例えばこんな平凡な一日


「ひょーほっほっほ♪今年もまたお邪魔しますぞー!」
「葵屋の皆様、ようこそおこしやす」

翁、操、白、黒、お増、お近の総勢六人がさる温泉宿の玄関をくぐると、女将が奥から出て来て深々と頭を下げた。
葵屋の一同が揃ってこの時期やってくるのは通年の事なので、もうすっかりお馴染みさんである。

「一晩お世話になります」
「どうぞごゆっくり」

ぺこりと頭を下げた操に、女将もやんわりと会釈を返す。
自分の荷物を持って、他の仲居に案内されて先に行った彼女の背を見送った後、女将はゆっくりと後に続いた翁を呼び止めた。

「操ちゃん、綺麗にならはったねぇ。去年来られた時はまだ子供っぽかったのに、なんやすっかり娘らしゅうなって」
「うん?そりゃ操も今は、人の子の親じゃからのう」

楽しそうに答えた翁の言葉に『へえ』と聞き流しかけた女将が、思わず固まってしまった。

 


「なんや、そう言う事やったんですか。私はてっきり、操ちゃんの子だとばっかり」
「爺やったら、何でわざわざ誤解を招くような説明の仕方をするかな〜〜」

案内された部屋で女将が茶の仕度をする。
その間に翁の爆弾発言の由来を聞き、女将が苦笑いした。

「暁は縁あって引き取った子で、確かにあたしが一番面倒を見てるけど」
「世間ではそういうのを『育ての親』と言うんじゃよ、操」

ニヤリ、と翁が意地悪そうな笑みを浮かべる。
先程の問題発言の直後の、女将の驚いた顔は見物だった。

思わずよく磨き抜かれた廊下を走らない程度に―――この辺は流石に女将らしい―――
急ぎ足で操に追いつき、一体何時、何処の誰と祝言を挙げたのかと問い詰めたのだ。
いきなり肩をがっしと掴まれた挙句に素っ頓狂な事を聞かれた操の方も、鳩が豆鉄砲状態である。


「育ての親って言ったって、別にお乳をあげてる訳でもないんだよ。オシメを変えたり、お風呂に入れたり…大した事じゃないよ」

育てるとは言っても、暁はまだ首が据わったばかりの赤ん坊である。
主食は勿論本来なら母乳であるが、暁の産みの母親は、彼が葵屋に引き取られるのに先だって亡くなっている。
近所で赤ん坊を産んだばかりの女性がいたので、彼女に貰い乳をしたり、時には牛乳を温めて飲ませたりしていた。

「それが、大変な事なんですよ。毎日の事ですからね、飽きたから止めるという訳にも行きまへんし。
 毎日それを繰り返してる操ちゃんは、立派な『母親』です。
 ……ところで、その暁という坊ちゃんは、今日は連れて来てはらへんのですか?」
「うん、お留守番なの」


本当なら、全員で来れば良かったのだ。蒼紫だって、葵屋の一員なのだから。
だが蒼紫は、自分が暁を見ているからのんびりしてこいと、留守番として居残ってしまった。
彼なりの気遣いではあるのだが、やはりほんの少し寂しいとは思う。


蒼紫が暁と留守番だと告げると、女将がああ、と手を打った。

「蒼紫さんって、操ちゃんがずっと捜してはった、あの?」
「そう」

蒼紫捜索は、勿論近場のこの温泉でも行っていた。
毎年訪れる度に、似た風貌の男の噂を聞かなかったかと吹聴していた為、すっかり女将も慣れっこになっていたのだが。

「それじゃ、見付かったんやねぇ。良ろしゅおましたなぁ、操ちゃん」
「ありがと。来年は絶対に引っ張って来るからね!」
「蒼紫さんは大層な男前やて、操ちゃん言うてはりましたねぇ。楽しみにお待ちしてます」

にっこり笑って、ぽろりと零れた女将の本気半分の冗談に、座敷の皆は声を上げて笑った。

 


かぽー――ん……

星空の下、桶の乾いた音が微かに響く。

「はー――――……いい気持ちだわ〜〜……」
「本当にねぇ…」
「一年に一度の命の洗濯。ばっちり女を磨いて帰らなくっちゃね!」

眼下に谷川を一望出来る露天風呂に、操、お増、お近はやって来ていた。
夏のお客が引けた後でもあるので、今、風呂は三人で貸切状態である。


波に洗われる根昆布よろしく、湯船に長ーーく寝そべっているのが操である。
お増は温かな湯にのーんびりとつかり、お近は少し湯につかると外に出て、何やら白い布袋のような物で身体を洗い始めた。

「お近さん、なーにそれ?」
「米糠袋よ。お肌が綺麗になるからって、さっき女将に教わったの」
「いいわねー、後であたしにも貸して頂戴」

湯船につかったままお増が振り返ると、いいわよ、という返事が返ってくる。
だが『女を磨く』事に余念のないお近は、当分米糠袋を手放す気配が無い。
恐らくは美味な地酒でも土産に持って帰り、比古清十郎の窯を訪ねて行くつもりなのだろう。


「操ちゃん、どうしたの?力瘤なんか作って」

湯船の中で神妙な顔をして腕を伸ばしたり曲げたりしていた操に、お増が怪訝そうに声をかける。

「うーん、最近暁をずっと抱いてたでしょ?最近あまり重く感じないなぁと思ったら、力瘤が大きくなってるみたい」
「ええ?……あら、本当。立派な力瘤」

ひょい、と何気なく曲げた操の上腕部には、以前はあまり目立たなかった力瘤が、割とはっきり見えるようになっていた。

「あらぁ、操ちゃん、大分鍛えられたわねぇ。間違いなくこれは、暁ちゃんを抱いてるせいよ」

お近も近付いてきて、操の腕を見て笑い声を上げた。

「この分じゃ、操ちゃんが本当に自分の子供を産んだ時には、きっとへっちゃらよ。いい練習になったわね」
「むむーん…力瘤よりも、どっちかって言うとさぁ…」

ちら、と操の視線が、手拭で隠されたお増とお近の胸元に走る。次いで自分の寂しい胸に視線を落とし、溜息をついた。

「大丈夫だって。ちょっとくらい胸が小さくたって、子供が出来たら大きくなるから」
「そうそう、蒼紫様だって気にしてないわよ」
「あ、蒼紫様は関係ないもんっっ!!」
「あらぁっ、なら蒼紫様に大きくして貰えばいいじゃない♪」
「そうねぇ。どうしても気になるんなら、やっぱり蒼紫様本人にねぇ」

ニヤリ、とお増とお近が顔を見合わせて艶然とした笑みを浮かべる。
普段は人畜無害な二人なのだが、湯あたりでもしたのか、素面で目付きが危なくなっている。

「ちょ、ちょ、ちょっと、二人ともっ!何言い出すのよぉ!?」

艶話に突入するきっかけを作ってしまった操は、真っ赤になって湯舟に身体を沈めてしまった。


……きゃらきゃらと、賑やかな女性陣の声が響き渡る女湯と、一枚の板塀を挟んで反対側の男湯では―――


「―――でかい声で、何て事を喋っとるんじゃ。あいつらは」
「……賑やかですねぇ……」
「板塀一枚向こうが男湯だって事、すっかり忘れられてますよね」

頭の上に手拭を置いた呆れ顔の男三人が、湯船に浮かべた盆の上に乗せられた銚子の地酒に舌鼓を打っていた。

「やれやれ、折角の露天風呂なんじゃ。ゆっくりつかって日頃の疲れを癒せばいいのにのぅ」

とぷん、と翁が肩まで湯につかる。

「まあ、それだけ羽根を伸ばしてるということじゃな」

説教がましい事を口にしたものの、今更隣の女湯の騒ぎを諌める気はないようだった。

 



「操、まだ寝ないのか?」

窓辺に腰掛けてボンヤリ表を見ていた操は、翁に声をかけられて振り返った。
先程まで美味しい料理と酒に大喜びして、飲めや歌えの大騒ぎをしていたのだが、自分と翁以外の者は既に寝息を立て始めていた。
御庭番衆は皆寝起きがいいが、比例するようにすこぶる寝付きも良い。
そうでなくても温泉という事もあり、普段よりも長風呂をした。
長く湯につかると眠くなるものだ。今夜はかなり酒も入っているから、無理もないだろう。

「蒼紫様と暁、ちゃんと御飯食べたかしら」

蒼紫の分の夕食と、暁の為の牛乳は用意して出て来た。
一晩で飢えて倒れる事はあり得ないが、何となく傍に居ないと気に掛かる。
そんな操のまだ少し幼さを残した横顔を見下ろして、翁はリボンで結わえた顎鬚を撫で付けながら笑った

「お前のその心配の仕方は、まさしく亭主と子供を置いて出掛けた女房じゃな」
「女房って……爺や、からかわないで」

先程風呂でお増とお近にさんざんからかわれた事もあって、操が真っ赤になって翁を睨む。だが翁は飄々とした様子で佇んでいるだけだ。

「別にからかっとりゃせんよ。以前のお前なら『何で蒼紫様、一緒に来てくれなかったの〜!?』とゴネはしても、
 ちゃんと食事をしたかなんて心配の仕方はせんかったじゃろう?」
「それは……」

改めて指摘され、操も返答に詰まる。

「以前のお前は、自分を中心に思考が動いておった。『どうして一緒じゃないの』、『何で傍に居てくれないの』…とな。
 じゃが今、お前は蒼紫が傍に居る事に慣れて来た。傍に居ない事への不安ではなく、蒼紫自身の心配が出来る程に」


ちゃんと食事は摂っただろうか。温かい物を食べているだろうか。今、何をしているのか……
そんな日常の何気ない事を、当たり前のように心配する。他人に対して出来る事ではなかった。
もしかしたら自分が葵屋に残っていたとしても同じように彼女は思ったかもしれないが、蒼紫に対する想いは、余人の比ではないだろう。


「蒼紫は果報者じゃの」
「え?」

小さな翁の呟きは遠くて、耳の良い操にも聞き取る事は出来なかった。

「いんや、何でもないよ」

そう言って、はぐらかしてしまった。
急いで結論を出す必要はない。確かな自覚はなくても、二人は心根の深い所でちゃんと繋がっているのだから―――
その代わりと言うように、翁は楽しそうに操に耳打した。

「心配せんでも、蒼紫の性根は逞しいぞ。そこらへんに生えてる竹を切ってきて、その竹筒で米を炊くくらいの事はやってのける。
 いざとなったら山に分け入って、食べられる木の根や野草などを探すくらい訳ないしな」
「そ、そうなの?」

木の根を噛んでいる蒼紫など咄嗟に想像出来なかったが、何となく翁の言いたい事は判ったような気がした。
要するに心配しすぎず、蒼紫を信頼して一日くらいゆっくりしろと言いたいのだろう。

「……んじゃ、あたしもそろそろ寝ようかな。あ、忘れないようにお土産買って帰らなきゃ」
「この辺は茶が美味いぞ」
「じゃあ、お茶とお茶菓子にするよ」

にこっと笑って立ち上がると、ころんと丸くなって自分の布団に潜り込む。
夢で蒼紫様に会えますように―――そんな事を考えながら、操はすぐに深い眠りへと落ちて行った。

 

「お世話になりましたー――!」

操の号令一過、ぺこりと葵屋一同が頭を下げる。

「また来年もよろしゅうに」

女将がにこにこと笑みを浮かべ、見送りに出て来ていた。

「来年は暁坊ちゃんと、蒼紫さんも是非ご一緒にね」
「はい、必ず!」

女将に耳打された操が元気良く返事をする。手には女将が選んでくれたとっておきのお茶と菓子の包みがあった。
繰り返される日常―――そう、きっと来年も。
女将に手を振り帰路を辿りながら、操は絶対来年は蒼紫も一緒に連れて来ようと、心に決めていた。

                                                                    【終】


あとがき

『例えばこんな呑気な一日』の操バージョンです。『一方その頃操達は…』ってヤツですね。
またしても怪しい京都弁が満載ですが(^_^;)万が一京都弁に詳しい方が見ていたらごめんなさい。
私は兵庫出身の徳島育ちで、現在は大阪在住でいずれ京都にある墓に入る身です(笑)

お風呂のシーンで微妙に遊ばせて頂いております(笑)
温泉、というシチュエーションで書いていると、何故だかこういう方向に。まあ、ちょっとしたお遊びって事で……(^_^;)
それを何気に聞いている男湯の方をどうしようかと思ったんですけど、こっちはさらりと流しておきました。
大体男湯でどんな事が話されているかなんて、想像出来ないし(笑)

ちなみに私の温泉体験記で忘れられない事と言えば、北海道に新婚旅行に行った時のこと。
近眼なので眼鏡を外し、おぼろげな視界で某温泉ホテルの大浴場へと入りました。
湯気で煙るぼやけた視界に映るのは、自分と同じ肌の色に黒髪ばかり。ところが日本語が全然聞こえてこない(笑)
なんと他の20余名程の入浴客は、全て韓国系のお客様だったですね〜〜(^_^;)英語の方がまだ馴染みがあったかも。
気分はまるで異邦人でした。私の方が母国人なのに〜〜(笑)

赤ん坊を抱いていると力瘤がつくのは本当です。ええ、実際私がそうですから。
私の場合は子供じゃなくて、子守りの為に10歳年下の弟を抱いてたんですけど、
それまでは重くて持てなかった10sの米が、今はヒョイと肩に担げます(笑)10sくらいなら、今でも全然平気。
赤ん坊っていうのは、日々重さを増していく大きなダンベルと思えばいいです。世のお母さんたちが逞しいのも頷けますよね(^_^;)

                                                                 麻生 司




INDEX