微 熱
「ふわっくしょいっっ!!!」
「……っくしゅん!!!」
「ひえーーっくしょいっ!!!」
「ゴホン…ゴホゴホ!!!」
葵屋に賑やかなクシャミと咳が響き渡る。
「んもー。どうして皆一緒に風邪をひくかな」
手桶に水と手布を持って、皆が寝ている部屋を回っていた操が、最後の翁の部屋で溜息をついた。
「おお、操すまんのう。『年寄りコケるな風邪ひくな』とはよう言うたもんじゃ……儂はもう駄目みたいじゃな、ゴホゴホ……」
「ちょっと止めてよ、たかが風邪程度で。大体、爺やがまだ一番マシなんだからね」
わざとらしく弱々しく咳き込む翁の額に、絞った手布を置いて軽く睨む。
「なんじゃ、そうなのか?」
布団から火照った顔を出し、翁が意外そうな顔をした。
「そうだよ。一番酷いのは……白さんかな?熱は高いし、咳の発作が酷くて。さっき氷嚢を作って持って行ったところ」
皆それぞれに症状が重いが、白は多分、操が氷嚢を作って持って行った事も気付いていないのではないだろうか。
熱のせいで意識がぼうっとしているらしく、声をかけても眠ったまま返事をしている感じだった。
黒は腹が痛いと脂汗を流していたし、お増は喉を痛めて声が出ない。お近も咳が酷かった。
熱もそこそこ、咳もそこそこ、声も一応出ている翁は、まだ症状が軽い方だ。
全部の症状が出ている分、ある意味不幸なのかもしれないが。
「お前や蒼紫……それに暁は大丈夫なのか?」
これは本当にゴホンと咳をしながら尋ねると、うん、と操が頷いて見せる。
「暁は、一番皆の部屋から遠い蒼紫様の部屋に避難させた。蒼紫様は、今のところ全然平気だしね。あたしも大丈夫」
今臥せっている者は、皆昨日くらいから調子が悪そうだった。
それぞれに喉の調子が悪いとか、悪寒がするとか言いながら床に就いたら、翌日起きて来れなかったのである。
いつもは泊り客が居なくても、朝食の支度でとっくに起き出して来ている筈の白たちが全員ダウンしたのは、ある意味驚異だった。
たまたまお客の居ない時で、本当に助かったと思う。
白たちが回復するまで当分お客は受け付けない心積もりで、今朝から看板も暖簾も出していない。
しかしほとんど全員が臥せっている今、皆の面倒を見れるのは自分か蒼紫しか居ない。
だが暁も放っておけないので、蒼紫には暁の世話を頼んだ。
お陰で操は朝からろくに食事も摂らず、お粥を作ったり、蒼紫の食事を用意したりと走り回っていた。
ちなみに医者は、蒼紫が呼びに行ってくれたので助かったが。
「お医者様からお薬も出してもらったし、後はもう良くなるだけだからね。早く治して、店をちゃんと開けないと。
迷惑かけるお客様が居なかったのは、たまたま運が良かったんだよ」
「うむ、面目ない」
コホッと小さな咳が零れる。
「じゃ、あたしも今日はもう休むからね……おやすみ」
「すまんの」
翁の声を背中に聞きつつ、廊下に出てから一日ドタバタして凝った肩をコキッと鳴らして、
操はペタペタと自分の食事を作る為に台所へと足を向けた。あまり、食欲は無かったが。
「忙しすぎると、お腹空くのも忘れるのかな……それにしても、何か身体のあっちこっちが痛いや」
肘とか、上腕部とか、ふくらはぎとか。
ずっと運動していなかった所に、急に身体を動かした時のような、筋肉の痛みがあった。
「あれしき走り回ったくらいでまさか筋肉痛?あたしもまだまだ修行が足りないのかなぁ」
腕の筋肉を揉み解しながら、操は覚えの無い筋肉痛に首を傾げた。
「操、皆の具合はどうだ?」
結局あまり食べる気がしなかったので、蒼紫の為に作った味噌汁に、残り物の御飯を入れておじやを作った。
それをぼんやり台所の横の部屋でつついていると、蒼紫が様子を見に顔を覗かせる。
「お医者様にも診て頂いたし、後は静養するだけです。皆それぞれ辛そうだけど、他にどうする事も出来ないし」
「そうだな」
普段、少々の事では泣き言を言わない面子が、揃って寝込んでいるのだ。
余程性質の悪い風邪を引き込んだのだろう。
「暁は?」
「今は寝ている……どうした、操?」
蒼紫が操の顔を覗き込む。
間近で覗き込まれたその仕草に、かえって操の方が驚いてしまった。
「え?な、何がです?」
「震えているからだ。寒いのか?」
蒼紫にそう指摘されて、操は自分の食が進まなかった理由を思い出した。
おじやを作っている時から、火の傍に居るのに寒くて仕方がなかったのだ。
うっかりすると、奥歯がカチカチ鳴るほどである。かまどの火を落としてからは、代わりに火鉢を傍に持ってきたのに、やっぱり寒い。
「そうなんです。さっきから妙に寒くて、火の傍に居ても全然駄目。今日は外も冷え込んでるのかな?」
「……俺には、この部屋も台所も、とても暖かいが」
「え!?」
操の額に蒼紫の手が伸びる。
「やはり、少し熱っぽいな。悪寒がしているのに、顔は何だか赤いぞ……皆の風邪が伝染ったな」
「梓お嬢様、お客様がいらっしゃってます」
部屋の外から呼ばわれて、梓は眉をひそめた。
神崎梓は、旅籠『菊屋』の一人娘である。先日婿養子を迎え、祝言を挙げたばかりだった。
操とは幼馴染みで、葵屋の他の者とも付き合いは古い。
「こんな遅くに、一体どなた?」
襖を開けて、取り次いだ家の者に来意を尋ねる。
「葵屋の、四乃森様です」
「四乃森さん?操ちゃんじゃなくて?」
梓の目が丸くなった。操なら、時間はともかく度々来る機会があったので然程不思議ではないが、蒼紫では話が別である。
「はい。暁坊ちゃんをお連れですが……」
皆まで聞かず、梓は慌てて玄関へと足を向けた。
「四乃森さん?一体どうなさったんですか、こんなに遅く」
家の者が客間の方に通そうとしたのを、あまり時間が無いからと固辞していた蒼紫は、暁を抱いたまま菊屋の玄関で梓を待っていた。
「申し訳ないが、数日、暁をこちらで預かって頂けないだろうか」
「それは……構いませんけど。一体、どうなさったんです?そう言えば今日は葵屋さん、お店を閉めていらしたようだし」
何かで外出した際に、葵屋が看板も暖簾も出していない事に気付いていたのだろう。
蒼紫は翁を筆頭に全員性質の悪い風邪をひいてしまい、臥せっている事。
そして今日一日彼らの世話をしていた操も、つい先程熱を出した事を、梓に話して聞かせた。
「恐らく、運良く発症していなかったのが、看病疲れで出たのだと思う。
今日一日暁は俺が見ていたんだが、これから皆が回復するまでは俺が何とかしなくてはならん。
万が一俺まで風邪をひくと、今度は抵抗力の弱い暁に伝染す可能性があるからな」
「ああ、それで……」
京都の町中で、風邪が流行ってるのは聞いていた。
菊屋でも、今は仲居の一人が熱を出して臥せっている。
ただ葵屋が、ほとんど全員が同じ時期に発症したのとは違い、菊屋ではばらばらに発症していたのだ。
実は今年の冬、菊屋で一番初めに寝込んだのは、何を隠そう梓本人である。
「判りました。そう言うことなら、暁ちゃんはウチでお預かりします。今年は一度ひいてますから、多分、私は大丈夫だと思いますし」
ニコリと笑って、蒼紫の腕から暁の小さな身体を抱き取った。
暁はあまり人見知りする方ではない。今までに梓とも何度も顔を合わせているので、彼女が抱いても泣く事はなかった。
ただ『どうして?』というように、大きな目で蒼紫を見て、彼の方に腕を伸ばしてはいたが。
「すまない。この礼は、また後日」
小さく頭を下げた蒼紫に、梓は『気になさらないでくださいな』と声をかけた。
「困った時はお互い様です。他に何か出来る事はありませんか?明日の朝の皆さんのお食事は、どうなさるつもりなんですか?」
「どうしようか、これから考える所だった。まあ、俺が作るしかないだろうが」
蒼紫が至極真面目な顔でそう答えたので、梓は思わず浮かびそうになった笑いをかろうじて飲み込んだ。
彼も御庭番衆の一人である事は、梓も知っている。
何をやらせてもそれぞれに達者な彼らの事だ。やる気になれば料理くらい出来るのだろうが…咄嗟に想像出来なかったのだ。
「大変でしょうから、お食事はウチから何か届けさせましょう。白さん達や操ちゃんが、治るまで」
「……そうしてもらえると、ありがたい」
人の好意は素直に受ける。
葵屋に戻ってから一年近く。蒼紫もようやくそう言った人の善意を受け容れる事に慣れて来た。
「かしこまりました。四乃森さん、暁ちゃんの事はご心配なさらず、しっかり操ちゃんや翁さん達のお世話をしてあげてくださいな」
頷いて見せた蒼紫に、暁を抱いた梓は微笑を浮かべた。
「ケホン……ゴホゴホッ……蒼紫様、暁は?」
暁を連れて少し出てくると言った蒼紫が一人で戻ってきたので、操は布団から顔を覗かせて辺りを見回した。
風邪をひいた自分の部屋に赤ん坊を置いておくわけにはいかないのだが、傍に居ないとそれはそれで気になる。
「心配ない。皆の風邪が治まるまで、菊屋に預けてきた。万が一俺まで風邪をひいたら、預けに行く事も出来んからな」
「ああ、梓さんの所かぁ」
ほっ、と操が安堵の息をついた。梓なら気心も知れているし、葵屋からも近い。暁も慣れているので、泣いてぐずる事もあまり無いだろう。
「それなら安心……後で、お礼に行かないと」
「そうだな。だが、暁を迎えに行く為にも早く治せ」
「うん」
額に絞った手布を置かれて、操は大人しく目を瞑った。
夕方から感じていた筋肉の痛みは、熱のせいだったのだ。
操はあまり高熱など出した事がなかったので、咄嗟に筋肉の痛みが熱のせいだとは気付かず、身体に不調を感じながらも首を傾げていた。
蒼紫が本日二度目の医者を呼びに行き、薬は処方してもらったので、今は熱も大分下がっている。
だが案外、微熱の方が身体はだるい。
倦怠感と軽い頭痛、喉の痛み、時折出る咳の発作など、皆の世話をしていたお陰で、それぞれの症状を少しずつ貰った形になった。
その分どの症状も中途半端なのだが、引いてしまった本人にとってはただしんどいだけである。
「操、少し起きられるか?」
「はい…何です?」
蒼紫が背中に腕を入れて起きるのを助けてくれたので、操は床に半身を起こした。
身体を冷やさないように上掛けを背中に羽織った所に、一度部屋から出た蒼紫が小さな土鍋を手に戻ってくる。
「さっきはほとんど口をつけていなかっただろう?食べられるなら、少しでも腹に入れておけ」
「え?温め直してくれたんですか?」
鍋の中身は、熱を出していると気付く前に操が作っていたおじやだった。
結局あの時は作ったものの、具合が悪くてほとんど口はつけていなかったのだが。
「温め直すだけなら、火にかけるだけだからな」
蒼紫が苦笑いする。新しく作っても、上手く出来る保証はない。
山で薬草を見つけたり、たべられる木の実を見分けるのは得意だが、料理自体あまりした事がないのだ。
自分一人なら、絶食でも山篭もりでもするが、病人を放ったらかしには出来ない。
梓のありがたい申し出がなければ、皆の食事は近所の仕出屋に手配を頼むつもりだった。
「えへへ、それでも何だか嬉しいな。喉が痛くて少し飲み込むのが辛いけど、頂きます」
小さな匙で、少しずつ口に運ぶ。
一口飲み込む度に喉が痛むので辛そうだったが、まずは栄養を摂らない事には治るものも治らない。
どんなに症状が重くなっても、何かを口に出来る間は大丈夫だ。
時間をかけて、操はゆっくりと小さな土鍋を空にした。
「後はゆっくり眠れ…大丈夫だな?」
「はい。ありがとうございます」
元通り自分を寝かしてから、蒼紫が閉めて出て行った障子を、微熱でぼうっとする頭でぼんやり眺める。
もしかしたら、眠るまで傍に居てくれと頼めば頷いてくれたかもしれない。
だが子供みたいな我侭だと思って、口にはしなかった。
『熱がある時って、何で普段思わないような事を考えたりするんだろう』
自覚している以上に、熱が高いのかもしれない。
顔の熱さを感じながら、操は瞼を落とした。
「こんにちはー!」
「あら操ちゃん、風邪はもういいの?」
数日後、菊屋を元気になった操が訪れた。
奥から暁を抱いた梓が出て来て、具合を尋ねる。
「お陰様で、もうすっかり。梓さんには暁の事や、食事の事も色々お世話になっちゃって。翁が後日お礼に伺います、だって」
「どういたしまして。困った時はお互い様ですもの、また何かあったらいつでも訪ねて来て」
腕の中で暁が操の方に乗り出すようにしたので、梓は操に暁を抱き渡した。
「暁ちゃんはお利口で手の掛からない子だったけど、やっぱり操ちゃんと四乃森さんが良いのねぇ。
四乃森さんが預けに来た時も、今みたいに手を伸ばしていたもの」
うふふ、と楽しそうに梓が笑う。彼女はまだ子宝には恵まれていないが、昔から子供好きだったので暁の世話は苦にならなかったようだ。
「そうなんですか?いつも一緒に居るから、一緒に居ない時の様子がイマイチ良く判らないんだけど」
ん?と操が暁の顔を覗き込むようにする。その操の頬に小さな手を触れ、暁はご機嫌だった。
「これは、以前聞いた話なんだけど」
そう前置きして、梓は操の腕に抱かれた暁の頭を撫でた。
「例えば小さな子供が遊んでいて、傍に居た筈の親が居ない事に気付いた時、その子はどうすると思う?」
「小さい子供…?うーん、泣いて捜すのかな」
「そうね。泣いて、探す子も居るわよね。でも親が傍に居ない事に気付いても、大して気にしないでそのまま遊んでいる子もいるんですって。
この違いはどうしてだと思う?」
しばらく操は考えていたが、ややあって、判らないと首を振った。
「泣いて親を捜さない子供と言うのは、例え親と離れていても、自分が愛されている事を知っている子なんですって。
愛されていると知っているから、傍に居なくても不安じゃない。だから、泣かないのだそうよ。
暁ちゃんはまだこんなに小さいのに、操ちゃんや四乃森さん、それに葵屋の皆に愛されてる事を、ちゃんと判っているのね」
暁と過ごしたのはほんの数日だったが、例えばお腹が空いたとか、オシメが濡れたとか、理由のある時以外はぐずらなかった。
抱いてあやしてやるとご機嫌になるし、菊屋の者が『いないいないばぁ』とやってみると、きゃっきゃと手を叩いて大喜びした。
幼くても、自分が大切にされている事を、暁は知っている。梓は、目を細めて優しい笑顔を見せた。
「ところで、自分が倒れたら後がないって言ってた四乃森さんは大丈夫だった?」
「それが、あたしと入れ替わりで、今朝」
「あら、やっぱりひいちゃったのね。ご愁傷様」
顔を見合わせ、梓と操がくすっと笑う。
自分をはじめ、翁達も今朝は数日ぶりにすっきり起き出して来たのだが、蒼紫だけは顔色が優れなかった。
『蒼紫様、おはようございます……蒼紫様?』
『……』
朝、顔を合わせて挨拶をした操に蒼紫は小さく口を動かしたが、はっきりとは聞こえなかった。
耳は良いので微かに聞こえたのは、『声が出ない』という、一言。
数日遅れて、どうやら喉の風邪を貰ったらしい。
『栄養をつけなきゃ駄目ですよ』という、数日前の自分の言葉をそっくり操に返されて、蒼紫は痛む喉に粥を流し込んでいた。
「蒼紫様のお部屋に連れて行かなければ大丈夫だろうって事で、暁は連れて帰ることにしたんです」
「それじゃ病み上がりの皆さんと、四乃森さんのお見舞いに、後で何か滋養のつく物を持って行きましょうね」
「あはは。また、梓さんに頭が上がらなくなっちゃうな」
操が苦笑いする。
今回臥せっていた間も、梓の援助があったから無難に過ごせたのだ。
「ウチで病人が続出したら、甘えに行く事にするわ」
「ああ、その時は任せて!今度はウチが恩返しするから」
「はっくしゅん!!」
葵屋に、耳慣れないくしゃみが一つ響く。
暁に伝染さない為に開かずの間と化した奥の部屋から聞こえるそのくしゃみは、数日の間続いたという。
【終】
あとがき
操が熱を出した時に、筋肉痛と悪寒がしてるのに風邪だと気付かなかったと言うのは、実は私の実体験です(笑)
まだ会社勤めをしていた頃の話なんですが、どうも昼過ぎくらいから身体のあちこちの筋肉が痛い。
トドメに帰宅途中、寒くて歯の根が合わない。こりゃ何か変だと熱を計ってみたら、八度五分を超えていたと言う(^_^;)
熱計るまで平気だったのに、熱があると判った途端にしんどくなるのはこれ如何に。
久し振りに梓さんが登場しています。ちゃっかり良い役を持っていってますが。
梓の話していた、『親の姿を見失った子供が泣く、泣かない云々』と言う話は、確か高校時代に聞いた話です。
さり気なく好きなエピソードで、いつか使って見たいお話でした。