それぞれの一日
【午前中〜蒼紫】
蒼紫は朝食後、自室で帳簿をつけていた。
葵屋に戻ってからというもの、あまり接客に出ない代わりに、こうした雑事を引き受ける事が多かった。
生来の几帳面な性格も相まって、こういった作業は嫌いではない。黙々と進められるのも性に合っている。
ふと、小さな話し声を聞き取って、蒼紫は筆を置いた。
実は部屋の位置関係のせいなのか、それとも建てられた時の偶然の妙なのか、結構な距離があるにも関わらず、玄関口辺りの話し声がたまに聞こえる事がある。
普段は気にしないのだが、たまたま周囲が静かだった所に、どうも操に来客らしいというのが耳に入った。
筆を置きそのまま気配を探っていると、来客に応じた操は、そのまま外出したようだった。
操の名を呼んでいたのは、微かではあったが間違いなく男の声―――
蒼紫はしばらく帳簿を前に瞑目していたが、ぱたりと帳簿を閉じると、奥の間に篭もった。
【昼過ぎ〜翁とお近】
「蒼紫様?」
昼時になっても姿を見せない蒼紫を、部屋の外からお近が呼ばわる。
だが部屋の中はしんとしていて、返事は無かった。
さてどうしたものかと思ったところに、翁が奥の間の方からやって来て、お近にぱたぱたと手を振って見せる。
「お近、蒼紫の昼食はいらん。ありゃしばらく動きそうもないわい」
「蒼紫様、奥の間なんですか?」
「ああ。しかし放つ気配がな…こう、殺気立っとるというか、鬼気迫るというか…」
どうも、その殺気なり鬼気なりを抑える為に、奥の間で座禅を組んでいるらしい。
思わず翁とお近が顔を見合わせる。
「……蒼紫様……操ちゃんが加瀬さんと出掛けた事、気付いたんですかねぇ……」
「……耳も頭も良い奴じゃからのー……多分、な……」
蒼紫は周囲に当たるタイプではない。
だが彼の背負った重い空気のせいで、その場に居るのが居たたまれなくなる可能性はある。
「操ちゃん…早く帰ってくるといいですねぇ…」
「全くのぅ……」
美味しく食事を頂く為にも、せめて夕食までには戻って来て欲しい。
二人は深ーーーい溜息をついた。
【夕刻〜葵屋前】
蒼紫は目を開けると、座禅を解いた。
陽は西に傾き、奥の間を茜色に染め上げている。
朝出掛けた操は、まだ帰って来ていない。
『……我ながら器の小さい事だ』
小さく吐息を漏らし、立ち上がる。
自分の内に覚えた晴らしがたい靄を抑えるのに、半日もかかってしまった。
理由は判っている。操が―――誰かは判らないが、男と出掛けたからだった。
操は自分の物ではない。自由に、誰とでも出掛ける権利がある。
例えばそれが白や黒、翁が相手なら自分も気にはしなかっただろう。
頭では判っていても、感情は容易に事実を認めようとはしなかった。
もしも操が葵屋を出ると決めたなら―――自分は、一体どうするのだろう?
そんな事は有り得ないと、思い込むのは自分の勝手だ。
だが操はいつまでも子供ではないし、自分もいつまでも彼女の保護者ではない。
それでも彼女を手放したくないのなら…行動を、起こすべきなのだ。
「借りるぞ」
「はい…って、蒼紫様!?」
何気なく声をかけられて返事をしたものの、水を汲んだ手桶と柄杓を手に表に出て行く蒼紫の姿を見て、
黒は思わず抱えていた薪を、自分の足の上に落としてしまった。
「ちょっと、一体どうしたの?」
けたたましい音に厨房から顔を出したお増と白に、黒は固まったまま表を指差して見せる。
もれなく二人も、石のように固まった。
黙々と水打ちする蒼紫。
並みの役者が裸足で逃げ出す男前が水打ちする姿は、それはそれで見物であったが、
余りにも彼の持つ雰囲気にそぐわないので、身内には違和感の方が先に立つ。
「あれって、お嬢を待ってるのかな…?」
「そうなんじゃない?あ…」
内から様子を伺っていた白達の視線の先で、蒼紫が屈めていた腰を伸ばし、立ち上がった。
微かに操の声が聞こえる―――一人のようだった。
【その後〜隆一】
「おかえりなさい、隆一さん」
戻った気配を感じて、梓が玄関に出て隆一を迎えた。
「ただいま戻りました」
草履を脱ぎ、着物の裾の皺を直した隆一の顔を見て梓が小首を傾げる。
「…心配していたほど、がっかりしてないようね?何も伝えなかったの?」
「伝えましたよ。気持ちいいほど、すっぱり振られました」
「あら、まあ」
今朝早く、隆一が梓の元を訪ねた。
人を捜しているのだが、名前しか判らない。
祝いの席で梓の縁者の席に連なっていたから、何処に住む人か教えて欲しい―――と。
理由を尋ねると、隆一はひどく真面目な顔で、『一目惚れです』と返事をした。
真っ赤になって、それでも一目見て忘れられなくなった操を捜し出したいという、彼の気持ちは痛いほど判るのだが…
操が相手では、どうあっても隆一に望みがない事も、また確かだった。
操には―――蒼紫が居るのだから。
「…と言うことは、梓さん、操さんに好きな人が居る事知ってたんですね?」
「ええ、何となく。ごめんなさいね。言った方が良いかとも思ったんだけど」
そう言いながら、梓は隆一に蒼紫の事を話して聞かせた。
操がずっと蒼紫を慕っていた事。
その蒼紫は十年程消息不明だったらしいのだが、最近葵屋に戻って来て、今は葵屋の若旦那を務めている事などを。
梓とて、蒼紫の事をよく知っているとは言えない。
だがあの二人が分かち難い絆で結ばれている事は、少なくとも他の隣人よりはよく判っているつもりだった。
操の口から蒼紫の事を、蒼紫の口から操の事を―――聞いた自分だから。
「でもこういう事は、人に言われたから諦めるとか出来ないでしょう?
だから辛くても自分の口で気持ちを伝えて、自分で彼女の気持ちを確かめた方がいいと思ったの。とても割り込もうなんて気、起きなかったでしょ?」
「その通りです。お陰ですっきりしました」
隆一が苦笑いを浮かべる。
「僕にとって、操さんは蓬莱の華なんだそうです」
「蓬莱の華?」
不思議そうに梓がおとがいに手を当てる。
「決して手には入らない幻の華…そう言いたかったんじゃないかな」
操自身も、まだ自分は幻の華なのだと言っていた。
だけどいつか必ず、唯一の人の側に咲く華になると―――彼女なら、きっと遠からず花開くだろう。
それは隆一の直感だったが、間違いないという確信があった。
「梓さん、僕が帰った後で、葵屋に手紙を届けてもらえませんか?」
「いいわよ」
「すみません」
浮かんだ隆一の笑顔は屈託なく、晴れやかなものだった。
【翌日〜葵屋】
「御免ください」
玄関で呼ばわると、パタパタと軽い足音がし、お増が顔を覗かせた。
「はーい。あら、梓お嬢さん。いらっしゃいませ」
「おはようございます。操ちゃん、いらっしゃる?」
「それが生憎、今朝は早くに出掛けまして」
蒼紫が定期的に通っている近くの禅寺に行くと言うので、操もくっ付いて行った。
操は禅を組むわけではないが、邪魔をしないように蒼紫を待っているだけでも楽しいらしい。
昨日の一件もあるので、二人分の弁当を持たせ、ゆっくりして来いと皆で言ってある。
「そうですか。実は手紙を言付かっているんです。操ちゃんが戻ってきたら、渡しておいて頂けますか?」
「はい、確かに」
お増が受け取った手紙は封もされておらず、裏に加瀬隆一と、署名がされているだけで宛名もなかった。
「隆一さんは今朝早く発って、大阪に帰りました。操ちゃんと四乃森さんにも、よろしくお伝えくださいな」
それだけ伝えると、梓は葵屋を後にした。
お増は少し迷ったが、思い切って畳まれた手紙を開いた。
『操さん
僕もいつか、必ず自分の華を見付けます。
一日も早く、貴女も一番大切な人の側で咲けますように―――
加瀬 隆一』
【終】
あとがき
という訳で、『蓬莱の華』の番外編です。お話に関わった人たちの、それぞれの一日。
当初、『蓬莱の華』におまけとして隠しリンクを張ってUPする予定だったんですが、
予想以上に長くなった事もあり、別に隠す事もなかろうと開き直り通常UP。長いおまけ(笑)
でも、あのまま終わっては、少々パワー不足のような気がしましたので、これで書き手としてはスッキリです。
水打ちする蒼紫、見てみたいもんだ(笑)