蓬莱の華
「あの…すみません」
「はい?」
店の前で水を打っていた操が顔を上げると、身なりのいい青年が、一人ぽつねんと立ち尽くしていた。
「旅籠の菊屋さんは、どちらでしょうか?」
「ああ、もう少し先に行った所ですよ。入り口に大きな暖簾がかかっているから、すぐ判ると思いますけど」
「そうですか。ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げ、青年は菊屋へと足を向けた。
どうも京都はあまり馴染みがないらしく、物珍しそうに周囲を見回している。
何とはなく操はその背を見送っていたのだが、あの大人しげな青年が小さな嵐の中心である事に、この時の彼女が気付くべくもなかった。
「操ちゃん、よく似合ってるわ。とっても綺麗!」
「本当に。いつも甚平ばかりだけど、そろそろこんな格好もいいかもね」
「えへへ…そうかな」
翌日、着慣れない余所行きの着物を着た操を前に、着付けたお増とお近が大はしゃぎしていた。
「これ、何の騒ぎじゃ?」
余りの賑やかさに、着付けの為に部屋を出されていた翁が障子を開ける。
「あ、翁!見てあげてくださいよ、この操ちゃん。とっても可愛いでしょう?」
「ほう…これは」
今日は近所の旅籠、『菊屋』の一人娘の梓の祝言の祝いに操と蒼紫が招待されていた。
いつもは甚平姿――秋めいてきて涼しくなったので今は作務衣だが――で通している操も、流石にめかし込む。
美しい藍色の地に銀で小さな桜の花が染め抜かれた着物に楝(おうち)色の帯を締め、
長い髪は三つ編みに結ったものを、頭の高い位置で結い纏めていた。
「よく似合っとるのー♪流石はワシの見立て!いや、馬子にも……」
げしっ、という鈍い音と共に、着物でいつもの動きが出来ない操に代わって、お増とお近の裏拳が翁の鳩尾に入る。
『はうぁっ!?』、という鈍い呻き声を漏らし、翁が畳に沈み込んだ。
「本当に綺麗ねぇ。盛装した蒼紫様と並んだら、さぞかし見映えがするわよぉ♪」
「翁は見立ての目『だけ』は確かだから、蒼紫様もきっと素敵に仕上がってるわよ!」
「…そ、そうとも。ワシの見立てだ。間違いないぞい…」
にこにこと笑顔を崩さないお増たちの後ろで、一人翁の顔色が悪かったが、褒められっぱなしの操の目にはあまり入ってないようだ。
「でも、あんまり着慣れないから動きにくいな…まあ、この格好で大立ち回りする訳じゃないから構わないか」
「そうそう。たまには女っぽい所を見せて、蒼紫様の心臓をがっしと鷲掴みにするのよ!!」
「操ちゃんも普段あまりやらないだけで、立ち居振舞いは一応仕込まれてるんだから。しっかり頑張りなさい!!」
「何を頑張ると?」
入るぞ、という短い断りと共に、すっと障子が引かれる。
顔を覗かせたのは、思わず見惚れる長身に浅縹(あさはなだ)の着物に鉄紺色の帯を締めた蒼紫だった。
「操、仕度は出来たか?」
「はい、蒼紫様!」
いつも通りという訳にも行かなかったが、元気良くたた、と側に駆け寄る操の姿を見て、蒼紫が目を細める。
「いい色だな、よく似合っている。翁の見立てか?」
「そうです。仕立てて貰ってから一度も袖を通した事なかったんだけど、いい機会だから着てみろって皆が」
素直に似合うと褒められて気恥ずかしいのか、操は首まで朱に染まっていた。
「蒼紫様の着物も素敵です。これ、この間翁が、あたしのこの着物と一緒に仕立てたやつですよね?」
「ああ」
夏の初めに操が蒼紫の膳を新しく一揃い揃えるのだと言い出して、それに葵屋の一同が乗った事がある。
翁も勿論一口乗ったのだが、その時翁は、二人に新しい着物を仕立てて贈った。
今回二人が身に付けているのがその着物である。
所謂紋付袴という正装にした方がいいか事前に梓に尋ねた所、身内ばかりなのでそこまで堅苦しくしなくていい、と言う事だったので、この着物に落着いた。
翁は『馬子にも衣装』と言いかけてお増とお近の裏拳をくらったが、
それは単なるいつものお茶目発言で、実のところ申し分ないくらい、操にはよく似合っていた。
蒼紫にと選んだ反物もよい仕上がりになっており、彼の男っぷりを如何なく演出している。
二人並んだ姿はまるで彼ら自身の祝いの席のようで、翁や葵屋の面々は、内心で思わず目頭を押さえそうになった。
そんな彼らの熱い視線を背に受けながら、『行って来る』と一言言い残し、蒼紫と操は菊屋へと出掛けて行った。
菊屋の裏手にある主人一家が住む屋敷の座敷に、梓の祝言の祝いの席は設けられていた。
梓が言っていたように身内やごく親しい友人のみが招待されているらしく、あまり窮屈な感じはしない。
やがて白無垢姿で現れた梓に、操が頬を染め、ほうっと溜息をつく。
彼女の手を取るのが、話に聞いていた婿養子となった男性なのだろう。
以前彼女自身が言っていた通り、所謂二枚目ではない。
だが人は良さそうで、時折言葉を交わす姿や、重い着物を着た梓の事を気遣う姿から、彼女を大事に想っているのはよく判った。
「梓さん、絶対にこの人じゃなきゃ駄目だって…思ったんだって。だから結婚を決めたって、前に話してくれた」
「好人物だな…似合いの夫婦だ」
ぼそぼそと囁きあうように隣の蒼紫と言葉を交わす。
蒼紫と梓は、共に町の店主会に代理で出る事があり、面識がある。
話したくない事には触れてこないような気遣いが自然と出来る女性であり、その点では蒼紫にとっても付き合いやすい隣人であると言えた。
「あれ…あの人?」
「どうした?」
「いえ、向かいの、新郎の縁者の列の方にいる人なんですけど…昨日菊屋への道を尋ねて来た人だと思って」
操が相手に見えない所で小さく指差す。
そこには確かに昨日彼女に道を尋ねた青年が居た。
「そっか。梓さんの祝言に出るお客様だったんだ」
操は見るとはなしに見ていたのだが、ふと顔を上げた青年と目が合ってしまった。
そのまま視線を逸らすのもわざとらしいので、軽く会釈だけする。
青年はにっこりと人好きのする笑みを浮かべて、操に会釈を返して見せた。
「主人に挨拶をして祝儀を渡してくる。先に帰ってるか?」
「ううん、そこの庭で待ってる。終わったら声をかけてください」
「判った」
梓の父親の所に挨拶に行く蒼紫の背を見送り、操はふう、と息をついた。
褒めては貰ったが、やっぱり帯が少々窮屈だ。出された料理も美味だったが、正直あまり食べたような気がしない。
「あれ、貴女は…」
庭に出て池の鯉を眺めていると、不意に後ろから声をかけられた。
「ああ、昨日の」
それは先程も目の合った、昨日菊屋への道を教えた青年だった。
「昨日はどうもありがとうございました。奇遇ですね、梓さんのお友達だったんですか」
青年は加瀬隆一と名乗った。
梓の婿となった男性の従弟にあたり、特に幼い頃から仲良くしていたのでこの席にも招かれたのだと言う。
「ずっと小さな頃から兄弟同然に育ったんです。気が良くて明るい気性の彼がこちらに婿入りしてしまうと、本家も寂しくなる」
そう言って、隆一は笑った。
そんな人柄の人物が梓の婿なら、彼女の将来は安心だ。きっと幸せになるだろう。操は友人の一人として安堵した。
「梓さんはさっぱりした気性で、優しい人だから。時々遊びに来るといいわ。きっと、喜んでくれる」
「そうですね…そうだと、いいな」
二人の間に微笑が漏れる。
「あの、巻町さん」
「はい?」
隆一が会話の切れ目に改めて声をかけた、丁度その時。
「操―――帰るぞ」
「はい!それじゃ、加瀬さん。あたし帰りますので」
蒼紫に呼ばれた操がぺこり、と頭を下げ、踵を返す。
「あ……」
伸ばされた隆一の手は、空しく宙を泳いだ。
「そうか、梓殿はそんなに綺麗じゃったか」
「そうなの〜♪本当に幸せそうでね、お婿さんも優しそうな人で、本当に良かった。ねえ、蒼紫様?」
「ああ」
翌日の朝食の席で、操は梓の祝いの席の様子を話して聞かせていた。
余程印象深かったらしく、話すのに熱中しすぎてすっかり箸が止まっている。
「さあさ、操ちゃんも話はまたお昼に聞くとして、早く朝御飯を食べてしまいましょ。お味噌汁がすっかり冷めてしまってるわよ」
「はぁい」
お近に促され一番最後に操が朝食を終えた頃には、蒼紫や翁は食後の茶も飲み干してしまっていた。
自分の膳や蒼紫たちの湯呑みもついでに洗い場に下げ、後片付けを手伝っていると、お増が操を呼びに来た。
「操ちゃん、お客様がいらっしゃってるわよ」
「お客?誰?」
「それがねぇ、あまり見かけない顔の男の方で、加瀬さんって仰ってるんだけど」
ああ、と呟き、操は手をすすいだ。確かにお増では隆一は判らないだろう。操とて数回顔を合わせただけだ。
「梓さんの祝言で会った人だ。何の用だろう?」
「さあ…とにかくこれは片付けておくから、表に行って差し上げて」
「おはようございます。朝早くからすみません」
「いえ…あの、何の御用でしょう?」
「もしお時間があるのなら、今日一日、お付き合いしてもらえないかと思いまして」
「……は?」
にこやかに誘われ、思わず返答に詰まる。
操が生まれて初めて『身内』ではない男性に誘われた、それが初めての経験だった。
「……で、お嬢、結局出かけちゃったんだろ?」
「そうなのよ。あたしも裏で丁度聞いちゃって。思わずお客様用のお膳、引っくり返す所だったわ」
「でもどうする?もしかしなくても、『その気』があってお嬢誘ったんだろうし」
「操ちゃんも気付いてる…とは思うんだけど……」
「何にせよ、あまり蒼紫の耳には入れん方が良さそうじゃのー…」
黒、お近、白、お増、翁が厨房の片隅で頭を突き合わし、非常に怪しい風体でボソボソと囁き合う。
隆一が正面から堂々と、操を外出に誘って小一時間後くらい経った。
蒼紫は奥の自室に居て操の外出には気付いていないようだったが、他の者には漏れなく情報が走った。
操を誘いに来る男というのは、葵屋の者にとっては青天の霹靂だった。
それは操が物心つく以前から蒼紫を慕っている事を知っていたし、彼女自身、よく口にしていた。
だから何となく操はいずれ蒼紫と一緒になるのだろうと思っていたし、
近所の者も、彼女にとっては心に秘めたただ一人以外は論外だと言う気配を悟って、今まで縁談も持ち上がらなかったのである。
だが、全く彼女の事を知らない者が、一度の出会いで見初めたとしたらどうだろうか。
「出かけたって事は、お嬢も少しは気持ちが揺らいだって事だろ?いいのかな、蒼紫様に黙ってて…」
白が顎に手を当て、考え込む。出来ればややこしくしたくはないが、知らせるなら早い方がいいような気もする。
「それはそうなんだけど…まあ、相手も他意はないのかもしれないし」
「「「「あると思う」」」」
お増の控えめな発言には、四人揃っての突っ込みが入った。
一方当の操はと言うと、誘われるまま出掛けたは良いものの、正直な所どう対応していいのか困っていた。
誘いに応じたのは、特に断る理由がなかったからなのだが……
『やっぱり、まずかったかなぁ…理由もないのに断るのも悪い気がして、思わず出てきちゃったけど。ちゃんと断っといた方が良かったかな』
操は、一応隆一が自分を誘いに来た理由は察していた。あまり自分が、懸命ではない選択をした事も。
その気があるならいざ知らず、自分にとって蒼紫以外は眼中にない。
あまり気を持たせては気の毒なのだが…何せ操もこういった経験は初めてなので、つい誘いを受けてしまったのだ
ちなみに今日は、いつも通りの作務衣姿である。
「巻町さんも、普段は作務衣なんですね」
「も?」
「ええ。僕の実家も旅籠なんです。これは余所行き」
笑って、自分の着物を指差す。
「家の手伝いをする時は僕も作務衣です。能率がいいですから」
「そうなんですか」
そんなたわいもない話をしながら、二人は京の町を並んで歩いた。
「操さん」
「はい?」
さっきまで『巻町さん』と呼ばれていたのだが、急に名を呼ばれて内心驚いた。
鴨川のほとりを歩いていた時の事である。
「急にこんな事を言って、貴女を驚かせてしまうかもしれない。でも、真剣に聞いて欲しいんです」
ドキン、と鼓動が跳ね上がる。
「僕と、結婚を前提にお付き合いして頂きませんか?
貴女とはまだほんの少ししか一緒に過ごしていませんが…貴女となら、上手くやっていけそうな気がするんです。
僕は明日大阪に帰る。貴女にも…いずれ、大阪に来て欲しい」
隆一は、耳まで真っ赤になっていた。その様子を見るだけで、彼の誠実な人となりはよく判る。
突然の話ではある。
だがその突然さが、決して一時の想いではないという証ではないだろうか。
彼は明日、京都を離れる。だから、それまでに操にどうしても想いを伝えたかったのではないか。
「あたし…と?」
予想はしていた。
顔を合わしたのはたったの数回。言葉を交わした事もほとんどないのに、突然訪ねて来て外に誘われたのだから、もしかしたら…と。
だが、予想と実感は、この鴨川の岸辺のように遠い隔たりがあった。
『あたし…あたしは……』
自分はどうだったのか。
蒼紫を想わない日は、一日とて無かった。
物心ついてより今まで、どんなに遠く離れていても。
蒼紫の生死すら判らなくても、ただいつか再び逢える日を信じて―――想いを傾け続けたのではなかったか。
自覚した覚えも無いほど、ずっと幼い頃から胸に抱き続けているこの想いと同じ物を…隆一も、自分に感じてくれたのだろうか?
『私はこの人じゃないと嫌だって、思ったの。会った回数や、過ごした時間の長さじゃないわ。
…この人しかいないって…そう思ったから、決めたの』
いつか聞いた梓の言葉が頭を過ぎる。
正直な自分の気持ち。今はまだ、駄目でも…自分にも、諦められない人が居る―――操は、ぎゅっと拳を握ると、真っ直ぐに隆一の顔を見た。
「加瀬さん…貴方の気持ちは、とても嬉しい。でも…あたし、好きな人が居るの」
どうしても譲れない、ただ一人の人が居る。
自分に正直な気持ちを告げてくれた隆一に対して、半端な態度は取りたくない。
だから、はっきりと伝えた。自分の、偽らない気持ちを―――
「その人にとって、あたしは全然そういう対象じゃないのかもしれない。
でも、ずっと想ってきたから…あたしには、その人じゃなきゃ……駄目なんだ」
「操さん……」
「ありがとう。あたしを選んでくれて、本当は凄く嬉しかった。だけどあたしは、貴方のたった一人の人にはなれない」
操は微かに微笑んだ。泣いているのかと一瞬見紛うほど…透明な笑みだった。
「あたしは、貴方にとっての蓬莱の華だった。いつか…側で愛でる事の出来る、本当の華を見付けてね」
さよなら、と呟き、隆一に背を向ける。
「操さん!」
隆一が思わずかけたその声に、操は足を止めた。
「貴女は…貴女の唯一の人に想いが届かず、蓬莱の華で終わっても―――それでも、幸せですか?」
「……側に咲いてみせるよ。どんなに時間がかかっても、必ずきっと―――」
そう応えると、操はそのまま振り向かず、その場から立ち去った。
操は一人、葵屋への道を歩いていた。
自分のした事は正しかったのか。
結局隆一を傷付けてしまっただけではないのか。
だけど自分の選んだ人はたった一人で、そしてそれは隆一ではなかった。
自分を偽らず、隆一を裏切らないのは、やはりありのままを正直に伝える事だと思ったのだ。
葵屋の暖簾が見える辺りまで戻ってくると、店の前に見慣れた長身を見つけた。
「蒼紫様…?」
手桶と柄杓を手に、似合わない水打ちをしている。彼女の気配に気付き、蒼紫が顔を上げた。
「今帰りました」
「ああ」
返事は一言、聞きようによっては素っ気無いとも取れるが、操にはそれで十分だった。
慣れない水打ちをしながら自分を待ってくれていた。言葉などなくても、想いは伝わってくる。
だから嘘はつかなかった。からりと笑い、蒼紫を追い越しながら、事実をそのまま口にした。
「加瀬さん、明日大阪に帰るんだって。お付き合いして欲しいなんて言われて、もうびっくりしちゃった」
ぴくり、と手桶を持ち上げかけた蒼紫の手が止まる。
「でも、断ったよ。あたしは…ここに居たいから」
くるりと操が振り返る。笑顔に隠した真剣な瞳が、蒼紫を映していた。
「あたしの居場所は…ここにしかないから」
「…そうか」
ぽん、と操の頭に置かれた蒼紫の手が、何よりの答―――
「入るぞ。陽が落ちると冷える」
「はい」
蒼紫の後をついて歩きながら、操が彼の大きな手にそっと腕を伸ばす。
微かに指が触れると、その手が軽く握り返された。
【終】
あとがき
以前にUPした『雨に打たれて』の続きのお話になります。
もしも『梓って誰??』と首を捻っている方がいらっしゃいましたら、出来ればそちらもお読みください。
タイトルの『蓬莱の華』は、言わずと知れた『竹取物語』でかぐや姫が求婚者の一人に求めた蓬莱の樹(珠だっけ?)が元ネタです。
蓬莱という想像上の国にある、根が銀、茎が金、実が白玉という架空の樹。
『華』にこだわったのは、ほら、そこは蒼紫×操ですし…(笑)
今回は余所行きの着物を着るという事で、色合いなど考えるのが楽しかったです。
でも実際に見たらどうなんだろう、操の着物とか…私のセンスが問われる訳ですな(^_^;)
楝、浅縹、鉄紺色がそれぞれどんな色か、興味のある方は調べてみましょう。くす(^_^)
しかし最近、オリキャラを出す機会が増えてきました。
どのキャラも一作限りの登場がほとんどであまり引っ張ってはいないんですが、今回の梓は例外ですね。
もしかしたらこれからもどこかでちょくちょく出てくるかもしれません(笑)