大地を踏みしめて


暁を背中に背負い紐でおぶったまま、操は葵屋の前を掃いていた。
寒さは幾らかマシな日だったが、空気が乾燥しているので、往来でよく風が舞う。
辛うじて今まで残っていた根性のある木の葉や、塵などを掃き集めては、塵取りに集めていた。

「暁ー、寒くない?」

一応暁を背負ったその上から、分厚く綿を入れた半纏を羽織っている。
お陰で操は動きにくいのだが、赤ん坊に風邪をひかせる訳にもいかないので、その格好のまま何とか掃き掃除をしていたのだ。
首を回して背中の暁を伺うと、『あうー?』という声と共に、小さな手でぺちっとおでこを叩かれた。
どうやら遊んで貰えると勘違いしたらしい。

「あいたた、判った判った。判ったから背中で暴れないで。あんた最近重くなってきて、暴れられると正直大変なのよ〜〜」


遊んで貰える事を察して、大喜びで手足をバタつかせる暁の身体を、よいしょと一度持ち上げると、操は箒と塵取りを庭の隅に片付けた。

縁側に腰を下ろし、背負い紐を外して暁を膝の上に座らせる。
暁の誕生日は、実ははっきりした事は判らない。
葵屋に来た時には既に首は据わっていたから、そこから逆算するとそろそろ生まれて一年近くになる筈だ。

実際に一人の赤ん坊をずっと世話したのは初めてだったので、いつの間にか暁の身体がずっと重くなっている事に、今更ながらに気が付いた。
たまに会っているだけだと『大きくなった』と思うのだろうが、毎日見ていると意外にそんな事にも気付かない。
さっき背中で大きく動かれて、改めてそう思った。


「そういや、大きくなったわよね〜。初めてウチに来た時にはあんなに小っちゃかったのに」

頭一つ以上身体は大きくなったし、体重ははっきり判らないが、多分倍近くになったのではないだろうか。
目を離すとどこまでも這って行ってしまうし、目に付いた興味のある物は何でも触って口に入れる。
葵屋は、京都御庭番衆の拠点であった経緯から、思いもかけない所にとんでもない物がある場合がある。
滅多に使う事はないが、屋敷自体にある仕掛け然り。

それぞれの部屋に持っている忍装束や手裏剣などの武器道具など、うっかり暁が近付くと危ない物が満載なのだ。
だからと言って部屋の出入り口に突っかえ棒をして暁を部屋に閉じ込めておくのも可哀想なので、
先程のように部屋を長い時間離れなければならない時は、少々重くても暁を背負って行くのだ。


「そんな所で長居していると風邪をひくぞ」

声をかけられて振り向く。『あう!』と嬉しそうに、暁が手を伸ばした。

「大丈夫ですよ。今日は暖かいし、ここはお陽様が当ってるから」

にこっと笑顔を浮かべて返事をする。後ろから蒼紫が手を伸ばして暁の頬に触れると、確かに暁の桜色の頬はあまり冷たくなかった。

「今年風邪をひいてないのは、結局、暁一人なんですよね。もう大丈夫かな?」
「季節の変わり目に注意すれば、多分大丈夫だろう」


先日、葵屋の面々は揃って風邪をひいた。
始めに寝込んだのは翁や白たちだけで操や蒼紫は平気だったのだが、一日病人の世話をしていた操が、夕刻になって熱を出した。
唯一健康体で残った蒼紫は自分に伝染る前に、暁を近所の菊屋の一人娘である梓に預けていたのだが、
案の定操たちが回復するのと入れ替わりで、彼も風邪をひきこんだ。
蒼紫がひいた頃には他の者は全員良くなっていたので操が暁を引き取りに行ったが、
普段滅多に寝込まない性質なので、数日寝込んだだけでかなり消耗したような気がする…と言うのが、全員の意見である。

それでも比較的早く回復したのは蒼紫の献身的な介抱のお陰―――ではなく、恐らく梓が好意で差し入れてくれた三度の食事だろう。
後で聞いたら蒼紫は仕出しを頼むつもりだったらしいが、病人が飽きないように、梓の指示で毎回少しずつ具を変えた粥や雑炊は正直ありがたかった。
仕出しでは、ここまで細かな気配りはしてくれなかっただろう。


暁がしきりに蒼紫に抱いて欲しそうにしたので、操は彼に小さな身体を抱き渡す。
座ったまま両腕の力だけで高く持ち上げるのは、そろそろ苦しくなってきた。

「随分重くなったな」

差し上げた操の手が微かに震えていたので、蒼紫も気付いたのだろう。
まだ蒼紫の腕の中には収まる大きさだが、やはり腕にかかる重さは全然違う。

「そうでしょう。あたしも暁を抱くようになって大分腕力はついたつもりだったんだけど、腕だけで持ち上げるのはそろそろ限界かな」


元気に育っている証拠だからとても嬉しいのだが、何だか不思議な気持ちだった。
ついこの間までは自分の腕の中にすっぽり入ってしまうような小さな身体が、いずれ小柄な自分など飛び越して大きく育っていくのだろう。
自分が腹を痛めて産んだ子ではないが、やはりそうして成長していく様は嬉しいのだろうなと思う。


「まだ歩きはしないか……掴まり立ちはしていたがな」
「そうですねぇ。時々手を離してフラフラしてますけど、すぐにぽてっと座りこんじゃってますから」

蒼紫が縁側に暁を下ろしそっと手を離してみるが、すぐに尻が落ちてしまった。
暁が柱や文机等に掴まって立ち上がっている姿は、時折見る事が出来る。

ちょっと目を離すと何処までも這っていってしまうので、翁達は苦笑いするのだ。
血の繋がりはないのに、育ての親にそっくりだと。
這ってるだけでも鉄砲玉なのに、この上歩き始めたら一体何処まで行ってしまうのだろう。


「暁って、そんなにあたしの子供の頃に似てるんでしょうか」
「そうだな。段々似てきたかもしれん」

微妙な表情で操が尋ねると、蒼紫は少し考えてからそう応えた。
もしかしたら否定して欲しかったのかもしれないが、正直にそう思うのだから仕方ない。

「鉄砲玉な所は、本当によく似ている……走り出したら止まらない、野に放した子犬のような所はそっくりだ」
「元気が良かったんだっていう、褒め言葉に取っておきます」

何かにつけ言われる機会が多くなったので、操もこれしきでは凹まなかった。
子供が元気に走り回らなくてなんだと言うのだ。その気性を暁も継いでいるというのなら、自分がとことん面倒を見る。望む所だった。

 

「あ、暁ってば、またあんな所まで……」

蒼紫の手を離れた暁は素早く操の部屋に這って入り、奥の文机の傍に居た。
文机の脚に掴まり、小さな足を踏ん張って立ち上がる。よろよろしているが、何とかバランスは保っていた。

「操、そこから暁を呼んでみろ」
「え?」

暁の様子を見ていた操に、蒼紫がそう声をかける。

「手を叩いてみたり、名前を呼んでもいい。とにかく暁の意識を、こちらに向かわせるんだ…上手く行けば、歩くかもしれんぞ」


それは、操が初めて歩いた時の蒼紫の実体験だった。
離れた場所から掴まり立ちをする彼女の様子を見ていた蒼紫に、般若が『そこから操様を呼んでみたらどうですか?』と言ったのである。
小さな操は自分の名を呼んだ蒼紫の方を見やると、ゆっくりと掴まっていた手を離し、一歩、二歩と歩いて見せたのだった―――


ごくん、と操が息を呑む。暁はこちらを見ていた。小さな手は、いまだ文机の隅を掴んだままである。

「暁」

名前を、呼んでみる。『なぁに?』と問い掛けるような仕草で暁が首を傾げた。

「暁……こっちへ、おいで」

そう言って、大きく広げた両手を差し出す。
小さな手が、数メートル離れた操の方へと伸ばされた。左手が文机から離れる。そして、次いで右手が―――


「そうだ……そのまま、こっちへ来い」

操の肩に、蒼紫の手が乗せられる。その手にはいつしか、ある種の期待に力が篭もった。
まだおぼつかない暁は、今にも座り込んでしまいそうだ。
一歩でいい。足を、踏み出して欲しかった。自分の足で、しっかりと踏みしめて。


「暁」

もう一度の操の呼び掛けに―――微かに、暁の足が動いた。
ほんの少しだけれど、一歩、二歩と、確かに前へと進んだのだ。だが、そこでぽてっと暁は座り込んでしまった。
そこから這って操の傍までやって来ると、縁側に腰を下ろしていた操の膝の上に上って来る。

「蒼紫様、今ちょっとだけど、歩きましたよね!?自分の足で、暁が歩きましたよね!?」

目の前で起きた出来事が嬉しくて、ぎゅうっと暁の身体を抱き締める。蒼紫も、微かに目を細めた。

「ああ、歩いた。一度歩き始めたら、後は早いぞ。すぐに歩き回るようになる」


小さな足が大地を踏みしめ、元気に駆け回る日もそう遠くないだろう。
昔、蒼紫がそうしたように、操も暁の後を追い掛け回すようになるのだろうか。

「ああ、でも嬉しい!自分の事みたいに嬉しいよ」
「時々、紐で繋いでおきたくなるぞ」

満面の笑みで暁に頬擦りする操に、珍しく蒼紫がそんな茶々を入れた。
何度か瞬きした操は、それが自分の面倒を見ていた頃の蒼紫の実体験だと思い至り、なにやら複雑そうな表情を浮かべる。
だが、すぐに笑顔に戻った。

「いいですよ。暁の為なら、どんなに大変でも追いかけて行きますから。絶対に―――見失わないから」


もう自分は、泣くだけの子供じゃない。
葵屋に一人残された時、追いかける術を知らなくて、泣く事しか出来なかった頃の自分とは違う。
蒼紫が残してくれた自分の可能性を信じて、心に正直に生きたから、今が在る。
小さな暁を見守る事くらい、何ほどの事も無い。


「……いずれ……」
「え?」

何かを口にしかけて、蒼紫が口を噤む。操が振り返ると、小さく頭を振った。

「……いや、何でもない。暁が歩いた事、翁達に知らせて来るといい」

ああそうだったと、暁を抱いたまま駆け出した操の背中を見送りながら、蒼紫は先程呑み込んだ言葉を思い返していた。

『いずれ、暁を四乃森の養子にしようと思う』

だが、この話には前提がある。
近い将来、自分が祝言を挙げて一家を構える事になったなら、暁を四乃森の養子として迎え入れようと。
その相手はたった今、暁を抱いて駆けて行った少女以外にはありえない。
彼女が全開の想いをぶつけてくるのと同じくらい、無邪気な彼女に自分のこの想いを伝える日がいつになるのか……蒼紫にも、まだ判らなかった。

                                                             【終】


あとがき

ぼちぼちと暁が成長しております。
赤ん坊のままの方がお話的にはいいのかもしれませんが、操が確実に成長してきているウチの創作物の中に在って、
暁だけサザエさんワールド状態と言う訳には行きませんので(^_^;)
私の弟が初めて歩いたのは、確か一歳の誕生日の直前だったと思います。
本当にいきなり掴まってる手を離して、『え!?』と思ってる間に歩いちゃうんですよね。
歩き始めてから走り出すまではとっても早い。紐をつけて繋いでおきたいとういうのはかなりマジです。

一時期子供用ハーネスの賛否について物議を醸した事がありましたが、見かけはともかく、あれを使おうという親御さんの気持ちは非常ーーによく判るのですよ。
自由に歩きたい子供達と、自由にはさせてやりたいけどずっとついて回る訳にもいかない親。
ハーネスの長さはせいぜい2〜3メートルですから、ようするに迷子防止ですよね。
いつもいつも使うのはどうかと思うけど、例えば少し人の多いデパートとかスーパーとか、
要するによく迷子放送がされるような場所での使用は、それもアリじゃないかと。
子供って重いんです。ずっと抱いてると腕が攣ってくるんですよ……(笑)



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