「貴方はもう独りじゃない」

          降るような囁きが、地に染み透る慈雨のように、静かに胸を満たしてゆく。
          背を抱く蒼紫の両腕に力が篭もる。

          「操…お前の一生、俺に預けてくれるか…?」

          そっと目を伏せ頷き、操が蒼紫の胸に頬を寄せた。

          淡い月光に照らされて、白い肌が露になる。柔らかな愛撫に吐息のような声が零れる。
          蒼紫の身体に刻まれた傷痕に、操は涙して口付けた。
          触れ合う肌の熱さに、鼓動が重なる―――そして、その夜二人は結ばれた。

 

          「ん……」

          頬に触れる、いつもとは違う感覚に目が覚める。
          まだ微睡(まど)ろんだ頭で目を開けると、すぐ間近に蒼紫の顔があって、操は思わず声を上げそうになった。

          『……そうだ……あたし……』  

          頬に触れていたのは、蒼紫の腕枕だった。
          微かに聞こえる寝息は規則正しくて、伏せた瞳はまだ目覚める気配は無い。
          長い蒼紫の前髪に手を触れてから、彼を起こさないようにそっと起き上がろうとして、操は鈍い痛みに一瞬顔をしかめた。

          頬が上気する。
          蒼紫に抱かれて眠っていた、その事実を思い出して。 
          身体の芯に残る痛みは、蒼紫を受け容れた証―――操は改めてふらつく足で立ち上がった。

     

          「……寒」

          障子を少し開けると、冷たく澄んだ空気が部屋に流れ込んだ。
          まだ夜は明けきっていない。
          薄い夜着一枚だけでは震えが来たが、その冷たさが心地よくて、操は深呼吸した。

          解かれた長い髪が、風に洗われて靡く。
          何時頃から伸ばし始めたのだったか……確か、蒼紫が葵屋を出た時に、願掛けしたのではなかったか。

          『蒼紫様や般若君たちが、皆元気で帰ってきますようにって、願掛けしてたんだっけ』 

          いつの間にか長く伸びた髪は、腰を越すほどになった。
          普段は三つ編みにしているのであまり目立たないのだが、時々髪を編んでくれるお増やお近には『黒絹のようだ』と褒めてもらった事もある。

          蒼紫の帰りを待ち続けた八年の歳月の中でも、自分は何も変わらなかった。
          背丈が伸びて、髪も伸びたけれど……心の在り様は変わらなかったのだ。
          いつだって蒼紫の帰りを待つ自分があり、そしてそれは今も変わっていない。
          『全員が無事に』という願いこそ叶わなかったが、般若や式尉たち、
          そして緋村剣心が言葉通り命を賭けて蒼紫を守ってくれた事を、今の操は知っている。
          もう、願いは成就したと思っていいのではないだろうか。

        

          「操?」

          名を呼ばれて振り向くと、蒼紫が身体を起こす所だった。
          庭に面した障子を開けていたので、その冷気で目が醒めたのだろう。

          「どうした、こんな早くに」
          「何だか目が醒めてしまって。ごめんなさい、寒かったですか?」

          障子を閉めようとした手を、蒼紫が止める。
          そのまま背中から抱き締めるようにして、自分の丹前を羽織った。

          「こうしていれば温かい」

          あまり表立って行動に移すタイプではないと思っていたのでほんの少し驚いたが、操はおとなしく抱かれるままに身を委ねた。


          胸に耳を寄せていると、静かに繰り返し打つ鼓動を感じる。

          「……ちょっとだけ驚きました。こういう風に、蒼紫様が接してくれるとは思わなかったので」

          感じたままに、素直にそう口にする。蒼紫が微かに苦笑した。

          「……もう憚る事はないからな。人に見せる姿ではないが―――二人の時は、自分に素直になってもいいだろう」
          「あたしだけが知ってる蒼紫様……か。何だか素敵」

          クスクスと笑みが零れる。
          その声に誘われるように、蒼紫の指が操の髪を梳いた。

          「……蒼紫様。ひとつ、お願いを聞いてもらえますか?」
          「何だ?」
          「あたしの髪を―――蒼紫様の手で切ってください」



          最愛の人と結ばれた、この夜を境に―――新しい自分に、生まれ変わる為に。


          「あたしはもう、今までのあたしじゃない。何も変わっていないけど―――それでも、新しい朝の証として」
          「……いいのか?」

          長く伸ばした髪には願いが宿る。
          直接聞いた訳ではなかったが、操が伸ばした髪に何らかの願を掛けていたのは察していた。

          「……いいんです。もう、あたしの願いは叶ったから」

          愛おしむように黒絹の髪を梳く蒼紫の手に、操が自分の手を重ねる。

          「―――判った」

          蒼紫も、それ以上は何も言わなかった。

 



          操
は蒼紫に自分の具無を差し出すと、庭に向いて彼に背を向けた。
          蒼紫の大きな手が、ゆっくりと操の髪を一束に纏める。
          掌中の髪に一度だけ唇を寄せると、蒼紫は一息に操の肩口から下の髪を切り落とした。

          「あ……」

          はらり、と頬に落ち掛かった髪の感触と、背中に慣れ親しんだ重さを感じなくなって、操の瞳から不意に涙が零れ落ちた。
          悲しさや後悔とは違う何かが、胸を塞いで声が出ない。
          それは戻らない過去への決別であったのか、失われた全てへの哀悼だったのか。操自身にも判らなかった。
          ぽろぽろと流れ落ちる涙を、蒼紫の指が拭う。

          「―――零れ落ちた水は、もう戻らない。だが今日この時から、俺の一生をかけてお前を守ろう。
           命尽き果てるその瞬間まで、お前の為に生きると誓おう



          
抱き締められた蒼紫の胸はとても温かかった。
          他に何の理屈もいらない。蒼紫と共にある事こそが、自分にとっての唯一変わらない真実であるならば。


          
「あたしも、いつの日も蒼紫様を照らすお日様になります。命尽き果てる、その瞬間まで―――」


        月は夜明けに微睡ろみ、陽は月明かりに眠る。
         
 いつの日も変わらずに。

 

          その日の朝食の席で、操を妻に迎える意思を蒼紫が明らかにした。
          葵屋の面々は突然の表明に驚きを露にしたが、幸せそうな操の笑顔を前に異論を唱える者など居る筈もなく、
          若い二人にようやく訪れた寿ぎに、その日は一日、葵屋から笑顔が絶えなかったと言う―――

                                                                  【終】


       あとがき

        はい、『月に抱かれて』の続きのお話です。そして11月生まれの操のお誕生日記念SSにしました。 
        いきなりこのSS読んじゃってる人で、『月に抱かれて』を憶えていない人は、こちらも読み直してみてください。
        ラスト部分から、そのまま今回のお話に突入してますので(笑)
        背景に使っている素材は普段使っている物より少々重いんですが、
        今回だけは絶対に黒系のしっとりした雰囲気にしたかったので敢えて使用に踏み切りました。
        インディックスにも書きましたが、もしも『後朝』の意味の判らない方は、辞書で調べて見ましょう。
        ちなみに『きぬぎぬ』と読みます。古典に詳しい人なら判るかな?くす(^_^)

        『月に抱かれて』も、普段自分の書いているるろ剣のSSとしては系統が違う部類だったんですが、
        貴重な蒼紫の求婚もありますし、私的に気に入っているお話だったので、
        一話だけ別作品のように扱うに忍びず、やはり他SSとも繋がりを持たせる事にしました。

        SS中の時間的な流れで言うと、『月に抱かれて』と、この『後朝』はかなり後のお話になります。
        いつも書いているお話が明治10〜11年前後なら、これは明治12年頃。操が18歳くらいを想定しています。
        操が髪を切った経緯を書きたかったというのが、今回のお話が出来た大元。
        『綺麗なラブシーン』をモットーに、いやらしくならないように意識しながら、二人の初夜などもほんの少し書いてみたり。
        例えノーマルでも、あからさまな表現は嫌いなもので……どうぞ雰囲気で読んでくださいませ(^_^)
        既成事実が先行した事で、操に対する蒼紫の接し方が吹っ切れてます(笑)
        でも操にしか見せない顔。他人の目で見ると、大して変わってないんだろうな〜。 
        ついでに
イメージイラストなども描いてみましたので、そちらもご覧になって下さいね。

        操の髪が『黒絹のよう』と表現したのは、小学校時代の同級生の髪の事を思い出したからです。
        普段はおさげにしているので全然知らなかったんですが、
        宿泊訓練中に髪を編ませてもらったら、凄い綺麗な肌触りにびっくりして感動した憶えが。

        そしてこのSSが上がったその日に、まさしく作中のような『夜明け寸前』な夜(朝?)を体験しました。
        朝の5時過ぎに目が覚めたんですけどね(笑)もう夜でもない、かといってまだ明けていない、不思議な光景でした。
        折りしも綺麗な満月でね〜(笑)思わず眺めてたら寝そびれて、そのまま起きちゃいましたわ(^_^;)

                                                                  麻生 司




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