「ひゃあっ、冷たい!!」

ぴちょん、と冷たい雫が額に落ちる。
思わず操は情けない悲鳴を上げた。だが、飛び上がりはしない。
正確に言えば、微かに浮き上がっただけだった。

「うう、何でこんな事になっちゃったのかなぁ」

思わず零れた泣き言と共に、まぁるく切り取られたように遥か頭上に見える夜空を見上げる。
操は今は使われなくなった古井戸の中で、途方に暮れていた。

 


「すっかり遅くなっちゃった」

冬の日暮れは早い。
使いで嵯峨野の方まで出ていた操は、暮れた空を見上げて足を速めた。
使い先に辿り着くのに少し迷ってしまった上に、先方が茶を出してもてなしてくれたのを断わりきれず、つい長居をしてしまったせいだった。
向こうを出た時にはまだ余裕があると思っていたのだが、冬の空は見る間に色を落とし、もう辺りはすっかり闇に包まれている。

「蒼紫様が戻って来たら、一緒にお夕飯食べようって約束してたのに……」


蒼紫も昨日から葵屋の仕事で帰っておらず、戻って来るのは今日の夜半の予定だった。
戻る時間を確認して、『じゃあ蒼紫様を待ってますから、戻ってきたら一緒にお夕飯頂きましょうね』と約束した。

「だが、はっきりと戻る時間までは約束出来ん。先に食べていろ」
「大丈夫です。あたし、蒼紫様が帰る時間だけはちゃんと判るんですから」


にっこり笑ってそう言われては、蒼紫も黙って頷くしかない。
不思議な話ではあるが、確かに操は蒼紫の帰宅時間だけは正確に当てる事が出来た。
出て行った時間から逆算して、大よその戻る時間を推測するというレベルではない。
何日の、何時に戻ってくるか全く告げずに出て行っても、不思議と蒼紫が戻る頃になると『あ、もうすぐだな』と感じるらしいのだ。
実際彼女がこの奇妙な偶然に気付いてから、一度も勘を外した事は無い。


その勘が、蒼紫が既に葵屋に戻っていると告げていた。
蒼紫は律儀な男だから、もしかしたら約束した自分が戻るまで、夕飯を摂らずに待っているかもしれない。
それはそれで操は嬉しいのだが、蒼紫が空腹だったらと思うと、申し訳なく思う。

自分さえ迷わずに使い先に辿り付いていれば、ギリギリで蒼紫よりも早く葵屋に戻れた筈なのに―――


このまま街道を行けば確実だが、少々遠回りになるので葵屋に戻るのが更に遅くなってしまう。
どう急いでも、葵屋では夕飯が終わるくらいの刻限だ。
自分の空腹は構わないが、蒼紫との約束を反故にするのが嫌だった。


操は足を止めると、月明かりに照らされて緩やかに弧を描いて伸びる街道と、
目の前に姿を見せた、街道から外れて伸びる微かに人が踏み分けた道とを見比べた。

人が歩いてつけた道には間違いなさそうだが、最近ではないように思う。
ただその道は、まっすぐ京都の中心部―――葵屋の方向へと続いていた。
夜の山の中を歩くのは慣れている。野盗の類も、操にとっては怖い存在ではない。
今夜は月も出ているし、星も見えているから方角を見誤る事は無かった。
打たれ強さを売りにしている誰かさんとは違い、方向音痴でもない。


ほんの少し迷った後、操は懐から手布を取り出すと、端を細く裂いて手近な樹の枝に結び付けた。
それは、物心ついた時にはもう身に付いてしまっていた彼女の癖だった。

確かまだずっと小さかった頃、どうした訳だか山の中を一人歩きして迷子になった。
迷ったならじっとしているか、大人しく街道を歩いていれば良かったのだが、
幼心に事態の打開を図ろうとしたらしく、獣道や果ては道無き道をさんざ歩き回り、探していた蒼紫達をてこずらせた覚えがある。

以来操は、こうした街道などを予告無く外れる時、何らかの目印を残すようになった。
例えそれが初めて通る道で、今後二度と通らないかもしれない道でも構わずに、だ。
操の気持ちの問題であり、それ以上でも以下でもない行動であったが、十年以上やっている事を今更止める気にならないだけである。

「これで良し…っと」

ポンと手を叩くと、操は街道を外れて小道へと入り込んだ。

 


小道は寂れた集落へと続いていた。

数年前の凶作で村人が土地を捨てたのか、傾いた家々に灯りは無く、畑は石がごろごろしているばかりで何の実りの後も無い。
小道を突っ切ったお陰で随分時間を短縮できた。
この分だと少し遅れるかもしれないが、まだ夕飯の時間には間に合いそうだった。
もう一度星を見上げて方角を確かめた操の足下が―――不意に抜けていなければ。

「きゃああぁあ!?」

何が起こったのか判らなかったが、咄嗟に受身を取る。
ダパーーン!という重い音と共に、操の身体は水の中に落ちた。

「冷たいーーッ!……ふわ…ふわっくしゅん!!」

冬の京都で全身水に濡れれば、くしゃみのひとつくらい出るだろう。
大きなくしゃみをひとつしてから、操は改めて周囲を見回した。


足は……泳がずとも、底についた。水面は自分の胸の辺りである。

「ここ…古井戸……?」

ペタン、と壁に手をついた操は、その表面が分厚い苔に覆われている事に気付いた。

見上げて見ると、自分の身の丈の何倍もの遥か頭上に、丸い星空と朽ちた釣る瓶(つるべ)が見える。
井戸の幅は操が両腕を広げたものよりも、ほんの少し大きかった。
一応試してみたが、足でも自身の体重を支えられる程には踏ん張れない。

側壁はびっしりと苔に覆われており、指をかけて這い上がろうとしても、ずるずると滑って何度も水の中に落ちてしまった。
緊急連絡用の発煙筒を持っていれば良かったのだが、生憎持ち合わせていないものをどうこう言っても始まらない。


ぴちょん、と冷たい雫が額に落ちる。
思わず操は情けない悲鳴を上げたが、飛び上がりはしなかった。
水の中では、微かに身体が浮き上がるだけである。

「うう、何でこんな事になっちゃったのかなぁ」

蒼紫との約束に間に合うように、ほんの少し近道をしようとしただけなのに、
よりにもよって、こんな人の気配もしない廃村の古井戸に落ちてしまうなんて。
しかし悠長な事を考えている場合では無かった。

今は冬。井戸水の冷たさは、自力脱出を諦めた操の体力を刻々と奪って行く。
何度も頭から水を被ってすっかり濡れ鼠になってしまった今では気休め程度だが、操は自分の腕を擦って少しでも身体を温めようとした。

「どうしよう……」

吐く息の白さに今更のように気付いて、操は途方に暮れた。

 



「操がまだ戻っていない?」

夕刻、陽が沈んだ頃に予定よりも随分早く、蒼紫は葵屋へ戻ってきた。
部屋で着替えを済ませた所へお増が茶を持ってきて、昼過ぎに嵯峨野に使いに出た操がまだ戻っていない事を告げた。
外はもう日が暮れたが、操は夜目は効く方だし、星で方角を知る術も心得ている。
帰りが遅くなっている事を告げたものの、お増は然程真剣に心配をしているような様子ではない。
確かに嵯峨野からなら、そう遅くならずに戻ってこれる筈だが―――

「ふぎゃ……」
「あら、どうしたのかしら?お腹は空いてない筈だし、さっきおしめも変えた所なのに」

蒼紫に言われてお増が連れて来ていた暁が、不意にむずかった。
普段あまり夜泣きをしたり、故なくぐずったりしない、手の掛からない赤ん坊なのだが……

「どうした、暁?」

慣れた手つきで暁を抱き上げると、蒼紫がしばらく抱いてあやしてやる。
いつもなら例え不機嫌でぐずっていても蒼紫が抱くとすぐに収まるのに、今日に限っていくらあやしても暁の機嫌が直らない。
身体を海老反らせて、一向に泣き止む気配が無かった。
流石の蒼紫も困り果て、一体何が気入らないのかと暁の顔を覗き込んだ、丁度その時―――
不意に蒼紫は、唐突に悪寒を覚えた。

頭から冷水を浴びせられたような、そんな寒気である。
やがてその悪寒は痺れるような感覚と共に、蒼紫の足先からじわじわと這い登ってきた。


水……水底……冷たい……これは、まさか……?


言葉の断片が、頭の中をぐるぐると回るように浮かんでは消えて行く。
泣き止まない暁。戻らない操。そして痺れるようなこの悪寒―――嫌な予感がした。


「お増、暁を見ていてくれ。俺は操を捜しに行く」
「え?」

手の中に暁を渡され、お増が驚いたような顔をする。
だが蒼紫が、たった今着替えたばかりの着物の帯に手をかけたので、慌てて回れ右して部屋を出た。
すぐに障子が開くと、素早く忍装束を身に纏い、背負い袋を持った蒼紫が出てくる。

「……一刻を争うかも知れん。温かい風呂を沸しておいてくれ」

それだけ言い残すと蒼紫は庭を突っ切り、塀を飛び越えてあっという間に姿を消す。
呆気に取られたお増の腕の中で、いつしか暁は泣き止んでいた。

 


普段操が使う筈の街道を、葵屋から逆に辿りながら、蒼紫は全速力で駆けていた。
冬の日暮れた街道は既に人気も無く、時折月明かりに彷徨い出た野生のタヌキや野兎と出くわす位である。
だがそんな小動物たちも、蒼紫の疾走の前に驚いて道を開けた。

やがて蒼紫は、街道脇に林が生い茂る一帯に辿り着いた。
やはり操とはすれ違う事もない。
どこかで違う道を辿ったのかもしれないが、葵屋から特になんの信号弾も上がらない所を見ると、葵屋にもまだ戻っていないのだろう。


『操……何処に居る?』


あの時感じた凍えは、指先にまだ微かな痺れとして残っている。
漠然と、これは操が感じている感覚なのだろうと確信した。
感じたのは、流れの無い水―――以前、子供を助けようと飛び込んだ川の流れとは、恐らく違う。
日が暮れて、辺りはどんどん寒くなってきていた。
操が水の中で動きが取れなくなっているのなら、早く見つけないと命に関わる。

ふと、視界の端を何かが動いたような気がして、蒼紫は足を止めた。

それは木の枝に結び付けられた、細い布の切れ端―――操が決められた道を外れる時、癖で必ず残す目印に間違いない。
彼女のその習慣は、昔、蒼紫が山で迷子になった彼女を捜すのにてこずった事に起因している。
彼自身は、勝手に道を外れた操を然程強く叱った覚えは無かったのだが、後で般若達がさり気なく彼女に諭したらしかった。
知らない道を勝手に外れる事が、時にどれだけ危険であるのかを。
自分なりに責任を感じた操は、それから決められた道とは別の進路を取る場合、目印を残すようになった。
布が結び付けられた木の根元辺りに、辛うじて道と呼べる代物がある事に気付く。

「この先か」

迷う事無く、蒼紫は灯り一つ無い小道へと踏み込んで行った。

 


『……寒い……どうしよう……このまま、ここから出られなかったら……』

奥歯が寒さでカチカチと鳴っている。
手足の感覚は、痺れてしまってとうに無い。
燃え盛る炎に囲まれた時でさえ生きる希望を失わなかったが、今度ばかりは頼みの気力さえ芯から奪われて行くような気がする。

一度は諦めかけたが、結局何度も壁を這い上がろうと努力はした。
だが長い年月の間に分厚く生えた苔は容易に操の脱出を許してはくれず、幾らか這い登っては冷たい水に落ちる度に体力を消耗して行った。
だが幾らかでも這い登っている間は、少なくとも水から出る事が出来る。身体を動かす事で、何とか凍える身体を温めた。
しかしそれも、そろそろ限界だった。

「痛……」

顔をしかめて手に視線を落とす。
爪の生え際から血が滲んでいた。もう一度這い登れば、確実にこの内の何枚かは剥げ落ちるだろう。

「腕の火傷だけでも、『女の子の肌に傷が』って……お増さん達に言われてたのに……」

火傷に関しては操は一方的に被害者なので、言いたい事は全て傷を負わせた相手に対しての怒りに転嫁された。
この上生爪を剥がすような事があれば、また心配をかけてしまう。

『だけど、心配よりも何よりも、あたしがここから出なきゃ話にならないよ』

ピタリと壁に手をつく。
もう一度、もう一度這い上がるのだ。
自分がここにいる事は誰も知らない。自分で脱出しない限り、助けをただ待っていては体力が持たない。

『だけど、身体が重いよ……蒼紫様』

岩を掴む手に、力が入らなかった。
痺れは全身に及び、膝の力が抜け、水の中で立っている事すら困難になる。

『何だか、もう……疲れた……』

不意に身体の力が抜ける。顔が一瞬水の中に沈んで、水を飲んでしまった。

「……げほっ……けほっ…けほん……!!」

むせた事で我に返り、夢中で咳き込んだ。その時―――

「操……操!!そこにいるのか!?」
「あ……蒼紫……様?」

丸い星空に、小さく蒼紫の顔が覗く。

「待っていろ、今、綱を下ろす!」

古井戸の中の操に呼びかけたが、中からの返事は無かった。
もう一度覗き込むと、水面に顔を半分つけるような格好で意識を失ったようだった。手足の力が抜け、今にも沈みそうである。
恐らくは自分の姿を見た事で、精神力だけで張り詰めていた物が切れてしまったのだろう。
急がねば、操の身体が水底に沈んでしまう。

蒼紫は古井戸近くの、まだ根のしっかりした木の幹に綱を結び付けると、それを井戸の中へと垂らした。
もう一本綱を肩に掛けると、蒼紫が綱を辿り、井戸の底へと降りる。

「操、しっかりしろ!」

抱き上げた操の身体は思わずぎょっとする程冷たくて、蒼紫は水の冷たさとは別の悪寒を感じた。
一体操は、この冷たい水の中にどれ程の時間居たのだろう?
肩の綱を取ると、それで操の身体を自分の身体へとしっかり結び付けた。
これで両腕が自由になる。しっかりと綱を掴むと、蒼紫はゆっくりと二人分の身体を引き上げた。

 


井戸の底から引き上げた操の身体は氷のように冷たく、顔色は蒼白で唇は紫色になっていた。
胸に耳を当ててみると、鼓動が酷く弱々しい。
長時間冷たい水の中にいたせいで、極限まで体力を消耗しているのだ。

地面に置いていた背負い袋の中から分厚い毛布を取り出すと、体温を確保する為、それでひとまず彼女の身体をしっかりと包み込む。
もう一つ竹で出来た水筒を取り出すと、彼女の上半身を片腕で支え、口で栓を開けた。
操の口元に寄せるが、一向に飲む気配が無い。

蒼紫は水筒の中身を一口含むと、操に口付けた。
そのまま口に含んだ物を、強引に彼女に飲み込ませる。

「ん……!?げほっ……げほげほ……!!」

突然嚥下させられた強い刺激に、むせ返った操が目を開けた。

「あ…蒼紫様……これ……?」
「気付だ。少し辛いと思うが、我慢してくれ」


水筒の中身は焼酎だった。
自分の勘を全て信じた訳ではなかったが、万が一の時の為に途中で調達したのだ。
酒は非常時の強心剤になる。操も酒に弱い事は百も承知だが、命には変えられない。

「う……」

酒気が回り始めたのだろう。真っ青だった操の頬に、微かに朱が差した。
案の定、頭痛と動悸も抱え込んだようだが、動悸がするという事は心臓が強く脈打ち始めたという証である。

「すぐに休ませてやる……もう少しの辛抱だ」

水に濡れて額に張り付いた前髪を払ってやると、操は小さく頷き、蒼紫の肩にコトリと額を預けた。
そのまま目を閉じた彼女の身体を横抱きにして蒼紫が葵屋に戻ったのは、それからまもなくの事であった―――

 


その夜、葵屋は降って湧いたような操の不運に、夜中まで慌ただしかった。
蒼紫に言われた通り風呂を焚いて待っていたお増とお近は全身水浸しで戻った二人を見て驚いたが、
まず操の身体を温めるのが先決と、気付の酒のせいでふらつく彼女が風呂に入るのを手伝った。

蒼紫も同じく水浸し状態であったが、体力の消耗は操の比ではない。
風呂は後で使う事にして、取り合えず乾いた布で身体を拭き、着替えると大分温かくなった。


操が風呂から出るのとほぼ同時に、白が医者を連れて戻ってきた。
やはり、風邪をひき始めているという。
だが処置が早かったので、このまま身体を温かくして、ゆっくり眠れば大丈夫だと言う事だった。
下手をすれば命すら危うかった事を考えれば、風邪で済んだのは御の字と言うべきだろう。
あと、手の爪の怪我に丁寧に薬を塗って包帯を巻き、煎じ薬を数日分処方すると、黒に送られて医者は帰って行った。


自分も改めて湯につかってから、蒼紫は操の部屋を訪れた。
いつもは暁が居るのだが、今夜は風邪を伝染すといけないので翁が預かっている。

「あ、蒼紫様」
「起きていたか」

布団から出した操の顔がほんのり紅いのは、まだ微かに残る酒気のせいか、それとも発熱のせいなのか。
だが本人は意外に元気そうで、声もしっかりしていた。

「ごめんなさい、心配掛けてしまって」
「無事だったのだから、もう良い……酒は抜けたか?」

彼女の額に手を当てる。やはり少しは熱が出てきているようだった。

「あはは……実は、まだ少し頭が痛いです」

そう言って苦笑を浮かべる。

「非常時だったからな。お前が酒に弱いからなどと言っていられなかった」


気付の酒を飲ませた後、酒気が回り始めた操に負担が掛からないよう細心の注意を払いつつ、なおかつ全速で蒼紫は葵屋へと戻った。
まるっきり振動による影響がなかったかと言えば嘘になるが、それでも他に方法がなかった。
気付をしないままでは、もしかしたら操の心臓は鼓動を止めていたかもしれないのだから―――


「それにしても、どうして道を外れようと思ったんだ?慣れ親しんだ街道を進んでいれば、古井戸に落ちる事もなかっただろうに」

運良く自分が彼女を見付け出せたから事無きを得たが、最悪の事態になるかもしれなかった事を思うと、今でもゾッとする。
だが蒼紫の言葉に操は掛け布団を引っ張り上げると、顔を半分程隠した。

「操?」
「……だって、あのままじゃ蒼紫様との約束に遅れそうだったんです」
「約束?」

言われて、思い出した。出かける間際に『戻ったら一緒に夕飯を食べましょう』と、彼女と約束していた事を。
葵屋に戻るまでは覚えていたのだが、操を捜しに出た時点ですっかり忘れていた。

「それで遅れを取り戻そうと、近道しようとしたのか」

こくん、と布団の中で操は頷いた。

「でも古井戸に落ちて……自力では上がれないし、結局蒼紫様たちに迷惑かけちゃうし……本当にすみませんでした」
「……もう良いと言っただろう。後は、一日も早く元気になる事だ。翁が心配して、目を真っ赤にしていたぞ」

そう言って操を見下ろす、蒼紫の目は優しかった。

 


「でも蒼紫様、どうしてあたしがあそこに居るって判ったんですか?」

落ち着いてよく考えてみれば、気に掛かったのはそれだけではない。

操が使いに出た場所は判っているのだし、そこに通じる街道は限られている。
そして操自身、小道の入り口に目印を残していたから、無事にかどうかは別問題として、見る者が見ればいずれ見付けては貰えただろう。
だが、予め身体を温める為の毛布を準備していた事や、途中で気付の酒を用意したのはどうしても解せない。
どうしても蒼紫は、自分が水に関する事故に巻き込まれている事を知っていたとしか思えないのだ。
しかし蒼紫自身の言葉を借りても、その根拠ははっきりとはしなかった。


「……お前がまだ戻っていないと聞かされた時、不意に悪寒を感じた。手先が痺れるような感覚と共に、浮かんだのは『水』という言葉」

いつもは手の掛からない暁が、突然むずかって火がついたように泣き出した。
暗い水底に突き落とされたような不吉な予感に蒼紫は確信にも似たものを覚え、葵屋を出たのだった。

「お前が、俺の帰りが判るのと同じように、俺や暁にも、お前の危険が判ったのかも知れん」
「あたし、何か凄いモノに助けられたような気がします」

操が笑う。
理屈や、言葉では表現できない『何か』。
だが間違いなく『それ』は存在して、確かに自分達を繋いでいる。

「何だか眠い……」
「ゆっくり寝(やす)め。風邪が治ったら……約束を果たして貰おう」

操が目を瞬かせる。
そして満面の笑顔で『はい』と応えると、静かに目を閉じた。

 


ちなみに操は意識が朦朧としていたので自力で気付の酒を飲み込んだと思っていたのだが、
数年後に真相を蒼紫から聞かされ、頭のてっぺんから足の先まで真っ赤になったと言う。

                                                                   【終】


あとがき

最近、操がロクな目に遭っていません(笑)
放火魔に拉致されて生きたまま焼かれそうになったり、その後遺症が精神面に出たり、真冬に古井戸に落ちて凍死しそうになったり。
ゴメン、操。真面目に話を書こうとすると、何故か貴女が痛い目を見てしまう。
だって他の人じゃあ、蒼紫が血相変えて走り回る事なんて思いつかないんですもの(笑)
でもその分蒼紫にお姫様抱っこされたり、人命救助と名を借りた初キスがあったりするので許してね(^_^;)

そう、今回のSSは蒼紫×操のファーストキスを書きたくて考えたお話だったんです。
実は当初、このお話を蒼紫のお誕生日SSにしてしまおうと画策していた自分…だって、操のお誕生日SSが『後朝』だったもんで(笑)
人命救助の名を借りてる分少々ヌルいですが、まあこの二人はあまりあからさまにベッタリと言うのは想像出来ないので。
あくまでもウチの蒼紫×操は、秘めた恋なのですよ。秘密の恋という訳ではなく、大っぴらに見せない恋。
表面上はベタベタしない。でも二人きりになると、とても仲睦まじく。これがモットーです(笑)

そして、真の蒼紫誕生日SSとは……!?COMMING SOON!!(^_^)

                                                          麻生 司




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