空気と彼女の関係


神谷薫は若いながらも先代から受け継いだ道場を守り、亡き父の遺した一流派の師範を務める女性である。
その彼女が腕に紅い髪の男の子を抱き、道場の門前をウロウロと歩き回っていた。
まだ小さいので、抱いていてもほとんど負担にはなっていない。

「薫殿、そうウロウロしなくても、二人共初めて此処に来る訳ではないのでござるから」
「うん…そうなんだけどね。それにしても、ちょっと予定よりも遅くない?」

そう言って、薫は同じく門の外で客人を待つ剣心を振り返った。

 

剣心と薫が所帯を持ってそろそろ三年になる。昨年には、無事一人息子の剣路も授かった。
心配そうに通りを見遣る妻の腕から出来れば息子を抱き取って引き受けてやりたいのだが、
何故か齢一歳にも満たない内から、剣路は父親である自分に懐いてくれなかった。

抱くと嫌がり、泣く。それこそ理由もなく癇癪を起こし、火が着いたように泣くのだ。
何処か具合でも悪いのだろうかと、狼狽した薫が抱くとピタリと泣き止む事が続いた事から、
剣心が息子に父親として受け容れられていないのだと判明した次第である。
往来で大声で泣かれてもご近所に迷惑が掛かるので、最近では剣路を連れて表に出る時には薫がずっと抱きっ放しだ。

「きっと何かの事情で汽車が遅れたでござるよ。あの二人に限って、道に迷うなんて事は在り得ないでござる」

前もって届いた手紙では、今日の正午くらいにこちらに着くとあった。
だが今はもう正午をとうに過ぎ、西に一刻(二時間)分程、太陽が傾いている。

「それはそうだけど、此処に来るまでの街並みも色々変わったし。
 京都みたいに、整然と道が区切られてる訳ではないのよ?」
「道に迷い易い者にとっては、京都のような碁盤の道の方が『より』迷うと思うでござるよ」

 

方向音痴なんてそんなものだ。
京都に生まれて長く其処に住んでいるならまだしも、道に不案内な部外者が京都で迷い出すとキリが無い。
何処を向いても変わり映えのしない同じような道が続いているので、自分が何処に居るのか判らなくなるのだ。

「それに恐らく彼等は、其処にある建物等で場所を憶えている訳ではない。
 体感出来る方角や距離で、正確に場所を記憶しているでござるよ」

人の営みの中では不動と言って差し支えの無いもの。
例えば太陽や星、山、海の方向で位置を知る。距離は、自分の歩幅を正確に知っていれば割り出すのは簡単だ。
目的の位置までの距離と方角が判っていれば、極端な話、其処に道が無くても辿り着く事は可能である。

「そんなものかしら…?今度ゆっくり操ちゃんにその辺の話聞かないと」
「それをやってのけるのが、隠密の隠密たる由縁ではござらんかな……ほら、着いたようでござる」

 

にっこり笑った剣心が通りの先を指差す。
剣路を抱いたまま薫が背伸びをすると、確かに川辺に植わった柳の下を、
見覚えのある二つの人影がこちらに向かって歩いて来る所だった。

一つは小柄な、袴姿の女性。そしてその隣に、背の高い男の影が寄り添うように並んでいる。
長く女性の一番の目印であった長く編まれた髪は、今はもう無い。
だが肩で切り揃えられた髪がさらりと風に靡く様には、何処となく以前の面影があった。

女性の方が、門前に立つ薫に気付く。彼女は腕を高く差し上げると、大きく手を振って見せた。

 

 

「操殿も、すっかり娘らしくなって。髪型や着物まで変わっていたから少々驚いたでござる」
「いつまでも子供のままではないからな」

客用の座敷で、剣心と蒼紫は向かい合って茶を飲んでいた。
左之が相手なら酒になったのだろうが、以前蒼紫は自分で下戸だと言っていたので、剣心も最初から茶しか出さなかった。
薫が気を利かして『カステイラ』を用意してくれていたのだが、蒼紫は全く手をつけていない。
美味い茶に心は惹かれても、お茶請けには全く興味が無いようだった。

「しかし、着くなり出掛けてしまったが良かったのでござるか?
 そうでなくても汽車の遅れで常より長旅になり、操殿も疲れただろうに」
「構わん。そもそも『それ』が目的だったのだから、旅の疲れなど吹っ飛んだろう。言って聞くなら、止めていた」
「はは、それもそうでござるな」

 

つい先日、蒼紫と操は祝言を挙げたばかりである。
お互いが十数年の旧知の仲という事もあり、二人が一緒になる事は、仲間内では時間の問題だろうと言われていた。

人一倍寡黙な蒼紫と、人一倍快活な操。
二人が一体どんな夫婦になるのかと、剣心夫婦や弥彦、会津の恵などは無責任な話題で盛り上がっていたのだが―――
実際に連れ添った二人は以前にも増して鷺のように仲睦まじく、
その様を間近で見守る葵屋の翁の言葉を借りれば、ようやく本懐を遂げたような気さえするという。
蒼紫と操が辿って来た数奇な運命を振り返ってみれば、成程判らないでもない。

蒼紫は葵屋に戻って以来、翁に代わって問屋を回ったり、経理などの仕事を主に引き受けていた。
操は操で相変わらず今も厨房の手伝いをしたり、主に雑用を一手に引き受けている。
蒼紫の妻となった事で、操も将来葵屋の女将となる事がほぼ確定した訳だが―――
当人たちにとってそんな事は、はっきり言って当分先の話であった。

翁はまだまだ元気だし―――殺しても死なないわ、とはお増やお近の台詞である―――
そもそもが皆で協力して切り盛りして来た小さな料亭だ。
たまの休日や慰安の小旅行もいつもの顔ぶれ。きっかけの一つも無いと二人きりでの旅など考えもつかない。
だから祝言を挙げたこの機会に一度のんびりと二人で東京見物にでも行って来いと、葵屋の皆に勧められたのである。

 

「以前出て来た時には、立て込んでいて東京見物どころではなかったからな。
 季節(とき)に追われるように操を京都に連れ帰った事を、悪いと思っていたのも事実だ」

 

以前東京に出て来た時に、操がもうしばらくの滞在を願っていたのは判っていた。
しかしあの時は一日も早く般若達の骸を樹海から掘り出し、仲間の待つ地に葬ってやりたかった。
秋から冬へと刻々と季節が移ろうとしていたあの時期、蒼紫はそれ以上東京に留まる訳にはいかなかったのである。

操一人が気の済むまで東京に残っても良かったのだが……それは、彼女自身が受け容れなかった。
帰るのなら『皆』一緒に―――蒼紫ははっきりと言葉にはしなかったが、急いで出立しなくてはならなかった理由を、操は察したのである。

 

「……無事に弔いは済んだでござるか?」
「ああ」

言葉短く、蒼紫は応えた。
観柳邸から持ち出せたのは四人の頭蓋だけ―――一度は樹海の土に還したが、今は京都の仲間の傍で眠っている。
盆や暮れには皆で訪れ、花を手向けて草引きをしながら、慌ただしくも賑やかな一日を過ごす。
それは自分達の中ではごく当たり前の習慣になっていて、きっとこれから先も変わらずずっと続いていくのだろう。
般若達は相変わらずの賑やかさに、苦笑いしながら彼岸で目を細めているに違いない。

「なら、いいでござる。拙者も巴の墓へ参る為に年に一度は京都へ赴く。
 その時にでも、改めて参らせて貰うでござるよ」

般若達とはかつて刃を交えた仲だが、剣心の内に個人的な遺恨は無い。
唯一と仰いだ主の為に命を散らした四人の冥福を静かに祈りたい―――今はただ、それだけだった。

 

 

「それにしても、お主もすっかり『小料理屋の若旦那』と言う態が様になって来たでござるな」

嫌味ではなく、ごく素直な感想だ。
数年前には想像するのも難しかったが、今では当たり前の事実として受け容れている自分が居る。
それは剣心や薫のような第三者にしてもそうだし、蒼紫自身にとっても同じだった。

「―――俺もお前も、生きながら地獄を見た。
 一度死んで生まれ変わったのだと思えば……そんなに不思議な話でもないだろう」

ことり、と蒼紫が湯呑みを置いた。

 

目を伏せれば、今も修羅として生きた日々をはっきりと思い出す事が出来る。
主と慕ってくれた部下を死なせ、かつては背中を預けて共に戦った仲間に刃を向け、そして何より守りたいと願った操に……別れを告げた。
もしもあの時、操が自分の存在を願っていなかったなら―――今の自分は無いと、蒼紫には言い切ることが出来る。

彼女の存在そのものが、自分にとっての最大の奇蹟。その彼女が願ったからこそ、自分は生かされている。
神と呼ばれるもののきまぐれなのか、それとも冥府を統べる王に嫌われたのか。
いずれにしても人の手が決して及ばぬであろう、何らかの大いなる意思によって。

「一度は捨てる覚悟をした命。それがこうして今も生き恥を晒す事を許されているのには理由がある……そう言う事だ」
「確かに」

顎を引き、剣心が小さく頷く。

 

剣心も生きながら地獄を見て、そこから這い上がって来た身だ。だからこそ今の自分が在る。
あのまま生きる事に絶望して全てを諦めていれば、薫が生きていた事実も知らず、縁の謀った通りに絶望の内に命絶えていただろう。
こんな風に蒼紫と茶の湯を交わす事も無く、そして剣路が誕生する事も無かった。

「俺が今在るのは、操が俺の命を望んだからだ。そうでなければ、俺の命運は比叡山で尽きていただろう」
「それでは、操殿がお主の命運の全てを握っているのでござるな」

冗談めかして口にしたが、剣心の目は存外真剣だった。
蒼紫には操が、自分には薫が居た。一人の女性の存在が自分達の命運を定めたというのは、あながち間違ってはいない気がする。

蒼紫の口元に、珍しくふっ、と小さく笑みが浮かんだ。

「そうだな。俺にとって操は、空気のような存在なのかもしれん」
「空気……?」

 

十は歳を若く見せる大きな瞳を、剣心が瞬かせる。

「空気というのは……つまり、在って当然だと……そういう事でござるか?」

彼女が傍に在るのは蒼紫にとって当たり前の事で、居ても居なくても気にならない存在というのだろうか。
だが蒼紫は、頭(かぶり)を振ってみせた。

「そうではない。空気が無ければ、そもそも人は生きていけないだろう」

 

操が居なければ生きていけないのだと。

以前の彼を知る者ならば思わず耳を疑うような言葉を口にして、蒼紫は瞳に微かな笑みを映した。

 

 

「ただいまー!」
「おかえりでござる」

一刻(二時間)ばかりして、薫と操が道場に戻って来た。
薫に抱かれたまま眠ってしまった剣路を、出迎えた剣心が引き受ける。
いかに息子に嫌われていても、流石に寝ている時には大人しく抱かれていた。

「緋村、蒼紫様は?」

土産に買って来たわらび餅を手に、操が尋ねる。

「客間で休んでいるでござるよ」
「ありがと」

 

たた、と小走りで廊下を歩く所作は、以前のままの操だ。
長く伸ばした髪を肩口で切り揃え、作務衣が袴になり、娘から妻になったのだとしても、彼女は彼女らしさを全く喪ってはいない。

「……だからこそ、蒼紫の空気になり得たのでござるかな」

 

どんな時にも自分を喪わない純粋さ。
自分の信じた道を真っ直ぐに見詰める強さ。
そして唯一と定めた男の過去も過ちも、全て受け容れる事が出来た懐の深さ故に。

 

「え、何の話?」

ぽろりと夫の口から出た言葉の意味が判らず、薫が首を傾げる。
剣心は唇の前に指を一本立てると、『内緒でござる』と小さく笑った。

                                                                 【終】


あとがき

葵屋ばかりではお話が続かないので、蒼紫と操に東京に行って貰いました。最近、剣心夫婦の出現率高し(笑)
日本初の新婚旅行は確か坂本竜馬とおりょうだったと言いますから、
明治も十数年になった頃なら、蒼紫達が東京に新婚旅行に行っても問題無いでしょう(^_^;)

さて好きな相手に『お前は空気のような存在だ』と言われて、言われた方は褒められた気がしますでしょうか?
『在っても無くても気にならない存在』なのか、はたまた『なくては生きていけない存在』なのか。
言葉の意味の捉え方で、随分と解釈の変わる表現だと思うんです。
実際にこの話を書く前に同じ事を旦那に尋ねて、どういう意味に捉えたか言って貰いました。
(↑あくまでも『話の参考に』と切り出しただけで、自分達に当てはめて話した訳ではありません・笑)

結果は、作中の剣心が勘違いした方。つまり、『在っても無くても気にならない存在』でした。
ちなみに私が最初に思ったのは、『存在しなくては生きていけない』という方でした。
男性と女性での感じ方の違いかもしれません。ですが、蒼紫は後者の方だったという事で。
操本人や、まして薫の前では絶対に言いそうにない台詞だったので、敢えて剣心と二人で話してる所で件の台詞を出してみました。

 

                                                                  麻生 司

 

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