傷 痕
「蒼紫様の身体って……傷だらけなんですね」
それが朝の鍛錬の後、上着を肌蹴て井戸端で汗を拭き取っていた蒼紫の身体を見た、操の第一声だった。
刀一つで自らの命を守っていた幕末乱世を生き抜いたのだから、それはある意味当然だったのかもしれない。
中には緋村剣心のように、頬に消えない十字傷を残す者も居る。
御庭番衆の中では少々特異な経緯を経てきた式尉にも、全身はっきりと痕を成す傷痕が刻まれていた。
般若は自ら使命の為に、『顔』そのものを道具と化した。
あらゆる顔へと変装する為に、耳を落とし鼻を削ぎ、頬骨を砕いて唇を焼いた素の彼に、表情と言うものは存在しない。
蒼紫は目で見える範囲には大きな傷痕はなかったのだが……その実は、気の弱い者なら思わず目を背けてしまう程壮絶な物であった。
引き締まった体躯に無駄な肉は付いておらず、式尉のように隆々という訳ではないが、全身の筋肉は隙無く鍛えられている。
だがその筋肉を覆う肌には、これまでの彼の人生を象徴するかのような傷痕が刻まれていた。
胸に、肩に、腕に、足に。刻まれた傷痕は数知れず、よくぞこの中の一つでも致命傷にならなかったものだと、改めて怖気が震う。
「新しい傷痕も……あるけど、消えかかった古い傷痕も数え切れない」
「……物心付いた時には、もう戦場に居たからな」
新しい痕とは、即ち緋村剣心や志々雄真実と戦った際の傷である。
その事を口にすれば蒼紫が苦しむから、操は寸でで言葉を飲み込んだ。
蒼紫は『気にするな』と小さく呟くと、肌蹴ていた上着を着直す為に、気持ち操の方に左手を伸ばした。その時に―――
「あ―――」
蒼紫の左手の人差し指に残る、古い傷痕に目が釘付けになった。
それほど大きくもない、色もすっかり褪せていて目立たない傷痕なのに、不思議に目を引いた。
「どうした?」
操が小さく息を呑む声に、背を向けかけていた蒼紫が振り向く。
「この傷……」
「操?」
蒼紫の目が細められた。彼女の伸ばした手が、傷痕に触れる。
「あたし、覚えてる……これは、あたしが……」
ざわざわと庭の梢を揺らす風の音が、操の意識を過去に攫った―――
――八年前――
「蒼紫様と般若君、遅いなぁ」
葵屋の庭に植えられている梅の木によじ登った操は、枝の一振りに腰掛け、足をぶらぶらさせていた。
梅の木はとうに花の盛りが過ぎ、今は青い実をたわわに実らせている。
お近やお増に見付かったら『実が落ちたら可哀想でしょ』と叱られるのだが、小柄な操は、肩車以外で高い視点になれる木登りが大好きだった。
『危ないから』とか『女の子だから』木登りを止めろと言わない辺りが、流石御庭番衆である。
蒼紫と般若は、朝早くから出掛けていて、日も暮れようとしている今になってもまだ戻っていなかった。
自分が目を覚ました時にはもう居なかったのだが、ひょっとこや式尉の話だと、何やら御庭番衆の仕事だったらしい。
この頃の操は知る術もなかったが、蒼紫と般若は、かつての御庭番衆仲間の様子を見に行っていたのだ。
江戸城が無血開城された事で、江戸城御庭番衆は戦わずしてその役目を終えた。
共に鍛錬を積み、幼少の頃から育った仲間達も、その多くが一人、また一人と道を見出し、新たな人生を送り始めていた。
持ち前の器用さを上手く用いて手に職をつけた者。
鍛錬の一環で身に付けた算術を買われて、商店の会計役として雇われた者。
自ら才気を発し、商売を始めた者。中には田舎に引っ込み、米や野菜を作っている者も居る。
蒼紫達に連れられてやって来たこの葵屋も、元はと言えば江戸城御庭番衆京都探索方…と言うのが、本来の役割である。
表向き小料理屋を装いながら、御庭番衆の京都における拠点として機能する場であった筈なのだが、
今では大店の江戸幕府の方が消滅してしまい、もっぱら副業の方に精を出す毎日となっている。
しかもこの葵屋の主である『翁』と皆から称される老人がなかなかの食わせ物で、
実は彼こそが、先代――操の祖父だが――亡き後、御庭番衆御頭に最も近い男だと目されていたのだ。
当の本人は『これからは若者の時代じゃ』と、孫ほどの歳の蒼紫を御頭に推して、自らは端役の京都探索方に隠遁した。
若い女の子と見れば後を追い掛け回している姿からは想像も出来ないが、今でもその体術は全く衰えていないと言う。
共にここまで旅をしてきた蒼紫や般若達は勿論の事、葵屋の皆も操をとても可愛がってくれて、彼女が退屈しないように、大概誰かが相手をしてくれていた。
だが客商売を営む以上、予想以上に忙しい日と言うものはある。
今日がまさしくその日で、元からの葵屋の住人は客用の部屋の手配や食事の仕込みなどに追われ、
ひょっとこやべし見、式尉までが、裏方の薪割りや緊急の買出し、風呂焚きに奔走する有様だった。
よって操は、今日は朝から暇を持て余していた。
いくら忙しくても、操の食事の用意だけはちゃんとしてくれる。だが、寂しい食事時であった。
翁だけは操の食事に付き合ってくれたが、いつもは十人近くで食事をしているのに、それがいきなり二人きりでは、どんなに美味しい御飯も美味しさ半減である。
「遅いなぁ」
もう一度口に出して呟き、退屈にまかせて腰掛けていた枝の上で、大きく伸びをしたその手の先に。
こつん、と青い梅の実が触れた。
「いっぱい実がなってる……」
改めて周りを見てみると、固く結んだ梅の実が、下から見上げていた時に思っていたよりも遥かに多くたわわに実っている。
いつもは実を落とすから登ってはいけないと言われていたので、こんなに数多くの実がついているとは思わなかった。
「……少し、摘んで持って帰ろうかな」
梅干も作れるし、酒に漬けておけば梅酒にもなる。梅酒は酒には比較的強い翁や白、黒達の大好物でもあった。
木登りをしていた事は叱られるかもしれないが、美味しい梅の実をお土産にすれば喜んでくれるだろう。
操は懐から手布を取り出して膝の上に広げると、手の届く手近な枝から、少しずつ実を摘み始めた。
「すっかり遅くなってしまいましたね」
般若が先を歩く蒼紫の背に声をかける。
「今日は葵屋も客が多いと言っていましたから、今頃操様が退屈しているでしょう」
「そうだな」
一言だけ、蒼紫から返事が返る。
素っ気無い返事だが、決して彼が義理やおざなりで返事を口にしているのではない事を、般若はちゃんと判っていた。
事実葵屋へと急ぐ二人の歩調は、普段よりも確実に早い。
般若は内心微笑ましいと思いながらも、そんな些細な事をいちいち言葉に出して指摘するような大人気ない真似はせず、
ただ黙って蒼紫の後を一定の距離を置いて従った。
先代御頭の愛孫である操の事を、般若たちや葵屋の者は勿論の事、蒼紫もとても大事にしていた。
生まれて間もなく戦と病で両親を失った孫の今後を、先代は蒼紫にくれぐれもよろしく頼むと言い遺して亡くなった。
その日から、一日たりとも蒼紫が操の事を頭から離した事は無い。
周囲の者が驚くほどの細やかさで彼女の事を大切に守り、相手をした。
如何なる時にも冷静で薄氷のような雰囲気を持つ彼が、操に対する時にだけごく優しい瞳を見せる事に、彼に近しい者は気付くともなしに気付いていた。
やがて夕闇にぼんやりと霞むような、葵屋の門前の灯りがようやく見えてきた。
微かなさんざめきが風に乗って聞こえて来る。
二人はいつものように表通りを避けると、葵屋の裏手の塀を身軽に飛び越え、敷地内に音も無く飛び降りた。
周囲は急速に夜の帳が降り始めて、輪郭が溶けるように感じられる。
「……何だか、変に騒がしくありませんか?」
般若が面の貌(かお)を曇らせるように、周囲の様子を伺った。
葵屋の住人たちが起居する部屋が連なる辺りで、何やら慌ただしく人が行き交う影と、只ならぬ喧噪が漏れ聞こえる。
不意に、蒼紫の胸中を嫌な予感が満たした。
―――そう言えば、今日は操が飛び付いて来ない。
自分が出掛けた時には、操は大抵この辺りに座り込んで帰りを待っている事が多かった。
庭に居なくても、自分が使っている部屋のすぐ表の縁側などに出て待っていて、蒼紫の帰って来た事が判ると真っ先に飛び付いて来るのだ。
その彼女の姿が見えない。
「あっ!蒼紫様!!」
おろおろと、水を張った器を手に廊下を急いでいたべし見が、庭に佇む蒼紫と般若に気付いた。
「何っ、蒼紫が戻ったのか!?」
操の部屋の障子が開き、翁が顔を出す。その顔から、蒼紫は自分の嫌な予感が的中した事を悟らざるを得なかった。
操の身に、何かが起こったのだ―――
「ついさっきじゃよ。操の様子がおかしいと気付いたのは」
昏々と眠る操の額には、薄っすらと汗が浮かんでいた。呼吸は速くて浅い。
手布を濡らしてお増が操の汗を拭っても、彼女が目をさましそうな様子はなかった。
「俺達もやっと手が空いて……昼間からずっとお嬢にかまってやれなかったから、皆でこっちに引き上げてきたんです」
ごつい体躯の背を丸めて、しょんぼりとした様子で式尉がそう口にした。
「お嬢は、自分の部屋の前の縁側に腰を下ろして、蒼紫様の帰りを待ってたみたいでした。でも、その様子がおかしくて……」
いつもは自分達の姿を見ると飛んでくるのに、操は縁側に腰掛けたまま、ひどく具合が悪そうだった。
驚いた式尉たちが近付くと、ようやく彼女は気付いて顔を上げた。
震える手で、手布に包まれた小さな包みを差し出して。
「これが、その包みです」
ひょっとこが大切に抱えていた包みを、蒼紫の手に乗せた。一瞬般若と顔を見合わせ、包みを解く。
「その包みを俺達に渡した直後に、お嬢は意識を喪いました」
蒼紫の手の中にころりと転がり出たのは、青い梅の実だった。
「これは……梅の実……?」
はっ、と床で臥せっている操に目をやり、手の中の包みを般若に手渡すと、彼女の枕元に跪いた。
操は全身に薄っすらと汗をかいていた。額にはお増が拭ったばかりだと言うのに、もう玉の汗が浮かんでいる。
閉じられた瞼を手で開け瞳を見ると、微かに瞳孔が散大していた。
「……やはりな……操は、梅の実を食べたに違いない。梅の実に毒があるなど、恐らく操は知らなかったんだろう」
蒼紫の言葉に、皆が蒼白になり、言葉を失った。
梅の葉や青い実、核の中の種子には毒がある。
梅酒に漬け込んだ青い実や、梅干、煮込んだ実は食べられるのだから、操も何気なく口にしたのだろう。
だが梅の実に含まれる毒性は強く、子供が大量に食べたとしたら命に関わる。
一体、操がどれ程の実を口にしたのか。
「お近、何でも良いから、大きな器を用意してくれ」
すぐさま踵を返したお近の姿を視界の端に留めながら、操の背の下に腕を入れると、ぐったりした彼女の身体を抱き起こした。
「蒼紫、何をする気じゃ?」
「操がどれだけの実を口にしたのか判らんが、このままでは毒が全身を侵す。荒療治だが、今胃に在る分だけでも吐かせる」
お近が大きめのたらいを持って戻ってくると、それを操の胸の前に構えさせる。
「少し辛いが、耐えろよ」
身体を起こされた事で、朦朧としながらも意識を取り戻していた操が、微かに頷いた。
蒼紫はすっと拳を引くと、操の内臓を傷付けない程度に加減して、彼女の腹を打った。
むせ返るような息と共に、操が胃の中の物を吐く。
何度か嘔吐が続き、やがて吐く物がなくなると、固く絞った手布で彼女の口元を拭ってやってから蒼紫は操を床に戻した。
後は既に身体に取り込んでしまった毒素と、彼女の体力との根競べである。
どれだけの毒を彼女が取り込んでしまったのか……それ次第では、最悪の事態も考慮にいれなくてはならない。
固唾を飲んで見守る皆の思いとは裏腹に、操の容態は好転しなかった。
胃の中のものを吐いているのでこれ以上悪くなる事はない筈だが、既に体内に入った毒は、今も彼女の身体を蝕み続けている。
「……!?」
ビクン、と操の身体が一瞬強張った。
蒼紫が彼女の口元に耳を寄せると、呼吸が安定せず、ひどく不規則になっている。
息苦しいのか、すう、すう、すうと立て続けに息を吸おうとしているが、それもままならないようだった。
「操、息を吐け!吐かないと呼吸出来ない!!」
蒼紫の声が届いていたのかは判らない。
だが操は一際大きく身体を痙攣させると、絶叫するように、大きく口を開ける。
その口元に、蒼紫は咄嗟に自分の左手を伸ばした。
「蒼紫様!?」
「操ちゃん!?」
思わず、皆が腰を浮かせる。
咄嗟に口元に差し入れられた蒼紫の左手の人差し指の根元を、操が蒼白な顔で噛み締めていた。
つう、と噛み傷から血が流れ出たが、蒼紫は声一つ上げない。翁も般若達も、動く事が出来なかった。
「操、大丈夫だ。お前は毒なんかに負けない。大丈夫だ……」
その言葉に安堵したのか―――徐々にではあるが、操の身体が弛緩した。
再び意識が混濁したのか、ぐったりした様子ではあったが、呼吸は先程よりもずっと安定している。
噛み締められていた指を退け、噛み傷から彼女の口元に流れた自分の血を拭うと、蒼紫は枕元から立ち上がった。
「……あたし、何とか持ち直して。翌朝に目が覚めた時には、ほとんど何も覚えていなかった」
操の起こした大きな発作は、あの一度きりであった。
激しい呼吸困難と痙攣でひきつけを起こした操は、危うく舌を噛み切る所だったのだ。
発作に気付いた蒼紫が自分の指を噛ませる事で防がなかったら、自分の舌を噛み切って、操の命は無かったかもしれない。
一応発作を警戒して、箸の先に布を巻いたものを用意してあったのだが、使われる事はなかった。
紙一重のところで操の体力は毒に勝ったのだった。
すっかり回復してから、改めて梅の実を始めとした未熟な果実――例えば杏や桃、桜、李、枇杷の実――には、毒があると教わった。
自分が一命を取り留めたのは運が良かったからで、今後は気を付けるようにと、翁達からこっぴどくお説教ももらった。
だが毒に侵されて朦朧としていた時の事はほとんど覚えていない様子だったので、皆も敢えてその事には触れなかった。
蒼紫の左手の傷も、自分のつけたものだという事は隠されていた。憶えていない事を、敢えて知らせる事はないと―――
だが年月を経て目にした傷痕は、操の眠っていた記憶を呼び覚ました。
「……こんな傷痕になって残っていたなんて……」
そっと触れた傷痕は、もう色も褪せて目立たなかったが、手で触れると微かに痕を感じる。
自分の迂闊な行動で、蒼紫に消えない傷痕を残した。
その事が申し訳なくて、操の顔が曇る。だが蒼紫は、ポンと軽く操の頭に手を置いた。
「……こんな傷、安いものだ。女の身体に傷が残るのとは訳が違う」
「それでも……」
「俺はこの傷を厭った事はない。あの時、少しでも躊躇っていれば、お前の命が無かったかもしれないのだから」
お前の命と引き換えなら、こんな小さな傷痕など取るに足らないと。
はっきりと伝えられたその言葉に、操は胸が熱くなった。
「そろそろ朝食だな。着替えて来る」
「はい。お部屋の方に新しい着物用意してありますから」
「すまんな」
小さくなる蒼紫の後姿を井戸端で見送りながら、操はふと自分の口元に手を触れた。
あの時―――蒼紫の指の傷痕から流れた血の味で、操は不意に正気を取り戻したのだ。
『操、大丈夫だ。お前は毒なんかに負けない。大丈夫だ……』
朦朧とした意識の中で、はっきりと耳に届いた蒼紫の声。
その言葉に、操は喪いかけていた自我を取り戻した。
蒼紫が居たから今の自分は在る。
精神的な拠り所と言うだけではなく、命そのものも彼に救われていた事を思い出した。
それは小さな傷痕が生んだ血の絆―――その絆が、もしかしたら再び自分の下へと蒼紫を呼び戻してくれたのかもしれない。
「操ちゃん、朝御飯の用意が出来たわよぉ」
お増が縁側から手を振って自分を呼んでいる。
『はぁい』と大きく返事をして、操は身を翻した。
【終】
あとがき
これは構想だけ練っておいて、里帰りしてた実家で仕上げたSSです。
毒物に関する本を真剣な眼差しで読む自分。
あくまでも創作活動の為なのですが、こんな私の姿が周りにはどんな風に映っているのか、ほんの少しだけ心配
(^_^;)
梅の実が毒になると言うのは、意外に知られていない事だと思います。
梅酒や梅酒に漬け込んだ梅の実、そして青梅を煮る事で毒性は消えるのですが、
その毒の正体はアミグダリンという青酸配糖体。所謂青酸カリの事です。怖いですね〜〜。
生の梅の実を食べてしまった場合の症状はSSの通り。
庭に植わっている梅の実を幼児が食べてしまう事故が、昔は結構あったそうです。
野草を摘んで食べたりして、間違えて毒草を食べて中毒を起こすなんて事故も、結構ザラにあるようです。
あと、綺麗な花には毒がある。スズランが全草毒草だって、知ってました?あんなに可愛い花をつけるのに意外ですよね。