花の便り
神谷道場の女主人である神谷薫の生活はとても規則正しい。
毎朝日の出の直後に起き出して、朝稽古をする。
素振りの時もあるし、精神鍛錬の瞑想の時もあるが、その習慣は緋村剣心の妻となり、子を産んだ後も変わらない。
夫の緋村剣心はと言えば、今はかつての抜刀斎としての一面を完全に封印し、主夫として日々勤しんでいる。
掃除、洗濯、炊事の全てにおいて薫よりも彼の方が手際よく、上手くこなす故の役割分担だったのだが、
剣路が生まれてからと言うもの、剣心が小さな我が子を背負って洗濯したり、買物に行くのがすっかり倣いになっていた。
厳しい冬が過ぎ、徐々に風が温み始めた春先に、一通の手紙が神谷道場に届けられた。
宛名は薫宛てで、差出人は―――京都の操であった。
「まあ、操ちゃんからだわ!」
「操殿でござるか?」
手紙を受け取った薫の第一声に、庭の方で洗濯物を干していた剣心が顔を覗かせる。
『そうよ』と言う妻の声に、剣心は手を休めて背中の剣路をあやしながら薫に近付いた。
蒼紫の子を身篭ったと連絡があったのは、どのくらい前の事だったろう?
間違っても蒼紫本人が近況を書いて寄越すような事は無いのだが、
それぞれに縁の深い女性同士が親交を保っている為、比較的状況は良く伝わってくる。
操も薫も特に筆まめと言う性質ではなかったのだが、それでも月に一度くらいで文が行き来していた。
「それで、操殿たちは元気でござるかな?そろそろ子が生まれる頃だったと思うが」
「えっと、ちょっと待ってね」
薫は丁寧に洗濯物が干された庭に面した縁側に場所を移し、
そこに腰掛けると、剣心が背中におぶっていた剣路を膝の上に座らせた。
剣心がその薫の隣に並んで腰を下ろし、剣路の前にかざすように、かさかさと折畳まれた手紙を広げる妻の手許を見遣る。
「前略、薫さん。お元気ですか―――」
目の前に広げられた手紙と、母の顔を不思議そうに見比べながら、剣路がまだ読めない文に視線を注いでいた。
『前略、薫さん。お元気ですか?
緋村や剣路、弥彦達も変わりありませんか?
京都の皆は、私も蒼紫様も爺や達もとっても元気です。
こちらでは梅はもう咲き終わりで、そろそろ桜の蕾が膨らんできました。
今年の花見は頭数が増えて大変になりそう。
でも絶対に全員で花見に行くんだと、爺やや白さんや黒さん達が張り切ってます。
毎年の恒例行事をやらないと、どうしても気が済まないんですって。
そう言えば、わざわざいつも葵屋をお休みにして毎年花見に繰り出してたなと、今頃気付きました。
一度も欠かした事がなかったなんて、言われるまで気付かなかったけど。
暁は大分足腰がしっかりしてきて、今では葵屋の中を走り回ってます。
腰に紐でもつけておかないと、どこまでも走って行っちゃうのよ?
蒼紫様も爺や達も、子供の頃のあたしにそっくりだって言うの。不思議よねー』
そこまで読んで、薫と剣心は互いの顔を見合わせてぷっと吹き出した。
巻町操を一言で言い表すなら、『天真爛漫』が一番しっくり来る。
暁というのは、操と蒼紫が祝言を挙げた際に正式に養子に迎えた葵屋の養い子だ。
縁あって葵屋で育てていた子であるが、当然の事ながら操とは直接の血のつながりは無い。
それでも子は養い親であっても親に似るものなのか、不思議と暁は幼い頃の操によく似ている言う。
以前、剣心が蒼紫と二人で話す機会があった際にも同じような事を話していたから、余程似ているのだろう。
『少し遅くなったけど、嬉しいお報せがあります。
恵さんには、あたしから報せるから内緒にしててってお願いしてたの。
年が明けて間もない頃、あたしはお母さんになりました。
勿論、暁が居るからとっくにお母さんなんだけど。
―――あたし自身が産んだ子の、お母さんに』
「操ちゃんの子供、生まれたんですって!」
弾んだ母の声に、剣路が薫の膝の上で目を瞬かせる。
待ち望んだ朗報に、剣心も目を細めた。
「それで、男の子でござるか、女の子でござるか?」
「えっとね……」
『恵さんには、初産だから大変かもしれないって言われてたんだけど、あたしは割と安産だったみたい。
これは後でこっそり爺や達が教えてくれたんだけど、
あたしが産気づいてから、蒼紫様が近所の安産祈願のお寺にお参りに行ってしばらく戻って来なかったんだって。
だからあたしも子供も、両方無事だったのかなーって今は思ってる。
でも子供産むのって、本当に大変!もうしばらくは勘弁してって気分かな』
「操ちゃんたら、言うじゃない」
くすくす薫が笑う。
肝心の子の事にはまだ内容が追いついていないが、出産間際の蒼紫の様子などが伺えて微笑ましかった。
「あの蒼紫が安産祈願でござるか。意外と言えば意外だが、それだけ蒼紫が操殿の事を大事に想っていると言う事でござるな」
「そうね。でも、意外なんて言っちゃ気の毒だわ。
四乃森さんには、四乃森さんなりの想いの掛け方があるんだろうから」
子を為すのは夫婦二人でだとしても、実際に腹を痛めて子を産むのは女性だ。
ひとたび出産が始まれば、はっきり言って男に出来る事は産湯の用意をするくらいである。
葵屋は人手だけは余るほどにあったから、蒼紫はまだしも安産祈願に出向くだけの心のゆとりがあったのだろう。
「剣心には剣心にしか背負えない何かがあって、私はその剣心の支えに少しでもなれればいいと思って、貴方と一緒になった。
そんな私を、剣心は『帰る場所』として選んでくれたでしょう?それは操ちゃんだって同じ。
四乃森さんが背負っている全てを知ってなお、それでも操ちゃんは四乃森さんと一緒になりたいと望んだ。
そんな操ちゃんを一人の女性として受け容れる覚悟を決めた四乃森さんは―――それは深く、彼女の事を想っていたんだと思う」
「……拙者も人の事は言えないでござるが、蒼紫も生きる事に不器用な男でござるからなぁ」
自分と一緒になって、果たして本当に操は幸せになれるのだろうか。
血に染まった自分の手は、操を守るに値するのだろうか。
あの生真面目な男は、きっと一度ならず同じ問い掛けを自分に繰り返しただろう。
そして自分に向けられた操の想いを知りつつ、一度は彼女に背を向けたのだ。
修羅の道に堕ちた自分は、操に相応しくないと。
だがそれでも、操は蒼紫を信じた。
彼女の信念とも言うべき想いが蒼紫を守り、幾度の奇跡を起こし、今の彼らが在る。
蒼紫を想う操の祈りと、操を想う蒼紫の渇望が、二人を惹き合わせたのだと薫は信じていた。
そうでなくて、どうしてあの絶望的な状況の中で互いが生き長らえる事が出来ただろう?
お互いの為に『生きたい』と願う想いが、二人の命を守ったに違いない。
薫は再び文に視線を落とした。
『葵屋はもう毎日てんてこ舞い。
暁に手が掛からなくなって来たのがせめてもの救いだけど、毎日おしめの洗濯だけで一人が掛かりきり。
やっぱりいきなり二人分は大変。前もって判っていたら、もう少し心構えも出来てたんだけどね』
「「え?」」
と、薫と剣心は同時に声に出した。
『そう―――生まれたのは、双子だったの。女の子と男の子が一人ずつ。
蒼紫様は一週間悩んで、姉に希(のぞみ)、弟に黎(れい)と名付けてくれました。
暁も弟と妹が出来たのが嬉しいらしくて、いつも二人の傍に居ます』
「まあ…まさか、双子とはね」
薫が頬に手を当て納得すると、剣心も軽く肩を竦めて見せた。
「一度に男女両方でござるか。
それは操殿も大変だっただろうが、暁に続いて後継ぎも生まれて、これで葵屋も安泰でござるなぁ」
敢えて『葵屋も』と、口にして笑う。
蒼紫は恐らく、四乃森の名については拘っていないと思う故の言葉だった。
彼の生家や故郷の事など聞いた事がないが、彼は既に終の棲家を葵屋に定めた感がある。
ならば四乃森の姓にこだわる必要は無い。ただ生まれた子を、大事に育めば良いのだから―――
『剣路にも一度会ってみたいし、また近い内に、皆で京都に遊びに来て下さい。
弥彦や燕ちゃんが一緒でも全然構わないから。
今度は希や黎も、暁と一緒にお出迎えします。
緋村にもよろしく!それでは。
巻町 操』
「……遊びに来て下さい、だって。どうする?剣心」
読み終わった手紙を丁寧に折畳みながら、薫は剣心の横顔を伺った。
眠そうに欠伸をした剣路を抱き上げながら、『ふむ』と剣心が考え込む。
「パッと行って帰って来る距離ではないでござるが……一度、出産祝いに出向くのも悪くはござらんなぁ」
「そうなのよね。剣路が生まれた時には、四乃森さんがお祝いを持って来てくれたし」
一応、建前は葵屋の仕事で東京に来たついでという事だったのだが、
葵屋が京都の他には大阪や神戸を拠点にしている事を剣心も薫も知っていた。
葵屋の仕事のついでと言うよりは、祝いを持ってくるついでに仕事をしに来たと言う方が正しいだろう。
世の中も落ち着いてきた所で、改めて東京にも拠点を構え直すつもりなのかもしれない。
ちなみに操と蒼紫が神戸で選んで来たと言うその祝いの品は、オルゴールと言う珍しい品物だった。
ゼンマイを回すと箱の中で美しい旋律が流れるので、剣路が泣いてぐずる時などに聞かせると効果覿面なのである。
ちなみに外国から持ち込まれた品と言う事で、日本では相当価値のある物だと察しはついた。
「それならば、桜が咲く頃に出向くでござるかな。
年明けに生まれたのであれば、桜が咲く頃には首も据わって、操殿たちも少し落ち着いているでござろう」
「そうね。じゃあ私達は、横浜あたりでお祝いの品を探して来ましょうか」
うきうきと弾んだ声で薫が提案する。
例え人への贈り物を選ぶのだとしても、やはり女性は買物が好きなのだろう。
「弥彦たちにも声をかけるでござるか?」
「そうねー。弥彦には道場を見てもらうって手もあるけど、操ちゃんも会いたいだろうし、一応声をかけておこうかな。
燕ちゃんが一緒でもいいよって言えば、多分何だかんだいいながらでもついて来るわよ」
約一ヶ月後、剣心一家は弥彦や燕と共に再び京都を訪れた。
以前の天真爛漫さを残しつつ、すっかり娘らしさと母親としての顔も身に付けた操に燕はいたく感動し、
弥彦はある種の驚愕を覚え、薫と剣心は新しい命の誕生を素直に喜んだ。
数日葵屋に滞在した後、剣心達は東京へと帰って行ったが、
その帰路に弥彦と燕が将来の約束らしきものを交わしたと言うのは―――また別のお話。
更に数年後、その事実をとある折に燕から聞いた操が、
「あ、やっぱり?多分、あの時のあたしを見たら、弥彦は影響されるんじゃないかと思ったのよー。
目から鱗って言うか、『ああ、こいつでも母親になるんだなぁ』って感じるんじゃないかと思って。
京都に貴方たちも誘ったらって手紙に書いたのはあたしなの。弥彦が燕ちゃんを大事にしてるのは気付いてたから。
そんなこんなで収まる所に収まったんなら、あたしの計画通りで結果オーライね!」
……と、晴れやかに笑ったとか。
【終】
あとがき
と言う訳で、遠隔蒼操でした(笑)操or蒼紫視点ではないですが、一応蒼操……ついでに弥燕。
明治初期の手紙の文体なんぞ判りませんので、力いっぱい口語体で書かせて頂きました(笑)
『何とかで候』なんて文章、想像も出来ないし(^_^;)←それでも物書きの端くれか(汗)
手紙の最後の署名で『巻町操』と書いてますが、これ別に『四乃森操』の間違いと言う訳ではないです。
夫婦が結婚して同じ姓を名乗るようになったのはここ百年くらいの事であって、
操が祝言を挙げた頃は、実はまだ結婚しても姓を変える必要はなかったんですね。
(薫も剣心と結婚してからも神谷姓を名乗ってますし)
でも操なら、喜んで四乃森操って名乗りそうだけど(笑)時代の通例として、夫の姓に変えるという概念が無かったと言う事で。
1898年に制定された明治民法で、夫婦は同姓にすべきとされたんだそうです。
しかもその際にも女性には財産の管理・運用、子どもの親権が認められておらず、
また、婚姻の際には『家長』の同意が必要だったそうで。色々と大変な時代だったんですねぇ…
オルゴールに関しては、所謂シリンダー型と呼ばれる日本人にも定番の小箱の中で鳴るタイプの物は、
1796年にスイスの時計職人の手により既に開発されていた……という事だそうです(笑)
1800年代後半の日本で手に入れるには安い買物ではないのでしょうが、
操も蒼紫も剣心達への出産祝に出し惜しみしなかったって事でひとつ…(^_^;)
実際にオルゴールの音色を泣いている子供に聞かせて泣き止ませたりって事もしてたそうですよ。
オルゴールの優しい音色は、大人の心にも沁みますものね。
私は北海道のオルゴール館に新婚旅行で行った時に二個だけ買って来ましたが、木村弓さんの『いつも何度でも』が大好きです。
掌に乗るくらいの大きさの卵型のオルゴールで、音色に一目惚れして買ったんですよ〜。
麻生 司