貴女を見詰めてる


「……何か、最近妙な視線を感じるんですよねー……」

庭を掃いていた箒を止め、薄気味悪そうな顔でお増が呟いた。

「なぁに、藪から棒に?妙なってどんな風?」

怪しい奴なら成敗して来るわよと、操が作務衣の袖をたくし上げる。


お増はまだ四捨五入すれば20歳の歳若い女性だが、所謂箱入りとは違う。
腕も身体も細いのだが、彼女もれっきとした御庭番衆の一人であり、その気になればたった一人で、大の男をのしてしまうくらいの事はやってのける。
そんなお増が不安そうに辺りを見回しているのは、操としても何やら気がかりに思えてきた。


「いえ、操ちゃんにそんな危ない事させる気はないんですけど」

お増が苦笑する。
操に何か事があった日には、蒼紫に干される事は必至だ。
確かにこの数日、妙な気配や視線を感じて気味の悪い思いをしているが、それを操にどうこうして貰おうとは思っていない。
いざとなれば自分で何とか出来る自信はあるが、相手がまだ見えていないので、ただ気味が悪いのだ。

「ちょっと、危ない事なの?だったら尚更放っておけないじゃない!」


しまったと、心の中で呟く。これでは薮蛇だ。
操を関わらせたくないので口にした一言が、かえって彼女の責任感やら仲間意識を刺激したらしい。

「危ないとか、そう決まった訳じゃないですけど。ただ、相手がどんな人なのか全然判らないので」

全く判らないと言うのは、実は語弊がある。多分、視線の主は男性だ。お増の勘だが、これは間違いないと思う。

「だけど……」

操は、それでもお増が心配らしい。
その気持ちはとても嬉しいしありがたいのだが、必要以上の心配は掛けたくなかった。
第一お増の考え過ぎで、大した意味の無い視線なのかもしれないのだから。
だからお増は、さり気なく釘を刺した。絶対に、操が引き抜けないような釘を。


「気持ちはとても嬉しいですけど、操ちゃんは今まで何度か危ない目に合ってるでしょう?その度に消えない傷も残ったりしたし。
 これ以上、蒼紫様に心配掛けちゃ駄目ですよ」

うっ、と操が言葉に詰まる。

こういう場合の操への決定打は『蒼紫様が心配しますよ』なのだ。
この一年の間だけでも、放火魔に焼かれそうになって腕に火傷をしたり、冬の古井戸に落ちて凍え死にそうになったり、ロクな事がなかった。
女性の厄年は数えで十九歳が一番最初だが、操の場合は前倒しで来ていると思った方がいっそ納得が行く。
だからこそ操の身辺には、本人以上に周囲が敏感になっているのだ。

「大丈夫です。私も元御庭番衆。近いうちに、自分で何とかしますから」

そう言って、お増は操を安心させようとした。
少なくともこの時は、本当に何とか出来ると思っていたのだ―――

 


それから数日後。
使いに出ていたお近が、怪訝そうな顔で戻って来た。

「どうした?」

その様子に、台所で仕込みをしていた黒が声をかける。白とお増も顔を上げた。

「それがね…ウチの勝手口の辺りをウロウロしてる、変な男の人が居たのよ。
 誰かのお客様かと思って『何か御用ですか?』って声をかけたら、何か凄い顔でこっちを睨んで、どっかに走って行っちゃったのよ」
「ぁ痛っ……!」

さっ、とお増の顔色が変わり、手許が狂って包丁で指を切った事に白が気付く。

「お増ちゃん、どうしたの?」

指の傷を咥えたお増が、『何でもない』と小さな声で返事をした。

「何でもない事はないだろう。真っ青だぞ?」

白がお増の指の傷口を診る。
少し深く切ったようだが、傷口自体は綺麗なので、恐らく痕も残らず治るだろう。
しかしちゃんと止血をして消毒しておかないと、小さな傷だからといって侮っていては命取りになる事もある。
台所に一番近い部屋に置いてある薬箱を持って来ると、傷を綺麗な水で洗い清めて、そこに丁寧に細い包帯を巻いた。


「……で、何があった?お近の見た不審な男が何者なのか、知ってるのか?」

白の問い掛けにも、お増はすぐには答えられなかった。だが黒もお近も、心配そうに自分を見ているのが判る。
あまり確証のない事は口にしたくなかったのだが、やむを得ないだろう。
お増は『多分』と呟いて、この数日来感じていた奇妙な気配の事を、皆に話した。

 



「じゃあ何?私の見たその男が、お増ちゃんの言う気配の主?」
「はっきりそうだとは言えないけど……気配の主は多分、男の人だと思っていたから」

気配を読む訓練は幼い頃から積んでいるので、知った人の気配ならばすぐに判る。
お増が感じた視線や気配は、今までに彼女が知った人のものでは無かった。
お近に声を掛けられて逃げ出したと言う事は、やはりお増の様子を伺っていた可能性が高い。相手が男に懸想する変り種でなければ。

「どうしてもっと早くに話してくれなかったの?そうと知っていたら、とっちめてやったのに!」

お近がそう言うと、お増は『ごめんなさい』と口にした。

「私の気にしすぎかと思っていたから……でも、ウチの周りに変な人が居たって聞いて……何だか、急に怖くなった」


それはそうだろう。
視線を感じたり気配を感じるだけでも気味が悪いのに、明らかにその気配の主が自分を伺っていたのだと聞かされれば。

「お近、それってどんな男だった?」

一息入れろと、白が皆に茶を淹れた。お近にも湯呑みを渡しながら、不審な男の特徴を尋ねる。

「うーん…ちらっとしか見えなかったから……でも、まだ若かったわよ?多分、私達と同じくらいね」


だとすれば、歳は二十代半ばか。

「格好は書生さんみたいな感じだったかな。でもねぇ、声を掛けて振り向かれた時は、ちょっとゾッとしたわよ。何かこう、鬼気迫る感じがあってね」

脅かす気はないんだけどと、お近が申し訳無さそうに言った。

「例えばそれがただの勘違いでウチを覗いていたんだったら、あんな顔はしないと思うのよ。
 明らかに人には見られたくないものを私に見られて……無意識で牽制したような感じ。だから、気味が悪いと思ったの」
「じゃあこの数日、ずっとその男はお増の事を姿を見せずに伺っていて……それをたまたま、お近が見ちまったと」

何となく、重い沈黙が下りた。そんな時、お増が『あっ』と小さく呟いて口元に手を当てた。

「私、うっかり操ちゃんにこの話をしちゃったの。操ちゃんもとても心配してくれて……
 でも操ちゃんを危ない目に合わせる訳にはいかないから、気にするなって言ってあるわ。お願い、皆もこの一件は操ちゃんの耳には入れないで」


操の気性では、まず間違いなくその男を見付け出して真意を問うと言い出すに決まっている。
その考えは大いに賛同する所であるが、彼女にその役目をさせる訳には行かない。


「でもお嬢にも気を付けて貰った方がいいよな?そんな得体の知れない奴がうろついているんなら」
「それについては、蒼紫様に話を通しておこう」

黒が眉を寄せると、白が蒼紫の名を出した。

「お嬢に関する事なら、蒼紫様に話を通すのが一番確実だ。きっと万事巧く取り計らってくれる」

 


「葵屋の周囲に不審な男?」
「はい。まだ確かめた訳ではないので確実な情報ではないんですが、早めに耳に入れておいた方が良いと思いまして」

蒼紫は文机の上の本を閉じると、白とお増を振り返った。
全員で蒼紫の部屋に押しかけると操がかえって変に思うので、(恐らく)当事者のお増と、蒼紫に話す事を提案した白が代表で来た。

「これからすぐに、私達四人で問題の男の素性を洗いに行きます。
 しかし葵屋の近辺にまた出没する可能性がありますし、相手が何をするか判りませんので。お嬢の身辺は、蒼紫様にお願いしたいんです」


操をこの一件に巻き込みたくない。
お増達のその意思を感じ取り、蒼紫が軽く顎を引いて頷いて見せた。

「……承知―――こちらの方は任せておけ。万が一動きがあれば、俺も出る」

葵屋の近辺で動きがあれば、蒼紫自らが出て男を捕らえるという宣告だった。
操の安全は言うまでも無く、お増達にしても万倍の助っ人を得たような気がする。

「ありがとうございます。少しでも早く、片を付けますので」

もう一度蒼紫が頷くのを確認して、白とお増は彼の部屋を後にした。



「蒼紫様、白さん達何だったんですか?難しい顔してたみたいでしたけど……」

お茶を持って来た操が、不思議そうな顔をして白達と入れ替わりに部屋に入ってくる。

「……近所で空き巣があったそうだ。あの二人が遠目にそれらしい者を見たというので、話を聞いていた。
 空き巣如きに葵屋の周囲をうろつかれては鬱陶しいからな。近いうちに、俺が動く」
「なんだ、そうだったんですか」

操が、ほっとしたような表情を浮かべた。

「でも物騒ですねぇ、空き巣なんて。
 そう言えばこの間、お増さんが変な視線を感じるって言ってたけど、もしかして空き巣の下見だったのかな」

湯呑みに口を付けた蒼紫の眉が、微かに上がる。
だが操は、その事には気付かなかったらしい。すっかり安心しきった顔でにこりと笑った。

「でも、蒼紫様が出るなら、もう捕まったも同然ですね」
「ああ……そうだな」

相槌を打った蒼紫の瞳は、遠く京都の街並みを見据えていた。

 



その日、葵屋の賄いの仕事を黒に任せたお増たちは、手分けして京都の町中を怪しい男を捜して走り回った。
しかし男の顔を見たのはお近一人。大体の風貌は聞いているものの、実際には行き会っていても見逃している可能性はある。
結局一日目は何の成果もなく、白たちは手ぶらで帰って来た。

動きがあったのは翌朝の事―――


門前を掃こうかと外に出たお増は、裏口の辺りで頭を付き合わせたお近、白、黒を見付けた。

「おはよう……皆、どうしたの?」

自分が声を掛けると、明らかに三人が動揺する。互いの目を一瞬見やり、そして観念したようにお近が後ろ手に隠していた物を差し出した。

「……本当は、貴女の目に入る前に処分してしまおうと思っていたのよ」

朝起き出してみると、葵屋の門前に折畳まれた文が置いてあったのだと言う。
門前を見張っていた黒には、全く気配を悟らせないままに―――

「何これ……手紙……!?」

文に目を落としたお増が、ぎゅっ、と手紙をぐしゃぐしゃに握り締める。
そこに書かれていたものは―――


『お増さん、いつも貴女を見ています』

お増は、真っ青になっていた。

 



葵屋の者は皆、各自の部屋を持っているのだが、今の状態でお増を一人にするのは危険だと話し合い、
しばらくお増はお近の部屋で一緒に寝む事になった。

「お増ちゃん、またすぐ元の生活に戻れるわよ」

お近の隣に敷いた布団の上で、ぽんぽんと枕を叩いて具合を整えていたお増が溜息をつく。

「本当に……早く、元の生活に戻りたい」


何だか今日一日で、げっそりやつれたように感じた。得体の知れない者が相手となると、これほど具合が悪くなるものかと思い知る。

「皆にも迷惑かけちゃうし、操ちゃんには絶対バレないようにしなくちゃいけないし」
「操ちゃんの事は、蒼紫様が巧く言ってくれてるわよ。
 近所に空き巣が入って物騒だから、あたしの部屋でお増ちゃんが寝む事になってるって」
「それじゃ、操ちゃんの部屋は?」

ニッ、と艶っぽい笑みがお近の口元に浮かぶ。

「決まってるでしょ、蒼紫様自ら寝ずの番よ」
「ええ!?」


驚いたお増が細く障子を開けて廊下に出て操の部屋の方を伺うと、確かに彼女の部屋の前には傍らに小太刀を置いた蒼紫の姿があった。
ちなみに部屋の位置の関係で、蒼紫の居る場所から今自分達の居るお近の部屋は見えない。
見張りは本当。ただ見張る対象が空き巣ではなく、お増に懸想する男であるだけだ。

「本当に一晩中寝ないで番をするのかしら……」
「あら、操ちゃんの為ならやると思うわよ」


在り得る、とお増も思った。
人間眠らないでいると本来の力が出せないものだが、蒼紫は強靭な精神力と鍛錬で、丸二日くらい眠らなくても普通に動ける筈だ。
操に降りかかるかもしれない火の粉は、自分の身をもって払うだろう。

「明日こそ捕まえなきゃね……私達も、もう寝みましょ」
「ええ」


灯りを消して横にはなったが、お増はなかなか寝付けなかった。
ほんの僅かに聞こえて来る葉擦れの音や、風の音が妙に耳についてしまって、少しも睡魔はやって来てくれない。
お近の寝息を聞きながら、何度目かの寝返りを打った時―――ふと、障子の向こうに誰かが立つ気配がした。

『―――!?』

一瞬、お増が身を固くする。だが、すぐにその気配の主に思い当たり、ふっと緊張が解けた。
憶えのある気配と障子に映る影は、白尉の物だったからだ。咄嗟の事とは言え、不埒者と勘違いして悪かったと思う。
そっと障子を開け顔を覗かせたお増に、白尉がぎょっとしたような顔をした。

『寝てたんじゃないのか?』
『何だか寝付けなくて』

深夜なので、二人とも声は出していなかった。板張りの廊下に指で文字を綴って、互いにその指先を読むのである。
もっと灯りの無い所なら掌に直接指で書くのだが、月明かりがあったので十分それで意思の疎通は出来た。

『眠れなくても横になっておけ。お嬢の部屋の方には蒼紫様が居るし、門前には黒が目を光らせてる。
 翁は客用部屋外の気配に気を付けてるし、ここには俺が居るから』
『うん』

頷いたものの、お増は部屋に引っ込もうとはしなかった。
さわさわと枝を揺らす風の音に耳を傾けているようだった。

『一体、どうしてこんな事になっちゃったのかしら』

御庭番衆として生きて来た事が、ごく当たり前の町娘の人生だとは思わないが、それでも今まで不幸だと思った事はない。
親兄弟は早くに亡くしたけれど、先代の御庭番衆の御頭に才を見出されてから早二十年―――
翁やお近、白尉に黒尉。それに今は操や蒼紫という多くの家族が出来た。

『戻れるのかしら……元通りに』

今日一日の精神的な疲労で零れた、小さな弱気。不意にコツンとこめかみを小突かれて、お増は瞬きした。

『何の為に俺達が寝ずの番をしてるんだ?』

お増の気が、ほんの少し楽になる。何か憑き物が落ちたような心境だった。

『そうね……明日になったら、必ず捕まえてやるんだから。安眠妨害してくれて、絶対に許さないわ!寝不足はお肌の大敵なのに!!』
『その怒りは、明日に残しておいてくれ』

お増の妙なテンションの上がり方に、白は少し呆れたような様子だったのだが―――

『ありがとう、白』

そっと取られた掌に、お増の指文字が走る。一瞬迷う素振りを見せた後、白尉もお増の掌に文字を綴った。

『……早く寝ろ』
『おやすみなさい』

変わらず前を向き続ける白の横顔が……ほんの少し照れたように見えた。

 



「お増ちゃん、大丈夫?」

翌朝、早くから起き出して身支度を整えていたお増に、お近が気遣わしい声をかける。
昨日はショックですっかり消耗していた筈なのだが、一夜明けてみると意外なほど元気だったのでかえって心配になったのだ。

「今は空元気はかえって危ないわ。葵屋に残って連絡役でもいいのよ?」
「大丈夫、本当に元気なのよ。得体の知れない相手にビクビクしてるのが馬鹿らしくなったの」

忍装束に仕込んだ円形手裏剣の具合を確かめながら、お増が笑う。
大丈夫だ、自分はやれる。操だって、今まで何度も危ない目に遭いながら一度も諦めなかった。
頼もしい仲間たちだって居るのに、得体の知れない男一人に負けるなんて、在り得ない。

「今日も皆に迷惑掛けるけど、だからこそ今日中に決着をつけたい。お近ちゃん、協力して」
「今更でしょ。一体何年付き合ってると思ってるの」

きっ、と唇を引き結んだお増の肩を、同じく忍装束を身に纏ったお近がぽんと叩く。

「今日は泊まりのお客様も居ないから絶好の機会よ。
 何としても今日中にあの男を見付け出して、京都御庭番衆の女に舐めた真似をした事を後悔させてやりましょう」

決戦は今日―――京都の空には、重い雲が垂れ込めていた。

 



お増達は方々に散って捜したが、一度お近に姿を見られた事で服装などを変えたのか、陽が頭の上に来る頃になっても男の消息は判らないままだった。
特にお増はあまり人気の無い所に行かないようにと皆に諭され主に街中をあたっていたのだが、似たような男を見付けたと思っても全て空振りだった。
どんなに容貌が変わっていても、身体が気配を覚えている。
その気配すら見付けられれば例え顔が判らなくても、見分けられる自信があった。


お増が一度戻って来ると、昼過ぎと言う事もあって葵屋の門前は人通りも多かった。

普段ならこちらから出入りする事も多いのだが、流石に忍装束では目立つので裏口の方に回る。
主に蒼紫が外法退治の際に出入りによく使う塀も、こちら側である。比較的細い路地で、向かいは商家の庭の奥。
お誂え向きに背高く育った夾竹桃が植わっているので、路地を通る人にさえ気をつければほとんど人の目につく事はない。
そんな場所に、ぽつりと佇む人影が―――あった。


「ああ―――こんにちは」

葵屋の勝手口の辺りを見ていた若い男は、お増の足音に振り返ると小さく会釈をした。
こざっぱりとした洋装姿で、知人の家を訪ねようとして道に迷った……と言う所だろうか。だが―――

「この辺りの方ですか?」
「ええ……ここですけど」

声を掛けられて、ちら、とお増が塀の向こうに目を走らせる。

「実は人を訪ねて来たんですが、すれ違ってしまったみたいで」

ゆっくりと、男がお増の方に向かって足を踏み出した。じり……と押されるように、お増の足が後ずさる。

「お増さん……と言う人なんですがね」


男の手が動くのと、お増が地面を蹴ったのが同時だった。だが、僅かにお増が遅れる。
くるりと後方に一回転して地に膝をついたお増の左腕には、分銅の付いた鎖が巻きついていた。

「やっぱり……貴方だったの!?」
「へぇ、俺が何者か判っていたのか」

ニヤリ、と昏い笑みが浮かぶ。

「これでも元隠密御庭番衆よ。一度感じた気配くらい、覚えてるわ」


力負けしないように腰を低く落とし、左腕に巻きついた鎖を右手で押さえる。
恐らくこの男は、ただの町人ではない。
黒尉に気配を悟らせずに手紙を置いた事も然り、この分銅捌きにしても、ある種の訓練を受けた事がある筈だ。

「貴方、どこかで戦闘訓練を受けた事があるわね!?」
「ご明察」

ギリ……と、鎖が引かれた。腰を落としていても身体が引き摺られそうになる。

「俺はあんたとご同輩だよ。流派は違うが、俺も隠密崩れだ」

キッ、とお増が男を睨み据えた。

「私は誇り高き隠密御庭番衆の一人!隠密崩れの自分と一緒にしないで!!」
「その気位の高さも気に入った」


不意に引かれていた鎖が緩められる。
身体を持って行かれないように踏ん張っていたお増は均衡を失って後ろによろめいた。

「これでも、誇り高き御庭番衆の一人だと?」

一瞬出来た隙に再び鎖が強く引かれ、お増の身体が一気に男の方に引き寄せられる。

「ああそうさ。俺は犬死するのが嫌で大阪城を抜けた抜け忍だ。
 だがそれが何だ!?俺達が命を捨ててまで守る程の価値が、徳川幕府にあったか!?
 結局江戸城は無血開城され、御庭番衆は戦う事すら許されなかった。俺達に存在価値なんて、これっぽっちもなかったんだよ!!」
「それは……うっ……!?」

鎖が引かれ、腕が締め付けられる。憎悪すら感じるその力に、お増は思わず呻き声を上げた。


「京都にも御庭番衆の拠点がある事は知っていた。時々ただの通行人を装って様子を見に来た事もある。
 何も同類相憐れんで仲間にして貰いたかったんじゃないぜ。今でも『御庭番衆』の名を捨てられないあんた達を眺めて、嘲笑ってたのさ」

箍の外れたような男の笑い声が、路地に響いた。

「志々雄の変での活躍も見せて貰った。よくも金にもならない事で、命を賭けられたもんだ。こんな古ぼけた町の為に」


ぎらぎらと光る男の目は、常軌を逸していた。
自分を裏切った徳川幕府と、未だに自分を受け容れない明治の世を共に憎悪して、ただ独りで寄る辺もなくて。

「……どうして、私に文を……?」

それとも、無差別だったのだろうか。
たまたまお増の名を思い出したから、自分の名を書き記したのだろうか。
だとしたらこの男は運が良い。
万が一操の名を出していたなら、その時点で男は蒼紫に引導を渡されていたに違いないであろうから。

「お前の事が、気に入ったからだ」

お増の考えに反して、男は明快に答えた。

「何度か様子を見に来ているうちに、お前の事が気に入った。
 あんたの事は全部知ってるぜ。何時頃どんな事をしてるのか、どの店が贔屓なのか、湯屋を使う時の事だって」
「やめて!!」

鎖に捕らわれた不自由な手で、お増が自分の両の耳を塞ぐ。
男の言葉が見えない鎖になって身体を縛る。身体の内側をざらざらと何かに舐め回されるような、おぞましい感覚だった。


なまじ幼い頃から隠密としての修行を積み、並みの男以上の力と技を持っていたから、敵としての認識以外で男性を怖いと思った事は今までなかった。
だが、今は違う。骨の髄から、目の前の男が恐ろしいと思った。
理性ではない、生理的な恐怖―――自分を絡め捕っているのはたった一本の鎖だけだと言うのに、挫けた膝がどうしても立ってくれない。


「ずっとずっと見てたんだ。いつか、あんたを俺の女にしたいって。
 流行の着物を着せて、綺麗に紅を差して、ずっと傍に置いておきたいって。もう眺めてるのにも飽きた。そろそろ潮時かな」

じゃらりと鎖が鳴る。恐怖で立てないお増を見下ろし、男が唇の端を吊り上げた。

「あんたは、俺のもんだ」
「い、嫌……!!」


私は、人形じゃない。
飾られるだけの、魂のない人形じゃない。
笑って、怒って、時には泣いて、恋もして。今まで生きて来たのに―――!!

鎖が張られる。お増の身体が強制的に引き起こされ、前のめりによろめいた。その時―――


ガツンと硬い音をさせて、ピンと張られた鎖に一本の具無が刺さる。
武器破壊が起こり、お増が捕らわれていた軛(くびき)から解放された。
引かれていた鎖の力を失い、倒れかけたお増の身体を逞しい腕が支える。

「一体彼女を何処に連れて行く気だ」
「……白……!!」

自分を受け止めたのが白尉だと気付き、お増の顔に安堵の表情が浮かんだ。
男の顔が悪鬼のそれに変わる。あともう少しで望む物が手に入る所だったのに、邪魔されたのが腹立たしかったのだろう。

「お前は……白尉だな」
「よく知ってるな。そう言うお前は何者だ?」
「貴様に名乗る名などないな」


白尉の腕に、不意に重さが加わる。
過度の緊張で張り詰めていた物が、白尉の顔を見て切れてしまったのだろう。お増は白の腕の中で意識を喪っていた。
白尉は男から目を離さないまま背後の塀に彼女を持たせかけると、改めて男と向かい合った。

本来彼女は、このような気性ではない。
理不尽な事には屈せず、その辺の男には引けを取らない技と度胸の持ち主なのだ。
彼女をここまで恐怖させたこの男は一体何者なのか。

「貴様も葵屋の賄いの一人。腐れ隠密のなれの果てか」

ピクリと白の眉が動く。だが激昂はしなかった。

「お増以外に用は無い。俺はこの女を頂きに来ただけだ」

分銅が切れた鎖の先端を、鞭をしならせる要領で白の首筋に走らせる。
白は鋼の篭手をはめた左腕を首筋と鎖の間に入れ、首が絞まるのを防いだ。

「……そうか、お前は隠密崩れ……大方命を惜しんで、本来在るべき場所から逃げ出した下郎だろう」

武器としての鎖の扱い方に手馴れたその動きから、白はほぼ正確に男の素性を悟った。
下郎と言う言葉に男は僅かに感情を動かしたようで、首に巻かれた鎖が僅かに絞まる。

「戦う事も出来なかった御庭番衆に大層な口は聞いて貰いたくはないな……貴様の目は不愉快だ」


自分を蔑むような、射抜くようなその眼光が。
存在意義を奪われた御庭番衆と、望んで隠密である事を捨てた自分と、一体どれ程の差があると言うのか。

「何故、そこまでお増に執心する?」

絞められた腕と首には痛みが走っている筈だが、全く表情を変えずに白が問う。

「気に入ったからだ」

先程お増自身にもそう告げたように、これ以上はないと言う程の明らかな言葉で答える。

「気立ても、身体も、元御庭番衆としての誇り高さも全て気に入った。これほど佳い女は他にはいねぇ。だから俺の女にすると決めた」
「……なるほど、よく判った」



淡々としたその声に―――男の顔に卑屈な笑みが閃く。だが次の瞬間、男の表情は凍りついた。

「お前が下郎以下の、下種(げす)だと言う事がよく判った」

一気に鎖が引き寄せられる。

「何!?」

力の差があっても、その不利を補う程に鎖を扱う事には自信があったのだろう。
だが薄っぺらなそんな自信は一瞬で吹き飛ばされ、男の顔に、明らかな驚愕が浮かんだ。

「ああ、お増は佳い女だとも。そんな事、今更お前に言われるまでも無い。お前のような下種には、勿体無い程のな」

白尉の面が、研ぎ澄まされた隠密のそれに変わる。男の腹に白の拳が刺さった。

「あまり俺達を甘く見ないで欲しいものだ」
「ぐ……はぁ……!!」

がくりと膝を付き、たった一撃で男の瞳が裏返った。

 



「じゃあお増さん、その男の人にもうちょっとで連れて行かれそうだったの!?」

一刻後、白尉の一発を食らって人事不省に陥った男を警官に引き渡してから、操にようやく全てが知らされた。

お増が得体の知れない男に付け狙われていたと知った時の、操の第一声がこれである。
一度意識は回復したのだが、受けたショックを鑑みて、お増は自室で寝んでいた。傍にはお近が付き添っている。
黒は夕飯の仕込みに掛かっていたので、蒼紫と操への報告は白だけが行った。


「それで昨日から、何だか皆の動きが慌ただしかったんだ。近所の空き巣の話も、不自然なく見張りを立てる為のでっち上げ?」

ちらりと操が蒼紫を見やったが、口に出してはそれ以上何も言わなかった。蒼紫も黙って湯呑みに口をつけているだけである。

「すみません。お増がどうしてもお嬢には知らせないでくれと。蒼紫様には、話を合わせて貰っただけなんです」

恐縮する白に、操はパタパタと手を振って見せた。

「判ってるよ、腹を立ててる訳じゃないって。ただちょっと水臭いって思っただけ」


それも、この所災難続きだった自分を心配してくれての事だ。正しくは、蒼紫の精神安定の為だったのかもしれないが。
自分が出ていれば、間違いなく見張りなり囮なりを引き受けたに違いない。

今回は巧く白尉が立ち回ったお陰でお増にも大した怪我はなかったが、
相手が隠密崩れであった以上、取り返しの付かない事態に陥っていた可能性も皆無ではなかったのだ。
操の身体にこれ以上生傷が増えるような事態になっていれば、あの男の命はなかっただろう。
勿論、その時手を下すのは蒼紫以外に無い。


そう言えば、と操がぽんと手を叩く。

「さっきお増さんが目を覚ました時に聞いたんだけど、白さん、物凄く格好良かったんだって?」

危機一髪の所に駆け付けて、お増を捕らえていた鎖を一撃で断ち切るなど、まるで芝居のようではないか。

「いや、あれはその……」

一瞬、白の目が泳いだ。


実は、あの具無を投げたのは蒼紫なのである。

勝手口の向こう側で起きていた騒ぎに気付き蒼紫が内から駆け付けたのと、白尉が葵屋に戻って男とお増に気付いたのが同時だった。
蒼紫の手には既に具無があったが、白尉はまだ何も構えていなかったので、咄嗟に蒼紫が具無を投げたのである。
実際に男と立ち回り、組み伏せたのは確かに白尉なのだが、
何故かお増にも操にも強烈な印象を与えたらしい最初の一投は、本当は蒼紫の放ったものだったのだ。


「……所詮あの男は隠密崩れ。白尉の相手にはならなかったと言う事だ」

ことりと湯呑みを置いた蒼紫が、操の死角で小さく顎を引いて頷いて見せる。
わざわざ説明し直す事でもない。このまま黙って自分の功にしておけと言う事だった。

「今回の事では後手に回ったが、とにかくお前にもお増にも、大事無くて幸いだった」
「……はい、これからも鍛錬に励みます!」


本当に佳い男は、声高に功を謳ったりはしない。
やっぱり蒼紫様には叶わないなと思いながら、白は深く頭を下げた。

                                                                 【終】


あとがき

と、言う訳で(笑)ほんのり白尉×お増風味でお送りしました。手が滑ってえらく長いお話に……(^_^;)
何と『廻想』に次ぐ長さ。なんてこったい(大笑)道理で打っても打っても終わらないと思った……
操が炎フェチな男の為にえらい目に遭った次は、お増さんのストーカー被害なお話。
とことん酷い目に遭っていく葵屋の女性陣。このまま行くと次はお近か…?(^_^;)
お話の展開上操はほとんど出番無しだったんですが、美味しい所は部分的に蒼紫が拾って行ったかなと。
目立って無くても良い場面は押さえていく、要領の良いウチの蒼紫(笑)

本当はもう少しばっちりラブラブな白増にしようかなーと思っていたんですが、最後はさらりと流してしまいましたので。
隠密崩れの男と白が対峙している時、打ち始めた当初はお増もしっかり意識を保っていたんですが、
『ああ、お増は良い女〜』の辺りを、お増が聞いてたら白が言うかなと思いまして。やむなく彼女には気を喪って貰う事に。
元々書いていないだけで潜在的には白×お増のつもりでしたので、
あれを聞かれていたら一気にお互いを意識するようになるかなーって思ってたんですね。
まぁ良い雰囲気にはなるのかもしれませんが、蒼紫×操ほどにはならないって事で。
……こうなると次は黒尉?さ、冴さんが相手とか(笑・でもそれはそれで面白いかも)

                                                           麻生 司

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