釣る瓶を井戸に落としたのだろう。
どうして井戸端に水溜りがあったのかとか、考え出したらキリがなくなりそうなので、強引に納得してしまう。

そして二つ目の中身がいつの間にか無くなってしまうと言う籠の話。
これもきっと、夜中の内に鼠か何かが中身を持って行っているのだ。
そうとでも思わなければ、とてもじゃないけどやっていられない。断じてお化けなどの仕業であってはいけないのだ。


そんな事をしている間に夕飯の時間になり、風呂を済ませ、それぞれ部屋に篭もる時間になった。
皆と賑やかにしている時は忘れていたのだが、一人部屋で行灯の灯りを消して横になると、嫌でも風の音が耳についた。
気にしないように思っているのに、全身が耳になったかのように周囲の音がやたらとよく聞こえる。


『うう……昼間あんな話、聞くんじゃなかったよ』

後悔したって後の祭りである。
今更お化けを怖がる歳でもないのだが、子供の頃に翁によって植え付けられたお化けに対する恐怖心は、そうそう消えるものでもない。

昔、操の悪戯を抑止する為に『悪戯ばかりしておるとお化けが来るぞ!!』と、ご丁寧にもお化けの扮装をした翁が散々自分を脅かしたのだ。
余程嫌だったのか、脅かされた事実自体は蒼紫に聞かされるまですっかり忘れていたのだが、根強い恐怖心だけが残されたのである。
幼い日の自分の、とんだ置き土産であった。


カラカララ………


不意に井戸の釣る瓶が落ちる音がして、操はギクリとした。
釣る瓶は、操が最後に洗い物をした時に、『何となく』井戸の外に出しておいた。
事故が無いように井戸に蓋を閉めて、後は普段通りにしておいた筈なのだが……


操は頭まで布団を被って、どうしたものか考えた。
このまま何も聞かなかった事にして、朝まで眠ってしまうのもアリだろう。
何もこんな真夜中に、自分が怖い思いをして見に行く必要は無い。明るくなってから確かめに行けばいいのだ。

しかし、もしも侵入者だったら?
葵屋は料亭兼旅籠だが、それほど羽振りが言い訳ではない。他所の旅籠や小料理屋ともどっこいである。
葵屋に住む者が日々暮らしていければそれで良いという考えなので、はっきり言って大して儲かっていないのだ。


だが、侵入者にとってはそんな都合は関係ない。
葵屋の正体が京都御庭番衆の拠点である事実は、この辺りに住む者には周知の事実だ。
徳川家のお膝元を守っていた御庭番衆縁の店なら、さぞかし羽振りが良かろうと勝手に思われても……仕方ないだろう。


「もしも物盗りだったら寝覚めが悪いや……仕方ないなぁ」

むしろ操としては、お化けよりも盗人の方がマシなのだが。
怖さよりも義務感が勝って、操は布団から抜け出した。
ちなみにこの時点で、物盗りの気配なら他の者も気付くだろう―――という考えは綺麗に抜け落ちてしまっている。
具無を掴むと、操はそっと部屋を出た。

 


縁側から草履を引っ掛けて、庭から台所の方に向かう。土を踏む足音を立てないのは、流石に御庭番衆と言うべきか。
井戸までの道程を半分程来た所で、誰かに一緒に来て貰えば良かったと気付く。
戻ろうかと一瞬思ったが、少し考えて止めた。
危ないと思ったらとにかく逃げる。それさえ頭にあれば、恐らく大丈夫だろう。

そっと物陰から井戸の方を伺う。
操が最後に釣る瓶を上げて閉めた筈の井戸の蓋が、ほんの少し開いていた。釣る瓶は片方井戸の中に落ちている。
周囲に人の気配はしない。

「……少なくとも、本物の釣る瓶が井戸に落ちた事は間違いないのね……」

井戸に何も変化が無いのに、音だけ聞こえる方が余程怖い。
実際に井戸の蓋が開いて釣る瓶が落ちていると言う事は、何者かがそれに触れたという事だ。


人の気配を感じないので、操が井戸に近付いたその時―――小さな影が目の前を横切った。

「ひゃあっ!!?」

我ながら間抜けな声を出して尻餅をつく。慌てて自分の口を押さえて周囲を見回したが、誰かが起き出して来た気配はなかった。
まだバクバク言っている心臓を押さえながら、目は井戸の陰から飛び出した小さな影を追っている。
『それ』は身軽に操のすぐ脇をすり抜けると、往来と葵屋を仕切る塀に飛び乗った。

「な、なんだ……猫か〜〜〜」

塀の上から黄金色の目でこちらを見下ろしていたのは、茶褐色の毛色の猫だった。
たかが猫一匹でビクビクしていた自分に気が抜けて、具無を構えていた手がヘナヘナと下がる。
塀の上の猫は、井戸の上に蓋をするように渡した板の一枚に、ひょいと飛び乗った。
猫が飛乗った衝撃で、板がカタッという音をさせて微かに動く。それで操は、釣る瓶の落ちた理由を悟った。

蓋として井戸に渡した板は、当然ながら井戸そのものの直系よりも少し大きい。
今、猫は蓋の真ん中あたりに飛び降りたから大した音はしなかったが、もしも端ギリギリに着地していたらどうだろう?
恐らくは梃子の要領で、小さな猫の重さでも反対側は大きく跳ね上がったのではないだろうか。

「そういや……上げた釣る瓶は、蓋の上に置いたっけ」

猫が遊んで?いて『偶然』井戸の蓋を少し開けてしまい、その衝撃で『たまたま』蓋の上に置いてあった釣る瓶が落ちたのだ。
以前白が経験したのも、同じような理由だったのではないだろうか。
井戸端に水溜まりが出来ていたのは、逆に井戸の底から上がってきた釣る瓶の底に僅かに溜まっていた水が零れたのに違いない。

「こら、あんまりびっくりさせないで。いつか井戸の中に落っこっちゃうよ!」

井戸の蓋を丁寧に閉め直し、釣る瓶も元通り蓋の上に置いて、操は塀の上の猫を一睨みした。
猫は判ったのか判っていないのか、『ニャーン』と一声鳴いただけである。

ふっ、と一息つくと、操は部屋に戻った。猫を相手に説教していてもキリがない。
枕の具合を確かめて再び横になる。昼間聞いた話の一つがとんだ枯れ尾花である事が判ったので、すっかり気がラクになっていた。


それからしばらくして。
猫の一件で無駄にくたびれた操は、ようやく微睡み始めていた。
恐らくそのまま何事もなければ、朝まで眠り込んでいただろう。ところが―――

 



『…………』

操は、ぱちりと目を開けた。微かな声が聞こえる。
ボソボソと言う声ははっきり聞き取れないのだが、どうも男の声のような気がする。

『そう言えば、夜中に読経が聞こえた事もあったわ』

「うっそーーー……井戸の釣る瓶が片付いたと思ったら、今度はお経なの〜〜!!?」


昼間のお増の話を思い出して、再び頭まで布団を被る。

少しは寝惚けているせいか、声の出所がはっきりしなかった。
床下から聞こえているようにも、天井裏から聞こえているようにも思える。
そんなつもりはなかったのだが、息を潜めてじっとしていると、嫌でもその声は耳についた。


『……かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみつたじ しょうけんごうんかいくう……』


やはり、お経らしい。法事や盆くらいにしか、経などあげる事も聞く事もないので詳しくは判らないが、多分般若心経だと思う。


『……どいっさいくやく しゃりし しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう くうそくぜしき じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ……』


独特の抑揚を持つ調べが微かに響く。
布団を被って耳を塞いで、何とか聞かないようにしていていたのだが――それでも聞こえてしまうのは何故なのか――
しかしそうして嫌々ながらも読経を聞いているうちに、何だかその声に聞き覚えがあるような気がしてきた。


『……しゃりし ぜしょほうくうそう ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん ぜこくうちゅうむしき むじゅそうぎょうしき……』


少し低い、だが張りのある声。決して大きな声ではないのだが、不思議と耳に届く。
音源が判らないのと怖さのせいですぐには気付かなかったのだが……これは、蒼紫の声ではないのか?


『……むげんにびぜつしんい むしきしょうこうみそくほう むげんかい ないしむいしきかい むむみょうやくむむみょうじん……』

「…やっぱりそうだ。これ、蒼紫様の声だ」

 

気付いてみれば、どうして今まで蒼紫の声だと判らなかったのか不思議なくらいである。
はやり怖い怖いと思っていたので、冷静な判断力を欠いていたのだろう。
蒼紫が自室か、恐らくは奥の間で座禅を組んでいるのに違いない。そして心身を清める為に、般若心経を読経をしているのだ。

葵屋では造りのせいなのか、時折こう言う事が起きる。
普通では絶対に聞こえない筈の話し声や小さな声が、天井裏か床下かを伝って、とにかく聞こえるのである。
蒼紫自身は真夜中という事もあるし、きっと呟くような声で読経しているのだろうが、たまたま操やお近が聞きつけてしまった訳だ。
耳の良い御庭番衆ならではの現象だったのかもしれない。

 

『……ないしむろうし やくむろうしじん むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ ぼだいさった えはんにゃはらみたこ……』


読経は静かに続いている。だが、蒼紫の声だと判ってしまえば少しも怖くは無い。
むしろすぐ傍で見守って貰っているような気がして、とても安堵した。

「蒼紫様……今でも時々、こうして読経してたんだ」

葵屋に戻ったばかりの頃は、本当の座禅三昧だった。
葵屋に留まらず、近くの禅寺まで赴いて朝から晩まで禅を組んでいた事も珍しくはない。
ようやく自分の居場所に慣れて来て、奥の間に篭もる事も、座禅を組む事も少なくなって来ていると思っていたのだが。


多分、以前と今とでは目的が違う。
以前は自分と言う存在の意義を模索する為に禅を組んでいたようだが、今は純粋に精神面の鍛錬だと思う。
あるいは、過去に喪った仲間の菩提を弔う為なのか。

いずれにしても剣客という者は、やはり何らかの形で気を締める必要があるのだろう。
蒼紫にとってはそれが座禅を組み、心静かに読経する事だったのであり、人によっては終日続く稽古であったり、激しい剣気の放出だったりするのではなかろうか。


『……しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう くうきょうねはん さんぜしょうぶつ えはんにゃはらみたこ……』


蒼紫の読経を聞きながら、瞼を落とす。
まるで蒼紫の声に抱かれているようで、操はすぐに安らかな眠りに落ちた―――

 


翌朝、操は非常にスッキリした顔で朝食の席に顔を出した。
昨日、七不思議の話で操がとても怖がっていたのを知っていたお増とお近が、意外そうに顔を見合わせる。

「操ちゃん、昨日は随分よく眠れたみたいだけど」

お増が声をかけると、『そう言えばそうかな?』と返事を返してきた。

「昨日あんな話をしちゃったでしょう?操ちゃんが、気になってちゃんと眠ってないんじゃないかと心配してたんだけど」

その心配が全く無用に思える程に、今朝の操は爽やかに起き出して来ていた。


「ああ……初めは気になってたんだけどね。でも大体、片付いちゃったから」
「片付いた?」

お近が不思議そうな顔をする。

「白さんが聞いた釣る瓶の音と、井戸端の水溜りの正体は猫の悪戯」

そう言って、昨晩自分の見た事のあらましを話して聞かせる。

「きっと中身の無くなる籠っていうのも、犯人は鼠かなにかでしょ。片付け終わったら、鼠の巣穴でも探す事にするよ」

湯呑みを片手に、操が笑った。

「じゃあ、私の聞いた読経の声は?実はあれが一番、私も気になってるんだけど」

お増の言葉に、お近もうんうんと頷いている。操にとっても、これが一番怖いだろうと思っていたのだ。だが、彼女は平然としている。


上座の方で、蒼紫が茶に咽(むせ)た。翁が『何事じゃ』と言いながら、蒼紫の背中を叩いている。
お増やお近の部屋は、操の部屋よりも更に蒼紫の部屋や奥の間から遠い。
操ですら最初は蒼紫の声だと気付かなかったのだから、響きや距離で更に判りにくくなっている筈である。
お増達が気付かないのも無理なかった。

「あれはねぇ……聞こえたけど、別に気にならなかったよ。
 いいじゃない、タダでお経唱えて貰えて、悪い物から守って貰ってるみたいだし」

ちらりと、操の瞳が蒼紫を見る。蒼紫も一瞬、操を見た。だが、操はそれ以上の種明かしはしなかった。
小首を傾げるお増とお近を他所に、ご機嫌で湯呑みを傾けていた。

 


それ以降、パタリと不思議な真夜中の読経の声は聞こえなくなった。
ただ時を同じくして、日中蒼紫が奥の間に篭もって禅を組む事が多くなったという。

                                                             【終】


あとがき

『静かな夜に真の恐怖が忍び寄る』……なーんて(笑)巨大なハッタリでどうもすみません。
蒼紫オチでございました。でもそんなに意外でもなかったかな?

すいません、若干まとまりの悪いお話になってます(^_^;)創作過程で、筋が二転三転どころか迷走しまくったんですよ〜。
七不思議で話を振り出したはいいけど、七つも思い付かないし、七つもオチが思い付かないし。
挙句に蒼紫が目立っていません。とほーん(T_T)
あ、もう一つの奇妙なお話だった、『入れておくといつの間にか中身の無くなる籠』のオチは、操の想像どおり犯人は鼠です。
翁のつまみ食いにしようかなーとも思ったんですが、翁の仕業なら白達が気付かない訳ないだろうと思い、その辺は変更。

ちなみに般若心経は漢字だと読みにくいので、平仮名表記にしました。本編で使ったのは7割くらい。まだ残り3割くらい続きがあります。
興味のある人は意味ごと調べると、お年寄りに褒められるかも(笑)

                                                             麻生 司




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