命の天秤


しょわしょわしょわしょわ……

「蝉時雨が賑やかね〜」
「本当に。今年はまた一段と暑さも厳しいし」

額に浮いた汗を小さな手布で押さえた操とお増は、少しでも涼を求めて少ない日陰を選んで歩きながら並んで歩いていた。
昨日までは数日嵐が続き、結構な雨が降ったのだが、今日は打って変わった晴天である。ただし、すこぶる蒸し暑い。
葵屋と懇意な大店へのお使いの帰り道である。
通常こういう事は翁か、もしくは蒼紫が行っているのだが、今日は二人が揃って別の会合に出る予定があった為、操にお鉢が回った。


『お前も葵屋に籍を置く以上、少し顔見せをしておいた方がよかろう』


と言うのは、翁の言葉。
実際には幼い頃から葵屋で育った操の事は、近隣の住民、商店関係者はよく知っている。
今更顔見せも無いのだが、未来の『葵屋の若女将』として顔見せして来い…と言うのが、翁の言葉にしない本心である。

この辺はお増やお近、白、黒達も心得ていて、この手の話での翁の決定には口を挟まない。
現在の『葵屋の若旦那』である蒼紫が、どの程度仲間の本意を悟っているかは定かではないが…
少なくとも表立って操が『葵屋の看板娘』として、勤めを果たす事には疑問を抱いていないらしい。


それで肝心のお使いは首尾良く行ったかと言えば。

「でもまぁ、これもお勤めですからね。顔見せと言っても、実際にはよく知っている方だったから、気が楽だったでしょう?」
「気が楽どころか、あそこの弥生ちゃんとは幼馴染でしょっちゅう遊びに行ってたから、家の間取りまで頭に入ってるよ〜」

…と言う具合であった。

商売の方はどうですか、などとお増と適当に世間話をし、向こう一月分の大体の食材の手配などをお願いしてくるだけである。
他にも反物屋や畳屋、骨董屋など数ヶ月に一度挨拶に回る店も含めれば、それなりに一年通して外回りのお使いはあるのだった。

「でもこんなお使いならあたしでも何とかなりそう。今日はお増さんが一緒だったけど、何回か通ってたらあたし一人でもどうにかなるんじゃないかな」
「そうですねぇ。食材の手配なんかは、毎月でそう大きな変動がある訳じゃないですし。
 なんだったら翁や蒼紫様に相談して、このお仕事は操ちゃんが任せてもらったらどうですか?」
「そうすれば、あたしも蒼紫様のお手伝いが出来るかな?」
「今でも十分、お手伝いして貰ってますけどね」


そう言って、お増は笑った。
それは操が葵屋を、ただ手伝っている事を指したものではない。

操が居ると、不思議と場が和むのだ。
彼女の言動や活き活きとした動きは、雰囲気が明るくなり、客も自分達も楽しい気分にさせてくれる。
そして何よりも操の存在が蒼紫の心の安寧の源となっている事は、葵屋の者達の目には明らかだった。
あからさまに表情や態度に出す訳ではないが、蒼紫が操を見る目が誰に対するよりも優しい事は、葵屋の者なら皆判っている。
操は十年近く蒼紫を探し続け、信じて待ち続けた。そして今、蒼紫の側には操が居る。
操が欲したのと同じほど、いやもしかしたら今はそれ以上に、蒼紫が操の存在を欲しているに違いないのだから。


「うーん、どうしようかな」
「そんなにすぐに結論を出さなくてもいいでしょう。様子を見て、何ヶ月かやってみた後でもいいし」

操は自分の力を――事、葵屋に関して――過大評価していなかった。
足手まといになり、自分の後始末に蒼紫や翁が苦労するくらいなら、初めから手を出さない方がいいと思っている。
柳の植わった川縁を歩きながら、操は思案顔だった。




昨日まで続いた雨で、川は水かさを増している。
常はそうでもないのだが、嵐の後と言うこともあって、底が見通せないほど濁っていた。
上流から流されて来たのか、流木などもちらほらと流れてくる。その中に―――

「―――!?お増さん、あれ!!」

操は隣のお増の袖を引き、川の一点を指差した。お増も目をこらす。

「あれは、子供…!?」
「やっぱり、あたしの見間違いじゃないか。まずいわね」


水かさを増し、早さも増した川の流れの中、頼りなく漂う流木につかまった子供の姿が見えたのだ。
暑さを増した昼下がり。折悪しく人通りも無い。
子供はどれ程の間川の流れの中にいるのか、何とか流木にしがみ付いているものの、今にもその手が離れそうである。
一刻を争う事態だった。


「お増さん、手貸して!!」

操は叫ぶと川沿いに下流へといくらか走り、そこで川縁に植えられた枝ぶりの長い柳の樹に取り付いた。
そのなかでもまだしっかりした手ごたえのある枝を、力任せに根元から折り取る。
お増と二人で何とか一本の長い枝を確保すると、それを川の流れの中央へと差し出した。

「あなた!今助けてあげるからね!!頑張るのよ!!」

流されていた子供は操の声に気付き、顔を上げた。どうやら女の子らしい。
川に向かって差し出された柳の枝に、力を失いつつある手を、それでも生きようと懸命に伸ばす。

「掴んで!!」

操達の祈りが通じたのか、少女は何とか枝の先を掴んだ。だが、流れが早い。
少女が枝を掴む力よりも、身体を流される力の方が強い。


操はとっさに、甚平の上着をはだけ、上半身に巻いたさらしをするすると解いた。

「操ちゃん、何を!?」

手早く解いたさらしの片方を柳の枝に結び付けると、もう片方を自分の腰に巻く。

「このままじゃあの子はもたない。お増さん、少しの間、この枝一人で支えて」
「操ちゃん!!」

お増が止める間も無く、操は川に飛び込んだ。枝を手繰り寄せながら少女の手を掴む。
ふっと力を失った少女の手が枝から離れ、顔が水面下に沈んだ。意識を失ったらしい。

『いけない、水を飲む!』

少女の身体を水面に引き上げようとしたその時、操の身体も予想を上回る流れの早さに飲まれた。

『絶対に、この手は離さない!死なせるもんか!!』

必死で少女の身体を抱え直し、流れに逆らって岸を目指す。
そして何とか川岸に泳ぎついたその直後、操も意識を手放した―――

 


『何か身体がだるい……ここ、あたしの部屋…?』

気だるさを覚えつつ目を開けると、見慣れた天井が目に入った。

「気が付いたか」

自分のすぐ枕元に、蒼紫の姿があった。
逆光になっていてはっきりとは判らなかったのだが、ひどく憔悴したような様子に見えたのは…操の気のせいなのだろうか。

「……蒼紫様?なんで、あたしの部屋に…」

言いかけて、はた、と思い出した。

「子供…あの子、無事ですか!?」

がばっと飛び起きた操の肩を押さえ、蒼紫がゆっくりと彼女の身体を布団に戻す。

「安心しろ、お前がちゃんと助けた。今は葵屋の一室で休んでいるが、一晩眠れば大丈夫だそうだ」


操が何とか岸に泳ぎ着いた時には、騒ぎを聞きつけた者達が幾人か手伝いに駆けつけて来ていた。
少女は溺れる前に意識を失っていたので、ほとんど水を飲んでおらず、操も疲労して意識を失っただけで共に命に別状は無かった。
お増が人を頼んで二人を取り合えず葵屋に運んだ後、少女は先に一度目を覚まし、身元が判ったので、親元へは使いをやったと言う。
今夜はゆっくり休ませてあげなさい、と言う医師の言葉に従い、少女は一晩葵屋で預かる事になったのだ。


「良かった…あの子も無事だったんだ」
「運が良かった。お前たちが見付けていなかったら、恐らくは」

力尽き、流れに沈んでいたに違いない。
最後まで諦めなかった少女の生きたいと言う思いと、操とお増の咄嗟の機転が一つの命を救ったのだ。

「だが操、あまり無茶をするな。お増が真っ青になっていたぞ」
「お増さんが…?」


―――川に落ちた子供を助けようとして、操も流れに飛び込んだ―――


結果的に両者とも無事だったから良かったものの、二人を葵屋に運び込んだ時のお増の顔は蒼白だったと言う。
出先から戻った翁と蒼紫は、そのお増から事の顛末を聞いた。
常はほとんど感情を表す事のない蒼紫が、声も無くまっすぐ操の部屋に足を運んだ事が、彼の内心の動揺を表していたと言える。
操の無茶を諌める言葉は、そのまま蒼紫の心情を映していた。


「あの時は、あの子を何とかしなきゃってそれだけが頭にあった…お増さんには、後で謝っておく」
「…そうしてやれ」

ほんの少しだけ、穏やかな目を蒼紫が見せた。


「ほっとしたら何だか疲れた…」

はは、とあまり力の無い笑いを操が零す。緊張と、疲労がまだ完全に抜けていないのだろう。

「もう今日はこのまま寝(やす)め。一度目を覚ました事は伝えておく」

蒼紫が操の瞼に手を翳す。その手に操はそっと指を触れた。

「…蒼紫様、もう少しだけ、ここに居てくださいね」
「―――ああ。眠るまで、ここに居る」

安心したように操が瞼を落とす。程なくして規則正しい寝息が聞こえ始めた。

 


操が子供を助ける為に川に飛び込み、その後意識を失ったと聞かされて、心臓が凍りついたような気がした。
掛け替えのない、失っては生きていけない命―――
少女の命と操の命と、どちらかを選べと問われれば、酷薄と謗られても自分はきっと迷わず操の命を選んだと思う。

「…本当に…無茶をしてくれる」

咎めるような呟きとは裏腹に、眠る操を見下ろす瞳にはただ慈しみだけがある。
蒼紫はまだあどけなさを残した彼女の寝顔にそっと手を触れると、操の眠りを覚まさぬよう、静かに部屋を後にした―――

                                                                 【終】


あとがき

書き始めた当初は、明るいノリのコミカル路線で行こうと思ってたんですが…をや?(^_^;)
オチで使おうと思っていたエピソードを別の作品に使おうと思って変更したので、微妙に話も変わっていったのでした。

ところで私、実際のさらしって見た事ないんですが、作中のように命綱に出来るほど長いもんなんでしょうか…?
そんなに長くなかったらどうしよう…ドキドキ(^_^;)
初めは『帯』って書いてたんですが、これこそ命綱には短いんじゃないかと思いまして。
しっかり縛り付けるのも大変そうだし。
さらしならある程度長く伸ばせそうだし、甚平の上着をちゃんと着れば素肌に直接着てる訳だけど、脱いでる訳でもないし。
帯は取っちゃうと絶対上着脱げますもんねぇ(笑)ましてや川の流れの中だと尚更。
男の人ならばっと脱がしちゃうところなんですが、女の子にそんな事させる訳にもいかないので微妙に悩んでしまった一場面でした(笑)

                                               麻生 司





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