月と太陽と朝陽


      「蒼紫様?」

       部屋の外から、操の呼ばわる声がする。

       「入れ」
       「はい」

       すっと障子が開けられ、操の小柄な身体が部屋に入って来た。
       短く切った髪が、さらりと頬に落ちかかる。腕には、暁を抱いていた。

       暁は、縁あって葵屋に引き取られた養い子だ。
       まだ一人で歩く事がやっとの幼子だが、葵屋の者には皆よく懐いており、とても可愛がられている。

       「その後、変わりはないか?」
       「はい、お陰様で何とも」

       暁を腕に抱き取りながら尋ねた蒼紫に、操がニコリと笑って答えた。

 

       一ヶ月程前、操は暴れ馬から振り落とされた子供を庇って頭を強打した。
       見かけの傷そのものは大した事は無かったのだが、あろう事か、彼女は事故の衝撃で記憶喪失に陥ったのである。
       白尉が会津の高荷恵を連れて来たのだが、それでもなかなか完全には操の記憶は戻らなかった。
       彼女が最後まで思い出せなかった事―――それは他でもない、蒼紫の事だったのである。

       操の記憶が戻るまでの約一ヶ月は、蒼紫は勿論、葵屋の者にとっても針の筵に据えられたような心境だった。
       実はあの事故がなければ、蒼紫と操は近い内に祝言を挙げる筈だったのである。
       それが一転して、全てが無に帰した。
       物心つく以前から募らせていた操の想いも、そんな彼女を受け容れる決意を固めた蒼紫の想いも。

       このまま全てが終わってしまうのかと、誰もが最悪の事態を覚悟し始めた矢先―――奇蹟は、再び蒼紫を救った。
       一度目の奇蹟は、修羅に堕ちた自分を変わらずに想い続けた操の存在。
       二度目の奇蹟は……恐らくは互いを想う心の絆が、喪われた彼女の記憶を取り戻させたのだろう。

       半ば諦めかけていた自分の背に発破をかけ、奇蹟を起こすきっかけを作ったのは高荷恵だった。
       今はまだ操に彼女の事を話す機会に恵まれていなかったが、いずれ話す事もあるだろう。

       無事に記憶は戻ったが、何せ傷を負った場所が場所だけに、
       しばらく定期的に経過を知らせるようにと言い置いて、高荷恵は会津へ帰って行った。
       数日に一度同じような問答を繰り返しているが、こめかみに受けた傷はもうすっかり綺麗に治っていたし、
       特別気分が悪くなったりもしていないという。
       記憶が戻った瞬間だけは怒涛のような衝撃で眩暈を感じたが、今ではもう何ともなかった。

 

       手を伸ばし、蒼紫の掌が操のこめかみに触れる。
       そこに傷痕は残っていないが、運が悪ければ一生残る瑕になっていたかも知れないと思うとゾッとした。

       「……本当に、何も残っていないな」
       「元々、そんなに大きな傷でもなかったですから」

       操が短く返事を返す。あの事故の事には、あまり触れたくない。
       自分は平気なのだが、事故の事を口にする度、蒼紫が辛そうな瞳をするのが苦しいのだ。
       操を傷付けた暴れ馬を御そうと、手綱を握っていたのは彼自身であったから―――

       「あれは事故です。打ち所が悪かっただけ。こうして記憶も無事に戻ったのだし……もう、気にしないでください」

       一瞬瞳を伏せた蒼紫の手に掌を重ね、操が呟く。蒼紫に抱かれた暁に頬寄せた彼女の睫毛が、微かに震えた。

       「私こそ、事故とはいえ記憶を喪って……蒼紫様に、辛い思いをさせてしまった」

       消えてしまった傷はもう痛む事はないが、心の傷はそうは行かない。
       誰よりもその事を知っているのに、自分の存在が、一番大事な人の心に傷を付けた。
       その事実を思う度、今でも心が痛む。決して、蒼紫がその事を咎めない故に。

       「……過ぎた事をいつまでも気に病んでいても、お互い詮無いだけだ。あの一件は、もう気にしてはいない」

       蒼紫の指が、操の髪を払う。表情は、凪いだ海のように静かだった。

       「ただあの一件で、俺はかつて自分の犯した過ちの深さを思い知った―――今更悔いても、始まらないが」

 

       ただ一人と決めた者に、全てを拒絶される痛み。
       操は事故で記憶を喪い、蒼紫の事を何一つ思い出せなくなったが、それは彼女の本意ではない。
       しかし修羅道に迷っていた頃の自分は、一体彼女にどんな仕打ちをしたのか。

       操の育ての親である翁を手に掛け、駆け付けた彼女に自分の事は忘れろと告げた。
       人である事を止め、修羅として生きると決めたのは、弱い自分の心の裏返し。
       般若達の死を無駄にしたくない一心で、最強という称号を求めてひたすら緋村剣心の命を狙った。
       命を賭けた激闘の果てに、剣心の叫びで蒼紫は救われたのだが―――真に自分という存在を救ったものは何だったのか。

 

       「俺は、何もかも喪ったのだと思っていた。過去を否定され、現在を見失い、そして未来を閉ざされたと。
        だが修羅に堕ちた俺を照らしたのは……お前という、光だった」

       操が自分の後を継いで御庭番衆の御頭を名乗っていると知らされた時、自分の中で確かに何かが変わった。
       その瞬間まで、自分は死に場所を求めて戦っていた。
       最強の人斬りと言われた抜刀斎―――緋村剣心の首さえ取れれば、例え相討ちでも構わないと。
       だが操の名を耳にした時、御庭番衆を守る為に彼女が戦っているのだと知って……生きたいと、思ったのだ。
       勝っても負けても遺恨無し―――そして全力を尽くして敗れた後は、奇妙に晴れた気分だった。

      「……お前と言う存在を一度喪った。あの痛みは、一生忘れん」

       それはかつて、自分が操に与えた同じ痛み―――
       笑顔で自分を迎えてくれた彼女の胸の内に、一体どれ程の深い傷があったのだろう。

       「……もう、済んだ事です」

       そうでしょう?と、操は小さく微笑んだ。僅か二年前の事だが、もうずっと昔の事のような気がする。
       思い出と呼ぶには苦い経験だが、もう過去の事だと笑って済ませても良いのではないだろうか。

       「私も、蒼紫様も、こうして生きてるんだもの……それだけで、十分じゃないですか?」
       「……そうだな」

       言葉にならない想いの代わりに、華奢な肩を抱き寄せる。
       包まれるような腕の中で、操はそっと蒼紫の胸に頬を寄せた。

 

 

       「暁も、随分大きくなったな」
       「ええ。すっかり足下もしっかりして来て」

       這っているだけでも好奇心の旺盛な子だったが、歩くようになって更に行動範囲が広がりつつある。
       冗談ではなくて、本当に腰に紐でも結わえておかないと、うっかり目を離した隙に姿が見えなくなりそうで油断出来なかった。
       そろそろ片言で喋りだしてもいい頃なのだが。

       「暁の事で、話しておきたい事がある」

       そもそも操が蒼紫の部屋を訪れたのは、彼に『暁を連れて一緒に来てくれ』と言われたからなのだ。
       表情の改まった蒼紫の面を見て、操は暁を膝の上に抱き直した。

       「暁が葵屋に来て、もう一年以上になる。お前にもよく懐いているし……俺にも、案外と懐いているようだ。
        実は葵屋で暁を引き取った当初から、翁には話していた事なのだが」

       操の膝の上から伸ばしてくる暁の手に指を握らせ、蒼紫の瞳が僅かに和む。

       「暁を、四乃森の養子にするつもりでいる。俺と―――お前の子として」

 

      操が瞬きした。咄嗟に、話が飲み込めなかったのだ。

       「蒼紫様と……あたしの……?」
       「今は便宜上翁の遠縁の子という事になっているが、お前さえ良ければ、祝言を挙げると同時に然るべき手続きをする」

       親は居ないよりも居た方が良い。葵屋に居る限り皆が親代わりで寂しい思いはしないだろうが、
       親の存在は子の一生を左右する。
       暁の育ての親は操に他ならない。そして操は我が子のように暁の事を可愛がっていた。
       ならば名実共に親子になれれば、操にとっても暁にとっても良いのではないかと―――そう、思っていたのだ。

       「例の一件ですっかり話しそびれていたんだが……」

       言い掛けた蒼紫の言葉が止まる。間に暁を挟むようにして、操が彼の首に腕を回して抱きついたのだ。

       「ありがとうございます……!本当に暁のお母さんになれるなんて、思ってもみなかった!!」

       歳の頃合だけ見れば決して不自然ではないのだが、
       初めから暁は『葵屋』の養い子として引き取られていたから、まさか蒼紫が養子縁組を考えていたとは思わなかったのだ。
       それも、自分と蒼紫の子としてである。
       蒼紫との祝言でさえ自分にとってはこれ以上はないと言う慶事であったのに、同じくらいの喜びがあるなんて。

       「では、良いんだな?」
       「はい、勿論」

       頷き、蒼紫が暁を抱き上げる。その重さを、自分の手で確かめるように。

       「暁……あたしがお母さんになるんだよ。蒼紫様がお父さん。ずっとずっと、一緒に居ようね」

 

       命芽吹く春も、翠深い夏も、実り豊かな秋も、雪降り積もる冬も。いつまでも、いつまでも変わらずに―――
       蒼紫と操が祝言を挙げたのは、それから一週間後の事であった。

                                                             【終】


      あとがき

       蒼紫の誕生日SSだった『廻想』の完結編です。いろいろありましたが、ようやく祝言まで辿り着きました。
       と言っても祝言の話がメインではなくて、メインは暁の処遇です。(笑)

       実は暁を四乃森家の養子にするというネタは思い付きではなくて、かなり早い段階で頭にありました。
       問題はいつ、どのタイミングで実現させるかだったんですが、
       『廻想』の後日談を見てみたいというご意見を幾つか頂きましたので、ここで暁のお話を持って来ました。
       蒼操では微妙な内容だった『月に抱かれて』『後朝』『廻想』の一連の作品には暁の名を出していなかったんですが、
       一応全部、時系列で繋がったお話なので暁も存在していたのですよ(笑)




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